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稲葉氏

索引 稲葉氏

葉氏(いなばし)は、日本の氏族。.

111 関係: 加藤明邦堀田氏大岡忠恕大田原政清子爵家督家長宿禰宗家安藤守就尾張国丹羽長富市橋長てる庶家伊予国征夷大将軍徳川家光土井利意祖心尼稲葉尊通稲葉一通稲葉幾通稲葉久通稲葉弘通稲葉侯通稲葉信通稲葉典通稲葉知通稲葉紀通稲葉道通稲葉菫通稲葉観通稲葉貞通稲葉重通稲葉良通稲葉雍通稲葉通孝稲葉通照稲葉通重稲葉恒通稲葉正のぶ稲葉正吉稲葉正守稲葉正巳稲葉正令稲葉正任稲葉正弘稲葉正休稲葉正往稲葉正利...稲葉正善稲葉正備稲葉正凱稲葉正則稲葉正勝稲葉正知稲葉正縄稲葉正益稲葉正盛稲葉正発稲葉正親稲葉正誼稲葉正邦稲葉正恒稲葉正次稲葉正武稲葉正成稲葉正明稲葉泰通稲葉方通稲葉景通織田信長美濃安藤氏美濃国生駒氏牧村利貞牧村牛之助華族館山藩西美濃三人衆譜代大名豊後国豊臣秀吉豪族越智氏関ヶ原の戦い臼杵藩林通政林氏松浦詮楠木氏榊原政令橘氏 (伊予国)武家毛利元知氏家直元氏族河野氏河野教通清水藩服部氏本多正復本能寺の変戦国時代 (日本)春日局斎藤利宗斎藤利三斎藤氏日本旗本改易 インデックスを展開 (61 もっと) »

加藤明邦

加藤 明邦(かとう あきくに)は、近江水口藩の第7代藩主。水口藩加藤家11代。.

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堀田氏

堀田氏(ほったし)は、日本の氏族。.

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大岡忠恕

大岡 忠恕(おおおか ただゆき / ただのり)は、江戸時代後期の大名。武蔵岩槻藩藩第7代藩主。大岡忠房家10代当主。大岡忠固の三男。.

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大田原政清

大田原 政清(おおたわら まさきよ)は、下野大田原藩の第2代藩主。 慶長17年(1612年)、初代藩主・晴清の長男として生まれる。寛永8年(1631年)、父の死去により家督を継ぐ。駿府加番に任じられ、慶安元年(1648年)12月に叙任する。後に大坂城番に任じられた。万治4年(1661年)3月5日、江戸で死去した。享年50。跡を長男・高清が継いだ。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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家長

家長(かちょう)とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指す。当主と同義の言葉とされている。.

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宿禰

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺))は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた金井清一「スクナヒ コナの名義と本質」1971 。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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安藤守就

安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。西美濃三人衆の一人。姓は安東とも表記される。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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丹羽長富

丹羽 長富(にわ ながとみ、享和3年8月27日(1803年10月12日) - 慶応2年7月3日(1866年8月12日))は、陸奥二本松藩の第9代藩主。丹羽家第10代。先代藩主・丹羽長祥の長男。母は中村氏女。官位は従四位下、左京大夫、侍従。正室は有馬頼端の娘。子は、丹羽長国(六男)、稲葉正邦(七男)、水野勝知(八男)、矩姫(徳川慶勝正室)、娘(木下利恭正室)、政姫(徳川茂徳正室)、娘(戸田氏良正室)、娘(内藤政憲正室のち岩城隆邦正室)。 文化10年(1813年)11月19日、父長祥の死去により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下左京大夫に叙任した。文政元年(1818年)12月16日、従四位下に昇進した。天保元年(1830年)12月16日、侍従に任官した。嘉永3年(1850年)12月16日、左少将に任官した。安政5年(1858年)10月11日、隠居し、六男・長国に家督を譲った。慶応2年(1866年)7月3日、死去した。 なかとみ なかとみ Category:幕末の大名 Category:幕末二本松藩の人物 Category:1803年生 Category:1866年没.

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市橋長てる

市橋 長璉(いちはし ながてる、享保16年(1733年)- 天明5年10月6日(1785年11月7日))は、近江仁正寺藩の第6代藩主。仁正寺藩市橋家7代。 豊後臼杵藩主・稲葉菫通の次男。母は中原氏。正室は平戸藩主・松浦誠信の娘。側室に伊東氏、中西氏。子は市橋長昭(長男)、娘(畠山国儔正室)、娘(松浦信好室)、娘(稲田敏植室)、娘(高木永貞室)、娘(高木貞直室)。官位は従五位下、伊豆守。幼名は豊三郎、安之丞。通称は民部。初名は通奉、通璉。長輝とも言う。 宝暦5年(1755年)2月11日、先代藩主の直挙の養嗣子となる。直挙の養子直好(市橋直方の三男)、養子直記(市橋直方の六男)の早世のためであった。同年3月15日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦8年(1758年)11月24日、養父直挙の隠居により跡を継いだ。同年12月18日、従五位下伊豆守に叙任する。 天明5年(1785年)10月6日、仁正寺にて53歳で死去し、跡を長男の長昭が継いだ。法号は嶺雲院殿徹翁浄閑大居士。墓所は滋賀県蒲生郡日野町の清源寺。 なかてる Category:稲葉氏 *06 Category:臼杵藩の人物 Category:1733年生 Category:1785年没.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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土井利意

土井 利意(どい としもと)は、三河西尾藩の第2代藩主。刈谷藩土井家2代。.

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祖心尼

心尼(そしんに、天正16年(1588年) - 延宝3年3月11日(1675年4月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘。名はおなあ、おのう、古那とも。義理の叔母春日局(血縁では父の従姉妹)の補佐役として江戸幕府3代将軍・徳川家光に仕えた尼である。臨済宗済松寺開基。弟に牧村牛之助がいる。.

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稲葉尊通

葉 尊通(いなば たかみち)は、豊後国臼杵藩の第12代藩主。 文政3年(1820年)5月6日、父から家督を譲り受けたが、藩主の激務は体がもともと弱かった尊通をさらに衰弱させた。文政4年(1820年)に宇和島藩主の三女との間で結ばれていた婚約を破棄し、江戸から臼杵へ帰国したが、発熱するようになり、同年10月17日に21歳で死去した。 嗣子がないため、急遽、家老が江戸に上り、父の雍通と協議の上、弟の幾通仮養子の届けを幕府に提出。その後、養子が認められたため、幾通が次代の藩主となった。.

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稲葉一通

葉 一通(いなば かずみち)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊後国臼杵藩3代藩主。.

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稲葉幾通

葉 幾通(いなば ちかみち)は、豊後国臼杵藩の第13代藩主。.

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稲葉久通

葉 久通(いなば ひさみち)は、豊後国臼杵藩の第15代(最後の)藩主。 旗本・岡野知英の五男。母は山内容堂(豊信)の娘と言われている(養母との説もある)。.

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稲葉弘通

葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。 弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男・副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に父が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治に御目見することも、若年ゆえに継嗣を指定することもないまま、1年も経たない明和6年(1769年)6月に16歳で夭折した。この稲葉家改易の危機に藩の重役たちは慌て、泰通の跡をただちに弘通が継いだことにして御目見させることで乗り切った。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない(『寛政重修諸家譜』巻第六百六では、弘通の初名が「副通」だとしており、実際の副通については記載が無い)。ちなみに、弘通が正室に迎えた国清院(牧野貞長の娘)は、清操院の姪にあたる。 藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の大飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。寛政12年(1800年)9月10日、家督を次男・雍通に譲って隠居する。文化8年(1811年)、剃髪して伊賀入道と号した。 文政元年(1818年)10月28日、67歳で死去した。.

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稲葉侯通

稲葉 侯通(いなば これみち、安永元年(1772年) - 寛政元年7月8日(1789年8月28日))は、豊後臼杵藩の世嗣。第10代藩主・稲葉弘通の長男。 藩主の嫡子として生まれ育つが、家督を継ぐことなく寛政元年(1789年)に18歳で早世した。代わって、弟の稲葉雍通が嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:臼杵藩の人物 これみち Category:1772年生 Category:1789年没.

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稲葉信通

葉 信通(いなば のぶみち)は、豊後国臼杵藩の第4代藩主。.

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稲葉典通

葉 典通(いなば のりみち)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊後国臼杵藩2代藩主。.

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稲葉知通

葉 知通(いなば ともみち、承応元年9月19日(1652年10月21日)- 宝永3年4月15日(1706年5月26日))は、豊後国臼杵藩の第6代藩主。 第4代藩主・稲葉信通の三男。母は織田信良の娘。正室は溝口重雄の娘。子は稲葉恒通(次男)、稲葉通大(三男)。官位は従五位下、能登守。初名は通周。通称、市正。 元禄7年(1694年)、兄で先代藩主の景通が死去したため、その跡を継いだ。藩政においては道路改修や商業発展などに尽力した。宝永3年(1706年)4月15日、55歳で死去し、跡を次男・恒通が継いだ。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。.

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稲葉紀通

葉 紀通(いなば のりみち)は、伊勢田丸藩の第2代藩主。摂津中島藩主。丹波福知山藩主。.

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稲葉道通

葉 道通(いなば みちとお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢田丸藩の初代藩主。稲葉良通の孫にあたる。.

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稲葉菫通

葉 菫通(いなば まさみち)は、豊後国臼杵藩の第8代藩主。 享保5年(1720年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし翌年には、天候不順により藩内に大飢饉が襲って大被害を受け、それによってただでさえ悪化していた藩財政がさらに悪化した。このため、享保14年(1726年)には49か条にわたる倹約令を出して藩財政再建を目指したが、享保17年(1732年)には城下にて大火事が起こるなどして大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も破綻寸前となった。このような中で失意のうちに元文2年(1737年)正月17日に29歳で死去し、跡を長男・泰通が継いだ。.

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稲葉観通

稲葉 観通(いなば あきみち)は、豊後国臼杵藩の第14代藩主。 稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため、実際の藩政は祖父が取り仕切っていた。天保16年(1845年)、流刑に処された元幕臣の渋川敬直を預かっている。 弘化4年(1847年)に祖父が死去すると藩政を執り始める。義父が有名な山内容堂(豊信)であったことから、軍制改革や海岸の測量、外国船に対する砲台の建設など、藩政の整備に尽力した。 文久2年(1862年)閏8月4日、24歳の若さで死去し、跡を養嗣子の久通が継いだ。幕末の動乱期ということから、その死はしばらく隠匿された。 あきみち あきみち Category:幕末の大名 Category:1839年生 Category:1862年没.

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稲葉貞通

葉 貞通(いなば さだみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊後国臼杵藩初代藩主。.

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稲葉重通

葉 重通(いなば しげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。稲葉良通(一鉄)の庶長子。春日局の伯父にあたり養父でもある。.

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稲葉良通

葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた。 号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。.

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稲葉雍通

稲葉 雍通(いなば てるみち)は、豊後国臼杵藩の第11代藩主。 兄の稲葉侯通が早世したため嫡子となり、寛政12年(1800年)9月10日、父の隠居により家督を継いだ。教育に力を注いで、武術稽古堂や学問所を創設した。さらに藩財政再建のために倹約令を出したが、1812年12月に百姓一揆が起こり、勘定方を罷免させて百姓の要望を聞き入れるしかなかった。文政3年(1820年)5月6日、長男・尊通に家督を譲って隠居したが、実権はなおも掌握した。また、翌年に尊通が早世したため、三男・幾通に家督を継がせて、雍通はその後見人としてなおも藩政を主導した。 しかし天保年間に入ると、藩の借金が26万両にもふくれあがったため、天保2年(1831年)11月から村瀬通吉を登用して、倹約や殖産興業政策などの藩財政改革を行なって、成功を収めた。天保14年(1843年)に幾通も自身に先立って早世したため、孫の観通を擁立して、死ぬまで藩政を取り仕切っている。弘化4年(1847年)9月18日、江戸藩邸で72歳で死去した。 てるみち てるみち Category:1776年生 Category:1847年没.

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稲葉通孝

葉 通孝(いなば みちたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。稲葉貞通の三男。.

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稲葉通照

稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に稲葉通義、稲葉通政、蒔田定則室、山村良好室、土岐頼利室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。 みちてる Category:江戸幕府旗本 Category:1605年生 Category:1656年没.

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稲葉通重

葉 通重(いなば みちしげ、? - 元和4年(1618年)6月)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。美濃清水藩主。通称は新左衛門。甲斐守。.

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稲葉恒通

葉 恒通(いなば つねみち)は、豊後国臼杵藩の第7代藩主。 稲葉知通の次男。宝永3年(1706年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幕命による普請手伝いが相次いだため、藩財政が窮乏化した。このため恒通は倹約令を出し、御用金を課し、さらに運上金制度や借上制度を制定することで藩財政を再建しようとしたが、享保5年(1720年)6月25日に31歳で死去したこともあって、改革は失敗に終わった。跡を長男・菫通が継いだ。.

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稲葉正のぶ

葉 正諶(いなば まさのぶ、寛延2年9月29日(1749年11月8日) - 文化3年8月24日(1806年10月5日))は、山城淀藩の第7代藩主。正成系稲葉家宗家11代。.

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稲葉正吉

葉 正吉(いなば まさよし)は、江戸時代前期の武士・旗本。美濃国青野領(知行5000石)の2代領主。 元和4年(1618年)、稲葉正成の十男として生まれる。寛永5年(1628年)、兄・正次が死去した際、その子・正能は僅か3歳という幼年だったため、代わりにその所領である美濃青野領5000石を相続し、旗本寄合席に列した。 寛永18年(1641年)4月22日に甲府城の守衛、正保2年(1645年)6月25日に浅草寺観音堂の造営奉行を務めた。慶安3年(1650年)11月19日には書院番頭に就任した。 明暦2年(1656年)7月3日、駿府城の護衛中、家臣の安藤甚五右衛門・松永喜内と男色問題のもつれから争いとなり、その末に殺害された。享年39。長男の正休が跡を継いだ。.

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稲葉正守

葉 正守(いなば まさもり、享和4年1月29日(1804年3月10日) - 明治11年7月29日(1878年))は、山城淀藩の第10代藩主。正成系稲葉家宗家14代。.

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稲葉正巳

葉 正巳(いなば まさみ)は、江戸時代後期から末期の大名。安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。.

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稲葉正令

稲葉 正令(いなば まさのり、延享3年(1746年) - 天明8年10月24日(1788年11月21日))は、安房国館山藩初代藩主・稲葉正明の世嗣。正明の長男。正室は戸田氏之の娘。 第2代藩主となるべき人物であったが、家督相続以前に廃嫡された。代わって、弟の正武が嫡子となった。天明8年(1788年)、43歳で没。 まさのり Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:廃嫡された人物 Category:1746年生 Category:1788年没.

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稲葉正任

稲葉 正任(いなば まさとう、正徳4年(1714年) - 享保15年1月12日(1730年2月28日))は、山城国淀藩の第2代藩主。正成系稲葉家宗家6代。 初代藩主・稲葉正知の三男。官位は従五位下。美濃守。 兄の正貞が病弱だったため、享保10年(1725年)8月26日に世子に選ばれた。享保14年(1729年)、父の死去により跡を継いだが、翌年正月12日に17歳で死去した。跡を父の従弟にあたる旗本の稲葉正恒が継いだ。法号は端信院。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 まさとう Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:1714年生 Category:1730年没.

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稲葉正弘

稲葉 正弘(いなば まさひろ、延享4年(1747年) - 安永2年9月12日(1773年10月27日))は、山城国淀藩の第6代藩主。正成系稲葉家宗家10代。 第5代藩主・稲葉正益の長男。母は伊達吉村の娘。正室は松平容貞の娘員姫(輪光院)。子に娘(有馬誉純正室)。官位は従五位下、美濃守、佐渡守。通称は宇右衛門。 明和8年(1771年)、父の死去により跡を継ぐ。 安永2年(1773年)9月12日、嗣子無くして27歳の若さで死去し、跡を弟で養嗣子の正諶が継いだ。法号は純正院。 まさひろ Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:1747年生 Category:1773年没.

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稲葉正休

葉 正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の旗本・大名。美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老・堀田正俊は従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。.

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稲葉正往

葉 正往 / 正通(いなば まさみち)は、江戸時代の譜代大名、老中。相模小田原藩3代藩主、越後高田藩主、下総佐倉藩初代藩主。稲葉正則の長男、母は毛利秀元の娘。正成系稲葉家宗家4代。.

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稲葉正利

葉 正利(いなば まさとし)は、江戸時代前期の武士。徳川忠長の家臣山本博文・小宮木代良、1996年、“”。第31号(東京大学史料編纂所 1996年発行)より。 2009-04-26 閲覧。山本博文、1994年、“身柄「お預け」”。『サムライの掟』(ISBN 978-4-12-203826-4 中公文庫 2001年5月発行)より。初出は THIS IS 読売 94年12月号に掲載の連載記事。。稲葉正成の五男。.

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稲葉正善

葉 正善(いなば まさよし、嘉永元年6月28日(1848年7月28日) - 明治35年(1902年)3月19日)は、江戸時代末期の大名。安房国館山藩第5代(最後)の藩主。館山藩知事。館山県知事。子爵。正室は中川久昭の娘。官位は従五位下、備後守。.

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稲葉正備

稲葉 正備(いなば まさなり、安永4年11月15日(1775年12月7日) - 文化12年3月8日(1815年4月17日))は、山城淀藩の第8代藩主。正成系稲葉家宗家12代。 第7代藩主・稲葉正諶の次男。母は松平宗衍の娘。正室は阿部正倫の娘。子は稲葉正発(長男)。官位は従五位下、従四位下、長門守、丹後守。幼名は定之助。 長兄が早世したため、世子となる。文化3年(1806年)、父の死去により跡を継いだ。 文化12年(1815年)3月8日、41歳で死去し、跡を長男の正発が継いだ。 まさなり Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:1775年生 Category:1815年没.

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稲葉正凱

葉 正凱(いなば まさよし、1906年(明治39年)1月14日『平成新修旧華族家系大成』上巻、182-183頁。 - 1963年(昭和38年)1月31日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』44頁。)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。.

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稲葉正則

葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与。相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成と春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。.

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稲葉正勝

葉 正勝(いなば まさかつ)は、江戸時代前期の大名・老中。常陸国柿岡藩主、下野国真岡藩2代藩主、相模国小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。甥に堀田正盛。.

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稲葉正知

葉 正知(いなば まさとも、貞享2年(1685年) - 享保14年5月29日(1729年6月25日))は、下総佐倉藩の第2代藩主、山城淀藩の初代藩主。正成系稲葉家宗家5代。.

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稲葉正縄

葉正縄 稲葉 正縄(いなば まさなお、慶応3年7月2日(1867年8月1日) - 大正8年(1919年)3月23日)は、明治時代から大正時代の華族。子爵。松浦詮の子で、旧淀藩主稲葉正邦の養子となった。妻は前田利鬯の娘隆子。子女は、稲葉正凱、煕子(小野哲郎妻)、英子(郷朔雄妻)。 学習院卒。明治12年(1879年)、稲葉正邦の養子となる。明治20年(1887年)、イギリスに留学する。明治28年(1895年)、東宮侍従に就任する。明治31年(1898年)、家督を相続し、子爵に叙爵された。明治32年(1899年)、式部官に就任する。後に宮中顧問官となった。大正8年(1919年)、53歳で没した。家督は正凱が継いだ。なお、稲葉家は正凱の次代の正輝で途絶える。その旨が青山霊園の墓所に書かれている。.

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稲葉正益

葉 正益(いなば まさよし、享保3年(1718年) - 明和8年9月28日(1771年11月4日))は、山城淀藩の第5代藩主。正成系稲葉家宗家9代。.

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稲葉正盛

葉 正盛(いなば まさもり)は、安房館山藩の第3代藩主。.

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稲葉正発

稲葉 正発(いなば まさのり、享和元年9月21日(1801年10月28日) - 文政6年6月21日(1823年7月28日))は、山城淀藩の第9代藩主。正成系稲葉家宗家13代。 第8代藩主・稲葉正備の長男。母は阿部正倫の娘。正室は山内豊策の娘。官位は従五位下、対馬守。幼名は定之助。 文化12年(1815年)、父の死去により跡を継ぐ。文政6年(1823年)6月21日に嗣子無くして23歳で早世し、跡を叔父の正守が継いだ。 まさのり Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:1801年生 Category:1823年没.

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稲葉正親

葉 正親(いなば まさちか)は、山城淀藩の第4代藩主。正成系稲葉家宗家8代。.

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稲葉正誼

稲葉 正誼(いなば まさよし、文政10年3月2日(1827年3月28日) - 嘉永元年10月22日(1848年11月17日))は、山城淀藩の第11代藩主。正成系稲葉家宗家15代。 越後国高田藩主榊原政令の七男。官位は従五位下。丹後守。幼名は栄之進。 天保12年(1841年)9月27日、稲葉正守の養子となる。天保13年6月18日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年7月20日、養父正守の隠居により、家督を継いだ。同年10月29日、従五位下丹後守に叙任する。嘉永元年(1848年)10月22日、22歳で死去し、養嗣子の正邦が跡を継いだ。 まさよし Category:榊原氏 Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:高田藩の人物 Category:1827年生 Category:1848年没.

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稲葉正邦

葉 正邦(いなば まさくに)は、幕末の大名・老中・京都所司代で、山城淀藩12代目(最後)の藩主。正成系稲葉家宗家16代。.

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稲葉正恒

稲葉 正恒(いなば まさつね、宝永3年(1706年) - 享保15年3月24日(1730年5月10日))は、山城淀藩の第3代藩主。正成系稲葉家宗家7代。 淀藩稲葉家分家の7000石の大身旗本である稲葉正倚(稲葉正則の次男)の三男。正室は毛利元次の娘。官位はなし。通称は平佐衛門、玄蕃。 正徳4年(1714年)11月25日、実父正倚の死去により、旗本稲葉家の家督を継ぎ、寄合に所属する。旗本稲葉家は常陸国新沼郡内なとで7000石を支配していた。享保元年8月9日、将軍徳川吉宗にお目見えする。 享保15年(1730年)1月14日、本家の先代藩主稲葉正任が早世したため、末期養子として、その跡を継いだ。旗本稲葉家は絶家となった。同年3月24日、25歳で死去した。家督は叔父の稲葉正直の家督2000石を継いでいた正親が継いだ。法号は剛節院。墓所は東京都墨田区向島の弘福寺。 まさつね Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:江戸幕府旗本 Category:1706年生 Category:1730年没.

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稲葉正次

稲葉 正次(いなば まさつぐ)は、江戸時代前期の旗本。稲葉正成の長男。 稲葉正成の正室の子で嫡男であったため、本来なら父の遺領を継ぐはずだったが、継母の福(春日局、稲葉重通養女で斎藤利三の娘)が徳川家光の乳母となったため、嫡子の座を異母弟で福の生んだ正勝に譲ることとなった。 元和4年(1618年)、徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。寛永5年(1628年)、死去。 嫡男・正能が僅か三歳であったため、遺領は弟・正吉が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍。子孫は旗本として存続した。 まさつぐ Category:江戸幕府旗本 Category:1591年生 Category:1628年没.

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稲葉正武

葉 正武(いなば まさたけ)は、江戸時代中期の大名。安房館山藩の第2代藩主。.

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稲葉正成

葉 正成(いなば まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名。美濃国十七条藩主、下野国真岡藩初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。.

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稲葉正明

葉 正明(いなば まさあき/まさあきら)は、江戸時代中期から後期の旗本。のちに安房館山藩の初代藩主。.

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稲葉泰通

稲葉 泰通(いなば やすみち)は、豊後国臼杵藩の第9代藩主。 元文2年(1737年)、父稲葉菫通の死去により跡を継ぐ。翌年には藩内の領民の多くが逃散し、寛保・寛延年間には大火と風雨による災害が相次いで藩内は大被害を受け、その復興のために出費が莫大なものとなった。さらに幕命による手伝い普請も相次いで、藩財政は窮乏化の一途をたどった。このような中で明和5年(1768年)7月2日、39歳で死去した。跡を次男で正室清操院の子の副通が継いだが、1年足らずで夭逝したため、副通でなく庶長子の弘通が継いだことにして将軍に御目見をした。 やすみち やすみち Category:1730年生 Category:1768年没.

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稲葉方通

葉 方通(いなば まさみち)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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稲葉景通

葉 景通(いなば かげみち)は、豊後国臼杵藩第5代藩主。 寛文13年(1673年)、父の死去により跡を継ぐ。民政に尽力して善政を施し、城の整備や海岸整備、港町整備や新町の開発などを行なって藩の確立を期した。さらに人事制度においても、地方知行制を廃止して寺社奉行、小姓頭、勘定頭などを設置し、藩政の刷新を図った。元禄7年(1694年)閏5月20日、56歳で死去し、跡を弟の知通が継いだ。 臼杵藩中興の名君と言われている。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃安藤氏

美濃安藤氏(みのあんどうし)は日本の氏族。 藤原秀郷を遠祖とする。秀郷の九代末の子孫である伊賀朝光以来、伊賀氏と称していたが守就の代より安藤氏に改めた。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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生駒氏

生駒氏(いこまし)は、戦国時代の武将および江戸時代の大名・旗本家、藩士家。本姓は藤原氏。.

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牧村利貞

牧村 利貞(まきむら としさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。別名:政治、政吉、高虎。通称:長兵衛。兵部大輔。子に牛之助、おなあ(後の祖心尼)。.

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牧村牛之助

牧村 牛之助(まきむら うしのすけ、文禄2年(1593年) - 慶長12年7月25日(1607年9月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。孫右衛門。 文禄2年(1593年)、牧村利貞の子として生まれる。幼名は兵丸。父は牛之助が生まれた年の7月10日に朝鮮出兵で出陣していた外地で戦病死した。このため、牧村家の家督は幼少の牛之助に代わって、叔父の稲葉道通が継ぐこととなった。ただし、牛之助が成長するまでの代行という立場であった。 ところが、慶長12年(1607年)、牛之助が数え15歳になっても道通は家督を譲ろうとしなかった。これに不満を抱いて徳川家康に訴えようとしたが、それを知った道通によって刺客を送られて暗殺された。享年15。牛之助を暗殺して半年も経たぬうちに道通は急死し、これは甥を殺した事へのたたりだとも言われた。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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館山藩

山藩(たてやまはん)は、安房国に存在した藩。藩庁は館山城・館山陣屋(現在の千葉県館山市城山)に置かれた。江戸時代初期、戦国大名を出自とする里見氏を藩主として安房一国を統治していた時期と、江戸時代後期に稲葉氏を藩主とする譜代の小藩であった時期の2つに分かれる。.

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西美濃三人衆

西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)は、戦国時代に美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称。単に美濃三人衆ともいう。.

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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越智氏

越智氏(おちうじ)は、「越智」を氏の名とする氏族。 古代日本の伊予国(愛媛県)の豪族の一つ。その由来は伊予守輩出や、南海道の発展から伊予越智氏と関係があったとする説もあるが、立証はなく関係性があったかは不明である。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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臼杵藩

臼杵藩(うすきはん)は、豊後国に存在した藩。藩主は稲葉氏。藩庁は海部郡臼杵城(現在の大分県臼杵市)に置かれた。.

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林通政

林 通政(はやし みちまさ、生年不詳 - 天正元年(1573年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新次郎。光時とも。.

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林氏

記載なし。

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松浦詮

松浦 詮(まつら あきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主。松浦家第37代当主、茶人。書家。麝香間祗候、伯爵。 松浦秋(第10代藩主・松浦熈の三男。母は政野氏)の長男。正室は松浦晧の娘、継室は青山幸哉の娘。子は松浦厚(長男、伯爵家を継ぐ)、松浦靖(次男、分家の子爵家を継ぐ)、稲葉正縄(三男)、佐竹義準(四男)、大隈信常(五男、侯爵)、本多正復(六男、子爵)、松浦廉(七男)、井上勝純(八男、子爵)、長女・宣子(前田利嗣夫人)、次女・逸子(松平頼温夫人)、三女・都子(伊達宗基夫人)、正子(松井康義夫人)、冏子(伊達武四郎夫人)。官位は従五位下、肥前守。.

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楠木氏

楠木氏(くすのきし)は、河内国の豪族で、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。.

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榊原政令

榊原 政令(さかきばら まさのり、安永5年3月9日(1776年4月26日) - 文久元年6月29日(1861年8月5日))は、江戸時代後期の大名。越後高田藩第3代藩主。榊原家11代当主。先代藩主・榊原政敦の長男。母は象(きさ)の方。幼名、小平太。兵部大輔、式部大輔、遠江守。 正室は鍋島治茂の娘、誠、継室は保科正率の娘、豊姫。 子は榊原政養(長男)、榊原政礼(三男、はじめ細川興民と称した、細川興祥養子)、榊原政忠(四男)、榊原政愛(五男)、岡田善宝(六男、岡田善功養子)、稲葉正誼(七男、稲葉正守養子)、娘(榊原職常室)、節子(堀田正睦正室)。 文化7年(1810年)、父の隠居により家督を相続した。名君として知られ、藩政に尽くした。主なものでは藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉の掘削して赤倉温泉を開き温泉奉行を置いたこと、藩士宅に果樹の木の植樹推進など多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政の立て直しに尽くした。また、他藩の事情から陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政の安定をもたらした。文政10年(1827年)隠居し、跡を長男の政養に譲る。文久元年(1861年)死去、享年86。 まさのり Category:譜代大名 Category:高田藩主 Category:1776年生 Category:1861年没.

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橘氏 (伊予国)

橘氏(たちばなし)は、日本の平安時代末期から繁栄した伊予国の有力豪族。文献によっては、伊予橘氏とも呼ばれる。詳しい事項は『予章記』「矢野系図」と「与州新居系図」抄(大倉粂馬著『伊予路のふみ賀良』より引用)および『神道集』などにある。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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毛利元知

毛利 元知(もうり もととも、寛永8年6月22日(1631年7月21日) - 天和3年閏5月14日(1683年7月8日))は、長門清末藩の初代藩主。 長府藩初代藩主・毛利秀元(毛利元就の孫)の三男。母は長沼氏(本光院)。正室は七沢清宗の娘・蓮華院(宝樹院の異父妹。増山正利の養女。青木利長の娘との説もある)。側室に船越氏、小笠原氏がいる。子に元武(長男)、元平(次男)、稲葉正方(三男)。官位は従五位下、刑部少輔。 摂津国大坂で生まれる。承応2年(1653年)に長府藩主であった兄の光広が死去して甥の綱元が跡を継ぐと、亡父の秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩するに至った。この清末藩は、毛利氏の三支藩の一つとして厚遇された。 天和3年(1683年)閏5月14日、江戸で死去した。享年53。跡を次男・元平が継いだ。法号は高林院涼岸常清。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。 もととも もととも もととも Category:長府藩の人物 Category:1631年生 Category:1683年没.

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氏家直元

氏家 直元(うじいえ なおもと)は、戦国時代の武将。氏家氏12代当主。西美濃三人衆の一人。出家後に名乗った「卜全」(ぼくぜん)の号で知られている。 最盛期には美濃国の三分の一を領し、三人衆の中では最大の勢力を有していたとされる。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

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清水藩

清水藩(きよみずはん)は、美濃国(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)に存在した藩。居城は清水城。.

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服部氏

服部氏(はっとりし)は、日本の氏族のひとつ。.

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本多正復

本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月23日 - 昭和9年(1934年)4月9日)は、明治時代より昭和時代前期の華族。平戸藩主松浦詮の6男。初名松浦復。長尾藩主本多正憲の娘純子の婿養子となり名を改める。子爵。子に房子、本多正震、稲葉正弘(稲葉正顕養子)、恒子(田中真茂妻)。 学習院高等科を卒業。宮内省に入り、東宮侍従、掌典次長を歴任、その後宮中顧問官を務めた。大正15年(1926年)7月に養父が隠居し家督を継ぐ。昭和9年、62歳で没した。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

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斎藤利宗

斎藤 利宗(さいとう としむね)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府旗本。斎藤利三の三男。春日局は妹。加藤十六将の一人に数えられる。.

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斎藤利三

斎藤 利三(さいとう としみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。.

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斎藤氏

斉(セイ)」は「ととのえる」の意味で別の漢字であるが、江戸時代に「斎」の略字として「斉」が使用された(なお、簡体字ではそれぞれ「斋」と「斉」となり、共通性がさらに失われている)。 斎藤氏(さいとうし、)は、日本の姓氏のひとつ。。。 平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされる。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。。。 斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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