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臼杵藩

索引 臼杵藩

臼杵藩(うすきはん)は、豊後国に存在した藩。藩主は稲葉氏。藩庁は海部郡臼杵城(現在の大分県臼杵市)に置かれた。.

85 関係: 城下町大友義統大友義鎮大友氏大分県大分郡大野郡 (大分県)天保太田一吉外様大名子爵家老島津氏九州平定幕末延宝廃藩置県弘化佐幕徳川氏北島正元キリシタン大名児玉幸多倒幕運動石田三成稲葉尊通稲葉一通稲葉幾通稲葉久通稲葉弘通稲葉信通稲葉典通稲葉知通稲葉菫通稲葉観通稲葉貞通稲葉重通稲葉良通稲葉雍通稲葉恒通稲葉正成稲葉氏稲葉泰通稲葉景通織田信長美濃国熊本藩版籍奉還鎌倉時代華族...養子縁組西美濃三人衆譜代大名豊後国豊薩合戦豊臣秀吉豊臣政権関ヶ原の戦い薩摩国藩の一覧臼杵城臼杵市臼杵焼棄捐令江戸時代末期養子戦国時代 (日本)明治春日局海部郡 (豊後国)斎藤道三新人物往来社文禄・慶長の役旧高旧領取調帳改易慶長1600年1673年1830年1831年1844年1869年1871年1884年 インデックスを展開 (35 もっと) »

城下町

山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.

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大友義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。.

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大友義鎮

九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大分県

大分県(おおいたけん)は、日本の九州地方東部に位置する県。県庁所在地は大分市である。 全国的に知名度が高い別府温泉や、由布院温泉をはじめとする温泉は源泉数(4,538ヶ所)、湧出量(291,340L/分)ともに日本一で、また地熱発電の発電量でも日本一でありさらに栽培、養殖などの産業、食文化、美容やと医療に至るまで豊かな温泉の恵みが幅広く活かされている。「日本一のおんせん県おおいた」をキャッチフレーズに温泉をアピールしている。.

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大分郡

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大野郡 (大分県)

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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太田一吉

太田 一吉(おおた かずよし、? - 元和3年(1617年))は、安土桃山時代の武将(大名)。豊臣氏の家臣。別名に政信・宗隆・政之・重之・重正などがある。父は太田宗清。子は太田一成。飛騨守。小源五。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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佐幕

佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

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キリシタン大名

リシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。.

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児玉幸多

児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.

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倒幕運動

倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒すための政治的な運動・活動のことである。 主として江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して政権打倒を目的とした幕末の政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す政治工作も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉幕府末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府倒幕の動き(正中の変・元弘の変)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。.

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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稲葉尊通

葉 尊通(いなば たかみち)は、豊後国臼杵藩の第12代藩主。 文政3年(1820年)5月6日、父から家督を譲り受けたが、藩主の激務は体がもともと弱かった尊通をさらに衰弱させた。文政4年(1820年)に宇和島藩主の三女との間で結ばれていた婚約を破棄し、江戸から臼杵へ帰国したが、発熱するようになり、同年10月17日に21歳で死去した。 嗣子がないため、急遽、家老が江戸に上り、父の雍通と協議の上、弟の幾通仮養子の届けを幕府に提出。その後、養子が認められたため、幾通が次代の藩主となった。.

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稲葉一通

葉 一通(いなば かずみち)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊後国臼杵藩3代藩主。.

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稲葉幾通

葉 幾通(いなば ちかみち)は、豊後国臼杵藩の第13代藩主。.

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稲葉久通

葉 久通(いなば ひさみち)は、豊後国臼杵藩の第15代(最後の)藩主。 旗本・岡野知英の五男。母は山内容堂(豊信)の娘と言われている(養母との説もある)。.

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稲葉弘通

葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。 弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男・副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に父が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治に御目見することも、若年ゆえに継嗣を指定することもないまま、1年も経たない明和6年(1769年)6月に16歳で夭折した。この稲葉家改易の危機に藩の重役たちは慌て、泰通の跡をただちに弘通が継いだことにして御目見させることで乗り切った。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない(『寛政重修諸家譜』巻第六百六では、弘通の初名が「副通」だとしており、実際の副通については記載が無い)。ちなみに、弘通が正室に迎えた国清院(牧野貞長の娘)は、清操院の姪にあたる。 藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の大飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。寛政12年(1800年)9月10日、家督を次男・雍通に譲って隠居する。文化8年(1811年)、剃髪して伊賀入道と号した。 文政元年(1818年)10月28日、67歳で死去した。.

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稲葉信通

葉 信通(いなば のぶみち)は、豊後国臼杵藩の第4代藩主。.

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稲葉典通

葉 典通(いなば のりみち)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊後国臼杵藩2代藩主。.

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稲葉知通

葉 知通(いなば ともみち、承応元年9月19日(1652年10月21日)- 宝永3年4月15日(1706年5月26日))は、豊後国臼杵藩の第6代藩主。 第4代藩主・稲葉信通の三男。母は織田信良の娘。正室は溝口重雄の娘。子は稲葉恒通(次男)、稲葉通大(三男)。官位は従五位下、能登守。初名は通周。通称、市正。 元禄7年(1694年)、兄で先代藩主の景通が死去したため、その跡を継いだ。藩政においては道路改修や商業発展などに尽力した。宝永3年(1706年)4月15日、55歳で死去し、跡を次男・恒通が継いだ。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。.

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稲葉菫通

葉 菫通(いなば まさみち)は、豊後国臼杵藩の第8代藩主。 享保5年(1720年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし翌年には、天候不順により藩内に大飢饉が襲って大被害を受け、それによってただでさえ悪化していた藩財政がさらに悪化した。このため、享保14年(1726年)には49か条にわたる倹約令を出して藩財政再建を目指したが、享保17年(1732年)には城下にて大火事が起こるなどして大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も破綻寸前となった。このような中で失意のうちに元文2年(1737年)正月17日に29歳で死去し、跡を長男・泰通が継いだ。.

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稲葉観通

稲葉 観通(いなば あきみち)は、豊後国臼杵藩の第14代藩主。 稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため、実際の藩政は祖父が取り仕切っていた。天保16年(1845年)、流刑に処された元幕臣の渋川敬直を預かっている。 弘化4年(1847年)に祖父が死去すると藩政を執り始める。義父が有名な山内容堂(豊信)であったことから、軍制改革や海岸の測量、外国船に対する砲台の建設など、藩政の整備に尽力した。 文久2年(1862年)閏8月4日、24歳の若さで死去し、跡を養嗣子の久通が継いだ。幕末の動乱期ということから、その死はしばらく隠匿された。 あきみち あきみち Category:幕末の大名 Category:1839年生 Category:1862年没.

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稲葉貞通

葉 貞通(いなば さだみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊後国臼杵藩初代藩主。.

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稲葉重通

葉 重通(いなば しげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。稲葉良通(一鉄)の庶長子。春日局の伯父にあたり養父でもある。.

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稲葉良通

葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた。 号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。.

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稲葉雍通

稲葉 雍通(いなば てるみち)は、豊後国臼杵藩の第11代藩主。 兄の稲葉侯通が早世したため嫡子となり、寛政12年(1800年)9月10日、父の隠居により家督を継いだ。教育に力を注いで、武術稽古堂や学問所を創設した。さらに藩財政再建のために倹約令を出したが、1812年12月に百姓一揆が起こり、勘定方を罷免させて百姓の要望を聞き入れるしかなかった。文政3年(1820年)5月6日、長男・尊通に家督を譲って隠居したが、実権はなおも掌握した。また、翌年に尊通が早世したため、三男・幾通に家督を継がせて、雍通はその後見人としてなおも藩政を主導した。 しかし天保年間に入ると、藩の借金が26万両にもふくれあがったため、天保2年(1831年)11月から村瀬通吉を登用して、倹約や殖産興業政策などの藩財政改革を行なって、成功を収めた。天保14年(1843年)に幾通も自身に先立って早世したため、孫の観通を擁立して、死ぬまで藩政を取り仕切っている。弘化4年(1847年)9月18日、江戸藩邸で72歳で死去した。 てるみち てるみち Category:1776年生 Category:1847年没.

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稲葉恒通

葉 恒通(いなば つねみち)は、豊後国臼杵藩の第7代藩主。 稲葉知通の次男。宝永3年(1706年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幕命による普請手伝いが相次いだため、藩財政が窮乏化した。このため恒通は倹約令を出し、御用金を課し、さらに運上金制度や借上制度を制定することで藩財政を再建しようとしたが、享保5年(1720年)6月25日に31歳で死去したこともあって、改革は失敗に終わった。跡を長男・菫通が継いだ。.

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稲葉正成

葉 正成(いなば まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名。美濃国十七条藩主、下野国真岡藩初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。.

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稲葉氏

葉氏(いなばし)は、日本の氏族。.

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稲葉泰通

稲葉 泰通(いなば やすみち)は、豊後国臼杵藩の第9代藩主。 元文2年(1737年)、父稲葉菫通の死去により跡を継ぐ。翌年には藩内の領民の多くが逃散し、寛保・寛延年間には大火と風雨による災害が相次いで藩内は大被害を受け、その復興のために出費が莫大なものとなった。さらに幕命による手伝い普請も相次いで、藩財政は窮乏化の一途をたどった。このような中で明和5年(1768年)7月2日、39歳で死去した。跡を次男で正室清操院の子の副通が継いだが、1年足らずで夭逝したため、副通でなく庶長子の弘通が継いだことにして将軍に御目見をした。 やすみち やすみち Category:1730年生 Category:1768年没.

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稲葉景通

葉 景通(いなば かげみち)は、豊後国臼杵藩第5代藩主。 寛文13年(1673年)、父の死去により跡を継ぐ。民政に尽力して善政を施し、城の整備や海岸整備、港町整備や新町の開発などを行なって藩の確立を期した。さらに人事制度においても、地方知行制を廃止して寺社奉行、小姓頭、勘定頭などを設置し、藩政の刷新を図った。元禄7年(1694年)閏5月20日、56歳で死去し、跡を弟の知通が継いだ。 臼杵藩中興の名君と言われている。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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西美濃三人衆

西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)は、戦国時代に美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称。単に美濃三人衆ともいう。.

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊薩合戦

豊薩合戦(ほうさつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争である。天正の役、天正の戦とも呼ばれる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩の一覧

藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。.

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臼杵城

臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。.

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臼杵市

臼杵市(うすきし)は、大分県の東海岸に位置する市。国宝の臼杵石仏や醤油の製造で有名。近年では城下町の町並みでも知られるようになった。.

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臼杵焼

臼杵焼(うすきやき)は、豊後国臼杵藩 (現在の大分県臼杵市)内で、稲葉氏の藩政時代のごく限られた期間に焼かれていた焼き物である。 窯場を藩の直営としたことから「臼杵焼」と呼ぶが、窯が末広地区に築かれたので「末広焼」とも呼び、また、窯のあったところを皿山と呼んだので「皿山焼」とも言う。 島原三重町(長崎県島原市三会)、筑前小石原村(福岡県朝倉郡小石原村)、延岡小峰町(宮崎県延岡市小峰)出身の職人達によって焼かれ、島原から来た者は磁器を作り、その他のものは陶器を焼いた。陶器の原料となる粘土は付近で採れたが、磁器の原石は遠く島原や伊万里から運ばせた。島原工人の磁器が今の人々の言う末広焼で、皿・茶碗・鉢・瓶子・壷などの器種がある。中でも皿類は一番多く焼かれており、一般的に純白で薄手の物が多く縁には輪花をあしらった特徴的なものがほとんど、染付けの物も多少残っており、藍色の顔料を用いて器の内外面に絵模様を描いたものがある。陶器は主として日用雑器で、茶わん、急須などが中心に焼かれていたようである。 臼杵焼の起こりは、寛政11年(1799年)に稲葉家十代藩主稲葉弘通が隠居した2年後の、享和2年(1801年)。藩が末広の善法寺の竹尾川に沿って南へ約700メートルほど奥にはいった、三方を小高い山に囲まれた谷間に窯場を開き、奉行をおいて監督させている。隠居して伊賀入道と称した弘道は、画を好み、自らも人物、花鳥を描いたという、文化、芸術に趣味の持った入道の希望で臼杵焼が始められたのではないかと推測される。 窯場は文化元年(1804年)から6年ごろまで栄えていたようだが、わずか数年にして窯を閉じてしまっているのである。短期間で末広焼の生産を停止せざるを得なかった原因を明らかにする資料はないが、いくつかの要因は考えられる。まず第一に、臼杵には焼物の原料となるべき陶石がないということである。原料購入の費用、臼杵までの運搬費用などの経費がかさみ採算が取れなくなった。第二に、安くて質の良い品物が、藩外から多量にもたらされるようになった。第三に、連房式の登窯であったため、自然条件あるいは窯への火入れやその調整といった人為的な要因などによって、窯詰された品物のすべてが成功したとは限らなかったなどといった点が推測される。生産性と採算、さらに新しい製品の大量流入による販路の縮小といった点から次第に利益が減り、商売として成り立たなくなって廃窯という結果を招いたと考えられる。 現在、このあたりは竹や雑木に覆われており、容易に窯の位置などを見つけることはできない。  .

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棄捐令

棄捐令(きえんれい)は、江戸時代幕府が財政難に陥った旗本・御家人を救済するために、債権者である札差に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令である。 なお、松江藩・加賀藩・佐賀藩など諸藩でも行われた。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

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海部郡 (豊後国)

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斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1673年

記載なし。

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1830年

記載なし。

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1831年

記載なし。

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1844年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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