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源光国

索引 源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。.

75 関係: 受領叙爵天台座主天仁天永天治寒河江荘寛治尊卑分脈川西市左衛門尉中右記平安時代平正盛久安康平康和延暦寺伊豆国強訴後二条師通記従五位嘉保嘉承出羽国兵庫県兵衛府石清水八幡宮立太子美濃源氏為房卿記白河天皇鞍馬寺領家衛門府鳥羽天皇茜部荘興福寺長秋記良真東大寺検非違使武将殿暦永久 (元号)永久の強訴永昌記清和源氏源信雅源光保...源光信源国房源義綱源為義源頼光満願寺 (川西市)本朝世紀摂家摂津源氏時範記1063年1087年1092年1094年1099年1103年1106年1109年1110年1113年1117年1124年1148年12月12日 (旧暦)1月5日 インデックスを展開 (25 もっと) »

受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天仁

天仁(てんにん)は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1109年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天永

天永(てんえい)は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1112年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天治

天治(てんじ)は、日本の元号の一つ。保安の後、大治の前。1124年から1125年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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寒河江荘

寒河江荘(さがえのしょう)は、出羽国村山郡(現在の山形県西村山郡および寒河江市)にあった摂関家の荘園。.

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寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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川西市

JR川西池田駅前) 川西市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の6枚を合成作成。国土航空写真。 川西市(かわにしし)は、兵庫県南東部の市。大阪府との県境に面する。阪神北県民局管轄区域。.

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左衛門尉

左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職のひとつ。左衛門府の判官であり、六位相当の官職であった。五位の者が任ぜられた場合、左衛門大夫または大夫尉という他、検非違使と兼ねた場合には廷尉と俗称された。平家追討において活躍した源義経も任ぜられている。鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士の任官が広くなされるようになるにつれ、左衛門尉などの武官の職は武士から広く好まれるようになり、鎌倉~江戸期を通じて多くの武将たちが任ぜられるか、受領名として使用されるようになっていった。.

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中右記

『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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康平

康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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強訴

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。.

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後二条師通記

後二条師通記(ごにじょうもろみちき)は、平安時代後期に活躍した藤原師通の記した日記。原本は一条家に伝来していた。後二条関白記、後二条殿記とも。 永保3年(1083年)から康和元年(1099年)まで書かれたらしいが、うち数年分が欠ける。寛治7年(1093年)分の一部の自筆本が伝わる。この自筆本と、後に藤原頼長が書写させた古写本が、陽明文庫に伝わり、ともに国宝に指定されている。また、宮内庁書陵部にも古写本よりも時代が下ると見られる新写本が伝えられている。 同時代に記された日記に、中右記(藤原宗忠)、時範記(平時範)など。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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嘉保

嘉保(かほう)は、日本の元号の一つ。寛治の後、永長の前。1095年から1096年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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嘉承

嘉承(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。長治の後、天仁の前。1106年から1107年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇、鳥羽天皇。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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立太子

立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.

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美濃源氏

美濃源氏(みのげんじ)とは、中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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為房卿記

房卿記(ためふさきょうき)は、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕え、大蔵卿・参議として活躍した藤原為房の日記で、「大記」「大御記」「大府記」とも呼ばれる。 延久2年(1070年)から永久2年(1114年)までの記録があるが、治暦年間(1065年-1068年)頃から記していたとも言われるが、京都大学文学部所蔵の自筆1巻を残し、ほとんどが散逸する。ただ、鎌倉期の古写本が京都大学や陽明文庫・宮内庁書陵部などに残る。院政政治についての内容が現存しているが、一年分を完備した年はなく断続的である。また、永保元年(1081年)秋の熊野詣の記事は特に「為房卿熊野参詣日記」として取り上げられることがある。 当時の政治や社会状況を知る上では重要な歴史資料。刊本としては、部分的ではあるが、『大日本史料』第3編や『歴代残闕日記』第7冊、『翻刻為房卿記』(『史聚』第10号)に掲載。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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鞍馬寺

本殿金堂 本殿前の阿吽の虎 石段を飾る灯篭 奥の院魔王殿(拝殿) 大杉権現 僧正ガ谷不動堂 冬柏亭、与謝野晶子書斎 鞍馬寺(くらまでら)は、日本の京都府京都市左京区鞍馬本町に所在する寺である。1949年までは天台宗に属したが、以降、独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山(くらまやま)。鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)によって開山されたという。本尊は、寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。 京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。 なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。.

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領家

家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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茜部荘

茜部荘(あかなべのしょう)は、平安時代~室町時代にかけて美濃国にあった荘園。もと厚見荘(あつみのしょう)。東大寺領。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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長秋記

長秋記(ちょうしゅうき)は、源師時の日記。.

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良真

良真(りょうしん).

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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殿暦

殿暦(でんりゃく)は平安時代後期の公卿、藤原忠実(1078年 - 1162年)の日記。別に知足院関白記、知足院殿記、殿記とも。原文は伝わらず、文永4年(1267年)に近衛基平が家臣とともに書写した古写本22冊が伝わり、重要文化財に指定されている。 承徳2年(1098年)から元永元年(1118年)までの記事が現存する。この時期、忠実は政治的に絶頂期にあたり、朝廷における政務・儀式の詳細な記録が残る。.

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永久 (元号)

永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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永久の強訴

永久の強訴(えいきゅうのごうそ)とは、天永4年・永久元年(1113年)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられたことから閏3月20日に数千人の興福寺大衆が人事の停止を求めて行われた強訴のこと。 円勢は法勝寺・尊勝寺の仏像群の造立を主導しており、白河法皇への奉仕に対する論功行賞ともいえる強引な人事だった。法皇は譲歩し一旦は終結するかに思われたが、興福寺大衆が上洛の折に祇園社神人に暴行を働いたため、29日に延暦寺大衆が報復する。清水寺の堂舎を破壊して神輿をかつぎ、院御所である大炊殿におしかけ興福寺の権少僧都・実覚の流罪を要求した。出羽守・源光国、丹後守・平正盛、左衛門尉・源為義が院御所・内裏を警固した。 その場しのぎの対応で法皇が実覚処分の要求を飲んだことから興福寺が激怒、天台座主・仁豪と法性寺座主・寛慶の流罪、祇園社を春日大社の末社にすること、実覚の配流停止といった3ヵ条を奏上として提出した。大衆の上洛を防ぐため、宇治に平正盛・平忠盛・源重時が、西坂本に源光国・藤原盛重が配備された。宇治において双方が対峙中にたまたま現れた鹿(鹿は春日大社明神の使として信仰されていた)を兵士が射ようとしたことから合戦となり、大衆側に多数の戦死者が出た。宇治に出動した正盛・忠盛・重時は検非違使だったが、検非違使別当・藤原宗忠の指示を介さず法皇の命令で派兵された。検非違使庁・諸衛府の形骸化、院北面の拡大を示す事件だった。 また、延暦寺側の仁豪と寛慶も一枚岩ではなく、寛慶らが清水寺を破壊した責任者として仁豪の天台座主辞任を要求、9月には寛慶を支持する大衆が天台座主の交代を求める強訴を行おうとして、平忠盛・源重時らに阻止される事件も起きている(『長秋記』同年9月30日条)。また、翌年にも延暦寺内で仁豪・寛慶両派の大衆の衝突があり、仁豪が白河法皇に対して寛慶が天台座主を奪おうと企てていると訴えている(『中右記』永久2年7月26日条・『殿暦』永久2年7月27日条)。保安2年(1121年)になって仁豪が死去すると、寛慶が天台座主に任ぜられた。仁豪と寛慶の対立は弟子たちの時代にも引き継がれ、後の祇園闘乱事件では寛慶の弟子である天台座主行玄が仁豪の流れを汲む反対派の襲撃を受ける騒動が発生している他、12世紀後半には両勢力が皇族出身の僧侶を指導者に迎え入れる動きを見せて後の梨本(三千院)・青蓮院両門跡が誕生する遠因ともなった。.

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永昌記

永昌記(えいしょうき)は、平安時代後期の公卿・藤原為隆の日記。別名『為隆卿記』。永昌記の書名の由来は、為隆の自宅のあった左京の四条坊門が永昌坊内にあったことによる。現存する記事は長治2年(1105年)から大治4年(1129年)までの25年間に及ぶが、欠落部分も少なくない。堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の3天皇(つまり白河・鳥羽院政)時代の朝廷における行事・叙位・修法などの諸儀式について詳細に記述してあり、後世有職故実の書物として重んじられた。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源信雅

源 信雅(みなもと の のぶまさ、承暦3年(1079年) - 保延元年5月15日(1135年6月27日))は、平安時代末期の貴族。初名は家定。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源国房

源 国房(みなもと の くにふさ)は、平安時代中期から後期にかけての武将。源頼国の六男。後に摂津源氏を継いだ五兄・頼綱の養子となっていたとされる。美濃源氏の祖。.

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源義綱

源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源頼義の子。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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満願寺 (川西市)

満願寺(まんがんじ)は兵庫県川西市満願寺町にある仏教寺院。山号は神秀山 、宗派は高野山真言宗。本尊は千手観音菩薩。満願寺町は川西市の飛地であり、周囲は宝塚市である。.

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本朝世紀

『本朝世紀』(ほんちょうせいき)は、平安時代末期に編纂された歴史書。 『六国史』の後を継ぐ史書として、鳥羽上皇の命により、信西(藤原通憲)が編纂。成立は1150年-1159年。『史官記』『外記日記』ともいわれる。全20巻。 『日本三代実録』に続くもので、宇多天皇の877年以降、近衛天皇(在位1141年-1155年)までを扱う。諸家の日記・系図を原文のまま時代順に整頓したものであった。信西が平治の乱(1159年)で死亡したため、未定稿に終わったうえ、多くが散逸している。現存しているのは935年~1153年のうち一部であるが、同時代の歴史・世相風俗を伝える好史料である。さらに未完とはいえ『六国史』以後のまとまった史書として、かつ現在残り少ない宮府の記録の遺文として高い価値を持つ。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂津源氏

摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.

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時範記

『時範記』(ときのりき)は、平安時代後期の官人、平時範が記した日記。右大記、平右記、右大丞記とも。その逸文から承保2年(1075年)から嘉承3年(1108年)にかけて書かれていたことが確認される。自筆原本は伝存しない。宮内庁書陵部に永長2年(1097年)七月条と承徳3年(1099年)正月から三月条、国立歴史民俗博物館に永長元年三七月条など一部写本が伝存する。宮内庁書陵部所蔵分は、早川庄八と宮崎康充によって「書陵部紀要」14・17・32号に翻刻されている。.

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1063年

記載なし。

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1087年

記載なし。

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1092年

記載なし。

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1094年

記載なし。

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1099年

記載なし。

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1103年

記載なし。

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1106年

記載なし。

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1109年

記載なし。

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1110年

記載なし。

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1113年

記載なし。

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1117年

記載なし。

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1124年

記載なし。

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1148年

記載なし。

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12月12日 (旧暦)

旧暦12月12日(きゅうれきじゅうにがつじゅうににち)は、旧暦12月の12日目である。六曜は大安である。.

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1月5日

1月5日(いちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。誕生花はミスミソウ。.

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