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活動写真

索引 活動写真

活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは大正後期になってからである。 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準を持ち、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。.

104 関係: 吉野二郎吉沢商店大都映画大阪市大正大正活映大映天然色活動写真女形宝塚キネマ興行小笠原プロダクション小笠原章二郎小笠原明峰小林商会小松宮彰仁親王山川興行部岡田時彦川口松太郎不二映画社帝国キネマ帰山教正常盤商会市川右太衛門プロダクション三友倶楽部幻灯機広目屋ミカド商会マキノ・プロダクションマキノトーキー製作所リュミエール兄弟トーマス・栗原ドキュメンタリー嵐寛寿郎嵐寛寿郎プロダクションアシヤ映画製作所ウィリアム・K・L・ディクソンエトナ映画社キネトスコープコニカゴーモンシネマトグラフタカマツ・アズマプロダクション入江たか子入江ぷろだくしょん国際活映神戸又新日報神戸市福宝堂稲畑勝太郎純映画劇運動...甲陽キネマ牧野教育映画製作所直木三十五花柳はるみ衣笠貞之助衣笠映画聯盟駒田好洋高田稔谷崎潤一郎錦輝館鈴木傳明阪東妻三郎阪東妻三郎プロダクション赤沢映画連合映画芸術家協会J.O.スタヂオM・パテー商会東坊城恭長東京市東亜キネマ東邦映画製作所東活映画社東洋商会松竹大船撮影所松竹京都撮影所松竹キネマ松竹蒲田撮影所横山運平横田商会正映マキノキネマ歌舞伎座河合映画製作社活動弁士活動写真資料研究会渡辺篤 (俳優)清水定吉戎橋明治映画映画女優映画プロデューサー映画スタジオ映画芸術協会浅野四郎新興キネマ日活撮影技師11月17日1896年1897年1899年1942年2月15日6月20日 インデックスを展開 (54 もっと) »

吉野二郎

吉野 二郎(よしの じろう、明治14年(1881年)8月10日 - 昭和39年(1964年)12月11日)は、日本の俳優、映画監督である。本名関輪 清(せきわ きよし)、雅号は半狂(はんきょう)。。.

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吉沢商店

吉澤商店(よしざわしょうてん、設立年不詳 - 大正元年(1912年)9月10日 合併)は、かつて東京に存在した日本の貿易会社、映画会社である。日本最古の映画会社の一つであり、「日本初の映画専門館」と「日本初の撮影所」を開いたほか、浅草公園に「ルナパーク」を開設、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。旧社名吉澤商舗(よしざわしょうほ)。.

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大都映画

大都映畫株式會社(だいとえいが)は、1933年から1942年までの戦前から戦中にかけて東京・西巣鴨に存在した映画会社である。1928年に設立された河合映画製作社を前身にした新興の中小企業で低予算の娯楽作品を大量に製作し安価な入場料で当時の大手映画会社に対抗した。1942年に戦時統合で新興キネマと日活(製作部門)との3社が合併して大日本映画(大映)となって、大都映画はその歴史を閉じた。.

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大阪市

大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大正活映

大正活映株式会社(たいしょうかつえい-、1920年4月 設立 - 1922年 製作中止 - 1927年5月 解散)は、かつて横浜に存在した映画会社である。 大正時代の横浜山下町に本社と撮影所を構え、無声映画を製作および配給した。ハリウッド俳優のトーマス・栗原と作家の谷崎潤一郎が関わったことで知られる。製作会社としては短命に終わったが、多くの人材を輩出した。設立当初は大正活動写真株式会社(たいしょうかつどうしゃしん-)であったが改称した。略称は大活(たいかつ)である。.

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大映

大映株式会社(だいえい)は、.

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天然色活動写真

天然色活動写真株式会社(てんねんしょくかつどうしゃしん、略称天活、1914年3月17日 設立 - 1919年 解体)は、かつて大正期に存在した映画会社である。無声映画時代に、新技術「キネマカラー」による「カラー映画」を日本で初めて製作、連続的に公開し、また、国産初のアニメ映画を製作・公開したことで知られる。6年間で400本近くの映画作品を量産した。.

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女形

女形・女方(おやま・おんながた)とは、歌舞伎において若い女性の役を演じる役者、職掌、またその演技の様式そのものを指す。.

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宝塚キネマ興行

寶塚キネマ興行株式會社(たからづかキネマこうぎょう)は、かつて京都に存在した映画会社である、立命館大学、2008年1月31日閲覧。、法政大学大原社会問題研究所、2014年4月15日閲覧。,, 、法政大学大原社会問題研究所、2014年5月15日閲覧。,, 、法政大学大原社会問題研究所、2014年4月15日閲覧。。高村正次と南喜三郎が設立、正映マキノキネマの御室撮影所と、東亜キネマの配給興行網と、阪急電鉄の小林一三の資本を仰いで設立されたが、設立わずか半年で経営が崩壊、賃金未払いが起きる。設立1年少々で解散した。通称宝塚キネマ(たからづかキネマ)。.

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小笠原プロダクション

小笠原プロダクション(おがさわら-、1923年 設立 - 1926年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、京都の映画製作会社である。子爵小笠原氏の「第七代当主」になるはずだった同家の長男小笠原明峰が設立、自ら、および弟(次男)小笠原章二郎の監督作品を製作した。片岡千恵蔵、古川ロッパといったのちのスター俳優を無名時代に起用、初めて映画に主演させたプロダクションであることで知られる。.

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小笠原章二郎

小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。「バカ殿様」専門役者として知られる。.

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小笠原明峰

小笠原 明峰(おがさわら めいほう、-明峯とも、1900年6月26日 - 1946年6月20日)は、日本の映画監督、脚本家、無声映画時代の京都の映画会社「小笠原プロダクション」を率いた実業家である。本名は長隆(ながたか)、小笠原長生子爵の長男である。.

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小林商会

小林商会(こばやししょうかい、1914年 設立 - 1917年 倒産)は、かつて存在した東京の映画会社である。大正初期の無声映画時代に小林喜三郎が設立、映画の製作と配給を行なった。実質1年程度しか活動できずに倒産した。.

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小松宮彰仁親王

小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。仁和寺宮嘉彰親王と同一人物。 伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。.

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山川興行部

山川興行部(やまかわこうぎょうぶ、1914年 設立 - 1917年 活動休止)は、かつて存在した大阪の映画会社である。「天然色活動写真」(天活)の創業者のひとりである山川吉太郎が設立した映画配給会社で、天活の関西の興行を委任された。一時、映画の製作も行った。.

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岡田時彦

岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1903年)2月18日 - 昭和9年(1934年)1月16日)は、大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優であった。.

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川口松太郎

川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は日本の小説家、劇作家、日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。本名松田松一とする資料もある。松田昌一の名で映画脚本も手がける。 東京市浅草区浅草今戸町(現在の東京都台東区今戸)出身。学歴は石浜小学校卒業。後妻は女優の三益愛子。三益との子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)。、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。.

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不二映画社

不二映画社(ふじえいがしゃ、1931年(昭和6年)9月 発足 - 1932年(昭和7年)10月 解散)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、東京の映画製作会社である。東京郊外に撮影所をもっていたが短命に終わった。不二映画株式会社とは関係ない。.

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帝国キネマ

帝國キネマ演藝株式會社(ていこくキネマえんげい、1920年(大正9年)5月 改組設立 - 1931年(昭和6年)8月28日 改組消滅)は、第二次世界大戦以前に大阪に存在した映画製作会社である。通称帝国キネマ、略称帝キネ。 1920年(大正9年)に大阪の興行師・山川吉太郎が設立。時代劇のほか現代劇でも大ヒットをいくつか飛ばし、千日前で漫才などの演芸興行も行ったが、内紛も多かったとされる。.

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帰山教正

帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1964年11月6日)は、日本の映画理論家、映画監督、脚本家である。 日本映画界に革新をもたらした人物であり、日本最初の映画評論誌『キネマ・レコード』を創刊した後、舞台の模写的作品に過ぎない旧来の日本映画の革新を目指して、純映画劇運動を提唱。理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を発表して、女優の起用、活動弁士の廃止、映画技法の使用などを主張。映画藝術協會を設立して自ら映画製作を行ってその理論を実践した。.

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常盤商会

常盤商会(ときわしょうかい、1912年 設立 - 1914年 合併)は、かつて大正時代に東京に存在した映画会社である。「福宝堂」の「日暮里花見寺撮影所」(1910年 - 1912年)とはべつに、「日暮里撮影所」(1913年 - 1919年)を建設したことで知られる。のちにD・W・グリフィス監督の超大作無声映画『イントレランス』(1916年製作、1919年日本公開)の「10円興行」で知られる小林喜三郎が設立した。.

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市川右太衛門プロダクション

市川右太衛門プロダクション(いちかわうたえもんプロダクション、1927年5月 - 1936年)は、かつて奈良県に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優市川右太衛門が設立したスタープロダクションであり、生駒郡伏見村(現・奈良市)にあった遊園地内に撮影所を建設、9年にわたって稼働した。通称右太プロ。.

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三友倶楽部

三友倶楽部(さんゆうくらぶ)は、かつて存在した大阪の映画会社である。明治末期の1909年「三友倶楽部」の後継会社である「有限会社サカエマチ中央ビル」の公式サイト「」の記述による。、千日前商店街(現在の大阪市中央区千日前1丁目)に設立、映画の興行のほか、大阪で初めて映画製作を行った会社として知られる産経ニュース記事「」(2007年11月18日1時11分付)による記述。。.

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幻灯機

幻灯機(げんとうき、magic lantern)は、スライド映写機の原型にあたる機械、あるいはその後身であるスライド映写機の古典的呼称である。 ジョゼフ・ニーダムによれば、2世紀の中国で既に幻灯機が文献に現れているとされている。西洋では、1671年、イエズス会のアタナシウス・キルヒャーが Ars Magna Lucis et Umbrae(全文:ECHO(European Cultural Heritage Online)所収) に記したのが最初であった。これは、新たな発明の発表ではなく、既存の機器を描写したものかもしれない。ランプとレンズを使って、ガラスに描かれた画像を適当な幕に投影する。イギリスでは、19世紀には幻灯機を使った巡回上映が盛んとなった。スライドには特殊効果を施したものもあり、複数枚のスライドを重ねたり、一部を回転させたりといった手法が用いられた。子供に人気のあった有名なものとして、The Rat Swallowerがある。これはラットが列をなして眠っている男の口に飛び込んでいくという内容であった。ナポレオン戦争のころには、イギリスの戦艦とフランスの戦艦が戦ってフランスの戦艦が沈むという愛国心をかきたてる内容のものが人気となった。 写真の発明によってスライドの制作や複製が安価に行えるようになり、画像のレパートリーも劇的に増えた。スライドショーには、有名なランドマーク、海外の風景、著名人の肖像が登場するようになった。一連の写真で成功譚や道徳譚を構成させて販売された。19世紀の幻灯機とスライドの市場は映画の発明と共に映画に移っていき、残された幻灯機やスライドは好事家の収集の対象となっている。 日本へは嘉永年間にオランダからもたらされた 横須賀市教育研究所。明治時代になって普及し明治20年代には幻灯ブームもみられた。各地では幻灯会が開催されたほか 相馬デジタルミュージアム、学校では視聴覚教材としても利用された。.

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広目屋

広目屋(ひろめや、正式名称株式会社廣目屋)は、日本の広告代理店である。1885年(明治18年)創業の老舗である。.

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ミカド商会

ミカド商会(ミカドしょうかい、1919年7月10日設立 - 1920年1月吸収)は、かつて存在した日本の映画会社である。映画監督となったのちの「日本映画の父」牧野省三が初めて起こした会社である。日活に吸収されるが、牧野の独立はその2年後に本格化する。.

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マキノ・プロダクション

マキノ・プロダクション(1925年6月 設立 - 1931年5月 改組 / 同年10月 新社解散)は、かつて京都に存在した映画会社である、立命館大学、2008年1月19日閲覧。、立命館大学、2008年1月31日閲覧。。製作拠点は御室撮影所(おむろさつえいじょ)。サイレント映画の時代に牧野省三が設立、直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、これが牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。.

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マキノトーキー製作所

マキノトーキー製作所(マキノトーキーせいさくしょ、1935年11月 設立 - 1937年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社であるマキノ, p.246、p.280、p.338-374.

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リュミエール兄弟

リュミエール兄弟(左が兄のオーギュスト、右が弟のルイ) リュミエール兄弟(リュミエールきょうだい)は、トーマス・エジソンと並び称せられるフランスの映画発明者。「映画の父」と呼ばれる。世界初の実用カラー写真の開発者でもある。.

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トーマス・栗原

トーマス・栗原(-くりはら、本名喜三郎、-きさぶろう、1885年1月24日 - 1926年9月8日)は、ハリウッドで活躍した日本人俳優であり、帰国してわずか1年数か月で30本の作品を残した無声映画時代の日本の映画監督である。栗原 トーマスとも。.

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ドキュメンタリー

ドキュメンタリー(documentary film)は、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品を指す。.

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嵐寛寿郎

嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、1902年12月8日 - 1980年10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。本名高橋 照一文献により「照市」との表記もある(たかはし てるいち)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。 祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎この徳三郎は「義父」を名乗ることがあったので、文献に混乱が見られるが叔父である。。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。.

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嵐寛寿郎プロダクション

嵐寛寿郎プロダクション(あらしかんじゅうろうプロダクション)は、かつて京都に存在した映画会社である。1928年(昭和3年)4月にマキノ・プロダクションを片岡千恵蔵らとともに脱退したスター俳優嵐寛寿郎が設立したスタープロダクションであり、貸しスタジオの双ヶ丘撮影所で5本のサイレント映画を製作した「第1期」(1929年2月解散)と、1931年(昭和6年)ふたたび同地に撮影所を持ったのちに太秦へと移転した「第2期」(1937年解散)がある。70本以上の作品を生み出し、また山中貞雄を映画監督としてデビューさせたことでも知られる。略称寛プロ(かんプロ)。.

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アシヤ映画製作所

アシヤ映画製作所(アシヤえいがせいさくしょ、1925年設立 - 同年活動停止)は、兵庫県芦屋市にかつて存在した日本の映画製作会社である。大阪の映画会社「帝国キネマ演芸」社の内紛によって生まれた会社で、同社の寿命は短命に終わったが、全従業員が従来の「帝キネ芦屋」に復帰できた。.

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ウィリアム・K・L・ディクソン

ウィリアム・K・L・ディクソン(William Kennedy Laurie Dickson、-ケネディ・ローリー-、1860年8月3日 ル・ミニーク=シュル=ランス - 1935年9月28日 トゥイッケナム)は、フランス系スコットランド人の発明家である。 トーマス・エジソンの雇用下におけるムービーカメラの発明でクレジットされている。世界初の映画監督および撮影監督のひとりであり、世界初の音声つき映画 『ディクソン・エクスペリメンタル・サウンド・フィルム』(22秒の短篇、1894年製作)の監督としても知られる。.

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エトナ映画社

トナ映画社(-えいがしゃ、1934年9月 設立 - 1935年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。サイレント映画を主体に、トーキーも製作したが、半年という短命に終わった。.

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キネトスコープ

ネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態) キネトスコープ()は、トーマス・エジソンによって発明(1891年)された映画を上映する装置。撮影機の方はキネトグラフ()といい、キネトスコープより先に、同じくエジソンが発明した。 1893年にシカゴ万国博覧会に出展し、1894年4月14日にはニューヨークのブロードウェイ1155番地に世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が設置された。キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パーラーが設置されることになった。 スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき込む形になる。当時は「ピープショー」とも呼ばれた(ピープ(peep)とは、のぞくという意味)。一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明(1895年)を待つことになる。 日本でエジソンが発明したキネトスコープを初上映したのは神戸の神港倶楽部で、1896年11月25日から12月1日までであった。日本の映画の日が12月28日から12月1日に変更されたのは、この日付に因むためと言われる(リュミエールが発明したスクリーン式の「シネマトグラフ」は1897年、大阪の南地演舞場や京都で披露されている)。.

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コニカ

ニカ株式会社(Konica)は、かつて存在した日本のカメラ、写真用フィルムメーカー。2003年のミノルタとの合併により、現在はコニカミノルタとなったが、同社は2006年3月をもってカメラ、フィルム関連事業より撤退している。.

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ゴーモン

ーモンまたはゴモン(Gaumont )はフランスの大手映画制作会社。1895年に技師・発明家のレオン・ゴーモン(ゴモン)(Léon Gaumont )が創業した、現存する最古の映画会社であるシャルル・パテ(''Charles Pathé'' )より1歳年下だったが、パテ (映画会社)よりも早く、写真機の開発と販売を扱う会社を発足させ、リュミエール兄弟による世界最初の映画上映に接して、映画製作に方針を変える(中条省平『フランス映画史の誘惑』集英社文庫 2003年p.45)。。.

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シネマトグラフ

上映中のシネマトグラフ シネマトグラフ(cinématographe)とは、世界初の撮影と映写の機能を持つ複合映写機である。世界初の実写映画の作成と映画を商業公開することで映画史に名を残した。1890年代に発明された。.

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タカマツ・アズマプロダクション

タカマツ・アズマプロダクション(1925年 設立 - 1927年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、東京の映画製作会社である。労働運動家高松豊次郎が設立し、南葛飾郡吾嬬町に「タカマツ・プロダクション吾嬬撮影所」をもっていた。.

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入江たか子

入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、明治から昭和期の日本の映画女優。.

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入江ぷろだくしょん

入江ぷろだくしょん(いりえ-、入江プロダクションとも、1932年 発足 - 1937年 解散)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、京都の映画製作会社である。当時人気絶頂だったスター女優の入江たか子が日活から独立し、新興キネマと提携して設立、太秦に撮影所をもっていた。略称は「入江ぷろ」、「入江プロ」である。.

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国際活映

國際活映株式會社(こくさいかつえい-、1919年12月6日 設立 - 1925年 倒産)は、大正時代に東京に存在した日本の映画会社、通称は国活(こっかつ)。巣鴨と角筈(現在の西新宿)に撮影所を持ち、量産を図るが、早期に瓦解する。.

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神戸又新日報

戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう、1884年 創刊 - 1939年 休刊)は、かつて存在した日本の日刊新聞である。兵庫県神戸市の「五州社」が発行した。.

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神戸市

戸市(こうべし)は、兵庫県南部に位置する兵庫県の県庁所在地である。垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区から構成される政令指定都市である。日本の市で6番目の人口を有する。.

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福宝堂

合資會社福寶堂(ふくほうどう、1910年7月 - 1912年9月10日 合併)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。日本最古の映画会社の一つであり、洋画『探偵奇譚ジゴマ』のヒット、および日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。同社の直営館「第一福宝館」が、現在の国立近代美術館フィルムセンターとなったことでも知られる。.

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稲畑勝太郎

畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。.

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純映画劇運動

純映画劇運動(じゅんえいがげきうんどう、別名:純映画運動、純粋映画劇運動)は、1918年(大正7年)から1923年(大正12年)頃にかけて起きた、日本映画界の革新運動である。帰山教正、谷崎潤一郎、小山内薫、田中栄三らが提唱。欧米映画を模範としつつ、女優の起用(女形の廃止)、字幕の使用(活動弁士の廃止)、自然な演技、物語内容の現代化、映画的技法の重視、演技・演出の写実化等を唱えて、歌舞伎や新派劇の影響を強く受けている従来の日本映画(活動写真)の刷新を図った。関東大震災の影響で運動は終焉したが、これにより日本映画界で女優の起用が一般化し、演出技術も発展、「活動写真」が「映画」へと変わる大きな転機となった。 運動の背景として、第一次世界大戦下に水準を高めた外国映画が輸入されたことや、大正デモクラシーといった社会状況などが挙げられ、これらの影響で古いスタイルの日本映画を批判する声が上がるようになった。 この運動を最初に提唱したのは帰山教正で、1917年(大正6年)に理論書『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)で、映画は演劇の模倣ではあってはならないと主張し、シナリオや女優の使用を唱えた。同書の冒頭には次のことが書かれている。 帰山は、理論を実践するために『生の輝き』と『深山の乙女』(1919年)を製作。両作に主演した花柳はるみが映画女優第1号となった。また、谷崎潤一郎は大正活映で『アマチュア倶楽部』(1920年、トーマス・栗原監督)を、小山内薫は松竹キネマ研究所で『路上の霊魂』(1921年、村田実監督)を製作してそれぞれ実践した。この3人の作品は外国映画を模倣していることが特徴的であり、革新性は認められたもののバタ臭さが目立ったため、興行的にも不振を極めてしまう。一方、田中栄三は『京屋襟店』(1922年)で日本人の生活を日本人の視点から写実的に描いており、その革新性で注目された。.

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甲陽キネマ

陽キネマ(こうよう-、1918年 - 1923年12月)は、かつて兵庫県西宮市に存在した映画会社である。阪神間のデヴェロッパー「甲陽土地」が切り開いた「甲陽園」に、施設の一部として建設された「甲陽撮影所」を最初に経営した会社として知られる。.

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牧野教育映画製作所

牧野教育映画製作所(まきのきょういくえいがせいさくしょ、1921年(大正10年)6月 設立 - 1924年(大正13年)改組)は、かつて京都に存在した日本の映画会社である。.

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直木三十五

木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年(明治24年)2月12日 - 1934年(昭和9年)2月24日)は、日本の小説家である。また脚本家、映画監督でもあった。現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。.

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花柳はるみ

花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。.

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衣笠貞之助

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名は小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 女形俳優から転身した映画監督で、新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督となった。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった佐藤2007、p.202。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。.

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衣笠映画聯盟

衣笠映画聯盟(きぬがさえいがれんめい、1926年4月 設立 - 1928年6月 解消)は、かつて存在した日本の映画製作プロダクションである。新字体表記衣笠映画連盟。衣笠貞之助が主宰した。.

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駒田好洋

駒田 好洋(こまだ こうよう、本名万次郎、まんじろう、明治10年(1877年)7月1日 - 昭和10年(1935年)8月11日)は、日本の活弁家、映画プロデューサーである。「日本率先活動大写真会」を名乗り、映画の興行をするばかりでなく、「日本初の商業公開用の映画」を製作し、さらに「日本初の劇映画」の製作も行ったことで知られる。.

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高田稔

(たかだ みのる、1899年〈明治32年〉12月20日 - 1977年〈昭和52年〉12月27日)は、大正・昭和期の俳優、映画プロデューサーである。本名同じ。旧芸名は高田 昇(たかだ のぼる)。妻は元女優の光喜三子。 無声映画・初期トーキー映画時代に松竹蒲田撮影所や新興キネマなどで活躍した二枚目スターである。初期は浅草オペラの舞台で活躍。戦後は東宝、テレビドラマなどで脇役として長く活躍した。.

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谷崎潤一郎

谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。 初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。.

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錦輝館

錦輝館(きんきかん、1891年10月9日 開業 - 1918年8月19日 焼失)は、かつて存在した日本の多目的会場である。1897年(明治30年)にヴァイタスコープによる東京で初めての映画上映が行われたことや、赤旗事件の舞台となったことでも知られる。後年は映画興行ばかりになり映画館として記憶される。.

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鈴木傳明

鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 1985年5月13日)は、日本の映画俳優、水泳選手。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら。 無声映画時代に活躍した現代劇の映画スターで、学生時代は水泳選手として活躍。明治大学在学中に『路上の霊魂』で映画デビューした。その後日活を経て松竹蒲田撮影所に入社、牛原虚彦監督とのコンビで『彼と東京』『陸の王者』『彼と人生』などの明朗な青春映画に主演し、スポーツマンタイプの二枚目スターとして人気を得た。戦後は実業界に転じた。.

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阪東妻三郎

阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。本名田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。.

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阪東妻三郎プロダクション

阪東妻三郎プロダクション(ばんどうつまさぶろう-、1925年9月 設立 - 1936年12月 解散)は、かつて京都、のちに千葉の東京湾岸に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優阪東妻三郎が設立した、日本初のスタープロダクションであり、また当時なにもなかった「太秦」の地に初めて撮影所を建設、130本以上の映画を製作した。1927年(昭和2年)に株式会社化、1931年(昭和6年)からの正式社名は大日本自由映画プロダクション(だいにっぽんじゆうえいが-)であった。.

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赤沢映画

赤沢映画(あかざわえいが、1931年 設立 - 1935年 活動停止)は、かつて存在した日本の映画会社である。北海道砂川市の興行師だった赤沢大助が設立し、無声映画あるいはサウンド版映画と2本のトーキーを製作・配給した。.

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連合映画芸術家協会

聯合映畫藝術家協會(れんごうえいがげいじゅつかきょうかい、大正14年(1925年)設立 -昭和2年(1927年) 解散)は、かつて奈良に存在した日本の映画会社である。小説家の直木三十五が設立し、マキノ・プロダクションから撮影所を提供されて映画を連作した。.

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J.O.スタヂオ

J.O.スタヂオ(ジェー・オー・スタヂオ、1933年 設立 - 1937年 合併)は、かつて昭和初期に京都に存在した日本の映画会社である。東宝の前身の一つ。京都の太秦蚕ノ社前(現大日本印刷太秦工場付近)に映画スタジオをもつ。本項ではその後身である東宝映画京都撮影所(1937年 - 1941年)についても記す。.

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M・パテー商会

M・パテー商会(エム・パテーしょうかい、1906年7月4日 - 1912年9月1日 合併)は、かつて東京に存在した日本の映画会社。日本最古の映画会社のひとつであり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。また、創業者の梅屋庄吉が香港時代に親友となった孫文を資金的に支援していたことも知られている。.

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東坊城恭長

東坊城 恭長(ひがしぼうじょう やすなが、1904年9月9日 - 1944年9月22日)は、日本の映画俳優、脚本家、映画監督である。正三位勲三等子爵、貴族院議員東坊城徳長の三男で、戦前の日活大将軍撮影所等で活躍した。実妹は同子爵の三女入江たか子、その長女で女優の入江若葉は姪に当たる。.

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東京市

東京市役所(東京府庁との合同庁舎) 東京市(とうきょうし)は、旧東京府(現東京都)東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市である。東京府の府庁所在地。最終的な市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。 東京市が存在していた時期以外の旧東京市地域の歴史については東京都の歴史を参照のこと。旧東京市地域の現状については東京都区部を参照のこと。.

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東亜キネマ

東亞キネマ株式會社(とうあキネマ、1923年 設立 - 1932年11月 買収)は、かつて存在した日本の映画会社である。兵庫県西宮市と京都府京都市に撮影所を持ち、大正末期から昭和初年にかけて、サイレント映画を製作・配給した。大正バブル期に金融資本の多角経営の一事業として出発。「日本映画の父」とよばれた牧野省三をはじめ、日本映画黎明期を代表する映画人を多く輩出した。.

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東邦映画製作所

東邦映画製作所(とうほうえいがせいさくじょ)は、大正末期の無声映画時代にかつて存在した大阪の映画製作会社である。.

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東活映画社

東活映画社(とうかつえいがしゃ、1931年 設立 - 1932年 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。1976~1991年に松竹系で約500本のピンク映画を製作配給した東活とは無関係である。.

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東洋商会

東洋商会(とうようしょうかい、1913年 設立 - 1914年 活動停止)は、大正初年の無声映画時代にかつて存在した大阪の映画会社である。東京・日暮里に「東洋商会東京日暮里撮影所」を持っていた。1909年(明治42年)に大阪初の映画製作を行った興行会社「三友倶楽部」を設立した山川吉太郎が、1913年設立した会社である。企業自体は短命に終わったが、翌1914年、「天然色活動写真」(天活)へと発展した。.

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松竹大船撮影所

松竹大船撮影所(しょうちくおおふなさつえいじょ)は1936年1月15日から2000年6月30日まで神奈川県鎌倉市大船にあった映画スタジオ。現代劇を担当していた。.

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松竹京都撮影所

松竹京都撮影所(しょうちくきょうとさつえいじょ)は、かつて大正から昭和にかけて京都市に存在した松竹キネマあるいは松竹が直営した日本の映画スタジオである。時代劇を製作していた。1923年(大正12年) - 1952年(昭和27年)には左京区の下加茂(下鴨宮崎町)、1952年(昭和27年) - 1965年(昭和40年)までは右京区の太秦(太秦堀ヶ内町)にあった#外部リンク欄の松竹京都撮影所(2008年設立)公式サイトの「松竹京都撮影所: 沿革」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。。 2008年(平成20年)、京都映画を源流とする企業「松竹京都映画株式会社」が「株式会社松竹京都撮影所」を新規に設立、太秦堀ヶ内町の同社の撮影所を「松竹京都撮影所」と改称した。ここでは、松竹キネマ/松竹直営の「松竹京都撮影所」についてのみ述べる。.

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松竹キネマ

松竹キネマ(しょうちく-).

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松竹蒲田撮影所

ニッセイアロマスクエア(松竹蒲田撮影所跡地に建つビルディング) 松竹蒲田撮影所(しょうちくかまたさつえいじょ、1920年6月開所 - 1936年1月15日閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期から戦前期にかけて、松竹キネマの現代劇映画のスタジオとして稼働。通称:松竹蒲田。 初期はハリウッドから技術者を招いたり、スター・システムを導入するなど日本映画黎明期をリードする撮影所となった。城戸四郎が撮影所長になってからは、通称:蒲田調と呼ばれる作品を連発し、一時代を築いた。小津安二郎や成瀬巳喜男、田中絹代、高峰秀子等の映画人を輩出し、国産初の本格的トーキー映画を生み出したのも同撮影所である。.

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横山運平

横山 運平(よこやま うんぺい、1881年1月1日 - 1967年4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演し、日本の俳優第1号として知られる。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。.

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横田商会

横田商會(よこたしょうかい、1903年6月 設立 - 1912年9月 合併)は、かつて京都に存在した日本の映画会社である。日本最古の映画会社のひとつであり、「日本映画の父」こと牧野省三に最初に映画製作を依頼した企業であり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。.

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正映マキノキネマ

正映マキノキネマ(しょうえいマキノキネマ、1932年2月 設立 - 同年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。高村正次と立花良介が「マキノ再興」を目指して、かつて牧野省三が建設した「御室撮影所」に設立したが、資金難で2か月で解散した。正映マキノプロダクション(しょうえいマキノプロダクション)とも呼ばれた。略称正映マキノ(しょうえいマキノ)。.

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歌舞伎座

歌舞伎座(かぶきざ)は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。 歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座、中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、p173。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある。 歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」が劇場を所有している。.

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河合映画製作社

河合映画製作社(かわいえいがせいさくしゃ)は、かつて昭和初期に存在した日本の映画会社である。.

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活動弁士

活動弁士(かつどうべんし)は、活動写真すなわち無声映画(サイレント映画)を上映中に、その内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者。活動写真を弁ずるというところから活動写真弁士(かつどうしゃしんべんし)と呼ばれる。略して活弁(かつべん)とも言うが、俗称である。無声映画期の活動弁士達は活弁と呼ばれることを酷く嫌った。単に弁士(べんし)ということも多い。関東圏では映画説明者、関西圏では映画解説者とも名乗っていた。 今日では活弁士(かつべんし)という呼び名も用いられている。史的には誤用であるが「活弁をする人」という意味を表現する上で分かり易く、今後は広く用いられる可能性が高い。NHKもこの用語を用いている。 いわゆる「ナレーター」の前身職の1つに当たる。.

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活動写真資料研究会

活動写真資料研究会(かつどうしゃしんしりょうけんきゅうかい、1919年 設立 - 1921年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、東京の映画製作集団である。労働運動家から映画興行師へと転身した高松豊次郎が設立し、無声映画を製作、興行した。.

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渡辺篤 (俳優)

渡辺 篤(わたなべ あつし、1898年4月9日 - 1977年2月27日)は、日本の俳優である。本名は渡辺 総一(わたなべ そういち)。青二プロダクションに所属していた。 浅草オペラを経て映画界に入り、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の一任者となった、新撰 芸能人物事典 明治〜平成、コトバンク、2014年12月22日閲覧。戦中は古川ロッパと行動を共にし、戦後は黒澤明監督作品に常連出演した。.

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清水定吉

清水 定吉(しみず さだきち、1837年 - 1887年9月)は、「日本初の拳銃強盗犯」として知られる明治時代の日本の元死刑囚である。また「日本初の劇映画」である『ピストル強盗清水定吉』(1899年)、および『清水定吉』(1930年)として映画化された映画作品のタイトル、および登場人物名である。.

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戎橋

戎橋(2017年) 戎橋(えびすばし)は、大阪市中央区の道頓堀川に架かる心斎橋筋・戎橋筋の橋、鴻池組施工。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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映画

映画(えいが)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも。 なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に映画と呼ばれている。.

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映画女優

映画女優(えいがじょゆう).

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映画プロデューサー

映画プロデューサー(えいがプロデューサー、film producer)は、映画を企画、立案し、作品にする総合責任者である。.

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映画スタジオ

映画スタジオ(えいがスタジオ)は、映画を製作するスタジオのことで、部屋・建物・建物群・サウンドステージ・事務所・倉庫・バックロットを含む。英語の:en:Movie studioは、映画の製作・宣伝・配給を手掛ける会社を指すこともある。.

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映画芸術協会

映画藝術協會(えいがげいじゅつきょうかい、1920年 設立 - 1924年 活動停止)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。「純粋劇映画運動」の創始者帰山教正が設立。 東宝争議(1946年 - 1948年)の末に山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らによって設立された「映画芸術協会」とは異なる。.

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浅野四郎

浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年『頗る非常! 怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞』p.144)は、日本の撮影技師。日本人で初めて活動写真(映画)を撮影した人物である。.

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新興キネマ

新興キネマ株式會社(しんこうキネマ)は、かつて第二次世界大戦前に存在した日本の映画会社である,,, 、法政大学大原社会問題研究所、2014年4月16日閲覧。、中央区八丁堀二丁目東町会、2010年1月23日閲覧。、中央区八丁堀二丁目東町会、2010年1月23日閲覧。。1931年(昭和6年)8月28日、帝国キネマ演芸を組織変更する形で設立、帝国キネマ太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)を引き継いで生産拠点とした。1935年(昭和10年)10月には、東京撮影所(現在の東映東京撮影所)を新設した筈見, p.179.

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日活

日活株式会社(にっかつ)は、日本の映画製作、配給会社である。 社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」の略称に由来する。.

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撮影技師

撮影技師(さつえいぎし、)とは、映画やテレビのカメラで動画を撮影をする者である。ビデオグラファー()とも呼ばれる。 撮影技師は照明やカメラワーク、レンズやフィルムの選択まで幅広く指示を出すことから、撮影現場の最高位・映画技師の右腕として重要な役割を持つ。 また、撮影技師と撮影監督は狭義では別の意味とされる。日本の撮影現場においては、撮影技師と照明技師というように分業制が取られているが、日本以外の国では一般的に撮影監督が照明も行い、分業ではない。撮影監督は英語でいうDirector of Photographyのことであり、アメリカを初めとする多くの国ではDirector of Photographyの下、撮影が行われている。 英語では"Cinematographer"(シネマトグラファー)や"Cameraman"(カメラマン)とも呼称されるが、日本のような写真家(写真用カメラでスチル撮影をする者:フォトグラファー、)は含まない。.

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11月17日

11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。 毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。.

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1896年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1899年

記載なし。

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1942年

記載なし。

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2月15日

2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。.

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6月20日

6月20日(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から171日目(閏年では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。誕生花はオトメギキョウ、クリ。.

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