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楚勇

索引 楚勇

楚勇は太平天国の乱の時期に活動した湖南省出身の郷勇である。楚軍・宝勇ともいう。.

43 関係: 劉坤一劉長佑南昌市合肥市大成国天地会太平天国の乱左宗棠広西省ヤオ族全州県団練石達開王ガイ運衡陽市西征 (太平天国)馮雲山貢生胡以晃郷勇蕭朝貴長沙市雷再浩李博李ゲン発桂林市武漢市江忠義江忠源江西省湘軍湘軍志湘江湖南省湖北省挙人新寧県曽国藩1847年1849年1852年1853年1854年

劉坤一

劉 坤一(りゅう こんいつ、Liu Kunyi、道光10年(1830年) - 光緒28年9月26日(1902年10月27日)は清末の軍人・官僚。字は硯荘。曽国藩・左宗棠の死後、張之洞と共に後期の洋務運動を指導した。.

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劉長佑

劉 長佑(りゅう ちょうゆう、Liu Changyou、1818年 - 1887年)は、清末の官僚。字は印渠。湖南省新寧出身。 咸豊2年(1852年)に友人の江忠源が創設した楚勇に加入した。江忠源が安徽省・江西省に太平天国との戦いに赴くのに従い、江忠源の死後も太平天国との死闘を繰り広げた。咸豊9年(1859年)、宝慶を包囲していた石達開軍を李続宜と共に破り、広西按察使に抜擢された。更に広西布政使となり、翌10年(1860年)には広西巡撫となった。在任中には綱紀を粛正し、水軍を興し、大成国軍を破り、商業を振興して税収を増加させた。 同治元年(1862年)、両広総督に就任したが、すぐに直隷総督に転任となり、捻軍や白蓮教徒との戦いにあたった。同治7年(1868年)に故郷に戻ったが、同治10年(1871年)に広東巡撫に起用され復帰、更に広西巡撫に移された。この頃からフランスのベトナム侵略が活発化しており警戒にあたった。光緒元年(1875年)に雲貴総督へ異動、在任中にはマーガリー事件が発生している。 光緒9年(1883年)に引退。死後、武慎の諡号を贈られた。著作に『劉武慎公遺書』がある。.

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南昌市

南昌市の衛星画像 南昌市の繁華街『勝利路』 南昌市(なんしょうし、、、)は中華人民共和国江西省の省都である。江西省の省人民政府が設置される江西省の政治・経済の中心。二千年の歴史を有し、国家歴史文化名城に指定されている。.

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合肥市

合肥市(ごうひし、がっぴし、合肥市、)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある。.

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大成国

大成国(だいせいこく)は清末の1855年から1864年まで存続した、天地会の蜂起軍が広西省に建立した政権である。1855年4月、広東省の天地会の首領の陳開と李文茂が軍勢4万を率いて広州を包囲したが攻略できず、千隻の船団を率いて広西省に入り、潯州府(現在の桂平市)を占拠し、大成国を建てた。潯州を秀京と改称し、年号を洪徳とし、貨幣を鋳造した。陳開は平潯王と称し、李文茂を平靖王に、梁培友を平東王に、区潤を平西王に、梁大昌を定北王に封じた。その後、邕州(現在の南寧市)・柳州に進軍し、長期にわたって清に対抗した。1861年、潯州が陥落し陳開は捕えられたが、戦闘は継続された。完全に壊滅したのは1864年である。.

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天地会

天地会(てんちかい、中:天地会、ピンイン:Tiāndìhuì、Tiandihui、Tian Di AssociationあるいはHeaven and Earth Society。欧米圏ではChinese Freemasons、又はFreemasons)は明末清初に民間で結成された秘密結社、これは対外には天地会と呼び、内部では洪門(洪.HUNGMUN)と呼ぶ。中国で明朝末期から清朝初期に興った秘密結社。 民の相互救済組織はやがて“反清復明”《清朝「女真族/満人」異民族支配を倒し明朝「漢民族」を復活させる》を主旨へと変わってゆく。.

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太平天国の乱

太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.

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左宗棠

左宗棠 左宗棠 左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。字は季高、湖南省湘陰県出身。老亮と号する。.

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広西省

広西省(こうせいしょう)は、かつて中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国広西チワン族自治区の大部分に相当する。.

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ヤオ族

ヤオ族(-ぞく、瑶(よう)族)は中国湖南省から雲南省、東南アジア北部の主に山地に広く住む少数民族である。.

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全州県

全州県(ぜんしゅうけん)は中華人民共和国広西チワン族自治区桂林市に位置する県。広西チワン族自治区の東北部に位置し、湖南省と接する。県人民政府の所在地は全州鎮。.

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団練

団練(だんれん)は、清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織である。19世紀初頭の白蓮教徒の乱では、正規軍の八旗や緑営の軍隊では鎮圧できず、清朝政府は地方の郷紳に臨時の軍隊の徴募を命じた。これらの軍隊を「郷勇」と呼ぶが、団練はこれらの軍隊の兵員の有力な供給元となった。郷勇は地方民兵組織の団連をもとに創設されてはいるが、あくまで清朝政府の名のもとに臨時に募られた政府の軍隊である。郷勇では湘軍、淮軍が有名である。.

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石達開

石 達開(せき たつかい、Shi Dakai、1831年 - 1863年6月25日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。 広西省貴県出身。チワン族との説もある。洪秀全が開いたキリスト教秘密結社拝上帝会に加入。1851年に金田蜂起がおこると左軍主将となり、翼王に封ぜられ、各地で戦功をたてた。 1853年の西征開始後、安徽省で政務にあたった。石達開は天朝田畝制度による土地改革を行う条件が整っていないと判断し、「旧に照らして徴税する」、すなわち従来通り地主が小作人から小作料を徴収して政府が地主から徴税を行うという政策をとった。これを「安慶改制」といい、その後の太平天国の占領地での基本方針となった。もっとも小作人の抗租運動について放置したため、地主は小作料を上げることができず、小作人の負担は軽減された。 1855年、江西省で曽国藩率いる湘軍に勝利をおさめ、南昌をのぞく江西省全域を占領した。 1856年、天京(南京)で北王韋昌輝が東王楊秀清の一党2万人を殺害したことを石達開が責めると、韋昌輝は石達開の家族を殺害した。石達開が城外に逃れて兵を集め、韋昌輝討伐を開始すると、洪秀全は韋を殺害した。この天京事変の結果、太平天国の官僚たちは石達開が政務を執ることを期待したが、洪秀全は石達開を疑い、兄の洪仁発・洪仁達を登用して牽制した。不安を感じた石達開は1857年に天京から離脱し、江西省、湖南省、広西省を転戦した。 石達開は四川省を根拠地にしようと考えていたが、彼の軍の中には天京に帰ることを望む者もいた。1860年、部将の彭大順・朱衣点らは天京への帰還を主張したが、石達開が聴かなかったため、彭大順・朱衣点・吉慶元は自分の部隊を率いて天京に出発した。この部隊は途中で清軍の攻撃を受けて、彭大順は戦死したが、朱衣点・吉慶元の部隊20万人は江西省で太平天国軍と合流した。 部隊の多くが離脱した後、石達開は広西省で数万人の兵を集め、1861年、10万余りの兵を率いて湖南省・湖北省を経て四川省東部に入った。四川の南方から長江を北上しようと何度も攻撃したが、清軍に阻まれた。そのため頼裕新に北上を、李福猷に東進を命じて清軍の兵力を分散させる作戦をとった。しかし1863年5月、大渡河で渡河に失敗し、清軍に退路を断たれ、20日余り包囲された。糧食が尽き、包囲の突破にも失敗して兵力を失ったため、6月13日に部下の命と引き換えに四川総督駱秉章に降伏し、部将の曽仕和・黄再忠・韋普成とともに成都で凌遅刑で処刑された。兵のうち、老弱の者と新兵は解散させられたが、二千人が殺害された。.

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王ガイ運

王 闓運(おう がいうん、Wang Kaiyun、1833年 - 1916年)。字は壬秋または壬父、号は湘綺。清末から中華民国にかけての儒学者。.

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衡陽市

衡陽市(こうよう-し)は中華人民共和国湖南省中南部に位置する湖南省第二の地級市。湘江とその支流の耒水、蒸水が合流する場所であり、京広線(北京~広州)と湘桂線(衡陽-友誼関)が交わる。古来、水陸両物流の中心地であった。五岳の一つである南岳衡山があり、衡陽とは衡山の南を意味する名である。.

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西征 (太平天国)

西征(せいせい)は、1853年に南京を占領して天京と改称した太平天国軍が、天京の守りを固めるために起こした軍事行動。北伐と同時に行われ、その後の太平天国に大きな影響を与えた。1860年から1861年にかけて第二次西征が行われ、李秀成と陳玉成が二手に分かれて武漢奪取を目指した。1862年に陳得才が陝西省に進軍したことを第三次西征ということがある。.

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馮雲山

馮 雲山(ふう うんざん、Feng Yunshan、1815年頃 - 1852年6月3日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から南王に封ぜられ、七千歳と称した。 広東省花県(現在の広州市花都区)出身。最も早い洪秀全の支持者で、拝上帝会の創始者のひとりである。1844年から洪秀全とともに広西省で布教活動を始めた。洪秀全が広東省に戻った後も、広西省に残り、紫荊・金田一帯で布教を続けた。楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開・秦日綱らが入会し、1847年、洪秀全が再び広西省に到着した時には、拝上帝会の規模は大きなものとなっていた。1848年に清朝の官憲に逮捕されるが、拝上帝会の信者が賄賂を渡すことで釈放された。その後も拝上帝会は発展を続け、1851年、金田蜂起の後、馮は後軍主将・南王に封ぜられた。太平天国の初期の官制・軍制・暦法は馮雲山が定めたという。1852年5月、全州攻略中に清軍の砲弾に当たって重傷を負い、全州が陥落した後の6月10日に死亡した。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:広州出身の人物 Category:1852年没.

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貢生

貢生(こうせい、満州語:silgasi)は明清両代に生員(秀才)の優秀な者で、国子監で学ぶことを許可された者を指す。明代には歳貢・選貢・恩貢・細貢があり、清代では恩貢(fulehun i silgasi)・抜貢(simnehe silgai)・副貢・歳貢・優貢(tukiyehe silgasi)・例貢があった。 明清代に、毎年あるいは3年ごとに各府学・州学・県学の中から生員を選抜して国子監に送った。これを歳貢と称したため、選抜された生員は貢生または歳貢生と呼ばれた。恩貢は皇帝の即位やその他の慶事があったときに「恩詔の年」として歳貢の枠外で行われた選抜である。抜貢は朝廷が特に優秀な生員を国子監に選抜する制度で、6年ごとに行われていたが、1742年以降は12年に一度となった。副貢とは副榜(郷試の補欠合格者)の中から選ばれた者を指す。例貢は金銭で貢生の資格を取得することである。清代の貢生はまた「明経」とも呼ばれた。 貢生のほかにも国子監には監生がいた。監生は試験によって国子監に入った者ではなく、多くは高官の子弟または功臣の子弟であった。恩監・蔭監・優監・例監の区分がある。 Category:科挙.

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胡以晃

胡 以晃(こ いこう、Hu Yihuang、1812年 - 1856年)は、太平天国の指導者の一人。 広西省平南出身。裕福な家に生まれ、武秀才となる。拝上帝会に入会後、家産を売って多額の寄付をしている。金田蜂起の後は、春官正丞相に任命された。1853年に太平天国が天京に都を定めた後、胡以晃と頼漢英は千隻余りの水軍と二万の陸兵を率いて西征に乗り出し、6月に安慶を再征服し、ついで江西省南昌を包囲したが攻略することはできなかった。そこで兵力を二分し胡以晃の軍は安徽省に侵攻し、翌年1月に廬州を陥落させ、安徽巡撫江忠源は自殺した。 1854年に胡以晃は豫王に封ぜられたが、1856年に江西で病死した。 Category:太平天国の人物 Category:貴港出身の人物 Category:1812年生 Category:1856年没.

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郷勇

郷勇(きょうゆう)は清代に臨時に召募された地方の武装補助部隊、すなわち義勇軍である。それぞれ大隊を形成し、勇営と称した。 郷勇の起源は清初めの郷兵にある。雍正8年(1730年)、オルタイが雲南省の烏蒙の反乱を鎮圧した時、郷兵を召募しているが、すぐに解散させている。つまり常設の軍隊ではなかったのである。その後の嘉慶年間の白蓮教徒の乱でも、郷勇は召募されている。地方有力者が郷鎮を盗賊等から自衛するために自発的に組織した武装集団の団練は、郷勇の有力な兵員の供給源となった。 咸豊2年(1852年)に曽国藩が創設した郷勇である湘勇は、後の湘軍に発展した。また咸豊11年(1861年)には李鴻章が後に淮軍となる郷勇を組織している。湘軍と淮軍は太平天国の乱と捻軍の反乱の鎮圧の主力となり、ついに清末には郷勇は陸軍に組み入れられるようになった。 中華民国期に入ると、軍閥が割拠し、土匪が横行するようになったため、地方の有力者たちは郷勇的な地方武装組織を保有した。 Category:清朝の軍事.

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蕭朝貴

蕭 朝貴(しょう ちょうき、Xiao Chaogui、1820年頃 - 1852年9月12日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から西王に封ぜられ、八千歳と称した。チワン族出身。 広西省武宣県河馬郷出身。拝上帝会加入後、1848年からイエスの託宣をする「天兄下凡」を行い、ヤハウェの託宣をする「天父下凡」を行う楊秀清とともに、拝上帝会の指導権を握った。1851年に拝上帝会が金田蜂起を行うと、前軍主将・西王に封ぜられた。多くの功績をたてたが、1852年9月の長沙攻略中に砲弾を受けて戦死した。 蕭朝貴の行った「天兄下凡」は拝上帝会の結束を固める効果をもたらしたが、楊秀清とともに拝上帝会の創立者の洪秀全と馮雲山から指導権を徐々に奪っていくことになり、後の太平天国の発展に大きな影響をもたらした。 Category:太平天国の人物 Category:来賓出身の人物 Category:1852年没 Category:チワン族 Category:戦死した人物.

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長沙市

長沙市(ちょうさし、、)は中華人民共和国湖南省の省都。古い歴史をもつ国家歴史文化名城であり、経済的にも湖南省の中心として発展している。株洲市・湘潭市とともに、中国の製造業の中心の一つである「長株潭都市群」を構成する。華中地域において、武漢に次いで2番目の大都市となる。.

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雷再浩

雷 再浩(らい さいこう、Lei Zaihao、? - 1847年)、清末のヤオ族の蜂起の指導者。 湖南省新寧出身。青蓮教に入信した。1847年、広西省全州の李世徳とともに「棒棒会」を結成して、10月に新寧で蜂起した。しかし新寧の挙人江忠源率いる団練に追われ、全州に逃れた。その後、梅渓口での戦いで清軍の守備李廷揚・把総馬瑞春らを戦死させた。11月になると清は湖南省・広西省の兵を派遣し、李世徳は西延の戦いで戦死した。雷再浩は再び新寧に退去し、12月に武岡攻略に向かうが、その途中に江忠源の伏兵に襲われ、捕らえられ処刑された。余党は李沅発の蜂起に参加して戦闘を継続した。.

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李博

李博.

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李ゲン発

李 沅発(り げんはつ、Li Yuanfa、? - 1850年)、清末の天地会の蜂起の指導者。 湖南省新寧出身で天地会に加入していた。1847年の雷再浩の蜂起に参加したが、失敗後は潜伏して再起をうかがっていた。1849年9月、楊倡実・李世英らと「把子会」を結成し、「劫富済貧」を唱えて11月に新寧で蜂起した。五営軍制を立てて「総大哥」を称し、辮髪をやめて服装を改めた。12月に清朝は新寧を包囲し、激戦の結果翌年1月に陥落した。李沅発は包囲を突破し、湖南省・広西省・貴州省の境界の20州県を転戦した。少数民族の参加を得て、勢いは大きく増した。清朝は湖南省・広西省・貴州省・湖北省の軍で攻撃し、李沅発は5月に新寧の金峰山によって抵抗した。6月、湖南提督向栄率いる清軍が金峰山を包囲し、李沅発は捕らえられ、北京で処刑された。.

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桂林市

漓江と象鼻山 観光名所である漓江から見た幻想的な風景 桂林市(けいりん-し)は中華人民共和国広西チワン族自治区に位置する地級市。カルスト地形でタワーカルストが林立し、絵のように美しい風景に恵まれ、世界的な観光地である。国家歴史文化名城。 桂林の岩溶研究所をかつて著名な英国のカルスト地形学者Marjorie Sweetingが訪れた際、もしもここの石灰岩地形が最初に研究されていたなら、カルストに代わってグイリン(桂林)という語が生まれていたことだろうと語ったという(同研究所所長袁道先博士談; カルスト地形#語源を参照)。.

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武漢市

武漢市(ぶかんし/ウーハンし、中国語:武汉市、武漢語:/u˦˨xan˧˥si˧˥/、、英語:Wuhan City)は、中華人民共和国の中部、湖北省の東部、長江とその最大の支流漢江の合流点に位置する都市である。中国中部地方及び長江中流域唯一のメガシティで、湖北省の省都および華中地方唯一の副省級市でもある。また、中国有数の工業都市、文教都市及び交通要衝でもある。市の総面積は8569.15㎞2であり、人口は1089.29万人である。市政府の所在地は江岸区沿江大道188号。.

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江忠義

江 忠義(こう ちゅうぎ、Jiang Zhongyi、1835年 - 1864年)、清末の官僚・軍人。字は味根。湖南省新寧出身。江忠源の従兄弟。 咸豊2年(1852年)、江忠源が楚勇を率いて太平天国軍の攻撃を受けていた長沙に救援に赴くと、江忠義もそれに従い、湖北省・江西省を転戦した。咸豊4年(1854年)に江忠源が廬州で戦死すると、その軍の一部を吸収した。翌5年(1855年)、提督の和春に従って廬州を奪回すると、知県に抜擢された。 咸豊7年(1857年)に劉長佑が江西省の臨江で危機に陥ると郷勇1000人を率いて救援に赴き、太平天国の翼王石達開軍を破り、知府に昇進した。翌8年(1858年)、江西省を平定して湖南省に戻り、咸豊9年(1859年)に石達開が永州を攻撃すると、応援に駆けつけて石達開を破り、功績で道員に昇進した。更に宝慶・広西省全州を転戦し、貴州巡撫に抜擢された。 同治元年(1862年)、貴州省の姜映芳率いるトン族の蜂起を鎮圧し、貴州提督に転任、更に広西提督に異動し、張高友の蜂起軍を破った。同治2年(1863年)に再び江西省の応援に行き、湖口を攻め、太平天国の堵王黄文金を破った後、安徽省南部で寧国・太平などを奪回した。しかし病にかかり、医者に診てもらいに南昌に赴く途中で死去した。誠恪の諡号が贈られた。.

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江忠源

江 忠源(こう ちゅうげん、Jiang Zhongyuan、1812年 - 1854年1月14日)は、清の官僚。字は岷樵。湘軍の初期の指揮官。従兄弟に江忠義がいる。湖南省新寧出身。 道光17年(1837年)に挙人となる。団練を組織して郷里の民衆に軍事教練を行い、雷再浩の反乱を鎮圧した功績で知県に抜擢された。 咸豊元年(1851年)、太平天国が金田蜂起を行うと、広西省に鎮圧に向かった欽差大臣サイシャンガ(賽尚阿)の軍に義勇軍500名を率いて参加した。江忠源はこれを「楚勇」と名付けた。翌2年(1852年)に1000名増員し、全州の北の蓑衣渡で太平天国軍を破り、南王馮雲山を戦死させた。そのまま太平天国軍を追撃して、長沙防衛を支援した。咸豊3年(1853年)に湖北按察使に任命、湖広総督の張亮基からは軍事をことごとく任されていたが、その評判が咸豊帝に聞こえ、江南大営の指揮を命じられた。江南大営では軍紀を厳格にし、信賞必罰を旨とした。 太平天国軍が西征を開始して南昌を攻撃すると、江西巡撫張芾の求めに応じて援軍に赴き、太平天国軍を撃退した。10月、この功で安徽巡撫に昇進。11月に武漢に到着すると湖北巡撫崇綸の命令で武昌に楚勇の半分の1000を残し、更に六安で残りの半分の500を残した。12月に手勢わずか500で廬州に入ったが、年が明けた咸豊4年(1854年)1月14日、廬州は胡以晃率いる太平天国軍に包囲され、廬州知府胡元煒が敵に内応して城門を開き廬州は陥落。江忠源は投水自殺した。江忠源と親しかった曽国藩は安徽に赴任していた弟子の李鴻章を推挙していたが、江忠源の自殺で叶わずに終わった。 死後、忠烈の諡号が贈られた。著作に『江忠烈公遺集』がある。.

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江西省

江西省(こうせいしょう、江西省、、Jiangxi)は、中華人民共和国中部、長江南岸に位置する内陸部の省。省都は南昌市。.

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湘軍

湘軍(しょうぐん)は、清末の湖南地方の軍の呼称で、湘勇ともいう。太平天国の乱を清朝の正規軍(八旗・緑営)は鎮圧できず、やむを得ず清朝政府の命により各地の郷紳に臨時の軍隊を組織させた。これを郷勇と呼び湘軍はその一つであった。.

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湘軍志

『湘軍志』は曽国藩率いる湘軍の歴史を記した紀事本末体の歴史書。王闓運著。 王闓運は湘軍の将帥たちと交流があったため、曽国藩の長男の曽紀沢は彼に『湘軍志』の編纂を要請した。1877年に編纂が開始され、1881年に完成した。湖南防守編、曽軍編、湖北編、江西編、曽軍後編、水師編、浙江編、江西後編、臨淮編、援江西編、援広西編、援貴州編、川陝編、平捻編、営制編、籌餉編の十六編からなる。王闓運は「湘軍は派閥に分かれていたため、派閥内の上司と部下との関係が親しかった」「湘軍は上下の関係が強かったため、将が死ぬとその部隊は解散し、将が生き残ると部隊は存続した」などと評論している。 しかし『湘軍志』は曽国藩の弟の曽国荃によって、曽国藩と湘軍を軽侮するものとして、版木を破壊された。後に成都尊経書院の学生によって復刻された。 Category:中国の歴史書 Category:紀事本末体 Category:清朝 Category:1880年代の書籍.

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湘江

湘江(しょうこう、Xiang River、)、あるいは湘水(しょうすい)は、中華人民共和国を流れる大きな川の一つで、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流。湖南省最大の川であり、湖南省の別名・「湘」(しょう)はこの川に由来する。長さは856km。.

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湖南省

湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.

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湖北省

湖北省(こほくしょう、フーペイしょう、中国語:湖北省、拼音:Húběi Shěng、英語:Hubei Province)は、中華人民共和国中部地方にある第一級行政区画である。揚子江中流域に位置し、洞庭湖以北にあるため、「湖北」と言う名称がつけられた。略称は鄂、楚、荊で、荊楚とも呼ばれる。省都は武漢市である。.

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挙人

挙人(きょじん、満州語:tukiyesi)は中華圏の人材登用に関する称号。時代によって概念が異なる。.

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新寧県

新寧県(しんねい-けん)は中国湖南省邵陽市に位置する県。.

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曽国藩

曽 国藩(そう こくはん、、嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))は、中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。.

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1847年

記載なし。

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1849年

記載なし。

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1852年

記載なし。

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1853年

記載なし。

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1854年

記載なし。

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