Google PlayストアでUnionpediaアプリを復元するために作業中です
出ていきます入ってきます
🌟ナビゲーションを改善するためにデザインを簡素化しました!
Instagram Facebook X LinkedIn
あなたのロゴとドメインを持つ独自のユニオンペディア、月額9.99 USDから
私のユニオンペディアを作成する

張敖

索引 張敖

張 敖(ちょう ごう、? - 紀元前182年)は、秦末から前漢初期にかけての人。趙王張耳の子で、高祖劉邦の娘婿。子は楽昌侯張寿・信都侯張侈・南宮侯張偃ら。娘は恵帝の皇后張氏。

目次

  1. 45 関係: 劉邦劉長丞相張皇后 (漢恵帝)張耳彭越匈奴列侯周勃呂雉呉芮前漢皇后皇帝班固章邯紀元前180年紀元前182年紀元前187年紀元前191年紀元前198年紀元前199年紀元前200年紀元前202年韓信韓王信項羽魯元公主趙姫 (前漢)趙郡趙歇開封市蔡賜鉅鹿県英布陳平陳余陳勝柱国恵帝 (漢)李良武臣漢書

  2. 182年没
  3. 秦代の人物

劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖(たいそ)、諡号が高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。

見る 張敖と劉邦

劉長

劉 長(りゅう ちょう、紀元前199年 - 紀元前174年)は、前漢の人。漢の高祖劉邦の第7子。『淮南子』で有名な劉安の父である。

見る 張敖と劉長

丞相

丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。

見る 張敖と丞相

張皇后 (漢恵帝)

張皇后(ちょうこうごう)は、前漢の恵帝の皇后。父は趙王にも一時封じられていた宣平侯張敖。母は高祖劉邦と呂后の娘で恵帝の同母姉である魯元公主。名は不詳だが、嫣という説もある。これは清の時代の香艶叢書「老狐談歴代麗人記」で明の懿安皇后張氏と混同された作り名のにおいが強い。

見る 張敖と張皇后 (漢恵帝)

張耳

張 耳(ちょう じ、拼音:Zhāng ěr、? - 紀元前202年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び趙王。

見る 張敖と張耳

彭越

彭 越(ほう えつ、? - 紀元前196年)は、中国秦末から楚漢戦争期・前漢初期の武将。字は仲。秦末の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。唐の史館が選んだ中国史上六十四名将に選ばれている(武廟六十四将)。

見る 張敖と彭越

匈奴

匈奴(きょうど、、、英:Xiongnu)は、古代中国の文献によると、紀元前3世紀から紀元1世紀後半まで、東部のユーラシア・ステップに住んでいた遊牧民の部族連合体である。紀元前209年以降、最高指導者であった冒頓単于が匈奴帝国を建国したと中国の文献に記されている。 紀元前2世紀、それまでのライバルであった月氏が西の中央アジアに移住すると、匈奴はモンゴル高原を中心とした東アジアのステップ地帯で圧倒的な勢力を持つようになった。匈奴は、現在のシベリア、内モンゴル、甘粛、新疆などでも活動した。東南に隣接する中国の王朝との関係も複雑で、平和な時代、戦争、隷属の時代とさまざまな時代を繰り返した。その結果、匈奴は漢に敗れ、連合体は二つに分裂し、多くの匈奴が漢の国境内に強制的に移住させられた。

見る 張敖と匈奴

列侯

列侯(れっこう)は、古代中国、前漢や後漢における爵位の一つ。

見る 張敖と列侯

周勃

周 勃(しゅう ぼつ、? - 紀元前169年)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将・政治家。子は世子の周勝之・条侯周亜夫・平曲侯周堅らがいる。爵位は絳侯。諡号は武侯。

見る 張敖と周勃

呂雉

呂 雉(りょ ち)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。諡は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となる。現代では呂后と呼ばれることが最も多いが、他に呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

見る 張敖と呂雉

呉芮

呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年)は、秦末から前漢にかけての群雄。初代長沙王(在位:紀元前202年)で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うし子孫に王位を伝え、長沙王はその中で最も長く続いた王となった。

見る 張敖と呉芮

前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。西漢(せいかん)とも呼ばれる。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。

見る 張敖と前漢

皇后

皇后(こうごう、Empress)、王后(おうごう、Queen)は、皇帝・天皇・国王の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇・皇帝・国王の複数の妻のうち最上位の者となる。

見る 張敖と皇后

皇帝

皇帝(こうてい、isbn, the King、Kaiser、imperator、царь、Βασιλεὺς βασιλέων、皇帝)は、帝国君主の総称。王の中の王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や模倣・僭称も存在し、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝」・「宇宙で唯一の正当な王者」・「全人類の皇帝」のみであるとされている。 キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義と融合し国教化していった歴史から大きく影響されている。ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動やプロパガンダが活発化しており、大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義(新オスマン帝国主義)と同調している。

見る 張敖と皇帝

班固

班固 班 固(はん こ、32年(建武8年) - 92年(永元4年))は、中国後漢初期の歴史家・文学者。字は孟堅。父は班彪。班超・班昭の兄。の伯父。『漢書』の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。

見る 張敖と班固

秦(しん、、紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の姓は、氏は趙この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。生,旁皋生,太幾生大駱,大駱生非子。以之寵,皆蒙趙城,姓趙氏。

見る 張敖と秦

章邯

章 邯(しょう かん、、? - 紀元前205年)は、秦の将軍。雍王。三秦の一人。弟に章平『史記索隠』では子と記されている。 がいる。

見る 張敖と章邯

紀元前180年

紀元前180年(きげんぜん180ねん)は、ローマ暦の年である。

見る 張敖と紀元前180年

紀元前182年

紀元前182年(きげんぜん182ねん)は、ローマ暦の年である。

見る 張敖と紀元前182年

紀元前187年

紀元前187年(きげんぜん187ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元567年、マルクス・アエミリウス・レピドゥスとガイウス・フラミニウスが執政官の年。

見る 張敖と紀元前187年

紀元前191年

紀元前191年(きげんぜん191ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元563年、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカとマニウス・アキリウス・グラブリオが執政官の年。

見る 張敖と紀元前191年

紀元前198年

紀元前198年(きげんぜん198ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元556年、セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥスとティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが執政官の年。

見る 張敖と紀元前198年

紀元前199年

紀元前199年(きげんぜん199ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元555年、ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとプブリウス・ウィッリウス・タップルスの年。

見る 張敖と紀元前199年

紀元前200年

紀元前200年(きげんぜん200ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元554年、プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスとガイウス・アウレリウス・コッタの年。

見る 張敖と紀元前200年

紀元前202年

紀元前202年(きげんぜん202ねん)。

見る 張敖と紀元前202年

韓信

韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。。---> なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。

見る 張敖と韓信

韓王信

韓 信(かん しん、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。楚漢戦争期の韓王。姓は姫で氏が韓、諱が信である。身長8尺5寸(約195cm)であった。 なお、漢の三傑の一人で同姓同名である韓信との区別のため、韓王信(かんおう しん)と呼称されており、本項も準じる。

見る 張敖と韓王信

項羽

項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽の名で記す。 秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時西楚の覇王(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。 項羽は中国の歴史上最も勇猛といわれる将で、史家李晚芳は「羽之神勇、万古無二」といい、「覇王」という言葉は通常項羽を指す。

見る 張敖と項羽

、あるいはは、漢字文化圏において、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

見る 張敖と諡

魯元公主

魯元公主(ろげんこうしゅ、? - 紀元前187年)は、漢の高祖劉邦の長女。生母は呂雉。恵帝(劉盈)は同母弟にあたる。小説等では“魯元”を名前とされることが多いが、本来は、魯・元公主とされるのが正しく、「魯に化粧領を与えられた皇帝の長女」を意味する称号である。本名は不詳である。張耳の息子である張敖との間に張偃および恵帝の皇后張氏がいる。

見る 張敖と魯元公主

趙姫 (前漢)

趙姫(ちょうき、紀元前3世紀? - 紀元前198年)は、前漢の女性。姓および諱は共に不明。

見る 張敖と趙姫 (前漢)

趙郡

趙郡(ちょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の河北省邯鄲市一帯に設置された。

見る 張敖と趙郡

趙歇

趙 歇(ちょう あつ/ちょう けつ、拼音:Zhao Xie、? - 紀元前205年)は、中国の戦国時代から秦滅亡後にかけての人物。戦国時代に王号を称した趙の公族の末裔であり、陳勝・呉広の乱による秦朝の動乱に際して、趙王に擁立された。

見る 張敖と趙歇

開封市

開封市(かいほうし、)は、中華人民共和国の河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、歴史上幾度も首都(戦国魏、北宋等で)とされた。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。 長安、安陽、臨安、金陵、燕京、洛陽(表記)とともに六大古都とよばれた時代があった。

見る 張敖と開封市

蔡賜

蔡 賜(さい し、? - 紀元前208年)は、陳勝・呉広の乱を起こした陳勝に仕えた政治家。房君とも呼ばれた。陳勝を補佐して秦と戦ったが敗死した。

見る 張敖と蔡賜

鉅鹿県

鉅鹿県(きょろく-けん)は、中華人民共和国河北省にかつて存在した県。現在の邢台市平郷県南西部に相当する。巨鹿県とも表記される。 戦国時代には趙の領域であり、秦代になり現在の平郷県南西部に設置され、鉅鹿郡の郡治とされた。南北朝時代、北斉により廃止された。 秦末の騒乱時にはこの地で項羽と章邯の一大決戦が行われ(鉅鹿の戦い)、この戦いで章邯が敗れた事により秦の滅亡が決定付けられた。後漢末にはここから張角が太平道を起こし拠点を置いた。 隋代から現在にかけて河北省に鉅鹿県が存在するが、これは別県(漢代の鉅鹿郡南䜌県)である。 きよろく Category:邢台の歴史。

見る 張敖と鉅鹿県

英布

英 布(えい ふ、、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将・政治家。通称黥布(げいふ、)。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。六(りく、現在の安徽省六安市)の出身。

見る 張敖と英布

陳平

陳 平(ちん ぺい、、? - 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。 当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂后亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。

見る 張敖と陳平

陳余

陳 余(旧字:陳餘、ちん よ、拼音:Chén Yú、? - 紀元前205年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び代王。

見る 張敖と陳余

陳勝

陳 勝(ちん しょう、Chén Shèng、? - 紀元前208年)は、秦代末期の反乱指導者。張楚の君主。劉邦や項羽に先んじて呉広とともに秦に対する反乱を起こしたが、秦の討伐軍に攻められて敗死した。字が渉。諡号は隠王。

見る 張敖と陳勝

柱国

柱国(ちゅうこく)は、古代中国で用いられていた称号・官職の一つ。 柱国の上位にあたるについても合わせて説明する。 戦国時代に楚において勲功をあげた将軍に対して、「柱国」・「上柱国」の称号を授けたのが由来とされる。その後、更始帝に仕えた李通(『後漢書』李通伝)や後燕の翟檀(『晋書』慕容垂伝)、北魏の長孫嵩(『魏書』長孫嵩伝)に称号の「柱国」と官職の「将軍」を組み合わせた「柱国大将軍」を授けているが、あくまでも雑号将軍の一つとしての位置づけであった。 その位置づけが大きく変わるのは、北魏後期の孝荘帝の時代に柱国大将軍が丞相よりも上位の地位として位置づけられてからで、孝荘帝を擁立した爾朱栄がその功績によって大将軍から柱国大将軍に進められた。その後、東魏の権力を握った高歓や西魏の権力を握った宇文泰に与えられた。その後、宇文泰は有力な将軍である7名にも自分と同じ柱国大将軍の地位を与えたことから、この8名の将軍は「八柱国」と呼ばれた(ただし、実数については異説もある)。八柱国は西魏 - 北周へと続く軍事門閥の基礎となっていくが、反面北周の成立後には柱国大将軍が八柱国以外の多数の将軍にも与えられた事によって散官化が進み、575年(建徳4年)には柱国大将軍の上位として上柱国大将軍が置かれた。

見る 張敖と柱国

恵帝 (漢)

恵帝(けいてい)は、前漢の第2代皇帝。諱は劉盈(りゅう えい)。生年は紀元前210年、紀元前213年の2説がある。

見る 張敖と恵帝 (漢)

李良

李 良(り りょう、生没年不詳)は、秦末の武将。 秦から降伏した武臣配下の将軍であったが、武臣を殺害して、秦に降伏した。

見る 張敖と李良

武臣

武 臣(ぶ しん、? - 紀元前208年)は、秦末の武将。陳勝配下の将軍で、武信君 と称し、後に趙王となるが、配下の李良に殺された。

見る 張敖と武臣

漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。

見る 張敖と漢書

参考情報

182年没

秦代の人物

成都君 別名。