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岩城隆彰

索引 岩城隆彰

岩城 隆彰(いわき たかあき)は、出羽国亀田藩13代(最後の)藩主。維新後は亀田藩知事。 文久3年(1863年)10月8日、近江国宮川藩主・堀田正誠の三男として生まれる。明治元年(1868年)12月7日、戊辰戦争で新政府軍と交戦したため隠居を命じられていた12代藩主・岩城隆邦には、子はおらず他家に養子を求めざるを得なかった。隆邦の実弟・堀田正養は、堀田正誠の婿養子となり宮川藩主となっていたが、正誠没後に実子である隆彰が生まれた。そうした縁から、隆彰が堀田家から岩城家に養子入りした。 明治2年(1869年)3月13日、隆彰は養父・隆邦の隠居により、家督を継いで13代藩主となる。6月22日、亀田藩知事に任命されて、7月5日に領地に赴任する許可を得る。8月5日には、従五位に叙任された。明治4年(1871年)7月廃藩置県により、藩知事を免官された。同年9月24日には、明治天皇に拝謁した。 明治12年(1879年)10月15日、死去。享年17。正室・子女共になく、岩城家の家督は養父・隆邦の長男・隆治が相続した。 たかあき Category:堀田氏 *13 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1863年生 Category:1879年没.

32 関係: 堀田正養堀田正誠堀田氏岩城隆徳岩城隆邦岩城隆長岩城氏亀田藩廃藩置県従五位出羽国知藩事近江宮川藩近江国戊辰戦争明治明治天皇文久10月15日10月8日 (旧暦)11月18日12月7日1863年1868年1869年1871年1879年3月13日6月22日7月5日8月5日9月24日

堀田正養

堀田 正養(ほった まさやす、嘉永元年2月28日(1848年4月1日)- 明治44年(1911年)5月9日)は、近江宮川藩の第9代(最後)の藩主。堀田家宗家11代。 出羽亀田藩主・岩城隆喜の九男。正室は堀田正誠の娘。子は錫(堀田正亨正室)、娘(五島盛光正室)。幼名は三四郎、駒之助。官位は従五位下、正五位、従四位、正四位、従三位。豊前守、出羽守、豊前守。.

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堀田正誠

堀田 正誠(ほった まさみ、文政7年(1824年)- 文久3年5月12日(1863年6月27日))は、近江宮川藩の第8代藩主。堀田家宗家10代。 4,260石を領した大身旗本・本多助信の次男。母は堀田正穀の娘。正室は中津藩主・奥平昌高の娘。継室は福江藩主・五島盛成の娘。子に岩城隆彰(三男)、娘(堀田正養正室)。官位は従五位下、豊前守、加賀守。 天保12年(1841年)9月25日、養父正義の死去により家督を継ぐ。正誠は第5代藩主・正穀の外孫であった。同年10月15日、将軍・徳川家慶に拝謁する。天保13年10月29日、従五位下豊前守に叙任する。弘化4年(1847年)2月9日、大坂加番を命じられる。嘉永6年(1853年)7月20日、大番頭に就任する。嘉永7年1月15日、奏者番に就任する。文久2年(1862年)10月10日、再び大番頭に就任する。文久3年5月12日、40歳で死去し、跡を婿養子の正養が継いだ。 まさみ Category:本多氏 *08 Category:幕末の大名 Category:1824年生 Category:1863年没.

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堀田氏

堀田氏(ほったし)は、日本の氏族。.

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岩城隆徳

岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日『平成新修旧華族家系大成』上巻、206-208頁。『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』36頁では9月28日。)は、大正・昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。.

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岩城隆邦

岩城 隆邦(いわき たかくに)は、江戸時代末期の大名。出羽国亀田藩12代藩主。 天保15年(1844年)4月13日、8代藩主・岩城隆喜の七男として生まれる。はじめ外叔父・真田秀八郎(岩城隆謨)の養嗣子となっていた。文久元年(1861年)10月16日、兄で11代藩主・隆政の死去により、末期養子として家督を継いだ。最後の亀田藩主は、厳密には岩城隆彰だが、一般的には隆邦とされている。12月15日、江戸幕府14代将軍・徳川家茂に御目見し、12月28日に従五位下・左京大夫に叙位・任官する。 慶応4年(1868年)4月1日、明治新政府の命令に従って上洛し、明治天皇に拝謁する。同年閏4月13日、明治新政府から亀田へ帰国の許可を得る。閏4月16日京都を出発、5月25日亀田に到着する。戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加したが、同年7月、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩と共に同盟を脱退し、新政府に与した。その後、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘、亀田を見捨て、秋田まで退却した。このために8月8日、庄内藩の説得に応じて和議を結び、庄内軍と共に再び奥羽越列藩同盟として新政府軍と交戦した。しかし9月9日、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、降伏した。小藩のため、主体的な行動を取ることは不可能であった。 明治元年(1868年)12月7日、最終的に新政府の敵となったため、亀田藩は2,000石の減封となり、隆邦は隠居を命じられた。隆邦は江戸の菩提寺・総泉寺で謹慎した。この時、隆邦にはまだ子が無かったため、親族の堀田家から隆彰(近江宮川藩主・堀田正誠の三男)を養子に迎え、岩城家を相続させることを許可された。明治3年(1870年)4月4日、亀田藩知藩事になっていた隆彰の後見人に任命されたが、7月12日に廃藩置県のため免職された。 その後、岩城家の家督は隆邦の長男・隆治、次いで三男・隆長が相続したが、明治41年(1908年)12月に隆長が隠居したため、隆邦が再び当主に就いた。それに伴い子爵となった。明治44年(1911年)2月18日、東京で死去。享年68。養子の隆徳(子爵・青山幸宜の四男)が跡を継いだ。 たかくに *12 Category:幕末の大名 Category:日本の子爵 Category:1844年生 Category:1911年没.

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岩城隆長

岩城 隆長(いわき たかつね)は、日本の華族(子爵)。 1877年(明治10年)、元出羽亀田藩主・岩城隆邦の三男として生まれる。妻は南部信方の長女信(離婚)。1889年(明治22年)、兄・岩城隆治が夭折したため家督を継いで子爵となる。1891年(明治24年)7月、学習院初等学科を卒業。1905年(明治38年)、玉川電気鉄道の理事になる。1906年(明治39年)、東洋製糖会社や東京豚業株式会社の設立計画に参加する。その後、活発な起業活動が災いし、投資で詐欺に遭い、財産を失って岩城家没落のきっかけを作る。1908年(明治41年)12月に隠居し、父・隆邦に家督を譲った。明治42年(1909年)11月、父隆邦の申請により、法的に廃嫡となる。 その後、隆長は1945年(昭和20年)11月に69歳で死去した。.

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岩城氏

岩城氏(いわきし)は、日本の氏族。常陸平氏の庶流と称した「海道平氏」の嫡流ともいわれる。.

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亀田藩

亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城氏。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

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近江宮川藩

近江宮川藩(おうみみやがわはん)は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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10月15日

10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。.

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10月8日 (旧暦)

旧暦10月8日(きゅうれきじゅうがつようか)は、旧暦10月の8日目である。六曜は大安である。.

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11月18日

11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。.

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12月7日

12月7日(じゅうにがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。.

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1863年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1879年

記載なし。

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3月13日

3月13日(さんがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から72日目(閏年では73日目)にあたり、年末まであと293日ある。.

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6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。誕生花はスイカズラ、アマリリス。.

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7月5日

7月5日(しちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日ある。誕生花はアンスリウム、ロベリア。.

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8月5日

8月5日(はちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から217日目(閏年では218日目)にあたり、年末まであと148日ある。.

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9月24日

9月24日(くがつにじゅうよっか、くがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から267日目(閏年では268日目)にあたり、年末まであと98日ある。.

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