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宇都宮懐久

索引 宇都宮懐久

宇都宮 懐久(うつのみや かねひさ)は、南北朝時代の武将。 懐久は祖父宇都宮貞泰や父貞久・叔父貞邦と共に、宮方(南朝)の懐良親王に従い伊予国から豊前国仲津に移ったが、同族の豊前宇都宮氏が北朝方であったため、懐良親王と南朝方の菊池氏の本拠地の肥後国八代に移る。 正平14年/延文4年(1359年)、懐久は父や叔父と共に筑後川の戦いで懐良親王の軍勢の武将として戦い、懐久と貞邦は討ち死にを遂げた。.

44 関係: 城井氏南北朝時代 (日本)南朝 (日本)壱岐国宇都宮冬綱宇都宮公綱宇都宮義綱宇都宮頼綱宇都宮豊房宇都宮貞久宇都宮貞綱宇都宮貞邦宇都宮貞泰宇都宮資綱宇都宮業綱宇都宮氏宇都宮泰宗宇都宮泰綱宇都宮朝綱宇都宮景綱下野宇都宮氏延文伊予宇都宮氏伊予国八田宗綱国司筑後宇都宮氏筑後川の戦い菊池氏豊前国藤原宗円藤原北家藤原兼綱藤原兼隆藤原兼房 (中宮亮)藤原道兼蒲池久憲肥後国正平 (日本)武将懐良親王1359年7月19日 (旧暦)8月13日

城井氏

城井氏(きいし/きいうじ)は、日本の氏族の一つ。豊前宇都宮氏とも言い、中世には豊前国城井郷の大身領主であった。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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壱岐国

壱岐国(いきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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宇都宮冬綱

宇都宮 冬綱(うつのみや ふゆつな)は、南北朝時代の武将。城井氏7代当主。.

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宇都宮公綱

宇都宮 公綱(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。 楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。.

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宇都宮義綱

宇都宮 義綱(うつのみや よしつな、慶長3年(1598年) - 寛文4年4月2日(1664年4月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。宇都宮国綱の嫡男。母は佐竹義重の養女(佐竹義久の娘)。弥三郎。子に宇都宮隆綱、板倉重大(板倉勝重三男)室。 下野国の大名であった父の国綱は、豊臣秀吉の命により突如改易され備前国の宇喜多秀家預かりとなった。その後、秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣したが、秀吉の死により再興はかなわなかった。諸国を流浪の末に江戸浅草の石浜で病死した。 義綱は、成人したのちの寛永年間に召しだされ、水戸藩家臣となり、高家格百人扶持を賜った。家督は隆綱が継ぎ、1,000石を賜り、子孫は明治維新まで水戸藩に仕えた。.

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宇都宮頼綱

宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。.

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宇都宮豊房

宇都宮 豊房(うつのみや とよふさ、永仁元年(1293年) - 正平24年8月18日(1369年9月19日))は、伊予宇都宮氏の初代。豊前宇都宮氏第6代宇都宮頼房の次男。位階は従四位下。本姓は藤原氏。 藤原鎌足より15代目の末えいにあたる藤原宗円は康平6年(1063年)に下野国宇都宮城の初代城主となり、以後その子孫を宇都宮氏と称した。 宗円の孫、宇都宮宗房系は代々豊後国城井城主となり5代目宇都宮頼房の次男、宇都宮豊房は永仁元年(1293年)に生まれる。豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職(現在の知事に当たる)に任ぜられ、翌年大洲に入り、大洲の地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)を築城して初代城主になり、伊予宇都宮氏の本城とした。豊房公は地蔵ヶ嶽城築城の時、城の鬼門に当たる五郎村に、その城の堅固なことを祈願して「城を願う寺」として城願寺と命名、1331年(元弘元年)に建立し、宇都宮家の菩提寺とした。 ちなみに、豊房公が地蔵ヶ嶽城築城のおり、城の下手の高石垣が何度積んでもすぐに崩れた。不思議に思った人々は「これは、神さまのたたりにちがいない」と言いふらすようになり、そのうわさはどんどん広まっていった。それで、石がきの下に人柱を立てることになった。しかし、自分から進んで人柱に立とうと言う人はいなかった。そこでくじ引きで人柱になる者を決めることになり、そのくじに当たったのが「おひじ」といううら若き娘であった。家族の悲しみはひととおりではなかった。豊房公は気の毒に思い、「何か言い残すことはないか」と尋ねた。するとおひじは「ほかに望みはないが、せめてこの城下を流れる川に、私の名前を付けて欲しい」と言い残し人柱に立った。間もなくできあがった高石垣は二度と崩れなくなり、城も立派に建った。その後、豊房公はおひじの遺言通り、城下に流れる川に「肱川(ひじかわ)」と名づけ、おひじの魂をなぐさめた。また、おひじの住んでいた所は比地町(ひじまち)と呼ばれるようになった。[出典:愛媛の伝説(愛媛県教育委員会 昭和54年刊行)] 豊房公には子がなく、同族の筑後宇都宮氏の祖になる宇都宮貞泰の四男の宇都宮宗泰を養子に迎えた。 豊房公は1369年(正平24年)8月18日、享年77で死去、城願寺に葬られた。戒名は城願寺殿継將萬真大居士。その墓である五輪塔の一部が、現在も境内に祀られている。 とよふさ Category:1293年生 Category:1369年没.

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宇都宮貞久

宇都宮 貞久(うつのみや さだひさ)は、南北朝時代の武将。南朝に属した。 豊前国は同族の宇都宮宗房以来の豊前宇都宮氏の本拠地であり、南北朝時代、豊前宇都宮氏は北朝方に属したが、貞久は弟の貞邦と共に南朝方に属し、肥後国八代に移り、征西府の懐良親王直属の軍団の武将となる。 さたひさ Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:肥後国の人物 Category:生没年不詳.

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宇都宮貞綱

宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて貞綱と名乗る。 弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた。 時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。 正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。.

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宇都宮貞邦

宇都宮 貞邦(うつのみや さだくに)は、南北朝時代の武将。 父宇都宮貞泰は伊予国から南朝の懐良親王に従い豊前国の仲津郡に移る。豊前は北朝方の豊前宇都宮氏の勢力地であったため、貞泰の死後、貞邦は、兄貞久と南朝方の菊池氏の肥後国八代に移る。 懐良親王の軍勢の武将として、正平14年/延文4年(1359年)、筑後川の戦いに兄貞久、甥の懐久と共に出陣するも、討ち死を遂げた。 さたくに Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:南北朝時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1359年没.

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宇都宮貞泰

宇都宮 貞泰(うつのみや さだやす)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.

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宇都宮資綱

宇都宮 資綱(うつのみや ともつな)は、南北朝時代から室町時代にかけての武士。 曾祖父の宇都宮泰宗以来の筑後国山門郡大木の徳大寺家の荘園管理を相続し、同地に土着した。嫡子の宇都宮政長(大木政長)が大木氏の祖となる。.

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宇都宮業綱

宇都宮 業綱(うつのみや なりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。宇都宮氏4代当主。宇都宮朝綱の子。 「業綱」は初名で後に「成綱」とも名乗った。そのため、宇都宮成綱と呼ばれることもある。子の朝業は塩谷氏に養子として入嗣し、宇都宮支族としての塩谷氏の祖となった。なお、子にも同名の「業綱」がいる。.

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宇都宮氏

宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。.

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宇都宮泰宗

宇都宮 泰宗(うつのみや やすむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。 宇都宮氏6代(藤原宗円から数えると8代)・下野国守護の宇都宮貞綱の弟で、貞綱が元寇の際、執権北条時宗の命を受け、蒙古討伐軍総大将として九州に下った時に同行し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした。瀬高には藤原氏北家閑院流の三条家から分かれた徳大寺家の荘園があり、泰宗は荘官としてその管理にも関わっていた。 泰宗の嫡男・武茂時綱(宇都宮時景)は常陸国武茂庄を継ぎ、時綱の曽孫持綱は下野の宇都宮氏宗家を継ぎ、武茂氏は持綱の外孫の芳賀正綱が継いだ。しかしその正綱も宇都宮明綱の死後、宇都宮宗家を継いだため(異説あり)正綱の三男の兼綱が武茂氏を継ぐ。 次男・貞泰は伊予国の地頭となり根来山城を本拠地とし伊予宇都宮氏の礎を形成し、後に豊前宇都宮氏の豊後国の仲津に移り筑後宇都宮氏の祖となる。 やすむね Category:鎌倉時代の武士 Category:筑後国の人物 Category:生没年不詳.

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宇都宮泰綱

宇都宮 泰綱(うつのみや やすつな)は、鎌倉時代前・中期の人物。藤原姓宇都宮氏第6代当主。官位は正五位下で下野守、修理亮を歴任。鎌倉御家人でもあり評定衆、美濃国守護に任じられた。宇都宮歌壇の歌人としても著名。宇都宮頼綱の子で宇都宮景綱の父。母は北条時政の娘。.

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宇都宮朝綱

宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。宇都宮三郎朝綱。八田宗綱の子。.

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宇都宮景綱

宇都宮 景綱(うつのみや かげつな)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮氏第7代当主。父は宇都宮泰綱。母は北条朝時の娘。.

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下野宇都宮氏

下野宇都宮氏(しもつけうつのみやし)は藤原北家道兼流の名族・宇都宮氏の嫡流である。代々下野国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身。奥州を見据える要衝の地・宇都宮及び日光の地を治める社務職(宇都宮検校等)を務め、京都との繋がりが強かった。 下野国は宇都宮氏の発祥地であり、当地の宇都宮氏が嫡流。庶流として豊前宇都宮氏(城井氏)があり、さらに伊予宇都宮氏、筑後宇都宮氏(蒲池氏)などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野宇都宮氏と呼ばれる。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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伊予宇都宮氏

伊予宇都宮氏(いようつのみやし)は、伊予国大洲城の豪族。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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八田宗綱

八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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筑後宇都宮氏

筑後宇都宮氏(ちくごうつのみやし)は、南北朝時代に九州の南朝方で、筑後国にいた宇都宮氏の一族。.

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筑後川の戦い

筑後川合戦図 筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の1359年8月29日(延文4年/正平14年8月6日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。大保原の戦い、大原合戦とも。日本三大合戦の一つ。.

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤原宗円

藤原 宗円(ふじわら の そうえん)は、平安時代後期の人物。後に下野国を地盤に活動した宇都宮氏の初代当主と目される。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原兼綱

藤原 兼綱(ふじわら の かねつな)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、関白右大臣・藤原道兼の三男。官位は正四位下・紀伊守。.

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藤原兼隆

藤原 兼隆(ふじわら の かねたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白右大臣・藤原道兼の次男。官位は正二位・中納言。.

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藤原兼房 (中宮亮)

藤原 兼房 (ふじわら の かねふさ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、中納言・藤原兼隆の長男。官位は正四位下・讃岐守。.

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藤原道兼

藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。官位は正二位・関白、右大臣、贈正一位、太政大臣。同母の弟妹に詮子、道長らがいる。 父・兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)。一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄・道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼ばれる。.

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蒲池久憲

蒲池 久憲(かまち ひさのり)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。蒲池氏10代・藤原道兼流宇都宮氏族蒲池氏(後蒲池)祖。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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1359年

記載なし。

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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8月13日

8月13日(はちがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。.

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