ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

大友政親

索引 大友政親

大友 政親(おおとも まさちか)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国大友氏の16代当主。15代当主・大友親繁の長男。.

68 関係: 大友義右大友親綱大友親繁大友親隆大友親頼大友親治大友氏大分県大内義興大内氏大内政弘大内教弘大野氏 (豊後国)天文 (元号)室町幕府室町時代守護守護大名寛正将監下関市延徳征夷大将軍応仁応仁の乱国司立花山城筑後国筑前国田原親述衛門府豊後国豊前国足利義尚足利義稙足利義澄足利義政黒木親実蒲池繁久蒲池治久臼杵市長享長男長門国杉氏正室武将朽網親満戦国時代 (日本)...明応明応の政変文安文明 (日本)1444年1462年1467年1473年1477年1484年1487年1489年1493年1496年1536年5月13日 (旧暦)6月10日 (旧暦)7月20日 インデックスを展開 (18 もっと) »

大友義右

大友 義右(おおとも よしすけ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国の大友氏の17代当主。.

新しい!!: 大友政親と大友義右 · 続きを見る »

大友親綱

大友 親綱(おおとも ちかつな)は、室町時代中期の武将・守護大名。豊後国大友氏の13代当主。.

新しい!!: 大友政親と大友親綱 · 続きを見る »

大友親繁

大友 親繁(おおとも ちかしげ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。大友氏の15代当主。豊後・筑後守護。11代当主・大友親著の四男。初名は親重(ちかしげ)、のち親職(ちかもと)。その後に親繁に改名するがその時期などは不明。.

新しい!!: 大友政親と大友親繁 · 続きを見る »

大友親隆

大友 親隆(おおとも ちかたか)は、室町時代中期の武将・守護大名。大友氏の14代当主。10代当主大友親世の三男。.

新しい!!: 大友政親と大友親隆 · 続きを見る »

大友親頼

大友 親頼(おおとも ちかより)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。大友氏15代当主大友親繁の七男。号は神十郎。 親頼の三男親政は今川氏に仕え駿河国駿東郡長久保を領して長久保氏を称した。.

新しい!!: 大友政親と大友親頼 · 続きを見る »

大友親治

大友 親治(おおとも ちかはる)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の18代当主。15代当主・大友親繁の五男。.

新しい!!: 大友政親と大友親治 · 続きを見る »

大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

新しい!!: 大友政親と大友氏 · 続きを見る »

大分県

大分県(おおいたけん)は、日本の九州地方東部に位置する県。県庁所在地は大分市である。 全国的に知名度が高い別府温泉や、由布院温泉をはじめとする温泉は源泉数(4,538ヶ所)、湧出量(291,340L/分)ともに日本一で、また地熱発電の発電量でも日本一でありさらに栽培、養殖などの産業、食文化、美容やと医療に至るまで豊かな温泉の恵みが幅広く活かされている。「日本一のおんせん県おおいた」をキャッチフレーズに温泉をアピールしている。.

新しい!!: 大友政親と大分県 · 続きを見る »

大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

新しい!!: 大友政親と大内義興 · 続きを見る »

大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

新しい!!: 大友政親と大内氏 · 続きを見る »

大内政弘

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。.

新しい!!: 大友政親と大内政弘 · 続きを見る »

大内教弘

大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。 幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。.

新しい!!: 大友政親と大内教弘 · 続きを見る »

大野氏 (豊後国)

大野氏(おおのし)は、日本の氏族。豊後国における有力な在地武士の一族、豊後大神氏の支流の一つで、豊後国大野郡大野郷(現在の大分県大野郡大野町、朝地町あたり)を本拠とした。通字は「基」(もと)。.

新しい!!: 大友政親と大野氏 (豊後国) · 続きを見る »

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

新しい!!: 大友政親と天文 (元号) · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 大友政親と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 大友政親と室町時代 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 大友政親と守護 · 続きを見る »

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

新しい!!: 大友政親と守護大名 · 続きを見る »

寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 大友政親と寛正 · 続きを見る »

将監

将監(しょうげん).

新しい!!: 大友政親と将監 · 続きを見る »

下関市

火の山から下関市中心部を望む 下関市(しものせきし)は、山口県西部に位置する中核市。本州の最西端に位置し、関門海峡北岸に面する。山口県最大の人口を擁する都市である。.

新しい!!: 大友政親と下関市 · 続きを見る »

延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

新しい!!: 大友政親と延徳 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 大友政親と征夷大将軍 · 続きを見る »

応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 大友政親と応仁 · 続きを見る »

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 大友政親と応仁の乱 · 続きを見る »

国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

新しい!!: 大友政親と国司 · 続きを見る »

立花山城

立花山城(たちばなやまじょう、りっかさんじょう)は、現在の福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる標高367mの立花山山頂にあった日本の城。立花城(たちばなじょう、りっかじょう)と呼称される場合もある。.

新しい!!: 大友政親と立花山城 · 続きを見る »

筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

新しい!!: 大友政親と筑後国 · 続きを見る »

筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 大友政親と筑前国 · 続きを見る »

田原親述

原 親述(たわら ちかのぶ)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。 田原親宗の子で、明応3年(1494年)に父が戦死したため家督を継いだ。大友政親・義右父子の争いに介入したり、大内義興による大聖院宗心の擁立への加担、永正14年(1517年)の朽網親満の反乱への加担など、大友宗家に事あるごとに反抗した。大永2年(1522年)冬には大友義鑑に大神親照を讒言して討伐の命令を出させて自ら討伐したという。 このような経歴から義鑑など歴代大友宗家は田原家を警戒し、息子の親董(ちかただ)と親宏は追放されたり所領を没収されたりする憂き目にあった。.

新しい!!: 大友政親と田原親述 · 続きを見る »

衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

新しい!!: 大友政親と衛門府 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 大友政親と諱 · 続きを見る »

豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 大友政親と豊後国 · 続きを見る »

豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 大友政親と豊前国 · 続きを見る »

足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

新しい!!: 大友政親と足利義尚 · 続きを見る »

足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

新しい!!: 大友政親と足利義稙 · 続きを見る »

足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

新しい!!: 大友政親と足利義澄 · 続きを見る »

足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

新しい!!: 大友政親と足利義政 · 続きを見る »

黒木親実

黒木 親実(くろき ちかざね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。大友氏の家臣。 黒木氏は筑後国の大身で筑後十五城の一つ。 親実の代以前は肥後国の菊池氏に仕えていた。寛正6年(1465年)、父(一説には祖父)・黒木之実ら筑後や肥後の国人衆は筑後守護であった菊池氏に代わり、新たに筑後守護となった大友親繁に反発するも、大友方の来襲を受ける。菊池為邦は弟為安を救援に送るが菊池・筑後国人衆はあえなく敗北、之実も敗死した。祖父・為実は菊池能運の代まで存命で、 文亀元年(1501年)に能運の大叔父・宇土為光が反乱を起こした際に敗死したとされる(ただし、為実は応永14年(1407年)生誕なので、文亀元年(1501年)に死去したとすると当時にしても相当の長寿となってしまう。従って、続柄などについては疑問点も多い。)。 黒木氏の中では早くから大友氏の麾下に属し、当時の大友氏当主・親繁から偏諱を賜って繁実と名乗る。この間に起きた応仁の乱(1467年~)に際しても、大友氏に従って参戦している。次代政親にも仕え偏諱を受け親実に改名している(嫡男・康実も大友義右、義鑑から偏諱を賜っている。)。 祖父・為実が死去したとされる文亀元年(1501年)まで菊池氏の麾下であったことや、のちに曾孫黒木家永やその叔父・実連が大友義鎮(宗麟)に降伏したとする史実もあることから、一族全てが大友氏に属していたというわけではないようだが、家永らの降伏後は完全に大友氏に忠誠を誓うようになっている。以後のことは黒木家永の項を参照。 Category:戦国武将 Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:筑後国の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 大友政親と黒木親実 · 続きを見る »

蒲池繁久

蒲池 繁久(かまち しげひさ)は、室町時代の武将。蒲池氏12代・後蒲池3代当主。 蒲池氏は筑後国の大身。筑後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏が連合して豊後国の大友氏に反旗を翻した時、繁久は五条氏、星野氏、草野氏、問註所氏と共に大友勢として出陣し、蒲池久憲以来の勲功を大友氏が評価するようになり、繁久は豊後・筑後守護の大友親繁から「繁」の字を、嫡男の親久は、親繁の子・政親から「親」の字をそれぞれ下賜された。 これ以降、大友氏歴代当主は蒲池氏の当主に対して偏諱を与えることを通例とするようになり、蒲池氏も大友氏幕下の筑後国領主として存続することになった。 しけひさ Category:室町時代の人物 Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:筑後国の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 大友政親と蒲池繁久 · 続きを見る »

蒲池治久

蒲池 治久(かまち はるひさ)は、戦国時代の武将。筑後国南部の戦国大名。蒲池氏14代・後蒲池5代当主。筑後柳川城主。.

新しい!!: 大友政親と蒲池治久 · 続きを見る »

臼杵市

臼杵市(うすきし)は、大分県の東海岸に位置する市。国宝の臼杵石仏や醤油の製造で有名。近年では城下町の町並みでも知られるようになった。.

新しい!!: 大友政親と臼杵市 · 続きを見る »

長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

新しい!!: 大友政親と長享 · 続きを見る »

長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

新しい!!: 大友政親と長男 · 続きを見る »

長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 大友政親と長門国 · 続きを見る »

杉氏

下田の吉田松陰像 杉氏(すぎうじ)は日本の氏族であり、椙氏、杦氏とも書かれる。主な流派には以下のものがある。.

新しい!!: 大友政親と杉氏 · 続きを見る »

正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

新しい!!: 大友政親と正室 · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 大友政親と武将 · 続きを見る »

朽網親満

朽網 親満(くたみ ちかみつ)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。.

新しい!!: 大友政親と朽網親満 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 大友政親と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

新しい!!: 大友政親と明応 · 続きを見る »

明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

新しい!!: 大友政親と明応の政変 · 続きを見る »

文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

新しい!!: 大友政親と文安 · 続きを見る »

文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

新しい!!: 大友政親と文明 (日本) · 続きを見る »

1444年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1444年 · 続きを見る »

1462年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1462年 · 続きを見る »

1467年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1467年 · 続きを見る »

1473年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1473年 · 続きを見る »

1477年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1477年 · 続きを見る »

1484年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1484年 · 続きを見る »

1487年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1487年 · 続きを見る »

1489年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1489年 · 続きを見る »

1493年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1493年 · 続きを見る »

1496年

記載なし。

新しい!!: 大友政親と1496年 · 続きを見る »

1536年

ユリウス暦の.

新しい!!: 大友政親と1536年 · 続きを見る »

5月13日 (旧暦)

旧暦5月13日は旧暦5月の13日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 大友政親と5月13日 (旧暦) · 続きを見る »

6月10日 (旧暦)

旧暦6月10日(きゅうれきろくがつとおか)は、旧暦6月の10日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 大友政親と6月10日 (旧暦) · 続きを見る »

7月20日

7月20日(しちがつはつか、しちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。誕生花はナス、ルコウソウ。.

新しい!!: 大友政親と7月20日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »