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千種家

索引 千種家

千種家(ちぐさけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流岩倉家庶流。堂上源氏十家の一つ。久我晴通の孫で、岩倉具尭の四男有能を家祖とする。家名は、南北朝時代に六条家から分家した千種忠顕に因むか(別系を参照のこと)。.

67 関係: 千種忠顕千種顕経千種有功千種有任千種有維千種有能千種有梁千種有敬南北朝時代 (日本)大納言子爵家礼尊王攘夷山城国岩倉家岩倉乗具岩倉具堯中院通知一条家幕末久我家久我俊子久我通前久我晴通乙訓郡庶家廃嫡徳川和子北勢和宮親子内親王和歌出家公家公武合体六条家六条有忠国立歴史民俗博物館皇女王政復古系図纂要紀伊郡羽林家猶子華族華族令議奏葛野郡還俗金戒光明寺降嫁...東京府村上源氏植松家植松雅永正二位武家伝奏歌人朝廷有職故実明治明治天皇明治維新文久旧高旧領取調帳1862年1884年1886年 インデックスを展開 (17 もっと) »

千種忠顕

千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.

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千種顕経

千種 顕経(ちぐさ あきつね)は、南北朝時代の公卿・武将。参議千種忠顕の四男。雅光は猶子である。南朝に仕えた。.

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千種有功

千種 有功(ちぐさ ありこと、寛政8年11月9日(1796年12月7日) - 嘉永7年8月28日(1854年10月19日))は、江戸時代の公卿、歌人。正三位権中将。本姓は源氏。家系は村上源氏六条家の流れを汲む千種家。号は千々廼舎(ちぢのや)、鶯蛙園(おうけいえん)、在琴。千種有条の次男。 はじめ一条忠良、次いで有栖川宮織仁親王、久世通理らに入門して和歌を師事、守旧の二条派の作風を脱した新想の和歌を多く詠んだ。和歌のみならず書画も能筆であり、また公家ながら刀剣を愛好し、その収集に飽き足らず自ら刀を鍛え、自作の歌(『やすきたちは さやにをさめて ますらをの こころますます とくへかりけり』が多い)をその刀身に陰刻するなどしていた。2000年代でもその遺作は蒐集家に人気がある。子に有名(中院通知からの養子)、左近衛少将有文など三男二女がある。 東京都新宿区須賀町にある須賀神社に肖像・大岡雲峰画、歌・千種有功筆の三十六歌仙図が社宝として伝わっており、新宿区指定有形文化財(絵画)に指定されている。.

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千種有任

千種 有任(ちぐさ ありとう、1836年12月11日(天保7年11月4日) - 1892年(明治25年)9月2日)は日本の公卿。本姓は村上源氏。正四位。.

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千種有維

千種 有維(ちぐさ ありこれ、寛永15年9月22日(1638年10月29日) - 元禄5年11月29日(1693年1月5日))は、江戸時代前期の公卿。おもに後光明天皇(110代)から東山天皇(113代)の3代にわたって朝廷に仕え、官位は従二位権大納言まで昇った。父は千種有能。母は久我通前の娘。弟に分家植松家を起こした植松雅永がいる。 寛永18年(1641年)に叙爵。以降累進して、寛文6年(1666年)従三位となり公卿に列する。貞享元年(1684年)に武家伝奏役に就任し、朝幕間の取り次ぎにあたった。貞享2年(1685年)に従二位。元禄4年(1691年)に羽林家の最高官職権大納言となる。 千種家は岩倉家の分家であるため、子のない岩倉具詮に養子として唯一の実子乗具を出した。その乗具の子の一人有敬を千種家の養子に迎えて後を継がせている。 ありこれ Category:江戸時代の公家 Category:1638年生 Category:1693年没.

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千種有能

千種 有能(ちぐさ ありよし、元和元年(1615年) - 貞享4年3月1日(1687年4月12日))は、江戸時代前期の公卿。千種家(村上源氏の久我家の分流)を復興させた人物。おもに後西天皇(111代)から東山天皇(113代)の3代にわたり仕え、正二位権大納言まで昇った。 岩倉具堯の四男として京都に生まれる。兄に岩倉具起がいる。久我家の古の分家千種家を偲んで千種を氏とした。元和9年(1623年)に叙爵し、寛永2年(1625年)には元服して侍従に任じられ、以降累進して慶安2年(1649年)には従三位となり公卿に列した。明暦元年(1655年)、正三位参議。明暦2年(1656年)参議を辞職し、踏歌節会外弁となる。さらに寛文5年(1665年)に権中納言に任じられ、寛文9年(1669年)までつとめた。寛文6年(1666年)に従二位となる。延宝3年(1675年)から天和3年(1683年)にかけては武家伝奏役をつとめた。この間の延宝4年(1676年)には権大納言となっているがすぐに辞している。また延宝5年(1677年)には正二位となる。 貞享3年(1686年)に72歳で出家。その翌年に死去した。正室に久我通前の姫を迎えており、その間に千種有維、植松雅永を儲けた。また、上野沼田藩主の真田信吉の娘(長姫)を継室としている。(真田信利項目参照) ありよし Category:岩倉家 Category:江戸時代の公家 Category:1615年生 Category:1687年没.

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千種有梁

千種 有梁(ちぐさ ありはる、1858年4月11日(安政5年2月28日『平成新修旧華族家系大成』下巻、88-89頁。) - 1906年(明治39年)7月11日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。)は、日本の医師、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・茂、茂樹「華族千種有任二男茂ヲ千葉県士族伏谷惇ノ養子トス」。旧姓・伏谷『千種家譜』。.

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千種有敬

千種 有敬(ちぐさ ありのり、貞享4年9月10日〈1687年10月15日〉 - 元文3年3月30日〈1738年5月18日〉)は、江戸時代中期の公卿。 東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)の三帝にわたって仕え、官位は従二位権大納言まで昇る。実父は岩倉乗具。母は不詳。養父は千種有維。養子に千種有補、娘に有補の室がいる。初名は岩倉具広(いわくら ともひろ)、千種有統(ちぐさ ありすべ)。 元禄4年(1691年)叙爵。元禄5年(1692年)祖父にあたる千種有維(乗具の実父)の養子に入る。元禄11年(1698年)に元服。右近衛少将・左近衛中将を経て、享保2年(1717年)に従三位となり、公卿に列する。その後、参議や踏歌節会外弁・東照宮奉幣使などを歴任。享保20年(1735年)に権中納言に就任。さらに元文3年(1738年)に権大納言となるも辞職。同年中に薨去した。享年52。 藤波景忠の子で梅渓通条の養子だった有補を婿養子に迎え、千種家の名跡を継がせた。 ありのり Category:岩倉家 Category:江戸時代の公家 Category:1687年生 Category:1738年没.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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家礼

家礼(けれい)とは、公家社会において公家同士の間で結ばれた一種の主従関係のこと。特に近世の摂関家とその他堂上家との間の家礼関係を門流(もんりゅう)とも称した。また、武家における家来(けらい)という語の由来とも言われている。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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岩倉家

岩倉家(いわくらけ)は、村上源氏久我家の流れを汲む公家の家柄。羽林家。新家。堂上源氏十家のひとつ。鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫である。村上源氏の名門ではあったが家禄は150石で、中級の公家だった。通字は「具」(とも)。.

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岩倉乗具

岩倉 乗具(いわくら のりとも、寛文6年8月29日(1666年9月27日) - 享保15年8月23日(1730年10月4日))は、江戸時代前期から中期の公卿。霊元天皇(112代)東山天皇(113代)中御門天皇(114代)の三代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。実父は千種有維。養父は岩倉具詮。子に岩倉恒具、千種有敬、植松賞雅がいる。 初名は具統。千種家の嫡男だったが、千種家は岩倉家の分家筋にあたるため、子のない本家の具詮の養子に入って岩倉家を継いだ。延宝8年(1680年)に元服とともに叙爵。以降、右少将や右中将などの官職をつとめ、官位も累進し、元禄16年(1703年)には従三位となり、公卿に列する。宝永4年(1707年)には具偈と改名し、参議となった。正徳3年(1713年)に従二位権中納言。享保4年(1719年)に乗具と改名。享保9年(1724年)に羽林家最高位の権大納言に就任。享保10年(1725年)には正二位となった。 次男有敬を実父有維、三男賞雅を植松雅孝の養子に入れている。 のりとも Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1666年生 Category:1730年没.

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岩倉具堯

岩倉具堯(いわくら ともたか、生年不詳 - 寛永10年9月(1633年))は室町時代後期頃から江戸時代初期の公家。最終官位は正五位下木工頭。村上源氏久我家の分家岩倉家の始祖。 正二位権大納言久我晴通の四男。兄に久我通堅(従二位権大納言)がいる。はじめ相国寺に入り万松院宗尊といったが、のち還俗し、後陽成院、中和門院に近侍した。久我家から分家し、初め桜井と号したが、子具起の代に、京都洛外の岩倉に邸をおいたことに因み、岩倉家と称するようになった。病を得て出家し、蕣庵と号した。明治維新の功臣岩倉具視は子孫にあたる。.

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中院通知

中院 通知(なかのいん みちとも)は、江戸時代中期の公卿。権大納言。正二位。父は中院通古。正室は阿波徳島藩第10代藩主・蜂須賀重喜の四女(後に離縁)。.

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一条家

一条家(いちじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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久我俊子

久我 俊子(こが としこ、生年未詳 - 慶安3年11月14日(1651年1月5日))は、江戸時代前期の公家女官。久我通堅の娘。岡とも称した。はじめ六条有広室。離縁後、東福門院女房となり、新大納言局と称した。.

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久我通前

久我 通前(こが みちさき、天正19年10月14日(1591年11月29日) - 寛永12年10月24日(1635年12月3日))は、江戸時代前期の公卿。主に後水尾天皇(108代)・明正天皇(109代)に仕え、官位は正三位権中納言まで昇る。父は権大納言久我敦通。母は権大納言久我晴通の養女。兄に久我通世、弟に久世通式がいる。妻は堀秀治の娘。子に左近衛中将久我堯通、内大臣久我広通、千種有能室。 元和元年(1615年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・左近衛中将を経て、寛永元年(1624年)後水尾天皇の中宮徳川和子の中宮権亮となるが寛永6年(1629年)の天皇の譲位にともない辞職。寛永7年(1630年)より権中納言に転じた。寛永8年(1631年)に正三位となったが、寛永12年(1635年)には薨去した。享年45。.

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久我晴通

久我 晴通(こが はるみち/はれみち)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿。おもに後奈良天皇(105代)時代の朝廷に仕え、官位は正二位、官職は権大納言・右近衛大将まで昇った。「晴」の字は姉・慶寿院の夫でもある将軍・足利義晴からの偏諱と思われる。.

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乙訓郡

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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廃嫡

廃嫡(はいちゃく)は、嫡流を継ぐ相続権を廃する、または廃されること。.

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徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

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北勢

■南勢(伊勢志摩)Nowrap end 北勢(ほくせい)とは、令制国の伊勢国の北部にあたる地域の名称で、現在の三重県を5つに区分した「北勢」「伊賀」「中勢」「南勢(伊勢志摩)」「東紀州」のひとつ。人口は約万人。.

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和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。品位は二品、薨後贈一品。 「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公武合体

公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。対義語は尊皇攘夷である。.

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六条家

六条家(ろくじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我家庶流。太政大臣・久我通光の五男・六条通有を家祖とする。家名は、2代・有房が京都六条に住した事による。歌道家として著名な六条藤家は別系(藤原北家末茂流)である。.

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六条有忠

六条 有忠(ろくじょう ありただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。従一位・内大臣六条有房の長男。官位は正二位・権中納言。六条家3代当主。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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皇女

皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ)は、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が、何等かの理由によって復活する現象である。復辟(ふくへき)、政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。.

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系図纂要

『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。.

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紀伊郡

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

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議奏

議奏(ぎそう)とは、.

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葛野郡

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還俗

還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。「復飾」(ふくしょく)とも。自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。明治時代初頭には神仏分離に端を発する廃仏毀釈により、全国で神宮寺の社僧などが還俗した。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、宮家を継承することもあった。特に幕末維新期にはその数は増えていった。.

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金戒光明寺

阿弥陀堂 山門 大方丈 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。.

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降嫁

降嫁(こうか)とは、皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐことをいう。日本では皇族女性、特に内親王・女王が非皇族(臣下)に嫁ぐ場合を指す。.

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東京府

東京府庁(東京市役所との合同庁舎) 東京府(とうきょうふ)は、1868年から1943年までの間に存在していた日本の府県の一つである。現在の東京都の前身に当たる。府庁所在地は東京市。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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植松家

植松家(うえまつけ)は、日本の公家。村上源氏岩倉家の分家、千種家家祖の千種有能の末男、植松雅永を祖とする。堂上源氏十家の一つ。家格は羽林家(新家、内々)。 明治維新後華族に列し、10代雅徳が子爵に叙せられた。 江戸時代の家禄は130石。家業は華道で、今日に至るまで代々の当主が日本生花司 松月堂古流の家元を継承している。墓所は浄土宗大本山金戒光明寺。.

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植松雅永

植松 雅永(うえまつ まさなが、承応3年10月23日(1654年12月1日) - 宝永4年12月16日(1708年1月8日))は、江戸時代前期から中期の公卿。公家植松家の祖。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕え、正三位参議まで昇った。父は千種有能。母は久我通前の娘。兄に千種有維がいる。子に植松雅孝。 寛文3年(1663年)、千種家から分家して植松家を興すとともに叙爵。寛文7年(1667年)に元服して従五位上侍従となるが、名誉職としての就任ではなく、近習として霊元天皇の側近くにおかれて重用された。霊元上皇と仲の悪いことで知られる東山天皇の時代にもそのまま近習として留め置かれているので立ち回りの上手い人物であったと思われる。元禄7年(1694年)に正三位。元禄14年(1701年)に参議となっている。 まさなか Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1654年生 Category:1708年没.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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1862年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1886年

記載なし。

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