82 関係: 即位、千種家、千種顕経、南北朝時代 (日本)、参議、名和長年、大正、大河ドラマ、太平記 (NHK大河ドラマ)、学問、山城国、山陰地方、左京区、不孝、中納言、万里小路宣房、三木一草、九州、京都、京都市、京都府、延元、建武 (日本)、建武の新政、伊勢新聞、伯耆国、佐藤進一、佐渡国、後伏見天皇、後醍醐天皇、従三位、従二位、北畠顕家、北条氏、出家、公卿、六条有忠、六条有光、六波羅探題、元弘、元弘の乱、前賢故実、犬追物、皇太子、笠懸、系図纂要、綸旨、結城宗広、結城親光、結城親朝、...、隠岐諸島、鎌倉時代、頭中将、高橋直樹 (作家)、足利尊氏、足利直義、鷹狩、船上山、赤松則村、間、邦良親王、雑訴決断所、陸奥国、楠木正成、正応、正慶、武芸 (日本)、本木雅弘、明治維新、春宮坊、新田義貞、新葉和歌集、日本放送協会、愛宕郡、11月15日、1290年、1332年、1335年、1336年、1919年、6月7日 (旧暦)、7月15日。 インデックスを展開 (32 もっと) »
即位
即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.
千種家
千種家(ちぐさけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流岩倉家庶流。堂上源氏十家の一つ。久我晴通の孫で、岩倉具尭の四男有能を家祖とする。家名は、南北朝時代に六条家から分家した千種忠顕に因むか(別系を参照のこと)。.
千種顕経
千種 顕経(ちぐさ あきつね)は、南北朝時代の公卿・武将。参議千種忠顕の四男。雅光は猶子である。南朝に仕えた。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
名和長年
名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
大河ドラマ
『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.
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太平記 (NHK大河ドラマ)
『太平記』(たいへいき)は、NHKで1991年に放送された第29作目の大河ドラマである。放送期間は1991年1月6日 - 12月8日で、全49回。.
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学問
学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。英語ではscience(s)であり、science(s)は普通、科学と訳す。なお、学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山陰地方
山陰地方(さんいんちほう)は、日本の地域の一つであり、本州西部のうち日本海に面する地方である。名称は五畿七道の山陰道に因む。.
左京区
左京区(さきょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。.
不孝
不孝(ふきょう).
中納言
中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.
万里小路宣房
万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代の公卿。従三位・万里小路資通の子。.
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三木一草
三木一草(さんぼくいっそう)は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名にちなむ。 4人に共通する点は、.
九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都市
京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.
京都府
京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.
延元
延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.
建武 (日本)
建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.
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建武の新政
建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.
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伊勢新聞
伊勢新聞(いせしんぶん)は、三重県の県域新聞。同一題字で日本最古の日刊新聞である。創業は1878年(明治11年)1月17日。 西南戦争の翌年に松本宗一により創刊された。不平士族が中心であった(当時、論説文を書きえたのは侍だけであった)。三重県という名前を明治政府がつける前から「伊勢国」であったという伝統的地名が由来である。三重県はすべてが伊勢国ではないが、伊勢新聞は県紙である。 朝刊のみの発行である。社員数は約100名と、地方紙の中では規模が小さい(2006年6月末現在)。 共同通信社、日本新聞協会に加盟。.
伯耆国
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
佐藤進一
佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2017年11月9日)は、日本の歴史家。中央大学名誉教授。専門は、日本中世史、中世法制史、古文書学。.
佐渡国
佐渡国(さどのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
後伏見天皇
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.
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後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
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従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従二位
従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.
北畠顕家
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
出家
出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
六条有忠
六条 有忠(ろくじょう ありただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。従一位・内大臣六条有房の長男。官位は正二位・権中納言。六条家3代当主。.
六条有光
六条 有光(ろくじょう ありみつ)は、南北朝時代の公卿。権中納言・六条有忠の子。官位は従二位権中納言、淳和院・奨学院両院別当。六条家4代当主。.
六波羅探題
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.
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元弘
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.
元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.
前賢故実
前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代(後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期頃から国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。.
犬追物
追物(いぬおうもの)は、鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法の一つ。流鏑馬、笠懸と共に騎射三物の一つに数えられる。.
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
笠懸
懸(かさがけ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。流鏑馬、犬追物と並んで騎射三物と称された。現在は笠掛とも表記する。群馬県新田郡笠懸(かさかけ)町(現みどり市)の名は、源頼朝がこの地で笠懸を行ったことに由来するという。.
系図纂要
『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。.
綸旨
綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.
結城宗広
結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。.
結城親光
結城 親光(ゆうき ちかみつ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.
結城親朝
結城 親朝(ゆうき ちかとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小峰氏初代当主。.
隠岐諸島
島前 隠岐諸島(おきしょとう)は、島根半島の北方約50kmにある諸島。隠岐群島(おきぐんとう)、隠岐島(おきのしま)とも呼ばれる。現在は島根県隠岐郡に所属。山陰地方では今でも隠岐諸島を指して隠岐国(おきのくに)と呼ぶ場合がある。 当諸島は、島前(どうぜん)と島後(どうご)に分かれている。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
頭中将
頭中将(とうのちゅうじょう)は、日本の律令制における公家官職の呼称の一つ。位階が四位の殿上人で、蔵人頭(蔵人所の実質的な責任者)と近衛中将(近衛府の次官)を兼任した者に対する通称。.
高橋直樹 (作家)
橋 直樹(たかはし なおき、1960年3月22日 - )は日本の歴史作家。東京都出身。國學院大學文学部卒業。髙橋 直樹名義もある。鎌倉ものでは源頼朝が北条以下の老臣を一瞥で震え上がらせるような果断な指導者像として描かれるなど、従来のイメージから一歩踏み込んだ解釈や造詣が多く採用されている。.
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足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利直義
足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.
鷹狩
鷹狩(たかがり、falconry、)は、鷹などの鳥を使った狩猟の一種。鷹野、放鷹とも言う。タカ科のイヌワシ、オオタカ、ハイタカ、およびハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類や哺乳類(兎・狼・狐など)を捕らえさせ、餌とすりかえる。 こうして鷹を扱う人間は、と呼ばれる。日本語の古語においては、鷹田、放鷹、鷹野などとも称する。また、鷹を訓練する場所はと称される。.
船上山
船上山(せんじょうさん)は、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高687メートルの山である。.
赤松則村
赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。.
間
間(けん)は、尺貫法で使う長さの単位である。日本では計量法により取引・証明(計量法#取引又は証明に該当するもの・しないもの)に用いることは禁止されている。 本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった(現在でも俗に和室の寸法などで使われる)が、日本では農地の測量に使われるようになり、ある長さを1間とする長さの単位となった。それゆえ、中国の度量衡にはない単位である。.
邦良親王
北白川陵) 邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨去する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇#皇子の読みを参照。.
雑訴決断所
雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)とは、日本の南北朝時代、いわゆる建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたったが、建武政権の崩壊に伴い、短期間で消滅した。 ※以下、日付はすべて宣明暦によるものである。.
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陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
楠木正成
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.
正応
正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.
正慶
正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.
武芸 (日本)
武芸(ぶげい)とは、日本の古代から中世、近世初期までにおいて、軍の兵卒や武官、武士などが当時の戦場で戦うために訓練した技芸のこと。.
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本木雅弘
本木 雅弘(もとき まさひろ、1965年12月21日 - )は、日本の俳優、元歌手。本名・内田 雅弘(うちだ まさひろ)旧姓・本木。愛称は「モックン」「すばる」。埼玉県桶川市(旧・北足立郡桶川町)出身。 ジャニーズ事務所所属の3人組アイドル「シブがき隊」の元メンバー。所属芸能事務所はジャニーズ事務所 → 個人事務所「メンズアート」。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
春宮坊
春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.
新田義貞
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.
新葉和歌集
『新葉和歌集』(しんようわかしゅう)は、南北朝時代に成立した准勅撰和歌集。撰者は宗良親王。弘和元年/永徳元年(1381年)12月3日奏覧。新葉集とも。.
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日本放送協会
日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、英称:Japan Broadcasting Corporation)は、日本の公共放送を担う事業者。よく誤解されるが国営放送ではない。日本の放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設立された放送事業を行う特殊法人。総務省(旧・郵政省)が所管する外郭団体である。 公式略称は、「NIPPON HOSO KYOKAI」の頭文字を取り「」と呼称・記される。 公共放送としての事業規模は、英国放送協会 (BBC) などと並び、国内にNHKエンタープライズ、NHKグローバルメディアサービス、NHK出版など13の連結子会社を持つ。また、関連会社として日本国外にNHKコスモメディアアメリカ、NHKコスモメディアヨーロッパが設立されている。1986年には子会社である株式会社NHKエンタープライズを出資母体として、NHKエンタープライズ25%、株式会社電通25%の共同出資による株式会社総合ビジョンを設立した。しかし、これは事業の縮小を経て2013年7月1日付けでNHKエンタープライズに吸収合併した。 愛宕山。 中継車(いすゞ・フォワード).
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愛宕郡
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11月15日
11月15日(じゅういちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日ある。.
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1290年
記載なし。
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1332年
記載なし。
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1335年
記載なし。
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1336年
記載なし。
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1919年
記載なし。
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6月7日 (旧暦)
旧暦6月7日(きゅうれきろくがつなのか)は旧暦6月の7日目である。六曜は赤口である。.
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7月15日
7月15日(しちがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から196日目(閏年では197日目)にあたり、年末まであと169日ある。誕生花はネムノキ、カンナ。.
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