目次
十六国春秋
『十六国春秋』(じゅうろっこく しゅんじゅう)は、中国の北魏に撰せられた、五胡十六国時代に関する歴史書である。五胡十六国時代という名称の由来になった。『隋書』「経籍志」によれば、全100巻。
見る 劉瞻と十六国春秋
宋該
宋 該(そう がい、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。字は弘宣。平原郡の出身。宋諺とも記載される。
見る 劉瞻と宋該
五胡十六国時代
五胡一六国の変遷 五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える代は北魏の前身であり、仇池は南北朝時代まで存在し、冉魏・西燕・翟魏・後蜀は2-10年と短命であったため、十六国に数えられていない。。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。
見る 劉瞻と五胡十六国時代
前燕
前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。正式な国号は大燕だが、同時代に燕を国号とする国が複数存在するため、最初期に建てられたこの国を前燕と呼称して区別している。独立国として成立したのは慕容儁が帝位に即いた352年であるが、本記事中では慕容皝が燕王を自称した337年を建国年とする(詳細は後述)。また、事実上前燕の基盤を築いたのは慕容廆であるため、彼の時代より詳述する。
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石琮
石 琮(せき そう、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。本貫は楽陵郡厭次県。西晋の昌安県侯石鑒の孫。
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鮮卑
鮮卑(せんぴ、)は、紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。五胡十六国時代・南北朝時代には大移動で南下して漢人の国々を征服し、中国に北魏、北斉、北周などの王朝を建てた。
見る 劉瞻と鮮卑
資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周の世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光が執筆に用いた史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
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慕容皝
慕容 皝(ぼよう こう、)は、五胡十六国時代の前燕の初代王。字は元真。小字(幼名)は万年。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。鮮卑慕容部の大人(部族長)で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁・慕容昭・慕容評らがいる。
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慕容部
慕容部(ぼよう ぶ、拼音:Mùróng bù)は、4世紀前半より5世紀中期にかけて、中国の東北方、遼東・遼西地方より、華北地方にかけての地域で勢力を有した鮮卑系の部族である。五胡十六国時代には前燕・後燕・西燕・南燕を建国した。慕容氏とも呼ばれる。
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晋書
『晋書』(しんじょ、)は、中国晋朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の貞観20年(646年)に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂が開始され、貞観22年(648年)に完成した。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻・列伝七十巻・志二十巻によって構成される紀伝体。
見る 劉瞻と晋書

