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内藤家 (信成系)

索引 内藤家 (信成系)

内藤家(信成系)として本項で扱うのは、戦国期に三河国松平氏家臣であった内藤清長の養子・内藤信成を開祖とする家系のこと。この家は譜代に属するが、信成が徳川家康の異腹の弟であるとの説があり、それゆえ松平氏庶流と考えることもできる。しかし「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」ともにこの説を採らず、清長とその実子である内藤家長によって継承された内藤家と同じく「藤原氏(秀郷流)」として扱っている。.

126 関係: 多賀郡大坂城天正宝永富山藩寛永寛文寛政重修諸家譜岡部長寛岩村田藩岸和田藩上杉定興上杉重定常陸国万治三河一向一揆三河国久慈川享保京極高長庄内地方庄内藩廃藩置県伊豆国伏見城伏見藩徳川家康信濃国和泉国備中国内藤家長内藤弌信内藤信之内藤信庸内藤信広内藤信凭内藤信全内藤信光内藤信積内藤信美内藤信義内藤信照内藤信直 (三郎右衛門)内藤信直 (信正四男)内藤信盛内藤信親内藤信貞内藤信輝内藤信興内藤信良...内藤信正内藤信武内藤信民内藤信清内藤信有内藤信朋内藤信成内藤信方内藤信旭内藤信敦内藤信智内藤頼尚内藤正縄内藤清長出羽国元和 (日本)元禄元治前田利聲米沢藩田中藩燕市韮山城駿府城駿河国高槻城高槻藩譜第豊前国鳥居三十郎越中国越後国近江国長浜城 (近江国)長浜藩酒井忠宝 (庄内藩主)酒井忠篤 (庄内藩主)鋸挽き老中陸奥国松平広忠松平氏松波良利村上城村上市村上藩棚倉藩検地正保永禄河内国戦国時代 (日本)戸田氏尹明暦明治摂津国慶長1563年1590年1601年1603年1606年1612年1617年1619年1626年1658年1661年1672年1689年1705年1720年1864年1868年1869年1871年 インデックスを展開 (76 もっと) »

多賀郡

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大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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富山藩

富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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岡部長寛

岡部 長寛(おかべ ながひろ、文化6年3月13日(1809年4月27日)- 明治20年(1887年)2月3日)は、和泉岸和田藩の第12代藩主。岸和田藩岡部家13代。.

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岩村田藩

岩村田藩(いわむらだはん)は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩で藩庁は岩村田陣屋。藩主家は内藤氏。.

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岸和田藩

和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.

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上杉定興

上杉 定興(うえすぎ さだおき)は、江戸時代中期の武士。旗本・内藤信義の養子となり、内藤信政と名を改めた。 明和8年(1771年)、出羽国米沢藩8代藩主・上杉重定の四男として誕生する。 寛政元年(1789年)、19歳のときに上杉治憲より、治憲自身が作り細井平州が校閲した「学問大意」を与えられる。また、柳河藩家老立花通栄(織衛)の所蔵文書の中に、寛政10年9月23日(1798年)作成の、上杉弾正大弼舎弟の近江が東都如来先生への遊学の際送られた書付がある。 「寛政重修諸家譜」作成以後に養子入りしたためか、同書には養子入りについての記載はない。.

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上杉重定

上杉 重定(うえすぎ しげさだ)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩8代藩主。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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三河一向一揆

大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年) 三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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久慈川

久慈川(くじがわ)は、福島県および茨城県を流れる一級河川。久慈川水系の本流である。流路総延長527km(幹川124km,支川403km)。日本で有数の鮎の釣場として有名である。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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京極高長

京極 高長(きょうごく たかなが、元禄8年5月1日(1695年6月12日)- 明和6年4月3日(1769年5月8日))は、丹後峰山藩の第5代藩主。陸奥棚倉藩主(のち越後村上藩主)内藤弌信の三男(四男との説もある)。正室は京極高之の娘。官位は従五位下、備後守、主膳正。 元禄8年(1695年)5月1日、陸奥棚倉で生まれる。正徳4年(1714年)、先代藩主・高之の婿養子となった。享保8年(1723年)、高之の死去で跡を継ぐ。明和2年(1765年)8月8日、養嗣子の高久に家督を譲って隠居し、明和6年(1769年)4月3日に江戸で死去した。享年75。 法号は源寥院廓誉常光道仙。墓所は東京都江東区白河の道本山霊巌寺。後に京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺に改葬。 *05 たかなか Category:内藤家 (信成系) Category:棚倉藩の人物 Category:1695年生 Category:1769年没.

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庄内地方

■紫:庄内地方Nowrap end 庄内地方の自治体Nowrap begin1. 酒田市\wrap2. 鶴岡市(旧)\wrap3. 立川町(現庄内町)\wrap4. 余目町(現庄内町)\wrap5. 藤島町\wrap6. 羽黒町\wrap7. 櫛引町\wrap8. 三川町\wrap9. 朝日村\wrap10. 温海町\wrap11. 遊佐町\wrap12. 八幡町\wrap13. 松山町\wrap14. 平田町Nowrap end 庄内地方(しょうないちほう)は、庄内平野を中心とした山形県の日本海沿岸地域である。鶴岡市と酒田市が二大都市として並立している。.

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庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伏見城

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.

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伏見藩

伏見藩(ふしみはん)は、山城国伏見(現在の京都府京都市伏見区)にあった藩。居城は伏見城。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内藤家長

内藤 家長(ないとう いえなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。字は金一郎。.

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内藤弌信

内藤 弌信(ないとう かずのぶ)は、越後国村上藩の初代藩主。養父は内藤信良。実父・内藤信光は家祖・内藤信成の次男・内藤信広(旗本5000石)の子。生母は前川氏と記すものがあるが(『村上郷土史』77頁)「寛政重修諸家譜」は「某氏」、国立公文書館蔵「内藤家譜」は「家女」とする他に所見がない。.

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内藤信之

内藤 信之(ないとう のぶゆき、寛文11年(1671年) - 元禄2年11月10日(1689年12月21日))は、江戸時代前期の寄合旗本(5,000石)。内藤信光の子。母は本多利長の娘。通称は兵庫。 元禄1年(1688年)12月10日、兄・内藤信清の遺領を継ぎ、翌2年閏1月18日、将軍徳川綱吉に初御目見する。同年4月13日に中奧の小姓となり、5月18日に御小姓となった。 元禄2年(1689年)12月21日、江戸において死去した。享年19。法名は全忠。葬地は赤坂の浄土寺とされている(「寛政譜」新訂13巻207頁)。家督は兄・内藤弌信の子・信盛が継いだ。.

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内藤信庸

内藤 信庸(ないとう のぶつね)は、江戸時代の旗本。越後村上藩内藤家の分家当主・内藤信朋の養嗣子。.

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内藤信広

内藤 信広(ないとう のぶひろ)は、江戸時代初期の旗本。一時は大名だった。越後国村上藩内藤家の分家初代。内藤信成の次男。.

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内藤信凭

内藤 信凭(ないとう のぶより)は、越後村上藩の第5代藩主。第3代藩主・内藤信興の次男。.

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内藤信全

内藤 信全(ないとう のぶのり、生年未詳 - 寛文13年6月21日(1673年8月3日))は、陸奥国内藤家棚倉藩の初代藩主・内藤信照の三男。棚倉藩より分家となった旗本(寄合)家初代。三左衛門。父は内藤信照。子に信有。 幼名・五郎。明暦3年(1657年)9月3日徳川家綱に披露される。寛文11年(1671年)9月23日、兄・内藤信良から常陸国多賀郡のうち、新田5,000石を分与された。 寛文13年6月21日、江戸において死す。法名:清閑。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。.

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内藤信光

内藤 信光(ないとう のぶみつ、慶長16年(1611年) - 延宝3年5月23日(1675年7月15日))は、江戸時代前期の寄合旗本(5,000石)。通称は主税、官位は従五位下伊勢守。旗本(一時大名だった)内藤信広の長男。母は三宅康信の娘。正室は本多利長の娘。子に弌信、信清、信之、ほか。 元和7年(1621年)徳川秀忠に初御目見する。寛永9年12月6日(1633年)従五位下伊勢守に叙任された。慶安3年(1650年)8月7日、父・信広の遺領を継ぎ、弟・信雪、信直、信通にそれぞれ1,000を分与、自らは5,000石を知行して交代寄合となった。 延宝3年(1675年)5月23日、江戸において死去した。享年65。法名は善閑。葬地は父・信広に同じとされている(「寛政譜」新訂13巻206頁)。家督は三男の信清が継いだ。.

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内藤信積

内藤 信積(ないとう のぶつみ、宝永元年(1704年) - 享保6年3月18日(1721年4月14日))は、江戸時代中期の越後国村上藩2代藩主・内藤信輝の長男。母は蜂須賀隆重の娘。三郎右衛門。 村上藩世子だった父・信輝の嫡子として生まれたが、享保6年(1721年)に夭折した。4年後の享保10年(1725年)、父が藩主に就任したものの間もなく死去し、弟の信興が跡を継いで藩主となった。 のふつみ Category:江戸時代の武士 Category:村上藩の人物 Category:1704年生 Category:1721年没.

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内藤信美

内藤 信美(ないとう のぶとみ、安政4年7月12日(1857年8月31日)- 大正14年(1925年)1月20日)は、越後村上藩の第9代(最後)の藩主。和泉岸和田藩主・岡部長寛の長男。正室は深溝松平忠精の娘珓子。官位は従五位下。豊前守。正三位。幼名は小三郎。初名は岡部長美(おかべ ながとみ)。 慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主の内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居和祚が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、第7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、藩知事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して彼の長女と結婚した婿養子に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったという。そのため信美の子孫は岡部姓に戻ったという。 大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の東北寺。 のふとみ Category:岡部氏 Category:村上藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:岸和田藩の人物 Category:1857年生 Category:1925年没.

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内藤信義

内藤 信義(ないとう のぶよし)は、村上藩内藤家の分家当主。旗本。米沢藩主上杉重定の四男定興(内藤信政と改名)を養子とした。 天明2年(1782年)3月、18歳で内藤信庸の遺跡を継ぐ。同5年(1785年)12月9日、徳川家治に御目見し、翌6年(1786年)12月2日、中奧の小姓となる。同7年(1787年)、従五位下豊後守に叙任された。 寛政3年(1791年)9月16日に職を辞している。.

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内藤信照

内藤 信照(ないとう のぶてる)は、江戸時代初期の譜代大名。陸奥棚倉藩の初代藩主。.

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内藤信直 (三郎右衛門)

内藤 信直(ないとう のぶなお、? - 明暦2年8月30日(1656年10月17日))は、江戸時代前期の旗本・内藤信広の子。金弥、三郎右衛門。母は三宅康信の娘。妻は荒川定安の娘。 寛永12年(1635年)に将軍徳川家光に初めて御目見し、翌13年に書院番の番士となる。16年に300俵となるが、慶安3年(1656年)8月7日、父・信広の遺領から1,000石の采地を分与された。 明暦2年(1656年)、駿府城の守衛の際に病となり、江戸への帰途において死去したという。 法名は宗円。葬地は父・信広に同じとされている(「寛政譜」13巻206頁)。嗣子なく絶家となった。.

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内藤信直 (信正四男)

内藤 信直(ないとう のぶなお、? - 寛文8年12月1日(1669年1月3日))は、江戸時代初期の譜代大名内藤信正の四男。陸奥棚倉藩主となった内藤信照の末弟。通称は玄蕃。 寛永12年(1635年)12月28日、徳川家光に初めて御目見する。のち病により棚倉に閑居し、寛文8年に亡くなったという(「寛政譜」新訂13巻201頁)。 「越後村上 内藤家譜」には「合力2500石」と記されているが、幕府からの給地があったことを示すのか、あるいは棚倉藩より知行地の分与を受けたのか、不明である。 実子・信有は棚倉藩内藤家の分家・内藤信全の養子となっている。.

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内藤信盛

内藤 信盛(ないとう のぶもり、貞享2年(1685年) - 元禄7年11月5日(1694年12月21日))は、江戸時代前期の寄合旗本(5,000石)。内藤弌信の子。養父は内藤信之。通称は兵庫、別名に勝之助。 貞享2年(1685年)陸奥国棚倉藩主・内藤弌信の子として生まれる。叔父・信之の養子となり、元禄2年(1689年)12月19日に旗本分家の家督を継いだ。 元禄7年11月5日、江戸において死去した。享年10。法名は了寛。葬地は分家初代・信広に同じとされている(「寛政譜」新訂13巻207頁)。嗣子がなく、そのため絶家となった。 『村上郷土史』所載系図(78頁)では貞享2年10月、棚倉に生まれたとしている。.

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内藤信親

内藤 信親(ないとう のぶちか)は、江戸時代後期の大名、老中。越後国村上藩の第7代藩主。第6代藩主・内藤信敦の三男。母は、寛政の改革で有名な老中松平定信の娘である。 世子だった兄の信方が文政5年(1822年)に死去したため、嫡子となる。文政5年(1825年)、父の死により家督を継いだ。.

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内藤信貞

内藤 信貞(ないとう のぶさだ、万治3年(1660年) - 寛文13年3月4日(1673年4月20日))は、江戸時代前期の陸奥国棚倉藩の第2代藩主・内藤信良の長男。母は松平直基の養女。幼名は藤太郎。寛文6年(1666年)徳川家綱に披露されるが、同13年に早世した。享年14。当時信良には男児が無かったため、同年(延宝1年)10月、養子として内藤弌信が迎えられ、翌2年にその家督が継承された。 法名:法雲院恵林。葬地は小石川無量院(廃寺)と伝えられている。.

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内藤信輝

内藤 信輝(ないとう のぶてる)は、越後国村上藩の第2代藩主。.

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内藤信興

内藤 信興(ないとう のぶおき)は、越後村上藩の第3代藩主。第2代藩主・内藤信輝の次男。.

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内藤信良

内藤 信良(ないとう のぶよし)は、陸奥棚倉藩の第2代藩主。.

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内藤信正

内藤 信正(ないとう のぶまさ)は、戦国時代の武将、江戸時代初期の譜代大名。近江長浜藩の第2代藩主、摂津高槻藩主を経て、山城伏見藩主となる。.

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内藤信武

内藤 信武(ないとう のぶたけ、生年未詳 - 元和5年3月26日(1619年5月10日))は、江戸時代前期の摂津国高槻藩主内藤信正の子。陸奥国棚倉藩主となった内藤信照の弟。従五位下丹後守。 庶子として生まれたが、兄・信照が病弱であったため、父・信正の嗣子となる。しかし元和5年(1619年)に夭折、再び信照が嗣子となって家督を継承した。娘は信照の養女となり、後堀利長の室となっている。 法名は「性空」と伝えられている。葬地は不明である。.

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内藤信民

内藤 信民(ないとう のぶたみ、嘉永3年(1850年)- 慶応4年7月11日(1868年8月28日))は、越後村上藩の第8代藩主。信濃岩村田藩主・内藤正縄の五男。官位は従五位下、豊前守。幼名は千代松、初名は正民という。 万延元年(1860年)5月2日に遠縁に当たる越後村上藩主・内藤信思の養嗣子となる。文久3年(1863年)12月19日、将軍徳川家茂に拝謁する。元治元年(1864年)1月27日、従五位下豊前守に叙任する。後に紀伊守に改める。同年4月26日、養父信思の隠居により家督を継いだ。幕末期の動乱の中では終始、佐幕派として行動し、長州征伐(第2次)においても功績を挙げている。 慶応4年(1868年)2月15日、病気を理由に重臣を上洛させる。同年3月、新政府に恭順を申し入れる。しかし、藩論を勤王にまとめることはできなかった。同年5月、村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府と交戦状態となる。一時期は善戦したが、越後長岡藩が新政府軍によって破られ、村上藩が危機的状況に陥ると、失意に暮れて7月11日(異説として7月16日)深夜、城内にて自殺した。享年19。墓所は新潟県村上市本町の光徳寺。 信民には嗣子がなかったため、後に信思の養嗣子・信美が跡を継いだ。また、信民が自殺したことで村上藩は大混乱となり、家老である佐幕派の鳥居三十郎が主導権を把握した。信民の死から1ヵ月後の8月11日、村上城は新政府軍によって落城している。 のふたみ のふたみ Category:村上藩主 Category:岩村田藩の人物 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:自殺した人物 Category:1850年生 Category:1868年没.

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内藤信清

内藤 信清(ないとう のぶきよ、寛文4年(1664年) - 貞享5年8月17日(1688年9月11日))は、江戸時代前期の寄合旗本(5,000石)。内藤信光の子。母は本多利長の娘。妻は植村忠朝の娘。通称は主膳。 延宝3年(1675年)7月11日、父・信光の遺領を継ぎ、同26日、12歳で徳川家綱に初御目見する。貞享4年(1687年)12月15日に小姓組組頭となり、また25日に布衣の着用を許された。 貞享5年(1688年)8月17日、江戸において死去した。享年25。法名は心含。葬地は祖父・信広に同じとされている(「寛政譜」新訂13巻206頁)。家督は弟の信之が継いだ。.

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内藤信有

内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見する。同5年定火消となり、また布衣の着用を許される。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に貶められたという。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地をあらためて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死す。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。.

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内藤信朋

内藤 信朋(ないとう のぶとも、寛文12年(1672年) - 延享4年2月24日(1747年4月3日))は、江戸時代中期の村上藩内藤家の分家当主・内藤信有の子。旗本(5000石)。知行地:駿河国・富士郡および駿東郡。源三郎、釆女、従五位下越前守。妻は内藤信良の娘。子に信旨、信邦、中条信秀妻、信庸。養子に信旨の娘(信庸の妻)。 延宝9年(1681年)2月12日徳川綱吉に披露される。正徳元年(1711年)12月19日、父・信有の家督を継ぎ、小普請となる。享保4年(1719年)6月25日小普請組・支配となり、同年12月18日布衣の着用を許される。同9年(1724年)12月15日書院番頭に転じ、18日従五位下越前守に叙任された。 享保13年(1728年)8月12日に大番頭となり、また15年(1730年)2月15日からは留守居役を務めた。延享2年の徳川重好誕生の際には、蟇目の役を務めたという。 延享4年(1747年)2月24日、江戸において死す。享年76。法名:浄繁。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」新訂13巻204頁)。.

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内藤信成

内藤 信成(ないとう のぶなり)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、譜代大名。一説に松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟とされる。.

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内藤信方

内藤 信方(ないとう のぶかた、享和2年11月30日(1802年12月24日) - 文政5年7月13日(1822年8月29日))は、越後国村上藩6代藩主・内藤信敦の長男。母は柳沢保光の娘。正室は酒井忠進の娘。継室に松平忠恵の娘従五位下豊前守、従四位下紀伊守、侍従。別名:三左衛門、信思(のぶこと)。 越後村上藩嫡子だったが、家督を継ぐことなく父に先立って死去した。代わって、異母弟の信親が嫡子となり、のちに7代藩主に就任した。 のふかた Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1802年生 Category:1822年没.

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内藤信旭

内藤 信旭(ないとう のぶあきら)は、越後国村上藩の第4代藩主。第3代藩主・内藤信興の長男。.

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内藤信敦

内藤 信敦(ないとう のぶあつ)は、江戸時代後期の大名で、越後村上藩の第6代藩主。江戸幕府では奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代などの要職を歴任した。.

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内藤信智

内藤 信智(ないとう のぶとも、元文3年(1738年) - 明和4年5月26日(1767年6月22日))は、江戸時代中期の旗本・内藤信庸の養嗣子。別名・幸三郎、頼母。妻は谷衛衝の娘。子に谷衛貞妻、信義。 元文3年(1738年)内藤信朋の子・内藤信邦の次男として生まれる。父・信邦は同年8月11日に夭折したため、内藤信庸が家督を継ぎ、信智はその養子となった。 宝暦6年(1756年)12月7日、徳川家重に披露される。しかし明和4年(1767年)5月26日、養父・信庸に先立ち死去した。享年30。信庸の遺領は信智の子・内藤信義が継承している。 「寛政譜」には法名、葬地が記されていない。.

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内藤頼尚

内藤 頼尚(ないとう よりたか)は、江戸時代中期の大名。信濃高遠藩の第4代藩主。高遠藩内藤家9代。 宝暦2年(1752年)2月27日、越後村上藩主・内藤信興の三男として生まれる。明和9年(1772年)7月10日に第3代藩主・頼由の養子となり、安永5年(1776年)2月5日、養父が隠居したために跡を継いだ。しかし同年10月25日に死去した。享年25。子は全て女児のため、養子の長好が跡を継いだ。 よりたか よりたか Category:高遠藩主 Category:村上藩の人物 Category:1752年生 Category:1776年没.

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内藤正縄

内藤 正縄(ないとう まさつな)は、江戸時代後期の大名。信濃岩村田藩の第6代藩主。岩村田藩内藤家7代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の実弟である。 寛政7年(1795年)、肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男として生まれる。享和3年(1803年)閏1月18日、前年に死去した岩村田藩主・内藤正国の甥にあたることから養子に迎えられ、9歳で家督を継いだ。文化6年(1809年)10月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月28日、従五位下下総守に叙任する。文化9年6月13日、初入国の許可を得る。 文化7年4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化11年2月、大坂加番を命じられる。文政8年(1825年)12月、大番頭に就任する。天保9年(1838年)9月24日、伏見奉行に就任した。在任中、京都で逮捕された梅田雲浜を取り調べるなど、井伊直弼による安政の大獄を支えた。その功績により安政5年(1858年)7月11日には城主格に昇進した。安政6年8月11日、解任されて、雁の間詰めとなる。 万延元年(1860年)2月25日に死去した。享年66。長男の正義は安政元年(1854年)に早世しているため、正義の長男で嫡孫の正誠が跡を継いだ。 なお正縄の手植の梅の古樹が岩村田にあり、正縄公御手植の「豊後梅」と呼ばれている。.

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内藤清長

内藤 清長(ないとう きよなが、文亀元年(1501年) - 永禄7年8月12日(1564年9月17日))は、戦国時代の武将。父は内藤義清。弟に甚五左衛門忠郷(正成の父)。通称は弥次右衛門。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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前田利聲

前田利聲(まえだ としかた)は、越中富山藩の第12代藩主。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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田中藩

中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.

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燕市

燕市(つばめし)は、新潟県のほぼ中央部に位置する市である。.

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韮山城

韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての日本の城。平山城。15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。.

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駿府城

駿府城の航空写真(1988年撮影)国土航空写真 城郭図 駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城や静岡城など。 江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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高槻城

航路図(本絵図の右上部に高槻城が描かれている)/神戸市立博物館蔵 高槻城(たかつきじょう)は、明治7年(1874年)まで大阪府高槻市にあった日本の城。入江城(いりえじょう)とも呼ばれる。.

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高槻藩

槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩の一つ。藩庁は高槻城(現在の大阪府高槻市)。本項目では関係のある山城長岡藩についても記述する。.

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譜第

譜第(ふだい・譜代)は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。なお、中世以後には譜代という表記も用いられた。なお、『令集解』職員令治部省条には『古記』を引用して、“譜第”を「天下人民の本姓の札名(ふだな)也」と定義している。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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鳥居三十郎

鳥居 三十郎 和祚(とりい さんじゅうろう まさよし, 1841年10月 - 1869年8月2日)は越後村上藩の家老。戊辰戦争時には村上藩最年少の家老であり、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦う。戦後、村上藩の責任を一身に背負って切腹。.

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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長浜城 (近江国)

長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。.

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長浜藩

長浜藩(ながはまはん)は、近江国坂田郡長浜に存在した藩。藩庁は長浜城(現在の滋賀県長浜市公園町)に置かれた。.

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酒井忠宝 (庄内藩主)

酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸時代末期の大名。出羽庄内藩第12代藩主で最後の藩主、大泉藩知事、左衛門尉酒井家第14代当主。第9代藩主・酒井忠発の六男。正室は遠藤胤城の娘。官位は従五位。.

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酒井忠篤 (庄内藩主)

酒井 忠篤(さかい ただずみ)は、出羽庄内藩11代藩主、左衛門尉酒井家13代、15代当主。.

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鋸挽き

鋸挽き(のこぎりびき)は、死刑の一で、罪人の体を鋸で挽く刑罰である。中世および近世の日本で行われた。また、ヨーロッパや中国(『五車韻瑞』、『塵添壒嚢鈔』11、また『北斉書』文宣皇帝本紀(穆嵩)と薛嬪伝(薛嬪の姉))でも行なわれた。この項では、かつて日本で行われていた鋸挽きについて説明する。西洋の鋸引きについては刑罰の一覧を参照。 天暦(947年から957年)年間、厨子王丸(対王丸とも)が丹後の領主となって、由良の湊の山椒大夫を捕らえ、竹鋸でその首を断たせたという伝説がある(安寿と厨子王丸参照)。 復讐刑としての意味合いも強く、縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代より以前には実際に首を鋸で挽かせていた。 だが、江戸時代になると形式的なものになり、「御定書百箇条」において正刑のひとつ、且つ最も重い死刑として掲げられた。すなわち、その七十一に、とある。日本橋の南の広場に、方3尺、深さ2尺5寸の穴晒箱という箱をなかば土中に埋め、箱に罪人を入れ、首だけが地面から出るようにした上で3日間(2晩)見せ物として晒した(穴晒)。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔とした。元禄時代に罪人の横に置かれた鋸を挽く者がおり、慌てた幕府はその後、監視の役人を置くようにしたという。 江戸時代に科されていた6種類の死刑の中で最も重い刑罰であり、主人殺しにのみ適用された。 この刑は明治元年(1868年)11月13日の達で、火刑とともに廃された。.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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松波良利

松波 良利(まつなみ よしとし、? - 宝永7年11月19日(1711年1月7日))は、江戸時代前期の財政家。勘十郎(かんじゅうろう)の通称で知られている。各地の大名家の財政再建を請負った。.

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村上城

村上城(むらかみじょう)は、かつて新潟県村上市に存在した日本の城(平山城)。別名・舞鶴城(まいづるじょう)、本庄城(ほんじょうじょう)。村上市街地東端にそびえる臥牛山(標高135メートル)の頂に築城され、歴代の村上藩主の居城であった。国の史跡に指定されている。.

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村上市

村上市(むらかみし)は、新潟県の北部、日本海に面した市である。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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棚倉藩

棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.

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検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

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正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸田氏尹

戸田 氏尹(とだ うじただ、元禄11年(1698年) - 明和7年10月25日(1770年12月11日))は、江戸時代中期の高家旗本。内藤信有の四男。通称は岩之助、大学、寛休。 高家旗本戸田氏興の末期養子。実父信有の後妻は戸田氏豊の娘で旗本中条信慶の養女として嫁いでいた。ただし氏尹の生母は戸田氏ではない。 宝永6年(1709年)12月25日養父氏興の死去により、家督を相続する。表高家に列する。生涯高家職に就くことはなかった。宝永7年(1710年)4月19日将軍徳川家宣に御目見する。寛保2年(1742年)7月26日隠居し、長男氏富に家督を譲る。明和7年(1770年)10月25日死去、73歳。 うしたた Category:内藤家 (信成系) Category:江戸幕府旗本 Category:1698年生 Category:1770年没.

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明暦

明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1563年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1601年

17世紀最初の年である。.

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1603年

記載なし。

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1606年

記載なし。

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1612年

記載なし。

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1617年

記載なし。

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1619年

記載なし。

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1626年

記載なし。

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1658年

記載なし。

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1661年

記載なし。

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1672年

記載なし。

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1689年

記載なし。

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1705年

記載なし。

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1720年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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