目次
47 関係: 大将軍、太守、孝武帝 (北魏)、字、宗室、宇文直、宇文泰、岷州、弘農郡、徐度、侯莫陳悦、後梁 (南朝)、保定 (北周)、北史、北周、北魏、刺史、周書、呉明徹、前後左右将軍、竇泰、羌、爾朱天光、隴西郡、華皎、西魏、賀抜岳、車騎将軍、軍人、郢州、都督、関中、邙山の戦い、蕭巋、長江、鉅鹿郡、陳 (南朝)、河南郡、河北郡 (中国)、河橋・邙山の戦い、沙苑の戦い、洛陽市、淳于量、湘州、潼関、本貫、明帝 (北周)。
大将軍
大将軍(だいしょうぐん、たいしょうぐん)は、中国および日本における歴史上の官職の一つ。
見る 元定と大将軍
太守
太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。尊称として「明府」または「府君」と呼ばれる。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。
見る 元定と太守
孝武帝 (北魏)
孝武帝(こうぶてい、510年 - 535年、在位:532年 - 535年)は、北朝北魏の第13代(最後の)皇帝。姓は元、諱は脩(修とする史料もある)。第7代皇帝宣武帝の甥。『魏書』では出帝と記載される。
見る 元定と孝武帝 (北魏)
字
字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。
見る 元定と字
宗室
宗室(そうしつ)とは、中国・朝鮮・ベトナムにおける、広義的な皇族に対する呼び方である。
見る 元定と宗室
宇文直
宇文 直(うぶん ちょく ? - 574年)は、北周の皇族。衛剌王。字は豆羅突。宇文泰の八男。武帝の同母弟にあたる。
見る 元定と宇文直
宇文泰
宇文 泰(うぶん たい、正始2年(505年) - 恭帝3年10月4日(556年11月21日))は、北魏・西魏の政治家。字は黒獺(または黒泰とも)。鮮卑系の人であり、実質的に北周の基礎を築いた。実際には帝位には就いていないが、廟号は太祖、559年には文帝と追諡されている。
見る 元定と宇文泰
岷州
岷州(みんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の甘粛省南部に設置された。
見る 元定と岷州
弘農郡
弘農郡(こうのうぐん)は漢代から唐代にかけて河南省に設置された郡。前漢の時代が最も管轄地域が広範である。現在の河南省西部に位置する三門峡市・南陽市西部及び陝西省商洛市を管轄し、長安から洛陽間の黄河南岸に位置し、古代より政治・軍事の要衝とされた。 前漢の前113年(元鼎4年)、武帝により函谷関付近に弘農郡が新設され、郡治が弘農県に置かれた。弘農・盧氏・陝・宜陽・黽池・丹水・新安・商・析・陸渾・上雒の11県が管轄した。『漢書』によれば前漢末に戸数118,911戸、475,954人があった。 王莽のとき、右隊郡(うすいぐん)と改称された。後漢が建てられると、弘農郡の称にもどされた。 後漢のとき、弘農郡は弘農・陝・黽池・新安・宜陽・陸渾・盧氏・湖・華陰の9県を管轄した。
見る 元定と弘農郡
徐度
徐 度(じょ たく、509年 - 568年)は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は孝節。本貫は安陸郡。
見る 元定と徐度
侯莫陳悦
侯莫陳 悦(こうばくちん えつ、? - 534年)は、中国の北魏末の軍人。
見る 元定と侯莫陳悦
後梁 (南朝)
後梁(こうりょう、ごりょう、554年 - 587年)は、中国の南北朝時代に存在した王朝。中国では、五代十国時代の後梁と区別して西梁とも呼ぶ。都は江陵。
見る 元定と後梁 (南朝)
保定 (北周)
保定(ほてい)は、南北朝時代の北周において、武帝の治世に使用された元号。561年正月 - 565年12月。
見る 元定と保定 (北周)
北史
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。
見る 元定と北史
北周
北周(ほくしゅう、、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。正式な国号は周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周をはじめとする同名の王朝と区別するために北周と呼ばれる。 君主の称号としては当初秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用していた。
見る 元定と北周
北魏
北魏(ほくぎ、、386年 - 535年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東西分裂後の東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。
見る 元定と北魏
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。州牧(あるいは単に牧)とも。日本では国守の唐名として使われた。
見る 元定と刺史
周書
『周書』(しゅうしょ、)は、唐の令狐徳棻らが太宗の勅命によって撰した紀伝体の断代史で、二十四史の一つである。西魏、北周両朝の歴史を記録した正史である。『北周書』(ほくしゅうしょ)、『後周書』(こうしゅうしょ)とも呼ぶ。50巻、636年(貞観10年)に完成した。
見る 元定と周書
呉明徹
呉明徹(ご めいてつ、天監13年(514年)- 大象2年7月28日(580年8月24日))は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は通昭。本貫は秦郡。
見る 元定と呉明徹
前後左右将軍
前後左右将軍(ぜんごさゆうしょうぐん)は、中国の秦・前漢以降の官職で、前将軍、左将軍、右将軍、後将軍の総称である。 ・に比較して四方将軍と呼称されることもある。 中国では四征将軍・四鎮将軍・・を外征に携わる者として、四方将軍を大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍とともに朝廷内にあって政治にも関与する者としてとする分類や、大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍・四征将軍・四鎮将軍・四方将軍を雑号将軍に対してと総称する分類もある。 『宋書』百官志上、下によると、宋においては四征将軍・四鎮将軍より下位にあった。しかし、時代や就任している人物によってその地位は変化するため、絶対的な順位はない。 『漢書』百官公卿表上、『続漢書』百官志一によれば周末に生まれた官であるという。金印紫綬で、常に置かれたのではなかった。征伐を掌り、任務が終われば官自体も終了した。
見る 元定と前後左右将軍
竇泰
竇 泰(とう たい、500年 - 537年)は、中国の北魏末から東魏にかけての軍人。字は世寧。太安郡狄那県の出身。本貫は清河郡観津県。
見る 元定と竇泰
羌
後漢末期(198年頃)の羌族の位置 羌(きょう、)は、古代より中国西部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。
見る 元定と羌
爾朱天光
爾朱 天光(じしゅ てんこう、496年 - 532年)は、北魏の軍人。本貫は秀容郡。爾朱栄の従祖兄の子にあたる。
見る 元定と爾朱天光
隴西郡
隴西郡(ろうせいぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省東南部に設置された。
見る 元定と隴西郡
華皎
華皎(か こう、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の人物。南朝陳に対して反乱を起こした。本貫は晋陵郡曁陽県。
見る 元定と華皎
西魏
西魏(せいぎ、、535年 - 556年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の方は東魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。 なお、東魏を継承した北斉にて編纂された正史『魏書』においては、東魏の孝静帝を北魏の歴代皇帝に加えており、文帝以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の北周の建国の功臣として『周書』に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、唐の時代に『北史』が編纂されるまで本紀が書かれることはなかった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書としては、清代に謝蘊山によって書かれた『西魏書』がある。
見る 元定と西魏
賀抜岳
賀抜 岳(がばつ がく、生年不詳 - 534年)は、中国の北魏末の軍人。関中に地盤を築き、彼の作った軍閥は後の西魏・北周の基礎となった。字は阿斗泥。本貫は神武郡尖山県(現在の山西省忻州市神池県)。
見る 元定と賀抜岳
車騎将軍
車騎将軍(しゃきしょうぐん)は、中国の前漢以降の官職で、軍を率いる将軍位の一つである。
見る 元定と車騎将軍
軍人
大日本帝国陸軍の軍人と軍旗。1931年(昭和6年)撮影。 軍人(ぐんじん、、、ミーレス)は、軍隊の構成員。
見る 元定と軍人
郢州
郢州(えいしゅう)は、中国にかつて存在した州。三国時代から元初にかけて設置された。南北朝時代には現在の武漢市を中心として湖北省東部一帯を管轄したが、唐代以降は現在の荊門市の一部を管轄するにとどまった。
見る 元定と郢州
都督
都督(ととく)は、中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。また4世紀 - 6世紀には、中国と外交関係を持つ近隣諸国・諸民族の君主・臣下に授与される称号の一部としても用いられた。
見る 元定と都督
関中
関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域で、函谷関の西側の地域の渭河平原(いがへいげん)、渭水盆地を指す。現在の中国陝西省の西安を中心とした一帯である。八百里秦川とも呼称される。 南の秦嶺山脈、北の黄土高原に挟まれており、西は宝鶏市の隴山周辺、東は渭水(渭河)と黄河の合流地点までで東西300㎞の地帯である。気候は乾燥しており、水が貴重な地域である。 春秋戦国時代の秦の領地であり、前漢・隋・唐は、この地に首都である長安を置いた。 関中とは函谷関、、、の四つの防衛拠点である関所()の中にあることから、戦国時代に命名された。
見る 元定と関中
邙山の戦い
邙山の戦い(ぼうざんのたたかい)は、中国の南北朝時代に邙山(現在の河南省洛陽市の北)において起こった東魏軍と西魏軍の間の戦いである。
見る 元定と邙山の戦い
蕭巋
蕭 巋(しょう き)は、南朝後梁の第2代皇帝。諡号は明皇帝で、明帝と呼ばれる。
見る 元定と蕭巋
長江
長江(ちょうこう、长江、)は、中華人民共和国青海省のチベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6,300 kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でもナイル川、アマゾン川に次ぐ第3位の大河である。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、扬子江、、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。
見る 元定と長江
鉅鹿郡
鉅鹿郡(きょろく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河北省邢台市一帯に設置された。
見る 元定と鉅鹿郡
陳 (南朝)
陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の国。春秋時代に存在した陳と区別して、南陳と呼ばれることもある。
見る 元定と陳 (南朝)
河南郡
河南郡(かなんぐん)は、漢代から隋代にかけて現在の河南省に設置された郡。 韓の宣恵王のとき、河南に三川郡が置かれた。領域内に黄河・洛水・伊水の三川があることからその名を取られた。 紀元前249年(秦の荘襄王元年)、秦が韓を攻め、韓が成皋・鞏の地を献ずると、秦もまた三川郡を置いた。 紀元前205年(漢の高帝2年)、三川郡は河南郡と改称された。前漢末には、雒陽・滎陽・偃師・京・平陰・中牟・平・陽武・河南・緱氏・巻・原武・鞏・穀城・故市・密・新成・開封・成皋・苑陵・梁・新鄭の22県を管轄した。『漢書』によれば戸数27万6444人、人口174万279人があった。 後漢が建てられると、都が雒陽に定められたため、39年(建武15年)に河南郡は河南尹と改められた。河南尹は雒陽・河南・梁・滎陽・巻・原武・陽武・中牟・開封・苑陵・平陰・穀城・緱氏・鞏・成皋・京・密・新城・偃師・新鄭・平の21県を管轄した。
見る 元定と河南郡
河北郡 (中国)
河北郡(かほく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。五胡十六国時代から隋初にかけて、現在の山西省南部に設置された。
見る 元定と河北郡 (中国)
河橋・邙山の戦い
河橋・邙山の戦い(かきょう・ぼうざんのたたかい)は、中国の南北朝時代に河橋(現在の河南省焦作市孟州市の南西)および邙山(現在の河南省洛陽市の北)において起こった東魏軍と西魏軍の間の戦いである。
見る 元定と河橋・邙山の戦い
沙苑の戦い
沙苑の戦い(しゃおんのたたかい)は、中国の南北朝時代に沙苑(現在の陝西省渭南市大茘県の南)において起こった東魏軍と西魏軍の間の戦いである。
見る 元定と沙苑の戦い
洛陽市
洛陽市(らくようし、、)は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市。 中国史上、しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。
見る 元定と洛陽市
淳于量
淳于 量(じゅんう りょう、511年 - 582年)は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は思明。本貫は済北郡。
見る 元定と淳于量
湘州
湘州(しょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。晋代から南北朝時代にかけて、現在の湖南省一帯に設置された。
見る 元定と湘州
潼関
潼関(どうかん、とうかん, Tong Pass)は、中国陝西省の東端にあった関所(関塞)。現在の行政区画では、陝西省渭南市潼関県の北部に位置する。黄河の屈曲点に位置し、古来中原から関中に入る交通の要衝・軍事の要地として知られる。
見る 元定と潼関
本貫
本貫(ほんがん、ほんかん)は、古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が、それにもとづき行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともにこの概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国(簡体字:、繁体字:(拼音:jí guàn))・朝鮮半島(본관(ポングワン))では、本貫は、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。
見る 元定と本貫
明帝 (北周)
明帝(めいてい)は、北朝北周の第2代皇帝。姓は宇文、諱は毓(いく)。字は統万突。
見る 元定と明帝 (北周)

