83 関係: あっせん、堺市、塔頭、大覚、大永、天正、天明、天明の大火、天文 (元号)、妙顕寺 (曖昧さ回避)、妙覚寺 (京都市)、實成院、寺之内、小浜市、上京区、中京区、三宝尊、下京区、久本院、京都市、京都市営地下鉄、京都府、二条城、今出川駅、建武 (日本)、伽藍、後奈良天皇、後醍醐天皇、応永、嘉慶 (日本)、善行院、元亨、光厳天皇、勅願寺、玄旨伝法本尊、祈願所、立本寺、綸旨、狩野山楽、衆徒、豊臣秀吉、足利義稙、足利義満、足利義持、龍華院、若狭国、院宣、暦応、比叡山、永正、...、法音院、法華一揆、泉妙院、洛中法華21ヶ寺、本妙院、本山、本土寺、明徳、昭和、新町通、日広、日像、日蓮、日蓮宗、日朗、日教、教法院、1321年、1334年、1341年、1387年、1393年、1411年、1413年、1504年、1521年、1528年、1536年、1542年、1548年、1584年、1788年、1941年。 インデックスを展開 (33 もっと) »
あっせん
あっせんとは、裁判外紛争解決手続の一つである。主に労働分野において、公的な紛争解決機関の力を借りて、双方の主張の要点を確かめ、事件が解決されるように努める話し合い手続のことである。 「斡旋」とする表記もあるが、現行法では法令上の表記はひらがな表記の「あっせん」である。.
堺市
堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.
塔頭
塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.
大覚
大覚(だいかく、1297年(永仁5年)- 1364年5月5日(貞治3年4月3日))は、南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。幼名は月光丸。.
大永
大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
天明の大火
天明の大火(てんめいの たいか)とは、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した火災。出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)というと、通常はこの天明の大火のことを指す。 京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都はこの前後にも宝永の大火と元治のどんどん焼けで市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある。.
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.
新しい!!: 妙顕寺と天文 (元号) · 続きを見る »
妙顕寺 (曖昧さ回避)
妙顕寺(みょうけんじ)は仏教の寺院で各地に存在する。;寺院.
新しい!!: 妙顕寺と妙顕寺 (曖昧さ回避) · 続きを見る »
妙覚寺 (京都市)
妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が三院ある(善明院、實成院、玉泉院)。.
新しい!!: 妙顕寺と妙覚寺 (京都市) · 続きを見る »
實成院
實成院(実成院、じっせいいん、じつじょういん).
寺之内
寺之内(てらのうち)は京都市上京区の堀川紫明から堀川上立売周辺の寺町ないし、その周辺を東西に通る通り(寺之内通)。 通りの東端は烏丸通、西端は御前通の西で盧山寺通に合流する。 豊臣秀吉による京都改造によって寺院が集められた。日蓮宗系寺院が多い。聚楽第北方の防衛ラインとして設けられたとの説もある。.
小浜市
小浜市(おばまし)は、福井県南西部(嶺南)、旧若狭国の市である。.
上京区
沂高校 京都市歴史資料館 京極小学校、左手に二宮金次郎の像が現存している 上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。.
中京区
中京区(なかぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつである。 2005年(平成17年)国勢調査における推計人口が1985年(昭和60年)以来20年ぶりに10万人の大台を回復した。特に南部の明倫学区や本能学区での人口増加が著しい。.
三宝尊
久遠寺の三宝尊 三宝尊(さんぼうそん、さんぽうそん)とは、法華宗・日蓮宗の本尊。仏・法・僧の三宝を祀るための仏像を三宝尊と言う。様々な形式がある。また、庶民にとって高価な仏像を祀ることは困難であり、日蓮は諸尊を書いた十界曼荼羅を庶民に与えた。.
下京区
下京区(しもぎょうく)は、京都市を構成する11区のひとつである。北辺を通る四条通の四条烏丸(烏丸通)から四条河原町(河原町通)までは京都府、京都市有数の繁華街となっている。 また、京都駅は、京都市周辺部のターミナルであり、周辺には京都タワー・京都駅ビルなどを中心に商業施設が集まっている。 早くから業務地化が進み、人口は30年以上にわたってドーナツ化現象により減り続けていたが、1995年以降都心回帰に伴う居住地再整備やマンション建設の増加に伴い再び人口が増加傾向に転じている。2005年に行われた国勢調査においても、隣接する中京区や南区などと並び人口増加区のひとつとなった。.
久本院
久本院(くほんいん)は、京都府京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町にある日蓮宗の寺院で、妙顕寺の塔頭。山号は具足山。達師法縁(繁珠会)。安土桃山時代に豪商茶屋四郎次郎の外護で中興したので茶屋四郎次郎の墓所があり、その像を格護している。.
京都市
京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.
京都市営地下鉄
京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄。烏丸線・東西線の2つの路線があり、西京区を除く京都市内10区と宇治市を通っている。条例上は「京都市高速鉄道」と呼ばれている。.
新しい!!: 妙顕寺と京都市営地下鉄 · 続きを見る »
京都府
京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.
二条城
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.
今出川駅
同志社大学連絡口 今出川駅(いまでがわえき)は、京都府京都市上京区にある、京都市営地下鉄烏丸線の駅である。駅番号はK06。.
建武 (日本)
建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.
新しい!!: 妙顕寺と建武 (日本) · 続きを見る »
伽藍
法隆寺西院伽藍。正面が中門 伽藍(がらん)は、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになった。サンスクリット語のの音写で、「僧伽藍摩(そうぎゃらんま)」「僧伽藍」が略されて「伽藍」と言われた。漢訳の場合は「衆園(しゅおん)」「僧園(そうおん)」などと訳された例があるが、通常「伽藍」とのみ呼ばれる。.
後奈良天皇
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.
後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
応永
応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.
嘉慶 (日本)
嘉慶(かけい、かきょう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。至徳の後、康応の前。1387年から1388年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.
新しい!!: 妙顕寺と嘉慶 (日本) · 続きを見る »
善行院
善行院(ぜんぎょういん).
元亨
元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
光厳天皇
光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.
勅願寺
勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。寺格の一つ。 実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。 明治時代初期まで勅願寺の指定が行われていたが、神仏分離令によって指定が廃止された。.
玄旨伝法本尊
旨伝法本尊(げんじでんぽうのほんぞん)は、京都市上京区の妙顕寺に伝来する日蓮筆の法華曼荼羅。建治元年12月(1275年)頃製作。 日蓮が、日像の入門に際して授与したという。縦46センチメートル、横30センチメートルほどの紙本墨書の小型曼荼羅で、携帯用に製作されたと考えられている。.
新しい!!: 妙顕寺と玄旨伝法本尊 · 続きを見る »
祈願所
所(きがんじょ)は神社、寺院の1つで、特に人々が神仏に願い事を行う寺社を指す。寺院の場合は祈願寺、御願寺と言う。 また、天皇によって祈願寺となった寺院を、特に勅願寺と言う。.
立本寺
立本寺(りゅうほんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が4か院ある(正行院、教法院、光源院、大輪院)。.
綸旨
綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.
狩野山楽
狩野山楽像 伝木村香雪筆 京都国立博物館蔵 狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日)は、安土桃山時代~江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪は養子。.
衆徒
衆徒(しゅと)は、堂衆(どうしゅ/どうしゅう)とも呼ばれ、本来は平安時代以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと。大衆の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある。特に興福寺が守護職を務めた大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もある。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.
足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.
足利義持
足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.
龍華院
龍華院(りゅうげいん)は、日本の寺院; 中部.
若狭国
若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
院宣
院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.
暦応
暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.
比叡山
比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.
永正
永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.
法音院
法音院(ほうおんいん).
法華一揆
法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。.
泉妙院
泉妙院(せんみょういん)は、京都府京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町にある日蓮宗の寺院で妙顕寺塔頭。尾形家の菩提寺であった興善院の旧跡にあり、境内には尾形光琳(1658年-1716年)と尾形乾山(1663年-1743年)兄弟等尾形家の墓所がある。莚師法縁(隆源会)。.
洛中法華21ヶ寺
洛中法華二十一ヶ寺(らくちゅうほっけにじゅういちほんざん)は、天文法華の乱以前に京都市内(当時は洛中)にあった法華宗系の21の本山。 全ての寺院が天文法華の乱(天文法難)によって焼かれた。 豊臣秀吉によって法華宗帰洛が許されたのちに一寺として再興したのは15カ寺であった。.
新しい!!: 妙顕寺と洛中法華21ヶ寺 · 続きを見る »
本妙院
本妙院(ほんみょういん).
本山
本山(ほんざん)は、日本の仏教の特定の宗派内に於いて、特別な位置づけをされている寺院を指す。上方本寺とも言う。宗派によっては中枢機能を有する寺院も多い。対義語は末寺。 位置づけによって、総本山、大本山、別格本山、本山などの区別があるほか、宗派によってそれぞれの用法が異なり、使用されない事もある。たとえ、寺院が山中と呼べる場所に無くても「本山」と呼ばれることは多い。 また、日本仏教以外の宗教に於いても、例えば「バチカン市国はカトリックの総本山で…」のように便宜的に、また、日常的に使用される事がある。.
本土寺
本土寺(ほんどじ)は、千葉県松戸市平賀にある、日蓮宗の本山。山号は長谷山。塔頭が一院ある(仏持院)。.
明徳
明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
新町通
新町通(しんまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。 北は玄以通から、南は京都駅で分断されるが、久世橋通の南まで延びている。 平安京の町小路(町口小路・町尻小路)にあたる。 町小路から新町通に名前が変わった理由ははっきりしないが、その時期は、およそ元亀の頃から天正初年頃の1570年代前半と推定されている。 京都府庁の東側と東本願寺の西側を通っている。御池通から五条通までは北行き一方通行、五条通から七条通までと八条通から十条通までは南行き一方通行である。 祇園祭で、御池通を西に進む山鉾が左折して新町通を下がり、それぞれの鉾町に帰っていく、巡行の最後の経路にあたっている。そのため、通の上を横断する電線が張られていない。 寺之内通から下立売通に掛けては、第二次世界大戦中建物疎開が行われ、その結果、拡幅された今の形となっている。なお、上立売通から北については新町通が筋違いになっているため、別の部分が拡幅されている。地元では、拡幅されたこの通りを新新町通(しん・しんまちどおり)と呼ぶこともある。.
日広
日広(にっこう).
日像
日像(にちぞう、1269年9月7日(文永6年8月10日) - 1342年12月11日(康永元年/興国3年11月13日))は、鎌倉時代の日蓮宗の僧。俗姓は平賀氏。幼名は経一丸。下総国の出身。房号は肥後房。肥後阿闍梨と称される。四条門流の祖。.
日蓮
妙傳寺 本蓮寺 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日)ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗後に十三宗のひとつとなる。(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。.
日蓮宗
日蓮宗(にちれんしゅう)は、.
日朗
日朗(にちろう、寛元3年4月8日(1245年5月5日 (ユリウス暦)) - 元応2年1月21日(1320年3月1日 (ユリウス暦))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。.
日教
日教(にちきょう、にっきょう)日本の僧の名前。.
教法院
教法院(きょうぼういん)は、京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある日蓮宗の寺院で、立本寺の塔頭の一つ。山号は具足山。生師法縁。毎月1回、誰でも参加できる法話の会を開催している。仏様のお顔を画く御朱印が有名です。年に数回の期間限定御朱印もあります。.
1321年
記載なし。
1334年
記載なし。
1341年
記載なし。
1387年
記載なし。
1393年
記載なし。
1411年
記載なし。
1413年
記載なし。
1504年
記載なし。
1521年
記載なし。
1528年
記載なし。
1536年
ユリウス暦の.
1542年
記載なし。
1548年
記載なし。
1584年
記載なし。
1788年
記載なし。
1941年
記載なし。