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ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

索引 ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争は、1256年から1381年までの125年間に、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国およびそれぞれの同盟国の間で、地中海での覇権をめぐり断続的に行われた一連の戦争。実際に戦火を交えた時期は4回に分けられ、その合計は28年に過ぎないが、これに含まれていない時期にも互いの私掠船が略奪しあったり、小規模な衝突が発生したりという事が地中海全域で発生し続けた。 第一次戦争(1256年 - 1270年)ではヴェネツィアが優位に立ったが、ジェノヴァがビザンツ帝国や黒海に進出するのを阻止できなかった。第二次戦争(1294年 - 1299年)ではジェノヴァが戦闘では圧倒的な勝利を収めたが、ジェノヴァ内での内紛もあって対立の決着には至らなかった。第三次戦争(1350年 - 1355年)ではヴェネツィアがアラゴン王国と同盟し、両陣営の戦力が拮抗したが、一回の大敗北と内紛によりヴェネツィアの勢力が後退した。 第四次戦争(1377年 - 1381年)では、ヴェネツィアは一時ジェノヴァ連合軍によって本国を占領されかける危機に陥った。最終的には盛り返したヴェネツィアが勝ったものの、双方が甚大な損害を出した戦争は痛み分けに終わった。.

55 関係: 十字軍地中海ペドロ4世 (アラゴン王)ミカエル8世パレオロゴスマリーノ・ファリエロマルコ・ポーロハンザ同盟ポカイアヨハネス5世パレオロゴスヨハネス6世カンタクゼノスラテン帝国ルイ9世 (フランス王)ヴェネツィア共和国ボスポラス海峡プロヴァンスプーラ (クロアチア)パドヴァピュロス (ギリシャ)テンプル騎士団フランス君主一覧フェオドシヤニカイア帝国ダーダネルス海峡アラゴン王国アルフォンソ5世アンドロニコス2世パレオロゴスアンドロニコス4世パレオロゴスアンコーナアッコエヴィア島エーゲ海オーストリア公国オスマン帝国カタルーニャ州ガラタキリキア・アルメニア王国キプロス王国キオッジャクルツォラの海戦ゲオルク・オストロゴルスキーコンスタンティノープルコンスタンティノープルの陥落シチリアジェノヴァ共和国サルデーニャサヴォイア公私掠船聖ヨハネ騎士団黒海金角湾...東ローマ帝国東ローマ帝国の皇帝一覧東方見聞録1256年1381年 インデックスを展開 (5 もっと) »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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地中海

地中海(ちちゅうかい、Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。海洋学上の地中海の一つ。.

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ペドロ4世 (アラゴン王)

ペドロ4世(西:Pedro IV, 1319年9月5日 - 1387年1月6日)は、アラゴン王、バレンシア王、およびバルセロナ伯(在位:1336年 - 1387年)。カタルーニャ語ではペラ4世(Pere IV, バルセロナ伯としては3世)。尊儀王(西:el Ceremonioso, カ:el Cerimoniós)あるいは短剣王(西:el del Punyalet)と呼ばれる。アルフォンソ4世(慈悲王)と最初の王妃テレサ・デ・エンテンサの息子。マヨルカ王ジャウメ3世を廃し、バレアレス諸島とルシヨンをアラゴン王国に回復した。また、自ら年代記を書いたことでも知られる。.

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ミカエル8世パレオロゴス

ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 1225年 - 1282年12月11日)は、東ローマ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝の初代皇帝(在位:1261年 - 1282年)。後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世パライオロゴスと表記される場合もある。中世ギリシア語表記ではミハイル8世パレオロゴス。.

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マリーノ・ファリエロ

ドゥカーレ宮殿の大評議会の間で肖像画の代わりに描かれた黒いバナー。ラテン語で「ここはマリーノ・ファリエロのスペースで、犯罪によって斬首された」と書かれている。 マリーノ・ファリエロ (Marino Faliero, 1285年 - 1355年4月17日)は、ヴェネツィアの第55代元首(ドージェ)。マリーン・ファリエル(Marin Falier)とも呼ばれる。1354年9月に元首となった。 マリーノは、1355年に自身が世襲君主となるべくクーデターを起こした。ヴェネツィア貴族への強い憎しみと、自身の年齢に由来する思考能力の低下(マリーノは当時70歳だった)により、失敗の見える行動を起こしたとみなされた。彼は自身の全ての罪を弁護し、処刑され、死後に四肢を切り刻まれた。他に10人の協力者が、処刑された後ドゥカーレ宮殿の外に吊された。 彼は記録抹殺刑に処せられ、初代元首から76代までの元首の肖像が飾られる宮殿内には彼のものはない。(元首の肖像が飾られているエリアの一角に、肖像画の代わりに黒いバナーが描かれている箇所があり、そこがマリーノ・ファリエロの場所である).

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マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

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ハンザ同盟

ハンザ同盟(ハンザどうめい)は、中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟である。同盟の慣習法は海事法のもとになった。.

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ポカイア

ポカイア(フォカエア、古典ギリシア語:Φώκαια (Phōkaia)、ラテン語:Phocaea)は、アナトリア半島西岸にあった古代ギリシア領イオニアの都市(現 トルコのフォチャ)。ギリシアの入植者は、ここから紀元前600年ころにはマッサリア(現 フランスのマルセイユ)、紀元前575年ころにはエンポリオン(現 スペイン・カタルーニャ地方のエンプリエス)、紀元前540年ころにはエレア(現 イタリア・カンパニア地方のヴェリア)といった植民地を建設した。 古代ギリシアの地理学者パウサニアスによると、アテナイがポーキス人にポカイアを建設させたとされる。その土地はアイオリスの都市であるキュメ人から譲られたものであり、最後のアテナイ王コルドスの血筋を引く者を王として受け入れることで、ポカイアはイオニア同盟に加盟を許された。現存する陶器から、紀元前9世紀にはまだアイオリス人がいたことは明らかで、イオニア人の入植は早くても紀元前9世紀の後半のことだろうと考えられている。 ヘロドトスによると、ポカイア人は航海術に優れ、地中海の各地に遠征を行った最初のギリシャ人で、アドリア海、エトルリア、スペインの海岸に到達した。さらにヘロドトスは、ポカイア人はタルテッソス(現スペイン、アンダルシア州)のアルガントニオス王に強い印象を与えたと言う。王はポカイア人たちにその地に定住するよう誘った。ポカイア人が辞退すると、町の城壁を作るためのたくさんの黄金を与えたとされる。 さらに南はおそらくエジプトにあったミレトスの人植民地ナウクラティスと交易し、北は黒海のアミソス(現サムスン)や、ヘレースポントス海峡(現ダーダネルス海峡)の北端ランプサクスへ植民したとされる。しかしポカイアの重要な植民地は西にあった。フランスのコルシカ島アレリア、マッサリア(現マルセイユ)、スペインのエンポリオン(現エンプリエス)などである。 ポカイアはリディア王クロイソスの統治期(紀元前560年 - 紀元前545年)までは他のイオニア諸都市同様、リディアの支配下にあったものの自治は維持していた。しかし、紀元前546年、ペルシアの大キュロスがリディアを滅ぼし、ポカイアはペルシアに支配されることになった。ペルシアに服従するのを嫌って、ポカイア人たちはキオス島に逃亡したり、地中海のコルシカなどの植民地に移民した。イタリアに植民地エレアを建設したのは、ちょうどこの頃(紀元前540年頃 )のことである。やがて秩序が安定するにつれポカイアに帰還する者もいた。 紀元前500年に起きたイオニアの反乱にポカイアも加わった。紀元前494年、長い歴史の中で培われた航海術を買われてイオニア艦隊を率いてラデ沖の戦いに臨むことになった。しかし、このころポカイアは貧窮しておりイオニア都市国家連合艦隊353隻のうち、ポカイア艦は僅か3隻しかなかったとされる。イオニア艦隊は敗北し、それからまもなく反乱も幕を閉じた。 紀元前480年にペルシア王クセルクセス1世がギリシアに敗北し、アテナイが勢力を伸ばした。ポカイアはアテナイに2タラント貢いで、デロス同盟に加わった。しかし紀元前412年のペロポネソス戦争では、ポカイアは他のイオニア諸都市に逆らって、スパルタを応援した。 ヘレニズム期、ポカイアはセレウコス朝、続いてアッタロス朝ペルガモン王国に支配された。さらにローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン・トルコ帝国とアナトリア半島の支配者のもとにあった。ベネデット・ザッカリーア(ジェノヴァ提督。ビュザンティオン大使。1235年 - 1307年)はポカイアを支配して、かなりの財産を貯えた。 リディア人に続いて、ポカイア人はかなり早い時期から貨幣としてコインを作っていた。そのコインは銀と金(きん)を混ぜたエレクトラム(琥珀金)だった。大英博物館には、紀元前600年から紀元前500年の間に作られた、アザラシの描かれた(ギリシアではアザラシのことを phoca という)ポカイアのコインがある。.

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ヨハネス5世パレオロゴス

ヨハネス5世パレオロゴス(Johannes V Palaiologos, ギリシャ語表記:Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος, 中世ギリシャ語ではヨアニス5世、1332年6月18日 - 1391年2月16日)は東ローマ帝国パレオロゴス朝の第7代皇帝(在位:1341年 - 1391年)。アンドロニコス3世の長男。在位年に関しては1376年から1379年までを完全に廃位されたものとして除外し、「1341年 - 1376年, 1379年 - 1391年」と二分して記載する事もある。 その治世は約半世紀に及んだが、その間に帝国はセルビアやオスマン帝国の攻撃や内乱で国力は疲弊し、最終的にはオスマン帝国の属国になるまでに零落した。.

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ヨハネス6世カンタクゼノス

ヨハネス6世カンタクゼノス(Ιωάννης ΣΤ' Καντακουζηνός, ローマ字転写:JohannesⅥ Kantakouzenos, 1295年 - 1383年6月15日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1347年 - 1354年)、政治家、歴史家、修道士。中世ギリシャ語読みではヨアニス6世カンダクジノス(もしくはカンダクヅィノス)。慣例として使われる個人名のヨハネスはラテン語名で古典式表記はイオアンネス。ラテン語のフルネームはヨハネス・カンタクゼヌス(Johannes Cantacuzenus)。修道名はヨアサフ(Ιωάσαφ)。.

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ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

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ルイ9世 (フランス王)

ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスはSaint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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ボスポラス海峡

ボスポラス海峡とルメリ・ヒサル(手前)、ファーティフ・スルタン・メフメト橋。 '''ボスポラス海峡の衛星写真''' 画面上が黒海、下がマルマラ海。イスタンブール旧市街は左側の陸の右下にある三角形の半島の部分。イスタンブール旧市街の北側の細長い湾は金角湾 ボスポラス海峡(ボスポラスかいきょう、Bosporus)は、トルコのヨーロッパ部分(オクシデント:)とアジア部分(オリエント:)を隔てる海峡である。.

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プロヴァンス

フランス国内におけるかつてのプロヴァンス伯領の位置 プロヴァンス (La Provence、プロヴァンス語:ProvençaまたはProuvènço)は、現代フランスの面積の南東部を占める地方で、東側は対イタリア国境、西は標高の低いローヌ川左岸までである。南は地中海に面し、よって、今日のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の大部分が重なる。 歴史的には、ローマ帝国終焉後、プロヴァンスは536年にフランク王国に含まれ、947年にはブルグント王国内のプロヴァンス侯領となった。その後エクス=アン=プロヴァンスを首都とするプロヴァンス伯領となったが国境は変動した。ナポリ女王ジョヴァンナ1世の死後の1388年、ヴァール川東側の領土は失われてサヴォイア伯国(fr)に併合され、サヴォワ内でこの地方はニース伯領となった。約1世紀後の1481年、プロヴァンス伯領はフランス王ルイ11世が相続した。プロヴァンスはフランスの州となった。この時代、現在のオート=アルプ県はドーフィネ州の一部となっていた。ヴネッサン伯領は1274年から教皇領となり、1348年からアヴィニョンが教皇領となって、フランス革命中の1791年にフランスに併合された。 中世のプロヴァンスは、したがってアルプス山脈の南を含み、ヴァール川左岸の支流にも及んでいた。プロヴァンスの歴史は高山地方の一部も入っている。北はドーフィネを含み、東は1388年にテール=ヌーヴ・ド・プロヴァンス(Terres-Neuves de Provence)の名称でサヴォワ家に分割されたニソワ地方を含んでいる。ニソワ地方は1526年から1860年まで行政上ニース伯領となっていた。20世紀後半からプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏が設置され、中世の偉大なるプロヴァンスがオート=アルプやニソワ地方と一緒になって復元された。.

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プーラ (クロアチア)

プーラ(、、、、)はクロアチア・イストラ郡最大の都市。イストリア半島の他地域同様、穏やかな気候と海、手つかずの自然で知られている。古代ローマ時代からの行政中心地で、ワイン醸造、漁業、造船業、観光業の長い伝統を持つ。.

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パドヴァ

パドヴァ(Padova)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。パドヴァ県の県都。経済・通信のハブ地である。 パドヴァ市の人口はヴェネト州で第3位である。ヴェネツィアなどを含むパドヴァ=ヴェネツィア都市圏の人口はおよそ160万人である。.

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ピュロス (ギリシャ)

ピュロス(希:Πύλος,英:Pylos)はギリシャのペロポネソス半島南西、メッセニアにある都市。 1939年から1952年にかけて、アメリカ人によってミケーネ文明の遺跡が発掘された。この遺跡はミケーネ文明に特徴的な建築様式であるメガロンがある。未解読文字を記した大量の粘土板がアーサー・エヴァンズによって発見され、線文字A及び線文字Bと名付けられたが、エヴァンズは未解明のミノア文明独自の言語であると考え解読を諦めていた。1953年、マイケル・ヴェントリスとジョン・チャドウィックが線文字Bで書かれている粘土板にはミケーネ・ギリシャ語(古代ギリシア語の古形)の文章が書かれていることを解読することに成功した。 ギリシャ神話においてネストル王の領地(:en:Palace of Nestor)としても有名である。 ペロポネソス戦争前期にはアテナイ軍が付近に砦を築いてメッセニア一円からの農奴の逃亡を誘い、これを攻めに来たスパルタ市民軍を逆に海上封鎖で孤立させて投降に追い込むという有名な事件の舞台となった。.

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テンプル騎士団

テンプル騎士団の紋章一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。 テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち()」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。.

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フランス君主一覧

ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユの戴冠式。1450年代に描かれたフランス大年代記 (''Grandes Chroniques de France'') のミニアチュールより(フランス国立図書館所蔵) フランス君主一覧では、君主制時代のフランスの君主の一覧を示す。.

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フェオドシヤ

フェオドシヤ(フェオドーシヤ;ウクライナ語:Феодосіяフェオドースィヤ;ロシア語:Феодосияフィアドースィヤ;クリミア・タタール語:Kefe)は、クリミアの都市。クリミア半島、黒海沿岸に位置する港湾都市。多くの観光客を集める。近隣の都市としては、約100km西にシンフェローポリ、110km南西にヤルタ、150km西にセヴァストーポリが位置している。.

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ニカイア帝国

ニカイア帝国(ニカイアていこく、1204年 - 1261年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落した際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。ニカイア(古代ギリシア語読み、中世ギリシア語ではニケア。現在のトルコ共和国イズニク)を首都とした。他にもローマ帝国を称した亡命政権にはトレビゾンド帝国やエピロス専制侯国などがあったが、1261年にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を復活させたのがニカイア帝国であるため、この国が東ローマ帝国の正統な亡命政権とみなされる。 正式な国号は東ローマ帝国同様「ローマ帝国」であり、君主も「ローマ皇帝」を称し続けた。中世ギリシア語の発音に従ってニケア帝国、あるいは皇室の姓を取ってラスカリス王朝とも呼ばれる。自称を重視する立場からニカイアの「中世ローマ帝国」とも呼ぶ説もある。.

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ダーダネルス海峡

ダーダネルス海峡の地図 ダーダネルス海峡(ダーダネルスかいきょう、Dardanelles)、もしくは、チャナッカレ海峡(チャナッカレかいきょう、Çanakkale Boğazı)は、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなす。日本では、英語名のダーダネルス海峡がよく知られている。古くはヘレスポントス(ヘレースポントス、Έλλης πόντος)とも呼ばれていた。.

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アラゴン王国

アラゴン王国(アラゴンおうこく、アラゴン語: カタルーニャ語: スペイン語:Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国。.

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アルフォンソ5世

アルフォンソ5世(Alfonso V).

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アンドロニコス2世パレオロゴス

アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1259年3月25日 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。.

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アンドロニコス4世パレオロゴス

アンドロニコス4世パレオロゴス(Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος, 1348年4月11日 - 1385年6月28日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1376年8月12日 - 1379年7月1日)。ヨハネス5世パレオロゴスの長男。.

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アンコーナ

アンコーナ(Ancona)は、イタリア共和国中部のアドリア海沿岸にある港湾都市で、その周辺地域を含む人口約10万人の基礎自治体(コムーネ)。マルケ州の州都であり、アンコーナ県の県都である。 古代ギリシア人によって築かれた都市に起源を持ち、中世には海洋共和国として繁栄した。.

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アッコ

thumb アッコ(、、)は、イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する北部地区にある市。「アッコ」はヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではアッカー(アッカ)と呼ばれる。また、アッコン、アクレ、アークル、サン・ジャン・ダクル()などとも呼ばれる。新約聖書ではヘレニズム時代の呼称であるトレマイもしくはプトレマイスとして言及される。.

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エヴィア島

ヴィア島(Εύβοια / Évvoia, Évia)は、ギリシャの東方、エーゲ海西部に位置する島。ギリシャではクレタ島に次いで二番目に大きな島である。古代ギリシアではエウボイア島(Εὔβοια / Eúboia)と呼ばれた。 島の中心都市であるハルキダ(カルキス)付近において、2本の橋でギリシャ本土と結ばれている。エヴィア島は周辺の島や本土側の一部とともにエヴィア県を構成している。.

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エーゲ海

ーゲ海(エーゲかい、Aegean Sea)は、地中海の一部を構成する海域。地中海の東北部にあたり、西と北をバルカン半島(ギリシャ共和国)、東をアナトリア半島(トルコ共和国)に囲まれた入り江状の海である。 古くは固有名詞で「多島海」(the Archipelago)と呼ばれたこともある、代表的な多島海であり、多くの島々(エーゲ海諸島)が所在する。.

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オーストリア公国

ーストリア公国(オーストリアこうこく、、Osztrák Hercegség、)は、神聖ローマ帝国内の、現在のオーストリア共和国の領域に存在した領邦。1156年の成立から1457年(大公を称したのは1359年)のオーストリア大公国の成立まで、バーベンベルク家、ツェーリンゲン家、プシェミスル家、ハプスブルク家が統治した。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カタルーニャ州

タルーニャ州(Catalunya, Cataluña, アラン語:Catalonha)は、スペインの自治州。州都はバルセロナ。 カタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している。中世にはアラゴン=カタルーニャ連合王国として地中海の覇権を握ったが、スペイン王国成立後には衰退した。1979年にはスペイン国家内で自治州の地位を得たが、2010年代にはカタルーニャ独立運動が盛んになり、2017年10月にはカタルーニャ共和国として独立宣言が行われるに至った。.

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ガラタ

海から眺めたガラタ ガラタまたはガラタ地区 (Galata)とは、トルコ共和国、イスタンブール、ベイオール(:en:Beyoğlu)にある一角の名。現在はカラキョイ地区(:en:Karaköy)の名で呼ばれている。かつてのコンスタンティノープルがあったヨーロッパ大陸側、金角湾の北岸に位置する。.

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キリキア・アルメニア王国

リキア・アルメニア王国(キリキア・アルメニアおうこく、アルメニア語:Կիլիկիայի Հայկական Թագավորություն kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年あるいは1198年 - 1375年)は、現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニア人により建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。また、紀元前にカフカス地方に存在したアルメニア王国(大アルメニア王国)と区別して小アルメニア王国と呼ぶこともある。ただし、単に「小アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国がローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア属州のことを指すこともあるため、注意が必要である。 建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯 (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。 建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。 なお、以下の項目は全面的に英語版ウィキペディアの当該項目、キリキア・アルメニア王国君主一覧およびキプロス王国からの訳出によった。.

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キプロス王国

プロス王国は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。.

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キオッジャ

ッジャ(Chioggia)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万人の基礎自治体(コムーネ)。県内第2位の人口を有するコムーネである。旧市街はヴェネツィア潟南端の島の上に築かれている。.

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クルツォラの海戦

ルツォラの海戦 (イタリア語:Battaglia di Curzola)は、第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(クルツォラ戦争)中の1298年9月8日、南ダルマティア(現クロアチア)のクルツォラ島(現 コルチュラ島) 付近でジェノヴァ共和国とヴェネツィア共和国の間で行われた海戦。13世紀から14世紀にかけて地中海やレバントの貿易をめぐってピサ共和国、ジェノヴァ、ヴェネツィアの間で長い戦いが続いたが、このクルツォラの海戦はヴェネツィアにとっては最大級の敗戦となった。.

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ゲオルク・オストロゴルスキー

ルク・オストロゴスキー(Georg Ostrogorsky 1902年1月29日 - 1976年10月24日)は、ドイツやユーゴスラビアで活躍したロシア生まれの歴史学者。専門は東ローマ帝国史。フランスのポール・ルメルルなどと共に20世紀屈指の東ローマ学者と言われている。 なお、名前は「ゲオルグ」と読まれる場合もあり、またもともとロシア生まれであるため、誕生時の名前はロシア語のГеоргий Александрович Острогорский(ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ・オストロゴルスキー)であったが、ここでは主に彼がドイツで活躍したためドイツ語読みのゲオルクを使用する。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンティノープルの陥落

ンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。.

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シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

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ジェノヴァ共和国

ェノヴァ共和国(ジェノヴァきょうわこく、Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。 1148年以来公債を引き受けた国内のシ団は、塩税の管理を委任されてからジェノア銀行として組織化された。同行は国の収入を管理した。植民地、属領、軍隊、艦隊までも保有した。戦争を行い、条約を結んだ。1407年にフランスのジャン・ル・メングル元帥は社名変更の上、累積した国家債務の借り換え資金を提供させた。その軌跡はマキャベリをして「市民は国家の暴政と、会社のすぐれた管理とのために、国家の権威よりもむしろ会社のそれを欲した」と言わしめ、イギリス東インド会社の本国に占めた地位が遠く及ばなかったほどである。衰退期を経て1797年の恐慌で破産。同行の負債は、共和国を併合したサルデーニャ王国の国債に継承された。 ジェノヴァ出身のジョン・カボットは、共和国衰退期の直前に北米海岸を発見した。.

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サルデーニャ

ルデーニャ(Sardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。 周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。.

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サヴォイア公

ヴォイア公(Duca di Savoia)は、1418年から1860年までのサヴォイア家によるサヴォワ統治の際に用いられた世襲の君主号である。現在ではサヴォイア家の儀礼称号の一つとなっている。.

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私掠船

私掠船(しりゃくせん、Privateer, )とは、戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。.

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聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団(せいヨハネきしだん)は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。 本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロドス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis.、Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。.

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黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

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金角湾

金角湾(きんかくわん、Altın Boynuz、Χρυσόν Κέρας、いずれも「金の角」の意)は、トルコのイスタンブールにある湾。トルコ語では通常ハリチュ(Haliç、ハリチ、「入り江」の意)と呼ばれる。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東ローマ帝国の皇帝一覧

東ローマ帝国皇帝の一覧.

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東方見聞録

『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。.

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1256年

記載なし。

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1381年

記載なし。

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