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トラヤヌス浴場

索引 トラヤヌス浴場

トラヤヌス浴場(Thermae Traiani)は、古代ローマの公衆浴場を中心とした複合施設で、紀元104年に着工し、109年7月の朔日にオープンした。トラヤヌス帝の命で、当時の市街地の郊外だったオッピウスの丘の南の斜面に建設されたが、セルウィウス城壁の内側である。設計者はダマスカスのアポロドーロスとされている。娯楽施設および集会所としても機能し、ローマ市民向けの男女両用の公衆浴場として5世紀初頭まで使われた。537年、ゴート族がローマを包囲し、ローマ水道を破壊したために公衆浴場は使えなくなり、廃棄された。.

25 関係: 古代ローマの公衆浴場地下回廊 (アルル)ネロローマ帝国ローマ建築ローマ水道トラヤヌステピダリウムティトゥスティトゥス浴場フリギダリウムドミティアヌスドムス・アウレアダマスカスのアポロドーロスウィトルウィウスウェスパシアヌスエクセドラエスクイリーノオッピオカラカラ浴場カルダリウムギュムナシオンセルウィウス城壁東ゴート王国537年

古代ローマの公衆浴場

バース(イングランド)の古代ローマの公衆浴場。周囲の柱の土台部分より上層の建物は後世の再現である。 ドイツのヴァイセンブルクにあった古代ローマの公衆浴場を測域センサ技術を使って再現した図(CG) 古代ローマの公衆浴場(こだいローマのこうしゅうよくじょう)では、古代ローマの公衆浴場について記述する。 バルネア (balnea)またはテルマエ (thermae)とは、古代ローマの公衆浴場である。 古代ローマの多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場があり、社会生活の中心の1つになっていた。古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。 ヴィッラやドムスや砦にも私的な浴室があり、それらも「テルマエ」と呼ばれた。これらは付近を流れる川や用水路から水を供給していた。浴室の設計については、ウィトルウィウスが『建築について』で論じている。.

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地下回廊 (アルル)

アルルの地下回廊 (Cryptoportique) は、古代ローマ時代にアレラーテの名で栄えた南仏の都市アルルに残る遺跡のひとつ。世界遺産「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」のひとつとして、アルルの公共広場跡とともに登録されている。 これは、ヴォールトを持つ地下回廊であり、ローマ属州として設置された公共広場に関し、その土台となったオチュールの丘の傾斜を平らにすることを主目的に建造された(ただし、上部にあった公共広場跡は当時の姿をほとんどとどめていない)。 その建築上の本来の目的から離れて、地下回廊特有の暗さや冷たさを利用して、様々な目的にも使われた。例えば、側面に明かり取りが設置されたことで、暑いときには散歩道として使われた。また、肉や小麦をはじめとした食料品の保存庫としても機能した。 Category:フランスの考古遺跡 Category:アルルの歴史 Category:アルルの建築物 Category:アルルの観光地 Category:古代ローマの建築 Category:フランスの世界遺産.

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ネロ

ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)は、ローマ帝国の第5代皇帝。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ローマ建築

ーマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。 ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。 また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドームなどの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。 パンテオンの内部.

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ローマ水道

ーマ水道(ローマすいどう)は、紀元前312年から3世紀にかけて古代ローマで建築された水道。ローマ水路とも。古代ローマでは、都市や工場地に水を供給するために、数多くの水道が建設された。これらの水道は古代の土木建設でもっとも偉大な業績のひとつであり、古代ローマ滅亡後1000年以上も、これに匹敵するものは作られなかった。現代においても、この古代の水道は多くの都市で実用に供され、実に2000年以上も水を供給しつづけている。 ローマ人は帝国内のどのような大都市でも、水道を建設した。中でもローマは最大の都市であり、500年かけて建造された11の水道から水が供給される、最大の水道の集積地であった。.

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トラヤヌス

マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(ラテン語:マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス、53年9月18日 - 117年8月8日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。 イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。 トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。.

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テピダリウム

''The Tepidarium'' (1881) ローレンス・アルマ=タデマ画 テピダリウム(tepidarium)は、古代ローマの公衆浴場にあった微温浴室。床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱していた。テピダリムは、床や壁に接する部分から人体に熱がほどよく伝わることを特徴とする。 ポンペイには興味深いテピダリウムの例がある。半円形の筒型ヴォールトで覆われ、レリーフや化粧しっくいで装飾され、男像柱でそれぞれ区切られた休憩できる壁龕が周囲の壁に並んでいる。ローマの公衆浴場では、テピダリウムはその中心の大ホールとなっていて、そこから他のグループ化されたホールに出入りするようになっていた。入浴者はまずテピダリウムに入り、そこから高温浴室(カルダリウム)や冷室(フリギダリウム)へと向かったと思われる。テピダリウムは大理石やモザイクで豪華に飾られていた。高窓から採光し、貴重な芸術品を飾っていた。1546年、パウルス3世の命による発掘でカラカラ浴場からファルネーゼのヘーラクレースなどの彫像、現在バチカンにある緑色の玄武岩でできた石棺、その他多数の宝物が見つかり、バチカンやナポリの博物館に移された。.

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ティトゥス

ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus, 39年12月30日 - 81年9月13日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:79年 - 81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。.

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ティトゥス浴場

ティトゥス浴場(Thermae Titi)は、80年に、第10代ローマ皇帝ティトゥスがローマのエスクイリーノの丘に築造したローマ浴場である。現在のコッレ・オッピオ(オッピオの丘)公園の南西端付近にあり、コロッセオの北隣に位置していた。.

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フリギダリウム

''The Frigidarium'' (1890) ローレンス・アルマ=タデマ画 フリギダリウム(frigidarium)は、古代ローマの公衆浴場で熱い風呂を楽しんだ後に入る大きな冷水のプールがある部屋である。カルダリウムとテピダリウムは皮膚の毛穴を広げる。その後、冷たい水に入ることで汗腺を閉じる。プールは小さい場合もあるが、水泳もできる大きなプールの場合もある。 差し渡しが5m以上の八角形のフリギダリウムの遺構が2006年、ケントのFaversham近郊の農場で発掘された。冷水を供給する大きなレンガ製の導管があった。壁は塗装された漆喰で装飾され、床からはモザイク用の着色したタイルの小片が見つかっている。このような遺跡としてはイングランド南東部では初の発見である。八角形のフリギダリウムは、キリスト教徒の洗礼やユダヤ教の沐浴に使われた可能性もあると示唆されている (Pitts, 2006)。.

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ドミティアヌス

ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス(Titus Flavius Domitianus, 51年10月24日 - 96年9月18日)はローマ帝国の第11代皇帝である。在位81年から96年。フラウィウス朝最後の皇帝であり、ウェスパシアヌスとその妻ドミティリアの次男、先代皇帝ティトゥスの弟にあたる。.

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ドムス・アウレア

ミューズ像 スタンツェ」や、18世紀の新古典主義に影響を与えた。 ドムス・アウレア(Domus Aurea、黄金宮殿)は、ローマ帝国第5代皇帝ネロが建設した大宮殿。64年に起こったローマ大火の後に、ローマ市中心部に建設された広大な宮殿で、このためネロは市民の大顰蹙を買うことになった。16世紀には地下の洞窟「グロッタ」として知られており、その室内装飾はルネサンス美術にも大きな影響を与えた。.

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ダマスカスのアポロドーロス

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ウィトルウィウス

マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ(Marcus Vitruvius Pollio, 紀元前80年/70年頃 - 紀元前15年以降)は、共和政ローマ期に活動した建築家・建築理論家である。『建築について』(De Architectura、建築十書)を著した。この書物は現存する最古の建築理論書であり、おそらくはヨーロッパにおける最初の建築理論書でもある。 ウィトルウィウスについては、『建築について』の著者であること以外には知られず、その出生年、没年、家系は不詳である。ただし著作からは彼が建築家であることは明らかであり、またアフリカ戦争時にガイウス・ユリウス・カエサルの下で勤務し、アウグストゥスに仕えたことが確認できる。著作によって名声を得ようとしたようであるが、彼の『建築について』がローマ建築にどのような影響を与えたかは定かではない。 『建築について』はおそらく紀元前30年から紀元前23年の間に書かれたと推測される。この書において最も知られた理論は、ある建築が成功するかどうかは、職人の技や形式ではなく、建築家の仕事が社会ともつ相関性に依存するというものである。また、「よい建築は、堅固さ、快適さ、快という3つの条件によって成り立つ」とする定式は多くウィトルウィウスに帰せられるが、これが直接彼の理論であるか、それとも翻訳者による敷衍であるかどうかについては議論がある。 現在にまで『建築について』が伝わっているのは、カール大帝によるカロリング朝ルネサンスの賜物である。他のラテン語著作と同様、このときに多くの筆耕本が制作された。現在残る写本のほとんどは、このときに製作された写本のひとつ(大英博物館図書室所蔵・ハーレイ写本2767番)を定本としている。ウィトルウィウスの理論は中世においても知られていたが、ルネサンス期の建築家に特に注目され、新古典主義建築に到るまで古典的建築の基準として影響を与えた。 ウィトルウィウスは『建築について』の中で水車について論じている。古代ギリシアにおいて、水車とは水平に流れる小川の流れを利用して作動させる横向きの車輪を意味し、滝のように落下する水の力を利用して作動させる現代的な水車は知られていなかった。ウィトルウィウスは『建築について』において後者の水車を紹介し、こちらを用いることでより強力な水力を活用できることを、ヨーロッパで初めて提唱した。そして、西洋では現代に至るまでこちらの水車が一般的なものとして受け継がれている。このことから、水を縦に落として作動させる形式の水車は、横向きのギリシア型・ノルウェー型と対比して、ウィトルウィウス型と呼ばれている。.

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ウェスパシアヌス

ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus、9年11月17日 - 79年6月23日)は、ローマ帝国の皇帝。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。.

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エクセドラ

床下暖房設備が見えている。 エクセドラ(exedra)は建築物における半円形の部分で、その上部は半ドームになっていることが多く、一般に建物の正面にある。ギリシア語で「ドアの外の座席」を意味し、柱廊に面した部屋で湾曲した背もたれの高い石造りのベンチに取り囲まれていて、哲学的会話に最適な場所だった。また、列柱の途中の湾曲した部分をエクセドラということもあり、半円形の座席が置かれていることもある。 典型的なエクセドラは、湾曲した壁に沿って石造りのベンチを設置している。独立したエクセドラには元々は青銅の肖像彫像が置いてあり、ギリシア文明の建築物としては典型的である。例えばデロス島やエピダウロスといった聖域や聖地によく見られた。古代ギリシアのエクセドラは、都市国家のアゴラに関連して建設されることもあった。例えば、プリエーネー(en)のアゴラに見られる。.

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エスクイリーノ

イリーノ(Esquilino,Esquilinus エスクイリヌス(またはエスクイリーノの丘(Colli Esquilino,Mons Esquilinus)は、イタリア ローマ市中心部の丘。都市ローマの元になった七つの丘の一つである。この地域のことをラテン語でEsquiliaeと表記することもあるSamuel Ball Platner, A Topographical Dictionary of Ancient Rome,, London: Oxford University Press, 1929.

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オッピオ

ッピオ(Oppio,Oppius オッピウス)、またはオッピオの丘(Colle Oppio,Oppius Mons)はイタリア ローマ市中心部の丘。広義にはエスクイリーノ(エスクイリヌス)の丘の一部であり、その西側の一部をオッピオの丘というSamuel Ball Platner, A Topographical Dictionary of Ancient Rome, London: Oxford University Press, 1929。 古代ローマのの一つで12月11日に祝われる「七丘祭」、または七丘祭で祝われる対象の「七丘」のうちの一つである。 共和政ローマ期の著述家マルクス・テレンティウス・ウァロによれば、トゥッルス・ホスティリウス王時代に起こったウェイイとの戦いに加勢するため、からやって来たオッピウスに因んで名付けられたという。.

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カラカラ浴場

当時のカラカラ浴場の内部の想像図 カラカラ浴場(カラカラよくじょう、Thermae Caracallae,Terme di Caracalla)は、セプティミウス・セウェルス帝の計画を引き継ぎ、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場。当時はアントニヌス浴場(Thermae Antoninianae)とも呼ばれていた。日本語訳でカラカッラ浴場と表記されることもある。.

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カルダリウム

バース)。部屋を暖める熱い空気を流す床下の構造を見せるため、床面をはがしてある。 カルダリウム(caldarium)は古代ローマの公衆浴場にあった高温浴室。カリダリウム(calidarium)、ケッラ・カルダリア(cella caldaria)、ケッラ・コクティリウム(cella coctilium)などとも。 床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱した非常に高温多湿の部屋である。公衆浴場の中でも最も高温の部屋で、入浴者はその後テピダリウム、フリギダリウムと進んでいく。 カリダリウムには、お湯をはった湯船があり、時にはサウナのように汗を流すラコニクム(laconicum)もあった。 浴場の利用者は、オリーブ・オイルで身体を洗浄し、肌かき器を使って余分なオリーブ・オイルを取り除いた。 欧米では、体育館やスパにある床が暖かい部屋をカルダリウムと呼ぶ。.

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ギュムナシオン

ポンペイのギュムナシオン(ギムナシウム)。スタジアムの壁の上から撮影 ギュムナシオン(γυμνάσιον, gymnasion)、ギムナシウム(gymnasium)は、古代ギリシアの公共の競技の選手が訓練する施設。同時に社交の場でもあった。ギリシア語の γυμνός(gymnos, ギュムノス。「裸」)に由来する。競技者は裸で競ったが、それは神を賛美しつつ、男性の肉体の美しさを鑑賞する意味もあった。ギュムナシオンやパライストラは、ヘーラクレースやヘルメースや(アテナイでは)テーセウスの庇護と愛顧の下にあるとされた。.

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セルウィウス城壁

ルウィウス城壁(セルウィウスじょうへき、Murus Servii Tullii、Mura serviane)は、紀元前4世紀初め、ローマを取り囲んでいた防御用城壁である。壁の高さは最高で10mで、基部の幅は3.6m前後、全周は11kmである。16の大門があったとされているが、その多くは文献に記されているだけで、遺構は発見されていない。.

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東ゴート王国

東ゴート王国(ひがしゴートおうこく、Ostrogothic Kingdom、497年 - 553年)は、大王テオドリックによって建国された東ゴート族の王国。首都はラヴェンナ。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝の廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下においた。 テオドリックの治世において、東ゴート王国は西ローマ帝国の統治機構を再整備し、それまでのローマ法を遵守しつつ新たな国家の構築が進められた。しかし、テオドリックの死後、後継者問題や宗教対立によって国内は混乱しはじめ、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がこれに乗じて東ゴート王国に軍を派遣。東ゴート王国はこれに屈服して滅亡した。 王国としては短命であったが、ローマ帝国末期から続く戦乱の中にあって、諸外国と政治的・軍事的均衡を保ち、つかの間ながらイタリア半島にゴート人とローマ人による共存と平和を実現した。.

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537年

記載なし。

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