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古代ローマの公衆浴場

索引 古代ローマの公衆浴場

バース(イングランド)の古代ローマの公衆浴場。周囲の柱の土台部分より上層の建物は後世の再現である。 ドイツのヴァイセンブルクにあった古代ローマの公衆浴場を測域センサ技術を使って再現した図(CG) 古代ローマの公衆浴場(こだいローマのこうしゅうよくじょう)では、古代ローマの公衆浴場について記述する。 バルネア (balnea)またはテルマエ (thermae)とは、古代ローマの公衆浴場である。 古代ローマの多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場があり、社会生活の中心の1つになっていた。古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。 ヴィッラやドムスや砦にも私的な浴室があり、それらも「テルマエ」と呼ばれた。これらは付近を流れる川や用水路から水を供給していた。浴室の設計については、ウィトルウィウスが『建築について』で論じている。.

88 関係: 執政官古代ローマ古代末期属州中公文庫井上浩一 (歴史学者)廃墟マルティアリスマルクス・トゥッリウス・キケロマルクス・テレンティウス・ウァロマルクス・ウィプサニウス・アグリッパマイルストーンハンマームハイポコーストバチカン美術館バース (イングランド)ポルチコポンペイモザイクユスティニアヌス1世リュシッポスルーマニアルキウス・アンナエウス・セネカローマローマ帝国ローマ建築ローマン・バスローマ水道ヴァルナ (ブルガリア)ヴァレンス水道橋ヴィラボイラートラヤヌス浴場ヘクサメトロスブルガリアプールプブリウス・コルネリウス・スキピオパライストラテラモーンテルマエ・ロマエテピダリウムティトゥス浴場ディオクレティアヌス浴場フリギダリウムフォルムドムスニカの乱アナトリア半島アポクシュオメノスアヴァール...アトラス (建築)アトリウムイングランドイスラム帝国ウィトルウィウスエフェソスエクセドラカラカラ浴場カルダリウムカストラガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスギュムナシオンギリシア語クラウディウスクリエイティブ・コモンズクィントゥス・トゥッリウス・キケロクォドランスゲルマン人コンスタンティノープルコーニスシャワーソフィア (ブルガリア)サーサーン朝サウナ風呂公衆浴場共和政ローマ剣闘士石鹸用水路熱水泉衛生西ローマ帝国肌かき器東ローマ帝国栗生澤猛夫梅毒温泉温泉街 インデックスを展開 (38 もっと) »

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

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古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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古代末期

古代末期(こだいまっき、Late Antiquity, Spätantike, Antiquité tardive)は、ヨーロッパ史における時代区分で、古典古代から中世(中世初期)への変遷の説明に用いられる。 範囲は諸説あるが、最も広く見て、概ね西暦200年から800年までの間、すなわち3世紀から8世紀にかけての時期であるBrown, Bowersock, Graber, Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World (Harvard University Press Reference Library) 1999年南雲泰輔「英米学界における「古代末期」研究の展開」西洋古代史.

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属州

属州(ぞくしゅう、)は、古代ローマの本国以外の領土を指す。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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井上浩一 (歴史学者)

井上 浩一(いのうえ こういち、1947年9月24日 - )は、日本の歴史学者、大阪市立大学名誉教授。佛教大学歴史学部特別任用教授。専門は、ビザンツ帝国史。.

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廃墟

廃墟(はいきょ、廃虚とも、英語:Ruins、ドイツ語:Ruine)とは、建物や施設、鉄道、集落などが使われないまま放置され、荒れ果てた状態になっているものを指す。.

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マルティアリス

マルクス・ウァレリウス・マルティアリス(マールティアーリス、Marcus Valerius Martialis, 英語:Martial, 40年3月1日? - 102年?)はヒスパニア(イベリア半島)のアウグスタ・ビルビリス(現カラタユー)出身のラテン語詩人。古代ローマ皇帝ドミティアヌス、ネルウァ、トラヤヌスの統治期間にあたる西暦86年から103年の間に発表された12巻のエピグラム(エピグラムマタ、警句)の本で知られている。これら短くウィットに満ちた詩の中で、マルティアリスは町の生活や知人たちのスキャンダラスな行動を明るく風刺し、地方の教育をロマンティックに描いた。マルティアリスは全部で1561篇の詩を書き、そのうち1235篇はエレゲイオンの形式を使っている。マルティアリスは今日のエピグラムの始祖と見なされている。.

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マルクス・トゥッリウス・キケロ

マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者である。ラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている。.

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マルクス・テレンティウス・ウァロ

マルクス・テレンティウス・ウァロ(Marcus Terentius Varro, 紀元前116年 - 紀元前27年)は、共和政ローマ期の学者、著作家、政治家である。「レアテのウァッロ」(ウァッロ・レアティヌス、Varro Reatinus)とも称される。.

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マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(Marcus Vipsanius Agrippa, 紀元前63年 - 紀元前12年)は、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。のちにアウグストゥスの娘婿となる。 ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。.

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マイルストーン

Boston Post Road マイルストーン(Milestone)は、鉄道や道路等の起点よりの距離をマイルで表した距離標識。マイルマーカー(Milemarker)、マイルポスト(Milepost)ともいう。 ローマ帝国が前120年頃の道路関連法「センプローニウス法」に基き、主要な街道に1ローマ・マイル(1000歩)ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはそれが現在でも残っている。 アメリカ合衆国においてはマイルを標準的に使用していることから、キロポストと同様に置かれるが、ヨーロッパにおいては、キロメートルを標準とする国々が多いことからキロポストの事をそう呼ぶ場合が多い。 また、あるプロジェクトや世界的なイベントなどが完成・成功した場合に比喩的に言葉として使用する場合がある。また、モニュメントとして残す場合もある。 日本には同様のものとして一里塚があり、旧街道で一里(約4km)ごとに見ることができる。.

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ハンマーム

ハンマーム(حمّام, hammām)は、トルコやアゼルバイジャン、アラブ諸国・イランなどの中東全域、アフガニスタン、中央アジア諸国、東アジア諸国に広く見られる伝統的な公衆浴場のことである。 語源は「温める」「熱する」を意味するアラビア語の動詞「ハンマ」に由来する。トルコ語では「ハマム (もしくはハマーム、hamam)」という。 美的な外観と排水・熱効率が計算された内部の構造は建築学の視点から高く評価されている板垣『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』、156-157頁。.

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ハイポコースト

ーマ様式のヴィラの遺跡。床下のハイポコーストが見える。床面があるのはエクセドラ部分 ハイポコースト(hypocaust、ラテン語:hypocaustum)とは古代ローマのセントラルヒーティングシステムである。単語自体は古代ギリシア語のhypo(下)とkaiein(火を燃やすまたは火をつける)に由来し、「下から熱する」という意味を持つ。ゼルギウス・オラタ(Sergius Orata)が発明したとされているが、完全に確認されたわけではない。.

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バチカン美術館

バチカン美術館 (Musei Vaticani) は、バチカン市国にあり、歴代ローマ教皇の収集品を収蔵展示する世界最大級の美術館である。日本語では「ヴァチカン美術館」、「ヴァティカン美術館」などとも表記する。.

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バース (イングランド)

バースの街並 ローマン・バス ローマン・バス バース(Bath )は、イングランド西部、サマセットにある単一自治体(unitary authority)のバース・アンド・ノース・イースト・サマセット(Bath and North East Somerset)内の都市である。1974年にエイボン州が創設された時、バースはエイボン州に属する都市であった。1996年にエイボン州が廃止され、現在の形態である、バース・アンド・ノースイースト・サマセット単一自治体に属することとなった。この地方最大の都市である港町ブリストルから24km内陸に位置する。 湧出温度45℃の三つの源泉から供給される温泉で著名であり、 イングランド有数の観光地である。1978年に温泉が閉鎖されて以来、 温泉施設跡を見ることしか出来なかったが、2006年に市内中心部に温泉を利用した総合スパ施設サーメ・バース・スパが作られて、再び入浴できるようになった。.

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ポルチコ

ポルチコ(イタリア語:Portico、またはポーチコ、ポルティコ)は、建物の玄関に導く、あるいは柱列として拡がるポーチであり、柱で支えられるか壁で囲まれた歩道上に屋根がある構造である。この概念は古代ギリシアでまず現れ、西洋文化の大半など多くの文化に影響を与えてきた。 ポルチコの特筆すべき例としては、アメリカ合衆国議会議事堂の東ポルチコ、ローマのパンテオンを飾るポルチコ、およびユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのポルチコがある。 イタリアのボローニャがそのポルチコで大変有名である。全体では45 km 以上のアーケードになっており、市内中心部だけでも38 km ある。世界で最長のポルチコは市の端からマドンナ・ディ・サン・ルカ教会までのもので約3.5 km ある。イタリアのトリノではポルチコが18 km にわたって伸びている。 16世紀イタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオが宗教建築の寺院正面に使ったことでは先駆者だった。イギリスではハンプシャー州のザ・バインに適用された寺院正面がイギリスのカントリー・ハウスに適用された最初のポルチコだった。 プロナオス(pronaos) はギリシアやローマの神殿のポルチコの内側であり、ポルチコの柱あるいは壁とセラ(cella) すなわち神殿の玄関との間の部分である。ローマの神殿では開放的プロナオスであり、通常柱だけで壁が無く、プロナオスはセラの延長であり得る。プロナオスという言葉はギリシア語で「寺院の前」とい意味である。ラテン語ではanticumあるいはprodomusと呼ばれる。.

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ポンペイ

ポンペイの想像図 アボンダンツァ通り ポンペイ(Pompeii、Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。 なお、イタリア語での発音は e にアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。古典ラテン語ではeと最後のiが長母音なので、「ポンペーイイー」である。.

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モザイク

モザイク(英語:mosaic、フランス語:mosaïque)は、小片を寄せあわせ埋め込んで、絵(図像)や模様を表す装飾美術の手法。石、陶磁器(タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施される。この装飾方法は古くから世界的に見られ、宗教画や幾何学模様など様々なものが描かれており、歴史上、カテドラルの内部空間やモスクの外壁などの装飾手法として特に有名である。.

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ユスティニアヌス1世

ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.

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リュシッポス

『弓を張るエロス』のローマの複製。ローマ、カピトリーノ美術館 リュシッポス(Lysippos, ギリシャ語:Λύσιππος)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの彫刻家。リュシッポス、スコパス、プラクシテレスは、ヘレニズム時代への移行をもたらした、ギリシアの古典時代の三大彫刻家と言われている。当時の世評では、リュシッポスは高名な彫刻家ポリュクレイトスの後継者とされていた。.

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ルーマニア

ルーマニアは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。 国の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原をトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれる。 東欧では数少ないロマンス系の言語であるルーマニア語を公用語として採用している国家であるが、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。いっぽう北西のポーランドはスラヴ語派のうち西スラヴ語群に属するポーランド語が主に話されているが、宗教的にはカトリック教会が支配的であり、ルーマニアとは好対照をなしている。.

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ルキウス・アンナエウス・セネカ

ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。 父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ローマ建築

ーマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。 ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。 また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドームなどの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。 パンテオンの内部.

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ローマン・バス

ーマン・バスはイングランドの都市バースにある史跡である。この建物は保存状態の良い古代ローマの公衆浴場跡である。 ローマン・バス自体は現在の街路より一段低くなっており、4つの主要構成物である聖泉、古代ローマの神殿、浴場、ローマン・バスからの出土品を展示した博物館から成る。また地階より上の建物は19世紀に建てられたものである。 ローマン・バスはパンプ・ルームと並んでイングランドの主要な観光地の一つであり、一年に百万人を超える観光客が訪れ、2009年では1,037,518人であった。また2005年にはBBCのテレビ番組『自然の七驚異』(Seven Natural Wonders)でイングランド西部地方の驚異の一つとして特集された。浴場と博物館は見学可能だがお湯に浸かることはできない。7カ国語で音声ガイドが利用可能である。.

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ローマ水道

ーマ水道(ローマすいどう)は、紀元前312年から3世紀にかけて古代ローマで建築された水道。ローマ水路とも。古代ローマでは、都市や工場地に水を供給するために、数多くの水道が建設された。これらの水道は古代の土木建設でもっとも偉大な業績のひとつであり、古代ローマ滅亡後1000年以上も、これに匹敵するものは作られなかった。現代においても、この古代の水道は多くの都市で実用に供され、実に2000年以上も水を供給しつづけている。 ローマ人は帝国内のどのような大都市でも、水道を建設した。中でもローマは最大の都市であり、500年かけて建造された11の水道から水が供給される、最大の水道の集積地であった。.

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ヴァルナ (ブルガリア)

生神女就寝大聖堂 聖ニコラウス船員教会 ヴァルナ(Варна、ラテン文字表記:Varna、発音)はブルガリア北東部ヴァルナ州に位置する都市で、ブルガリアの黒海沿岸では保養地であり最大の都市でブルガリア国内では首都ソフィアやプロヴディフに次いで3番目に大きな都市である。2011年2月現在の人口は市街で334,870人(2011年4月8日時点のアーカイブ)、基礎自治体全体では343,704人。ヴァルナはヴァルナ州やヴァルナ基礎自治体の行政的な中心地で、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラード、テッサロニキ、ザグレブ、スコピエ、ティラナ、プロブディフに次いで11番目に大きな都市である。ヴァルナはブルガリアの「海の首都」あるいは「夏の首都」とよく言われ、メジャーな観光地でありビジネスや大学、海港、ブルガリア海軍の司令部、商船などの各拠点が置かれている。1949年から1956年までは、ヨシフ・スターリンの名をとってスターリン (Сталин, Stalin) という都市名であった。ヴァルナ州や統計的な地域であるドブリチ州やシュメン州、トゥルゴヴィシテ州を含むブルガリア北東計画地域(NUTS II)の中心都市である。ヴァルナ空港は2011年に1,181,830人の旅客を扱っており、ブルガリアではブルガス空港やソフィア空港に次いで3番目に旅客数が多い空港である。 2008年4月にヴァルナは黒海欧州地域 Black Sea Euro-Region(Black Sea Euroregionと同一でない新たな組織)の中心として欧州評議会で指定された。 ヴァルナ・ネクロポリスでは世界最古の黄金の宝物が発見され、これらはコインと武器、宝石などで構成され紀元前4,600年頃に遡る。.

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ヴァレンス水道橋

ヴァレンス水道橋(ヴァレンスすいどうきょう; Valens Kemeri)は、トルコのイスタンブールにあるローマ帝国時代の水道橋の遺構。イスタンブール旧市街のおよそ中央部、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間にかけられており、北西郊外の森にある水源から引かれた上水を旧市街東部のスルタンアフメト地区にある地下貯水池へと中継する役割を果たした。本来の全長はおよそ1kmあったが、現存するのは800mほどの部分である。 水道橋はイスタンブールの前身となるコンスタンティノープルを建設したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の時代に、当時の市域であった現イスタンブール旧市街地区東部に新鮮な水を渡すために建設が始められ、ウァレンス帝がコンスタンティノポリスを統治していた378年に完成した。完成時の皇帝の名をとって英語ではValens Aqueduct(ヴァレンス水道橋)と呼ばれて広く知られているが、現地のトルコではむしろBozdoğan Kemeri(「灰色の鷹のアーチ橋」)という通称で呼ばれることが多い。東ローマ帝国を経てオスマン帝国時代までイスタンブール旧市街に水を届けつづけ、最後の補修は1697年に行われている。 橋脚の下には、北は金角湾にかかるアタテュルク大橋を経て新市街のベイオール地区、タクスィム広場に繋がり、南はアクサライ地区で旧市街地区を東西に貫くオルドゥ通りと交差する、旧市街の地区の南北を貫く幹線道路「アタテュルク大通り」が走り、アーチとアーチの間を常に多くの車が行き交っている。.

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ヴィラ

Villa Medici in Fiesole(フィエーゾレにあるメディチ家のヴィラ) ヴィラまたはヴィッラ(villa)は、本来は上流階級のカントリー・ハウスを意味し、古代ローマが起源だが、ヴィラの概念と機能は時代と共に発展してきた。共和政ローマが終焉を迎えるとヴィラは小さな要塞化された農場の複合家屋となっていったが、中世を通して徐々に再発展し、贅沢な上流階級のカントリー・ハウスとなっていった。現代では、特定の種類の一戸建て郊外住宅を指す。.

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ボイラー

ボイラー(boiler)は、燃料を燃焼させる燃焼室(火室)と、その燃焼で得た熱を水に伝えて水蒸気や温水(=湯)に換える熱交換装置を持つ、水蒸気や湯、及びそれらの形で熱を、発生する機器である。 日本工業規格(JIS)や学術用語集ではボイラと表記されるほか、汽缶(きかん、汽罐)、あるいは単に缶やカマともいう。主に工場、建築物等で利用される熱や水蒸気をつくることや、蒸気機関車等の動力源として、古くから利用されており、現在でも火力発電所などの発電設備ならびに大型船舶では、蒸気タービンと並んで主要な設備である。 原子力発電所は加熱源としてボイラを原子炉に置き換えたもの。一般にボイラとは燃料の燃焼熱を加熱源とするものを指す。原子炉はボイラと比べて特異な点が多く、別の専門分野として扱われている。 給湯や温水暖房などでの利用のみを目的とし、高圧蒸気を発生させない物を、特に無圧ボイラーと呼んで区別する場合がある。.

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トラヤヌス浴場

トラヤヌス浴場(Thermae Traiani)は、古代ローマの公衆浴場を中心とした複合施設で、紀元104年に着工し、109年7月の朔日にオープンした。トラヤヌス帝の命で、当時の市街地の郊外だったオッピウスの丘の南の斜面に建設されたが、セルウィウス城壁の内側である。設計者はダマスカスのアポロドーロスとされている。娯楽施設および集会所としても機能し、ローマ市民向けの男女両用の公衆浴場として5世紀初頭まで使われた。537年、ゴート族がローマを包囲し、ローマ水道を破壊したために公衆浴場は使えなくなり、廃棄された。.

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ヘクサメトロス

ヘクサメトロス(六歩格、Hexameter, ギリシャ語:ἑξάμετρον)は詩形の1つで、1行が6つ(hexa)の韻脚からなるもの。ホメロスの『イリアス』ならびに『オデュッセイア』がこの詩形で書かれている。古代ギリシアでは叙事詩の標準的な韻律で、ウェルギリウスの『アエネイス』などラテン語の叙事詩もそれにならった。叙事詩以外にも、ホラティウスの『風刺詩』やオウィディウスの『変身物語』などに使われた。ギリシア神話では、ペーモノエーがヘクサメトロスを発明したと言われている。.

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ブルガリア

ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。.

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プール

プール(swimming pool)は、レクリエーションあるいは水泳競技(競泳、水球、シンクロナイズドスイミング、飛び込みなど)のために、人為的に水を溜め込んである空間または施設。英語では、poolは単に「水溜り」を指し、水泳用のプールのことはswimming poolと呼ぶ。尚、プールの数え方は面を使う。.

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プブリウス・コルネリウス・スキピオ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ(Publius Cornelius Scipio, ? - 紀元前211年没)は、第二次ポエニ戦争初期の共和政ローマの軍人。父はルキウス・コルネリウス・スキピオ、兄にグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス。息子には後に第二次ポエニ戦争後期で活躍するスキピオ・アフリカヌス、スキピオ・アシアティクスがいる。 紀元前218年に執政官(コンスル)に当選。第二次ポエニ戦争ではピサおよびマッシリアより海路でもハンニバルのイタリア侵入を警戒していたが、ハンニバルがアルプス山脈を越えてイタリアに侵入、スキピオは急遽ヒスパニアに展開していた軍をイタリア北のアルプス・チザルピナ地方に召集、兄のスキピオ・カルウスと共に防戦体勢に入る。その帰路のポー川付近でハンニバルの部隊と遭遇、スキピオはこの遭遇戦で敗北、自身も重傷を負う。先の敗北でハンニバルには慎重になるように彼は同僚の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスに忠告するが、センプロニウスは果敢にハンニバルに挑む。しかし同年12月ハンニバルに再び敗れた。 このような敗北にも関わらず、彼はローマ軍の優秀さを信じていた。彼の軍の司令官の任期は延長され、次の年に兄カルウスと共にハンニバルの本拠地であるヒスパニアに軍を展開する。この軍事行動が実際どのようなものであったかは分かってはいない。しかしヒスパニアのカルタゴ領を守るハスドルバル・ギスコ率いるイベリア人の部隊に敗れ、スキピオは紀元前211年に戦死、兄カルウスも同年12月カルタゴ・ノヴァ近郊にて戦死した(バエティス川の戦い)。.

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パライストラ

パライストラ(palaestra、παλαίστρα)は、古代ギリシアのレスリング学校または練習場。あまり大きなスペースを必要としないボクシングやレスリングなどの練習を行った。パライストラは公共のギュムナシオンの一部として存在することもある。パライストラは単独のものもあったが、ギュムナシオンには必ずパライストラが存在した。.

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テラモーン

テラモーン(Τελαμών, ), は、ギリシア神話に登場する英雄である。サラミース島の王で、カリュドーンの猪狩り、アルゴナウタイ、ヘーラクレースのトロイア攻略に参加したアポロドーロス、2巻6・4。ディオドロス、4巻32・5。。長母音を省略してテラモンとも表記される。 アイギーナ島の王アイアコスとエンデーイス(スケイローンの娘)の子で、ペーレウスと兄弟。ポーコスとは異母兄弟である。一説ではテラモーンはキュクレウスの娘グラウケーとアクタイオスの子で、ペーレウスとは友人だったとされるアポロドーロス、3巻12・6。。グラウケーはテラモーンの最初の妻ともいわれるディオドロス、4巻72・1。。アルカトオスの娘ペリボイアとの間に大アイアース、トロイアの王女ヘーシオネーとの間にテウクロスアポロドーロス、3巻12・7。、また一説にトロイアの女テアーネイラとの間にトラムベーロスをもうけた。大アイアースとテウクロスはトロイア戦争の英雄である。.

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テルマエ・ロマエ

『テルマエ・ロマエ』(THERMAE ROMAE)は、ヤマザキマリによる漫画作品。『コミックビーム』(エンターブレイン)にて2008年2月号から2013年4月号まで連載された。当初は不定期連載だったが、2010年4月号から定期連載に移行した。単行本は2013年6月にて最終巻を迎えた。 『コミックビーム』2013年10月号から新シリーズ連載開始と告知されていたが、延期となっている。.

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テピダリウム

''The Tepidarium'' (1881) ローレンス・アルマ=タデマ画 テピダリウム(tepidarium)は、古代ローマの公衆浴場にあった微温浴室。床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱していた。テピダリムは、床や壁に接する部分から人体に熱がほどよく伝わることを特徴とする。 ポンペイには興味深いテピダリウムの例がある。半円形の筒型ヴォールトで覆われ、レリーフや化粧しっくいで装飾され、男像柱でそれぞれ区切られた休憩できる壁龕が周囲の壁に並んでいる。ローマの公衆浴場では、テピダリウムはその中心の大ホールとなっていて、そこから他のグループ化されたホールに出入りするようになっていた。入浴者はまずテピダリウムに入り、そこから高温浴室(カルダリウム)や冷室(フリギダリウム)へと向かったと思われる。テピダリウムは大理石やモザイクで豪華に飾られていた。高窓から採光し、貴重な芸術品を飾っていた。1546年、パウルス3世の命による発掘でカラカラ浴場からファルネーゼのヘーラクレースなどの彫像、現在バチカンにある緑色の玄武岩でできた石棺、その他多数の宝物が見つかり、バチカンやナポリの博物館に移された。.

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ティトゥス浴場

ティトゥス浴場(Thermae Titi)は、80年に、第10代ローマ皇帝ティトゥスがローマのエスクイリーノの丘に築造したローマ浴場である。現在のコッレ・オッピオ(オッピオの丘)公園の南西端付近にあり、コロッセオの北隣に位置していた。.

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ディオクレティアヌス浴場

ン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会 ディオクレティアヌス浴場(ディオクレティアヌスよくじょう、Thermae Diocletiani)は、ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが306年に建設した公衆浴場。主にマルキア水道から水を受けていた。ローマ帝国でも最大かつ最も豪華な浴場で、ゴート族が537年に水道供給を絶つまで使われ続けていた。大きさではカラカラ帝のカラカラ浴場と同程度で、南西に面していたためカルダリウムを太陽エネルギーで暖め、フリギダリウムにはその熱が影響しない構造になっていた。浴場の建物は以下のような教会などに流用されたため、それなりの部分がそのまま保存されている。.

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フリギダリウム

''The Frigidarium'' (1890) ローレンス・アルマ=タデマ画 フリギダリウム(frigidarium)は、古代ローマの公衆浴場で熱い風呂を楽しんだ後に入る大きな冷水のプールがある部屋である。カルダリウムとテピダリウムは皮膚の毛穴を広げる。その後、冷たい水に入ることで汗腺を閉じる。プールは小さい場合もあるが、水泳もできる大きなプールの場合もある。 差し渡しが5m以上の八角形のフリギダリウムの遺構が2006年、ケントのFaversham近郊の農場で発掘された。冷水を供給する大きなレンガ製の導管があった。壁は塗装された漆喰で装飾され、床からはモザイク用の着色したタイルの小片が見つかっている。このような遺跡としてはイングランド南東部では初の発見である。八角形のフリギダリウムは、キリスト教徒の洗礼やユダヤ教の沐浴に使われた可能性もあると示唆されている (Pitts, 2006)。.

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フォルム

トラヤヌスのフォルムの遺跡 フォルム(Forum, 複数形は Fora)は、古代ローマ都市の公共広場のことである。帝政時代のフォルムは四周をバシリカ、元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなり、屋根のない公共建築の観を呈するのが普通であった。 フォルムは、幹線道路上に集落が形成されるとき、その中心に商店などが集まる広場として造られた場所を起源としている。町が発展し都市となると、フォルムは商業活動の中心だけでなく、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープン・スペースであり、また市民生活の上で最も重要な都市施設となっていった。 古代ローマの都市は、フォルムを中心として東西・南北の大通りであるデクマヌス・マクシムスおよびカルド・マクシムスが造られ、その軸線を基準とした碁盤の目状の都市計画がなされた。フォルムの広さは市民の人口に応じ、形は3対2の比率の長方形とされた。フォルムの北端にはユーピテル神殿などの神殿やバシリカが建てられるとともに、フォルムに面した神殿の階段は選挙演説を行う場所としても使われた。こうした典型的なフォルムは、帝政時代の計画都市であった北アフリカのローマ都市に多く、東方属州の都市は、むしろ古代ギリシアのアゴラに近い自然発生的な広場が多かった。 古代ローマの首都である都市ローマには、最も初期に形成されたフォルム・ボアリウム、共和政期に国家の中心として整備されたフォルム・ロマヌム、フォル・ロマヌムが手狭になったため、帝政期に新たに整備されたフォラ・インペラトラムがなどがある。 フォルムの機能は、古代ギリシア都市の『アゴラ』のそれとほぼ同じであった。アゴラとの違いは、規模がフォルムの方が際だって大きいこと、空間が都市化の進展にともなって矩形に整備されたこと、周囲に列柱廊をめぐらせるようになったことなどである。 現代において似た機能を果たす都市施設としては、イタリア語ではピアッツァ、スペイン語圏のプラザ、ドイツ文化圏のマルクト広場などがある。.

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ドムス

ドムス(domus)はラテン語で家屋または家庭を意味する。古代ローマでは、共和政ローマとローマ帝国の時代に上流階級および中流階級の自由民が住んだ住宅を指した。ローマの版図の主要な都市に広く分布していた。近代英語の "domestic"(家庭の) はこの「ドムス」が語源である。裕福なローマ人は都市にあるドムスのほかに、郊外や領地にヴィッラと呼ばれるカントリー・ハウスを所有していた。特に時代が下るとヴィッラに定住するローマ人が増え、ヴィッラは大きくなっていき、周囲に壁を築いて城塞都市化していった。 こうして4世紀以降都市部のドムスから地方の自給自足の荘園を備えたヴィッラに地主市民である富裕層の人口が吸収されることで都市の商工業は衰退し、司教座や大司教座の置かれた限られた都市以外は拠点防御のための城砦になり果てた 。 古代ローマのエリート階級の人々は、住居に凝った大理石の装飾を施し、大理石のパネルやドア枠や円柱を使い、高価な絵画やフレスコ画を飾った。下層階級のローマ人はごみごみし汚れた狭い賃貸集合住宅インスラに住んでいた。この多層集合住宅は可能な限り階を重ねて建てられ、ドムスに比べれば遥かに質素だった。.

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ニカの乱

ニカの乱(ニカのらん、Στάση του Νίκα)は、532年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで起きた、皇帝ユスティニアヌス1世に対する反乱である。「ニカ」とはギリシャ語で「勝利」を意味する言葉で、反乱を起こした市民の掛け声である。.

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アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

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アポクシュオメノス

バチカン美術館のアポクシュオメノス(1849年、ローマのトラステヴェレ区で発見) アポクシュオメノス(Apoxyomenos)は古代ギリシアの彫刻によく見られる主題で、古代ローマなどでも使われた肌かき器を使って汗や汚れを落としているアスリートを表している。拭う者(Scraper)とも。 古典古代期の最も有名なアポクシュオメノスは、アレクサンドロス3世のお抱え彫刻家だったシキオンのリュシッポスが紀元前330年ごろ制作したものである。もともとのブロンズ像は失われたが、大プリニウスの『博物誌』の記述で知られており、さらに紀元前20年ごろローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパがローマに建設したアグリッパ浴場にリュシッポスの傑作を設置した。後の皇帝ティベリウスはこの像に夢中になり、それを自分の寝室に移させた。しかしこれが「我々のアポクシュオメノスを取り戻せ」という騒動に発展し、皇帝は恥をかいた。 ローマのバチカン美術館にある大理石製の複製は、1849年にローマのトラステヴェレ区で発見されたもので、この像の複製とされている(右図)。その石膏模型がすぐに各国のコレクションに入れられ、教科書にもよく掲載されるようになった。この像は等身大よりやや大きく、ポリュクレイトスの7頭身ではなく、リュシッポスの特徴である8頭身で、手足が長く薄い。大プリニウスによれば、リュシッポスはいつも、他の芸術家は人間をありのままに描くが、自分は人をそうあるべき姿に描くと言っていたと注記している。リュシッポスの彫像は真のコントラポストとなっており、外に伸ばした腕が動きを与え、見る角度によって違った表情を見せる。 大プリニウスはまた、同じ主題をポリュクレイトスやその弟子であるシキオンのダイダロスが制作していることにも言及している。ポリュクレイトス派の断片的なブロンズ像は、腕を低く構え、左腕から汗と汚れを落とそうとしている。この像は1896年、トルコのエフェソスの遺跡で出土した。現在はウィーンの美術史美術館で保管している。保存状態が非常によいため、紀元前4世紀のオリジナルなのか、ヘレニズム時代の複製なのかは学者の間でも議論になった。ウフィツィ美術館のメディチ家コレクションにはクラシック期のneo-Attic様式の像があり、エフェソスのブロンズ像が発掘される以前は紀元前5世紀のオリジナルと見られていた。 クロアチアのアポクシュオメノス 1999年、クロアチアのロシニ島近海でほぼ完全なアポクシュオメノスのブロンズ像が見つかった。これは今のところ、紀元前2世紀から紀元前1世紀のヘレニズム期の複製と見られている。現在はザグレブの美術館に Croatian Apoxyomenos として収蔵されている(左図)。ふくよかで短いあごや整っていない頭髪などの特徴がエフェソスのブロンズ像と共通している。 エルミタージュ美術館には頭部の素晴らしい複製がある。別のアポクシュオメノスのブロンズ像頭部が18世紀初頭にヴェネツィアで Bernardo Nani のコレクションに入っていた(現在は Kimball Art Museum にある)。Naniのコレクションには他にもペロポネソス半島で見つかったものが含まれていた。Kimball Art Museum はこの頭部もギリシア本土で見つかったものではないかとしている。この頭部もクロアチアのアポクシュオメノスと同様、唇に銅が化粧張りされていて、目にはガラスや銅が象嵌されていた。このようにクロアチアのアポクシュオメノスを代表とする特徴が共通な像の断片は6個ほど見つかっており、古代にはよくあるアポクシュオメノスだったとも示唆されている。一方、バチカンのアポクシュオメノスはポーズが逆向きであり、リュシッポスのオリジナルからの派生と見られている。.

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アヴァール

アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.

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アトラス (建築)

ハンブルクの聖ゲオルク地区にある教会のアトラス アグリジェントの現存する最古のアトラス(テラモーン)の1つ ヨーロッパ建築におけるアトラス(atlas)とは、男性の彫刻を柱、橋台、付柱などに施したもの。アトラント (atlant)、アトランティード (atlantid) とも, Michael Delahunt,, 1996-2008.

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アトリウム

倉吉パークスクエア アトリウム) アトリウム(atrium)は、ガラスやアクリルパネルなど光を通す材質の屋根で覆われた大規模な空間のこと。内部公開空地ともいう。 ホテルや大規模商業施設、オフィスビル、マンションのエントランスに設けられる例が多い。.

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イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

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イスラム帝国

イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.

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ウィトルウィウス

マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ(Marcus Vitruvius Pollio, 紀元前80年/70年頃 - 紀元前15年以降)は、共和政ローマ期に活動した建築家・建築理論家である。『建築について』(De Architectura、建築十書)を著した。この書物は現存する最古の建築理論書であり、おそらくはヨーロッパにおける最初の建築理論書でもある。 ウィトルウィウスについては、『建築について』の著者であること以外には知られず、その出生年、没年、家系は不詳である。ただし著作からは彼が建築家であることは明らかであり、またアフリカ戦争時にガイウス・ユリウス・カエサルの下で勤務し、アウグストゥスに仕えたことが確認できる。著作によって名声を得ようとしたようであるが、彼の『建築について』がローマ建築にどのような影響を与えたかは定かではない。 『建築について』はおそらく紀元前30年から紀元前23年の間に書かれたと推測される。この書において最も知られた理論は、ある建築が成功するかどうかは、職人の技や形式ではなく、建築家の仕事が社会ともつ相関性に依存するというものである。また、「よい建築は、堅固さ、快適さ、快という3つの条件によって成り立つ」とする定式は多くウィトルウィウスに帰せられるが、これが直接彼の理論であるか、それとも翻訳者による敷衍であるかどうかについては議論がある。 現在にまで『建築について』が伝わっているのは、カール大帝によるカロリング朝ルネサンスの賜物である。他のラテン語著作と同様、このときに多くの筆耕本が制作された。現在残る写本のほとんどは、このときに製作された写本のひとつ(大英博物館図書室所蔵・ハーレイ写本2767番)を定本としている。ウィトルウィウスの理論は中世においても知られていたが、ルネサンス期の建築家に特に注目され、新古典主義建築に到るまで古典的建築の基準として影響を与えた。 ウィトルウィウスは『建築について』の中で水車について論じている。古代ギリシアにおいて、水車とは水平に流れる小川の流れを利用して作動させる横向きの車輪を意味し、滝のように落下する水の力を利用して作動させる現代的な水車は知られていなかった。ウィトルウィウスは『建築について』において後者の水車を紹介し、こちらを用いることでより強力な水力を活用できることを、ヨーロッパで初めて提唱した。そして、西洋では現代に至るまでこちらの水車が一般的なものとして受け継がれている。このことから、水を縦に落として作動させる形式の水車は、横向きのギリシア型・ノルウェー型と対比して、ウィトルウィウス型と呼ばれている。.

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エフェソス

フェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。 現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。2015年に世界遺産リストに登録された。.

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エクセドラ

床下暖房設備が見えている。 エクセドラ(exedra)は建築物における半円形の部分で、その上部は半ドームになっていることが多く、一般に建物の正面にある。ギリシア語で「ドアの外の座席」を意味し、柱廊に面した部屋で湾曲した背もたれの高い石造りのベンチに取り囲まれていて、哲学的会話に最適な場所だった。また、列柱の途中の湾曲した部分をエクセドラということもあり、半円形の座席が置かれていることもある。 典型的なエクセドラは、湾曲した壁に沿って石造りのベンチを設置している。独立したエクセドラには元々は青銅の肖像彫像が置いてあり、ギリシア文明の建築物としては典型的である。例えばデロス島やエピダウロスといった聖域や聖地によく見られた。古代ギリシアのエクセドラは、都市国家のアゴラに関連して建設されることもあった。例えば、プリエーネー(en)のアゴラに見られる。.

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カラカラ浴場

当時のカラカラ浴場の内部の想像図 カラカラ浴場(カラカラよくじょう、Thermae Caracallae,Terme di Caracalla)は、セプティミウス・セウェルス帝の計画を引き継ぎ、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場。当時はアントニヌス浴場(Thermae Antoninianae)とも呼ばれていた。日本語訳でカラカッラ浴場と表記されることもある。.

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カルダリウム

バース)。部屋を暖める熱い空気を流す床下の構造を見せるため、床面をはがしてある。 カルダリウム(caldarium)は古代ローマの公衆浴場にあった高温浴室。カリダリウム(calidarium)、ケッラ・カルダリア(cella caldaria)、ケッラ・コクティリウム(cella coctilium)などとも。 床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱した非常に高温多湿の部屋である。公衆浴場の中でも最も高温の部屋で、入浴者はその後テピダリウム、フリギダリウムと進んでいく。 カリダリウムには、お湯をはった湯船があり、時にはサウナのように汗を流すラコニクム(laconicum)もあった。 浴場の利用者は、オリーブ・オイルで身体を洗浄し、肌かき器を使って余分なオリーブ・オイルを取り除いた。 欧米では、体育館やスパにある床が暖かい部屋をカルダリウムと呼ぶ。.

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カストラ

トラ(、複数形)およびカストルム(、単数形)とは、古代ローマにおいて軍事防衛拠点または野営地として使用された場所または建設された建物群を指す。この単語はラテン語だけでなくオスク語やウンブリア語(どちらもイタリック語派)にも見られ、インド・ヨーロッパ祖語からイタリック語派へと伝わったものと見られる。カストラは「大規模な野営地」を意味し、行軍途中などの一時的なものも、砦または要塞のような恒久的なものも指す。一方、ウェゲティウスが記しているようにカステッルム は「小規模な砦」を意味し、その地域の補給部隊などが使うことが多かった 第3巻まで。抄訳になっている部分がある。。ギリシア語の文献では、カストラを stratopedon(軍の野営地)、カステッルムを phrourion(砦)と訳している。カストラは一般には「古代ローマの要塞」、「古代ローマの砦」、「古代ローマの野営地」と称されるが、学問的にはカストルム/カストラを「野営地」または「要塞」とし、カステッルムを「砦」とするのが一般的である。 ハドリアヌスの長城の途中にあったカストラの平面図 そのカストラの遺跡.

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ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス

イウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus, 61年 - 112年)は、帝政ローマの文人、政治家。北イタリアのコムム(現在のコモ市)生まれ。博物学者、政治家、軍人のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)の甥で、養子。伯父との区別のため小プリニウスと称される。 元老院議員としてトラヤヌス帝に対して捧げた賞賛の演説『頌詞』と、紀元103年からのビティニア属州総督任期中に書かれた書簡集が作品として知られている。トラヤヌス帝の時代のキリスト教徒に対する処遇方法を知る事ができる貴重な資料となっている。タキトゥスとは友人で、彼の求めに応じて伯父が死んだ日の様子を語った書簡が書簡集に含まれており、ヴェスヴィオ火山の噴火の様子を知る貴重な資料となっている。書簡は全10巻にまとめられ、第一巻から第九巻は友人・知人あての247通からなり、第十巻は、ビテュニア・ポントゥス属州総督在任時にトラヤヌスと交わした公的書簡121通から構成されている。プリニウスは資産家としても知られ、総額2億セステルティウスの資産があったと考えられている。古代ローマ研究者R・ダンカン・ジョーンズの研究によれば、資産者リストの21位(第三位は3億セステルティウスのセネカ)となっている。.

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ギュムナシオン

ポンペイのギュムナシオン(ギムナシウム)。スタジアムの壁の上から撮影 ギュムナシオン(γυμνάσιον, gymnasion)、ギムナシウム(gymnasium)は、古代ギリシアの公共の競技の選手が訓練する施設。同時に社交の場でもあった。ギリシア語の γυμνός(gymnos, ギュムノス。「裸」)に由来する。競技者は裸で競ったが、それは神を賛美しつつ、男性の肉体の美しさを鑑賞する意味もあった。ギュムナシオンやパライストラは、ヘーラクレースやヘルメースや(アテナイでは)テーセウスの庇護と愛顧の下にあるとされた。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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クラウディウス

ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)は、ローマ帝国の第4代皇帝である。.

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クリエイティブ・コモンズ

リエイティブ・コモンズ(Creative Commons、略称: CC)とは、著作物の適正な再利用の促進を目的として、著作者がみずからの著作物の再利用を許可するという意思表示を手軽に行えるようにするための様々なレベルのライセンスを策定し普及を図る国際的プロジェクト及びその運営主体である国際的非営利団体の名称である。 クリエイティブ・コモンズが策定した一連のライセンスはクリエイティブ・コモンズ・ライセンスと呼ばれる。.

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クィントゥス・トゥッリウス・キケロ

ィントゥス・トゥッリウス・キケロ(Quintus Tullius Cicero, 紀元前102年 - 紀元前43年)は、共和政ローマ期の軍人・政治家。マルクス・トゥッリウス・キケロの弟で、ガリア戦争ではガイウス・ユリウス・カエサルの属将の1人を務めた。.

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クォドランス

ヘールクレースの頭部と3つのペレット、裏面はガレー船の船首と3つのペレットが描かれている。 クゥアドランス(quadrans)は、古代ローマの青銅製小額硬貨で、アスの4分の1の価値である("quadrans" はquarterの意)。新約聖書ではコドラントと表記される。クゥアドランスは共和政ローマ時代に当初から鋳造青銅貨として作られ、3つのペレット(硬貨表面の小さな突起)でウンキア(アス青銅貨の12分の1の価値の小額硬貨)3枚分であることを示していた。初期にはいくつかバリエーションがあったが、表面はヘールクレースの頭部、裏面はガレー船の船首が描かれているものが多い。ローマ以外のイタリア半島中央部の各都市でも同額の硬貨を鋳造していた。 紀元前90年ごろ以降、青銅貨の価値が下がったため造幣量が減り、クゥアドランスが最も小額の硬貨となった。その後アントニヌス・ピウス(紀元138年 - 161年)の時代まで散発的に造幣された。ローマ帝国期の他の硬貨とは異なり、クォドランスには滅多に皇帝の肖像が使われなかった。クゥアドランスには teruncius という別名もあり、「3ウンキア」を意味する。 ギリシア語でクゥアドランスに相当する単語として κοδράντης (kodrantes) がある。欽定訳聖書ではこれを farthing(かつてイギリスで発行されていた4分の1ペニーの小額硬貨)と訳していた。 ファイル:Aes Grave Quadrans2.jpg|紀元前275年 - 紀元前270年ごろ ファイル:Vecchi 283.jpg|Teruncius(プッリャ州ルチェーラ、紀元前220年ごろ) ファイル:RIC 0465.jpg|アウグストゥスのクゥアドランス ファイル:0808quad.jpg|ドミティアヌスのクゥアドラン.

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ゲルマン人

1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コーニス

ーニス(イタリア語:Cornice)は建物あるいは壁を完成させる水平な形作られた突起部であり、あるいはエンタブラチュア(柱に支えられる水平部)の上方の傾斜した部分である。イタリア語のコーニスは水平の出っ張りを意味する。 コーニス・モールディングは一般に建物や家具部品の頂部に来る水平な装飾的モールディング(縁)である。例えばドアや窓の上部コーニス、あるいはペデスタル(台座)の縁周りのコーニスがこれにあたる。単純なコーニスはクラウンモールディング(壁と天井の交差する部分を覆う帯状の仕上げ)で成形される可能性がある。 突出したコーニスの機能は雨水が建物の壁に当たらないようにすることである。住宅の場合には突出した切妻、軒の庇および雨樋でこの機能を果たす。モダニズム建築ではコーニスを省くことが重要な要素であり、念入りな内部排水系が備えられることになる。.

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シャワー

ャワー(Shower)とは水などを幅広く撒く、また身体に浴びるために、この幅広く水をまくための器具(シャワーヘッド、蓮口)を使用して噴出させ降下させるもの、およびこれらを組み込んだ装置を利用する行為である。.

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ソフィア (ブルガリア)

フィア( ラテン文字表記:Sofiya、)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人である。北緯42度42分、東経23度20分。 ヨーロッパ最古の都市の一つであり、セルディカ (Serdica)、スレデツ (Sredets)、トリアディツァ (Triaditsa) と呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶとされる。有史以前の集落跡が現在のソフィアの中心や王宮の付近、オベリャ (Обеля)、スラティナ (Слатина) などで見つかっている。トラキア人が最も重要視していた、鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良いコンディションで保存されている。鉱泉は現在も湧水がある。時代の変遷とともに幾つかの異なる名前で呼ばれてきたソフィアの数千年にわたる歴史の痕跡は、今日でもその一部を見ることができる。.

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サーサーン朝

ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.

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サウナ風呂

ウナ風呂(サウナぶろ)、または略して単にサウナとは、フィンランド式の蒸し風呂。 一般にサウナの発祥はフィンランドとされる。1000年以上の歴史があり、フィンランドの各家庭には大抵の場合サウナがある。 日本では健康ランドやスーパー銭湯、カプセルホテル、スポーツクラブなどに多く設置されている。また、単独でサウナと称している施設もあり、それらの中には簡易な宿泊施設として利用できるものもある。北欧と違い男女混浴であることはない。 日本のサウナ大使は2名、長嶋茂雄とマンガ家のタナカカツキである。 濡れたタオルを室内で絞ると、乾式サウナにも関わらず、室内に水蒸気を発生さるため、熱伝導率が高まり熱く感じる。これは水蒸気が空気の300倍の熱伝導率を有するためである。このため、滞在時間が短くなってしまうことで効果が減弱される例がある。遠赤外線サウナなどの高機能な設備が備わっていても、効果が出るより先に退室するなどの悪弊がみられる。.

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公衆浴場

http://www.narakenkoland.net/ 奈良健康ランド(天理市) 公衆浴場(こうしゅうよくじょう)とは、公衆一般が利用する入浴施設のこと。大衆浴場、公共浴場とも。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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剣闘士

Zliten mosaicに描かれた剣闘士。200年頃。 剣闘士(けんとうし、羅:Gladiator, グラディアトル、グラディアートル)は、古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士。名前の由来は、剣闘士の一部がローマ軍団の主要な武器でもあったグラディウスと呼ばれる剣を使用していたことから来ている。 共和政ローマやローマ帝国の多くの都市にはアンフィテアトルム(円形闘技場)が存在しており、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられた。また人工池などを用いて模擬海戦が行なわれることもあった。闘技会に批判的なキリスト教の影響によって衰退し、404年に西ローマ皇帝ホノリウスの命令で闘技場が閉鎖されたが、その後も各地で続けられていたようであり、681年に公式に禁止されて消滅した。.

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石鹸

石鹸(石鹼、せっけん、せきけん)とは一般に汚れ落としの洗浄剤を指し、より化学的には高級脂肪酸の塩の総称である。 工業的に動植物の油脂から製造され、特に純石鹸(じゅんせっけん)と呼ぶ場合は、脂肪酸ナトリウムや脂肪酸カリウムだけで、添加物を含まない石鹸を指すが、多くは炭酸塩や香料などの添加物を含む。 界面活性剤であり、油や油を含む汚れを水に分散させる作用により洗浄能力を持つ。また、細菌の細胞膜やウイルスのエンベロープを破壊するため、一部の病原体に対して消毒効果を発揮する。 水を溶媒として溶かして使用するが、水なしで使えるよう工夫されたドライシャンプーが介護や災害時に使われているほか、宇宙ステーションでも使用されている。 マルセイユ石鹸(サヴォン・ド・マルセイユ).

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用水路

作などの灌漑農業に欠かせない'''農業用水路'''。田畑に水を引き込む際に使う水門も設けられている。また、日本では田と一体で生態系も築かれている。写真は富山県南砺市。 用水路(ようすいろ)は、灌漑や水道、工業用などのために水を引く目的で造られた水路である。.

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熱水泉

熱水泉(ねっすいせん、Hot Spring ホットスプリング)は、泉のうち、特に高温の熱水が湧出する泉を指す言葉である。ホットスプリングという単語はしばしば日本の温泉の英語訳としても用いられるが、いうなれば源泉に特化した訳である。.

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衛生

衛生(えいせい、英語・ドイツ語:hygiene)とは、「生」を「まもる」ことから健康をまもること、転じて健康の増進を意味する。今日では単に清潔のみを意味する場合も多い。また、医学の一分野として衛生学、保健衛生学と称されることもある。.

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西ローマ帝国

西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.

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肌かき器

''Strigils and sponges'' (1879) ローレンス・アルマ=タデマ画 肌かき器(strigil)は、小さな曲がった金属製器具であり、石鹸が一般に普及する以前、古代ギリシアや古代ローマで肌から汚れや汗をかきとるのに使った。まず香油を皮膚に塗り、その後肌かき器で汚れと共にこすり落とす。裕福な人々は、奴隷にこれをやらせた。肌かき器は古代ローマの公衆浴場でよく使われていた。 strigil sarcophagus とは、肌かき器を思わせるS字形の並列な溝が刻まれたサルコファガスである。 ファイル:Strigiles.jpg|古代ローマの肌かき器。紀元前1世紀 ファイル:Greek statue of a athlete cleaning himself.jpg|アポクシューオメノス。肌かき器を使っている若者の像 ファイル:Strigil Sarcophagus St Victor.jpg|Strigil Sarcophagus(マルセイユのサン・ヴィクトール修道院).

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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栗生澤猛夫

栗生澤 猛夫(くりうざわ たけお、1944年10月5日 - )は、日本の歴史学者。主専攻はロシア中世・近世史。北海道大学名誉教授。前北海道大学文学部長・大学院文学研究科長。 岩手県盛岡市生まれ。1967年一橋大学経済学部卒業後、1971年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。指導教官は金子幸彦。北海道大学文学部博士課程、(80年代前半まで断続的に)ドイツ等数度に渡る欧州留学を経て、1976年小樽商科大学助教授、同教授、1987年北海道大学文学部助教授を経て、1994年より同教授。2004年同副学部長(副研究科長)を経て2006年より2008年まで学部長(研究科長)。.

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梅毒

梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの1種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum) によって発生する感染症である。第一感染経路は性行為であるため性病の1つとして数えられるものの、妊娠中、出生時の母子感染による先天性梅毒もある。梅毒の徴候や症状は、4段階でそれぞれ異なる。 梅毒は、1999年、全世界で推定1200万人で新規感染したと考えられており、その90%以上は発展途上国での感染である。1940年代のペニシリンの普及以降、発症は劇的に減少したが、2000年以降、多くの国々で感染率が増加しつつある。たびたびヒト免疫不全ウイルスと併発するケースがあり、乱交、売春、コンドーム不使用に起因する。有効なワクチンは存在せず、抗菌薬の投与により治癒しても終生免疫は得られず、(梅毒に再び感染した場合)再感染が起こる 国立感染症研究所。 in vitroでの培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA配列が決定、公開されている。また、理由は不明だが、ウサギの睾丸内では培養することができる。.

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温泉

岩石を湯船とした露天風呂。由布院温泉 血の池地獄名勝・別府の地獄 海地獄名勝・別府の地獄 湯畑草津温泉 露天風呂南紀勝浦温泉 共同浴場湯の峰温泉 外湯城崎温泉「御所の湯」 温泉街銀山温泉 展望温泉浴場浅虫温泉 温泉を利用した風呂大深温泉 入浴中のニホンザル地獄谷野猿公苑 温泉(おんせん)は、地中から湯が湧き出す現象や湯となっている状態、またはその場所を示す用語である。その熱水泉を用いた入浴施設も一般に温泉と呼ばれる。人工温泉と対比して「天然温泉」と呼ぶ場合もある。 熱源で分類すると、火山の地下のマグマを熱源とする火山性温泉と、火山とは無関係の非火山性温泉に分けられる。含まれる成分により、さまざまな色、匂い、効能の温泉がある。 広義の温泉(法的に定義される温泉):日本の温泉法の定義では、必ずしも水の温度が高くなくても、普通の水とは異なる天然の特殊な水(鉱水)やガスが湧出する場合に温泉とされる(後節の「温泉の定義」を参照)。温泉が本物か否かといわれるのは、温泉法の定義にあてはまる「法的な温泉」であるのかどうかを議論する場合が一般的である(イメージに合う合わないの議論でも用いられる場合がある)。アメリカでは21.1度(華氏70度)、ドイツでは20度以上と定められている。.

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温泉街

温泉街(おんせんがい、おんせんまち)は日本に於ける温泉の宿泊施設や温浴施設などが立ち並ぶ町並み。飲食店や土産物店、遊戯店、また、日常の生活に必要な商店などが存在する。宿泊客は浴衣で町並みを散策することも多い。温泉場(おんせんば)とほぼ同義。この温泉場は近年、温泉ホテルの影響を受けている。.

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