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ウェジ

索引 ウェジ

ウェジ部(Weji)とは、遼代から明代にかけてスンガリ河下流域〜アムール川下流域方面に居住していた集団の呼称である。ウジェと表記される場合もある。「森林」を意味するトゥングース諸語のウェジ(Weji)が原音と見られ和田 1955,141頁、特定の民族集団の名称というよりはスンガリ河以北の森林地帯に住むトゥングース系諸集団の総称であった。漢文史料ではギレミと並列して記載されることが多く、現代においてもニヴフと接するアムール川下流域方面のトゥングース系民族(北方ツングース:ネギダール・ウデヘ・オロチ、南方ツングース:ナナイ・ウリチ)に連なる存在であると推測されている。

目次

  1. 40 関係: 天会 (金)女真契丹建州女直ナナイチンギス・カンネギダールモンゴル帝国ツングース系民族ツングース語族ニヴフ呉乞買アムール川ウリチウデヘオロチ族クビライ元 (王朝)立命館大学遼史遼陽等処行中書省聖宗 (遼)靺鞨黒水部農安県野人女直至正金 (王朝)東道諸王松花江水達達路永楽帝渤海 (国)満洲満洲語満洲民族海西女直

天会 (金)

天会(てんかい)は、金の太宗及び熙宗の治世で用いられた元号。1123年 - 1137年。

見る ウェジと天会 (金)

女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山(白頭山)とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は遼王朝の興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったといわれる。12世紀、女真族は中国東北部に金王朝を建てたが、金を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。

見る ウェジと女真

契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。遊牧民であったとされている。 契丹人は、原モンゴル人から鮮卑人を経た子孫であり、モンゴル語族の汎モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した。契丹人は、シベリア、モンゴル、中国北部の広大な地域を支配した遼王朝(916〜1125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。 1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である。

見る ウェジと契丹

建州女直

建州女直 (ケンシュウ ジョチョク,拼音:jiànzhōu nǔzhí) は、女真の一種に対する明側の呼称。蔑称として「建夷」とも。 明永楽帝は積極的に女真羈縻に乗り出し、女真 (女直) を三種に大別した。建州女直はその内の一つである。建州女直はさらに四つの衛から構成され、建州右衛から頭角を顕したヌルハチ (後の清太祖) が後に建州部を統一して滿洲国マンジュグルンを樹立し、海西女直併合後に後金国アイシン・グルン、子ホン・タイジの代で大清国ダイチン・グルンと国号を改めた。

見る ウェジと建州女直

ナナイ

ナナイ(ナナイ ナナイ語:Нāнай, Нāни,ロシア語:Нанайцы)は、ツングース系の民族荻原(1989)p.55。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万2,000人弱(1989年)おり、中国(中華人民共和国)国内にも居住している。2004年人口調査時の中国における国内人口は4,640人であった。中国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲族、 )という呼称が公称となっており、55の少数民族の一つとして認定されている。 ロシアではかつて、ゴルディ(Goldi)、ゴルドないしゴリド(Gol'dy)とも呼ばれた。ロシア連邦に住んでいるナナイの一部ではロシア人との混血が進んでいる。

見る ウェジとナナイ

チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

見る ウェジとチンギス・カン

ネギダール

ネギダール (Негидальцы、Negidals)は、ツングース系民族の一つで、主にロシア国内の極東連邦管区のアムグン川・アムール川沿岸に居住する。「ネギダル」とも表記されるほか、「アムグニ・ツングース」という名称もある。 ツングース諸語の中でもエヴェンキ語に近いネギダール語という言語を持つ。2002年全ロシア国勢調査によると、ロシア国内に567人が暮らし、そのうち147人がネギダール語を話している。 近年は、一部にロシア人との混血が進んでいる。

見る ウェジとネギダール

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の領土。

見る ウェジとモンゴル帝国

ツングース系民族

ツングース系民族(ツングースけいみんぞく、Тунгусо-маньчжурские народы; Tungusic peoples; 通古斯民族, )は、中国東北部から極東ロシア、シベリアにかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする諸民族のこと。 ツングース系民族は、北部 (エヴェンキ=ツングース) と南部(女真-ナナイ)の主要な2系統に分けられ、また、両者の中間グループ(オロチ-ウデヘ)が認められることがある。

見る ウェジとツングース系民族

ツングース語族

Tungusicで示される。 ツングース語族(ツングースごぞく)は世界の基本となる語族の一つ。主にシベリア東部・沿海地方、満洲(中国東北部)に住むツングース系民族の言語である。 言語類型論的には膠着語であり、複雑な格システム(多くの言語に格の一致がある)や時制・相の区別が発達した言語が多く、南ツングース諸語満洲語群を除いて所有接辞も用いられる。また母音調和が顕著であり(母音調和の厳密性については各々の言語でまちまち)、外来語を除いて語頭にRが立たない傾向がある。これらはチュルク語族・モンゴル語族と共通する部分が多いため、かつて合わせてアルタイ語族とも呼ばれてきた。しかし、これらの間には基礎語彙の音韻対応がほとんど見られないことから、語族とは証明されていない。将来的に「アルタイ語族」が成立すると証明されれば、ツングース語派と呼ばれるようになるが、未だアルタイ語族は立証されていないため、現時点ではツングース語族が正しい。しかしこのような経緯から単にツングース諸語と呼ばれることが多い。

見る ウェジとツングース語族

ニヴフ

ニヴフ/ニブフ(Nivkh、нивх)、ロシア語の複数形ではニヴヒ/ニブヒ(Nivkhi、нивхи)は、主としてロシアに住む少数民族である。その多くは樺太(サハリン州)、アムール川(黒竜江)下流域に住んでいる荻原(1988)pp.383-384。1979年の人口は約4,400人。かつては、ギリヤーク(Gilyak)、複数形ギリヤーキ(Gilyaki)と呼ばれたW.キーリッヒ(1981)p.49。アイヌとも、ツングース・満洲系諸族やモンゴル系民族とも系統の異なる民族であり、古シベリア諸語(旧アジア諸語)の一つである固有の言語ニヴフ語を話す。歴史的にはアイヌやツングース・満洲系の諸民族と密接なかかわりを有し、文化要素においても共通性が認められる。

見る ウェジとニヴフ

呉乞買

呉乞買(ウキマイ)は、金の第2代皇帝。劾里鉢の四男で、太祖阿骨打の同母弟。長兄は烏雅束(ウヤス)。伯父は劾者(ヘテェ、劾里鉢の長兄、烏古廼の庶長子)。叔父は高宗盈歌。子の阿魯(アル、漢名は宗本)ら数名の息子がいる。

見る ウェジと呉乞買

アムール川

アムール川(アムールがわ、、ラテン文字転写: Amur)、あるいは黒竜江(こくりゅうこう、、、満洲語:転写:sahaliyan ula)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368 kmは世界8位、流域面積は185万5500 km2で世界10位である。

見る ウェジとアムール川

ウリチ

ウリチ族(ウリチ語: нани、ульчи 、英語 Ulch)は、ツングース系民族の一つで、主にロシア連邦のアムール川下流域(ハバロフスク地方ウリチ地区)に居住する。ナーニ(Naani)、オルチャ(Olcha)、マングン(Mangun)などの呼称でも呼ばれる。山丹交易で知られる山丹人はウリチに推定されている。現在は一部がロシア人との混血が進んでいる。

見る ウェジとウリチ

ウデヘ

ウデヘ(Удэгейцы 、Udege)またはウデゲは、ツングース系民族の一つで、主にロシア国内の沿海州シホテアリン山脈周辺に居住する荻原(1989)pp.76-77。ウデもしくはウデヘは自称である。かつてはTaz(ターズ)、Namunka(ナムンカ)、Kyakala(キャカラ)とも呼ばれていた。「大きな部族」にちなむキャカラは、間宮林蔵が「キヤツカラ」という名で記した集団を指していると考えられ、ウデヘに比定されている。南部に住むターズの民族名は中国語の「韃子」に由来し、「タッツィー」はアムール川下流域のすべての先住民を意味している。

見る ウェジとウデヘ

オロチ族

2010年ロシア極東の国勢調査におけるオロチ族居住集落 オロチ族、オロチ人(露:О́рочи、自称:орочисэл、古称:нани(ナニ、アムール川流域のナナイからの借用語。наは大地、ниが人で、「土地の住民」の意)は、ロシアの少数民族の一つ。ハバロフスク地方に住むツングース系民族荻原(1988)p.428『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典1』「オロチ族」(1972)p.716。人口は約900人。主な居住域はアムール川支流ウスリー川、アニュイ川、スンガリ川(松花江)で、トゥムニナ川(Тумнина)の下流やキジ湖などでも生活している。

見る ウェジとオロチ族

クビライ

クビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる。死後は諡を聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禅皇帝)。日本語での名前表記については揺れがあるため日本語による表記の節を参照。

見る ウェジとクビライ

元 (王朝)

元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。

見る ウェジと元 (王朝)

立命館大学

立命館大学(りつめいかんだいがく、英語: Ritsumeikan University)は、京都府京都市中京区西ノ京朱雀町1に本部を置く日本の私立大学。1900年創立、1922年大学設置。略称は立命、立命大、Rits(リッツ)。近畿地方では立大も使用される。

見る ウェジと立命館大学

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。 中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

見る ウェジと遼

遼史

『遼史』(りょうし)は、中国の正史・二十四史(清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書)の一つで、遼の歴史書である。116巻。元の宰相であった脱脱が総裁となって、史料を集めて1344年に完成した。清代の歴史学者趙翼の『二十二史箚記』では「遼・金二史又缺略多し」と書かれているが、遼の歴史を知る上では根本史料である。

見る ウェジと遼史

遼陽等処行中書省

遼陽等処行中書省(りょうようとうしょ-こうちゅうしょしょう)は、元が設置した行中書省。遼陽行省と略称される。

見る ウェジと遼陽等処行中書省

聖宗 (遼)

聖宗(せいそう)は、契丹(遼)の第6代皇帝。諱は文殊奴。遼第一の智勇兼備の名君と伝わる。

見る ウェジと聖宗 (遼)

靺鞨

靺鞨(まっかつ、拼音:Mòhé)は、中国の隋唐時代に中国東北部・沿海州に存在したツングース系農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎・挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。

見る ウェジと靺鞨

黒水部

黒水靺鞨(こくすいまっかつ)は、ツングース系民族とする靺鞨七部の一派で、その主体である黒水部のほか16部が存在し、その主要な部落は次の通りである。

見る ウェジと黒水部

農安県

農安県(のうあん-けん)は中華人民共和国吉林省長春市西北部に位置する県。県人民政府の所在する農安鎮は金代に黄龍府が設置されていた。吉林省中部に位置し、松花江支流の伊通河中流域にあたる『コンサイス地名辞典 外国編』、三省堂、1977年7月、P720。。東北平原のほぼ中央にあたり、肥沃な農業地帯をなしている。甜菜・トウモロコシ・大豆などが栽培される。食品・機械・石油などの鉱工業が発達している。

見る ウェジと農安県

野人女直

野人女直(やじんじょちょく)は、女直(jušen、女真)の集団のうち、南西の建州女直、北西の海西女直を除く東北方に居住していた集団。明末清初にはウェジ部(wejei (weji) aiman遼寧省档案館『満洲実録・上函・巻三』/weji aiman、渥集部)、ワルカ部(warkai aiman、瓦爾喀部)、クルカ部(kūrkai aiman、庫爾喀部)の3部が存在し、マンジュ政権からは東海三部と総称されていた。1596年から1625年にかけて、ヌルハチが軍を送っている。

見る ウェジと野人女直

至正

1346年に元の時代にペルシャの商人が作った青銅製の鐘「至正鐘」 至正(しせい)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1341年 - 1370年。1368年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。モンゴル語史料ではČi-čingと転写されている。

見る ウェジと至正

金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。 国姓は完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。

見る ウェジと金 (王朝)

東道諸王

東道諸王(とうどうしょおう)は、モンゴル帝国におけるチンギス・カンの諸弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン、ベルグテイ)を始祖とする、モンゴル高原東方に領地を持つ諸王家の総称である。東方諸王、左翼諸王とも呼び、またこのうちベルグテイ王家のみ始祖が庶出のため格式が低く、これを外して東方三王家と呼称する場合もある。 これに対し、チンギス・カンの諸子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、コルゲン)を始祖とする、モンゴル高原西方に領地を持つ諸王家を西道諸王、西方諸王、右翼諸王とも呼称する。 西道諸王が中央アジア・東欧に大規模な領土を得てそれぞれ独立した政権(ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、オゴデイ・ウルス)として振る舞うようになっていったのに対し、東道諸王はカアン(ハーン)の勢力下に留まり続け、また政変に当たってはオッチギン王家を中心として一体的行動をとることが多かった。

見る ウェジと東道諸王

松花江

松花江(しょうかこう、、ソンホワチアン)は、ユーラシア大陸・中国東北部を流れる川の一つ。

見る ウェジと松花江

水達達路

水達達路(すいたつたつろ)は、モンゴル帝国および大元ウルスの時代に黒竜江流域一帯に設置された路。 「水達達(usu irgen)」とはモンゴル人による黒竜江流域に住まうトゥングース系諸民族(現在のナナイ人、ウリチ人など)の総称。

見る ウェジと水達達路

永楽帝

永楽帝(えいらくてい)は、明の第2代ないし第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)のちに成祖(せいそ)。太祖朱元璋の四男。 その在位中の元号「永楽」から永楽帝と呼ばれる。 永楽年間の明の版図。

見る ウェジと永楽帝

渤海 (国)

渤海(ぼっかい、朝鮮語:발해 パレ、渤海、、Бохай、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。靺鞨族の大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

見る ウェジと渤海 (国)

清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

見る ウェジと清

満洲

満洲(まんしゅう、、Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。

見る ウェジと満洲

満洲語

満洲語(満州語、まんしゅうご、)は、満洲民族が話すツングース諸語に属する言語。かつては清朝の公用語の一つで「清語」「国語」などと呼ばれた。

見る ウェジと満洲語

満洲民族

満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく、z)は、ツングース系民族の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族である。満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく)、満族(まんぞく、マンぞく)などとも呼ばれる。 同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八旗(z、八つの旗)に組織され(満洲八旗)、蒙古八旗、漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベ、ウデヘ、ナナイ、ウリチ、ウィルタなどがある。

見る ウェジと満洲民族

明(みん)は、中国の王朝である。1368年から1644年まで存在し、明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配した。

見る ウェジと明

海西女直

海西女直 (カイセイ-ジョチョク)、あるいは海西女真 (-ジョシン) は、16世紀から17世紀の明末清初頃に、現在の遼寧省開原市、吉林省吉林一帯に居住していた女真の集団を指す呼称。黒龍江省一帯の日本海沿岸に住んだ東海女直 (野人女直)、南の建州女直 (建州三衛、毛憐衛) に対しての明朝側の呼称であり、『明實錄』や『東夷考略』など明代史料には「海西夷」という呼称も見える (建州女直は「建州夷」)。 満洲語ではフルン (hūlun, 扈倫) と呼ばれ、主に、ハダ、イェヘ、ホイファ、ウラの四大部 (四国) で構成されたため、満洲史側からはフルン四部 (扈倫四部) とも呼ばれる。なお、フルンの領土内にはそのほかにも沢山の別部族が存在し、それらが四部の支配を受けて、全体としてフルンを構成していた。その為、フルンがこの四部だけで構成されていたという訣ではない。

見る ウェジと海西女直

ウェジ部 別名。