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遠山友政

索引 遠山友政

遠山 友政(とおやま ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国苗木城の城主、苗木藩の初代藩主。遠山友忠の三男(嫡男)。母は織田信長の姪『遠山家譜』(東京大学史料編纂所蔵)で、通称は初めは三郎兵衛と言ったが、後に父と同じ久兵衛に改めた。.

72 関係: 千村良重大名天正安土桃山時代小田原征伐小里城山村良安山村良勝岐阜県岩村城上野国上杉景勝中山道中津川市享年井伊直政仮名 (通称)伊勢国会津征伐伏見城の戦い弘治 (日本)徳川家康徳川秀忠元亀元和 (日本)犬山城石川貞清織田信長美濃国生駒利豊田丸直昌遠山友忠遠山友勝遠山利景遠山秀友遠藤胤直菅沼定利飯羽間城館林城阿寺城関ヶ原の戦い苗木城苗木遠山氏苗木藩雲林寺 (中津川市)東京大学史料編纂所松平忠明松代城桑名城森長可...榊原康政武将武田勝頼江戸幕府江戸時代河尻秀長木曽谷木曾義利戦国時代 (日本)明知遠山氏浜松城慶長12月19日 (旧暦)1556年1573年1574年1583年1590年1600年1614年1620年1月23日 インデックスを展開 (22 もっと) »

千村良重

千村 良重(ちむら よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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小里城

小里城(おりじょう)は、岐阜県瑞浪市にかつて存在した日本の城(山城)。.

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山村良安

山村 良安(やまむら たかやす)は、江戸時代初期の武将・旗本。木曽代官。 文禄元年(1592年)、山村良勝の長男として誕生。 慶長13年(1608年)、父・良勝が隠居すると家督を継ぐ。大坂冬の陣には徳川義直に従い天王寺口を守備した。慶長15年(1610年)妻籠宿で六斎市(各月3日、8日、13日、18日、23日、28日)を立てることを許可する。 元和元年(1615年)、木曾が尾張藩の所領となると徳川義直に仕え木曾の代官に任じられた。元和4年(1618年)江戸にて出仕中に死去。享年27。 家督は再び父・良勝が継ぎ、義直に再出仕している。その後の家督は弟・良豊が継いだ。.

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山村良勝

山村 良勝(やまむら よしかつ/たかかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。木曽氏、徳川氏の家臣。信濃国妻籠城主。.

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岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.

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岩村城

岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある中世の日本の城(山城跡)で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。岐阜県指定史跡。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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中山道

五十五里塚跡、下諏訪宿 福島宿) 一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道板橋駅の北側にある踏切が「中仙道踏切」という名称である。」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。.

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中津川市

中津川市 中津川市(なかつがわし)は、岐阜県の南東部に位置する市である。長野県に隣接しており、古くより木曽谷や伊那谷との関係が深いが、近年は中京圏との関係が強くなってきている。市域を断層が縦横に走っているため山地が多く、木曽川に流れ込む河川はどれも小規模だが清流であり、木曽川水系においても水の綺麗さの点では有数の地である。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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会津征伐

会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。.

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伏見城の戦い

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。.

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弘治 (日本)

弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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犬山城

山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にあった日本の城である。現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている。.

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石川貞清

石川 貞清(いしかわ さだきよ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の譜代の家臣。犬山城主。江戸時代前期の商人、後に江戸幕府御家人。初名は光吉、あるは三吉ともいった。晩年は剃髪して石川宗林を称し、茶人でもあった。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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生駒利豊

生駒 利豊(いこま としとよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。小折城主。生駒家長の四男。生駒家第5代。因幡守。露月。.

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田丸直昌

丸 直昌(たまる なおまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。.

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遠山友忠

遠山 友忠(とおやま ともただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国飯羽間城(飯場城)および苗木城の城主。正室は織田信長の姪『遠山家譜』東京大学史料編纂所蔵。。.

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遠山友勝

遠山 友勝(とおやま ともかつ)は、戦国時代の武将。美濃国飯羽間城および苗木城の城主。.

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遠山利景

遠山 利景(とおやま としかげ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。明知城主。江戸幕府旗本。旗本明知遠山氏の初代。.

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遠山秀友

遠山秀友(とおやま ひでとも、1609年12月2日(慶長14年11月6日) - 1642年2月6日(寛永19年1月7日))は、美濃国苗木藩の第2代藩主。 初代藩主・遠山友政の長男。正室は皆川隆庸の娘。継室は大納言・滋野井季吉の娘。子に遠山友貞(長男)、娘(滋野井教広室)。官位は従五位下、刑部少輔。 苗木にて生まれる。通称は刑部。慶長19年(1614年)、将軍徳川秀忠にお目見えする。元和5年(1619年)12月19日に父が死去したため、翌元和6年(1620年)5月に家督を継いだ。大坂城番や江戸城本丸の奥の間普請などで功を挙げた。寛永19年(1642年)正月7日、苗木にて死去した。享年34。跡を長男の友貞が継いだ。 墓所は中津川市苗木の雲林寺(明治初期に廃仏毀釈により廃寺となった)。 ひてとも *02 Category:中津川市の歴史 Category:1609年生 Category:1642年没.

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遠藤胤直

遠藤 胤直(えんどう たねなお、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。木越遠藤氏・遠藤胤基の子。母は遠藤盛数の娘。遠藤慶隆とはいとこ。通称、小八郎。室は慶隆の娘山本。 父の胤基は、文禄2年(1593年)11月23日、文禄の役より引き上げ帰る途上の長門国国分寺で46歳で病死した。父の所領を継いで、美濃国犬地城5500石を領する。文禄3年(1594年)、伏見城普請に慶隆とともに東美濃の木材を伐採しこれを提供し、普請にも進んで参加したので、伏見城の北側にある狼谷(今の京都市伏見区深草大亀谷)に屋敷を拝領した。慶長2年(1597年)12月7日、白山妙理大権現(現在の神田神社)に寄進をした。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は慶隆とともに徳川家康の重臣榊原康政に忠誠を尽くすことを約し東軍に与したが、胤直は前触れもなしに西軍に寝返り、上ヶ根城に籠城した。8月1日、岐阜城主織田秀信より激励状および鉄炮三十挺と弾薬を届られた。前哨戦としての八幡城の合戦に敗北し旗色悪く、9月5日には上ヶ根城を慶隆に攻められて降伏した。戦後、同じ慶隆の女婿の金森可重は、胤直の赦免を徳川家康に願い出たが、家康は義父の慶隆に逆らったことを赦さず改易となった。改易後、妻とは離縁し浪人となり京に移り住み玄斉(玄西)と号し、慶長9年(1604年)に没するなど諸説ある。.

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菅沼定利

菅沼 定利(すがぬま さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野吉井藩の初代藩主。 三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の総領家である田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも、定吉の叔父・定直の子とも言われている。『明知物語』には、菅沼藤蔵(後の土岐定政)の母の弟と伝えられるが、これは藤蔵の養父・定仙の事が誤伝されている為、該当しない。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。菅沼定吉は天正3年(1575年)の長篠の戦い後に菅沼定直らの離反と徳川氏の侵攻を受けて武節城を奪われて信濃国伊那郡に落ち延び、翌年には同郡を拠点として反撃して菅沼定直らを殺害したとされ、この間定利は一貫して徳川方として戦っている。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。なお、定利の官途名は小大膳もしくは大膳亮であるが、これは田峯菅沼氏宗家の当主代々の官途名であり、同氏の後継者であることを明らかにしたとみられている。 武田氏の滅亡後、かつて菅沼定吉がいた伊那郡は知久氏・保科氏・下条氏・木曽氏によって分割されたが、保科氏以外は羽柴秀吉への内通や内紛による没落してしまう。このため、徳川家康は天正12年(1584年)、菅沼定利を伊那郡に派遣して同郡の田峯菅沼氏の勢力を継承させるとともに、同郡の安定化を命じる。定利は知久氏の知久平城に入った後、下条氏の飯田城に移って徳川方に残った国衆を統率した。また、信濃国の領有を巡って対立していた徳川家康と上杉景勝がともに秀吉の傘下に入ると両者の国境確定が課題となり、飯田城にいた菅沼定利と上杉氏から海津城に派遣されていた須田満親が現地における交渉が行われている。 小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉井に2万石を与えられた。伊那郡の代官的存在であった菅沼定利が、諏訪郡の諏訪頼忠、佐久郡の依田康勝とともに上野国に移封されたのは、徳川氏の信濃方面に対する備えとしての役割を有していたとみられる。定利は領内で検地を実施し、六斎日六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した。 慶長7年(1602年)に死去。田峯菅沼氏の血統は断絶したが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の忠政が継いだ。 菩提寺として吉井神保の仁叟寺に葬られたが、150年後に三河新城3代領主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移された。現在、墓石塔は高崎市史跡に指定されている。.

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飯羽間城

飯羽間城跡 飯羽間城(いいばまじょう)とは、鎌倉時代から戦国時代末期にかけて美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市岩村町飯羽間)に存在した日本の城。現在は城跡のみが残っている。.

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館林城

城沼 館林城(たてばやしじょう)は群馬県館林市城町3にある戦国時代から江戸時代の日本の城である。.

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阿寺城

阿寺城(あでらじょう / あてらじょう)は、岐阜県中津川市手賀野にあった砦(日本の城)。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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苗木城

苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市にあった日本の城。別名は霞ケ城。苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。.

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苗木遠山氏

苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。 鎌倉幕府の有力御家人であった加藤景廉の子孫の遠山昌利が、広恵寺城(現在の岐阜県中津川市福岡町の植苗木)から(1532年)に美濃国恵那郡高森(現在の岐阜県中津川市苗木町)に館を移し、恵那郡の木曽川以北と加茂郡の東部を支配したのが始まりであるが、昌利の子である遠山景徳に世継ぎが居なかったため、遠山氏の本家岩村遠山氏から、遠山直廉を養子として迎えた。遠山直廉は苗木城を築き活躍するが、死後は飯羽間遠山氏から遠山友勝を養子に迎え、その孫の遠山友政が初代苗木藩主となり、子孫は大名として存続し、明治になって子爵となる。.

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苗木藩

苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の一部を領地としていた。.

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雲林寺 (中津川市)

雲林寺(うんりんじ)は岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に遠山友政が一族の菩提寺を建立することを発願して帰依していた八百津正伝寺の維天和尚を開山として招請したが、維天は高齢であったため関梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名に因んでいる。その後苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほかに苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩は先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世の剛宗宗載に雲林寺を廃寺として剛宗宗載を教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの明治3年(1870年)に廃寺となり、寺の本尊や什器などは剛宗宗載によって中津川市下野の法界寺に移された。その後雲林寺の本尊である地蔵菩薩は下呂市の金錫山地蔵寺に伝わり、岐阜県の文化財に指定されている。 雲林寺跡地には遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。.

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東京大学史料編纂所

東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所(共同利用・共同研究拠点)の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。.

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松平忠明

松平 忠明(まつだいら ただあきらデジタル版 日本人名大辞典+Plus)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。江戸幕府大政参与。奥平松平家の祖。三河国作手藩、伊勢国亀山藩、摂津国大坂藩、大和国郡山藩、播磨国姫路藩主。 同名の人物に、小姓組番頭・書院番頭・日光奉行・蝦夷地見分隊長などを務めた江戸時代の旗本(1765年 - 1805年)がいる。.

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松代城

松代城(まつしろじょう)は、長野県長野市松代町松代にある日本の城跡である。元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。.

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桑名城

桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった日本の城である。江戸時代は伊勢桑名藩の藩庁が置かれた。.

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森長可

森 長可(もり ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。受領名は武蔵守。.

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榊原康政

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河尻秀長

河尻 秀長(かわじり ひでなが、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将・大名。苗木城城主。河尻秀隆の子。通称は、与四郎。名は直次、宗久とも。肥前守。.

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木曽谷

木曽山脈から望む木曽谷(大桑村周辺の地域) 木曽谷(木曾谷、きそだに)とは、木曽川上流の流域を表す名称である。木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある。木曽谷、木曾谷の表記については木曽を参照。.

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木曾義利

木曾 義利(きそ よしとし、1577年(天正5年) - 1640年(寛永17年))は、安土桃山時代、江戸時代の人物。木曾義昌の子。大名としての木曾氏の最後の当主。母は武田信玄の娘・真理姫。子に木曾義辰。弟に義春と義一(義通)。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明知遠山氏

明知遠山氏(あけちとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。 鎌倉時代の初期に岩村遠山氏から分家して明知城を拠点としたが、戦国時代末期に武田氏の攻撃により失領。江戸時代になって旧領の一部を回復し、幕府の旗本となって明知陣屋を構え、明治維新を迎えるまで続いた。菩提寺は岐阜県恵那市明智町にある龍護寺で、明知遠山氏代々の墓が現存する。.

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浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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12月19日 (旧暦)

旧暦12月19日は旧暦12月の19日目である。六曜は赤口である。.

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1556年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1574年

記載なし。

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1583年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1614年

記載なし。

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1620年

記載なし。

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1月23日

1月23日(いちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から23日目に当たり、年末まであと342日(閏年では343日)ある。誕生花は、スノーフレークなど。.

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