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異端審問

索引 異端審問

端審問(いたんしんもん、Inquisitio)とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。ひとくちに異端審問といっても中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに分けることができ、それぞれが異なった時代背景と性格を持っている。 なお、魔女狩りは異端審問の形式を一部借用しているが、その性格(異端はキリスト教徒でありながら、誤っているとされた信仰を持っている者であるのに対し、魔女・魔術師(魔法使い)はそもそもキリストを信じないとされる人々であるため全く別種)や実施された地域・時代が異なっているため、異端審問とは別種のものと考えるのが適切である。.

62 関係: 年代記ナルボンヌラインラントルキウス3世 (ローマ教皇)ローマ帝国ロベール2世 (フランス王)ワルドー派トマス・デ・トルケマダトゥールーズパウルス3世 (ローマ教皇)フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)フェルナンド2世 (アラゴン王)ドミニコ会ホロコーストベルナール・ギーアルビアルビジョア十字軍アルザス地域圏インノケンティウス4世 (ローマ教皇)インクィジターイングランドイエス・キリストイエズス会イサベル1世 (カスティーリャ女王)オルレアンオーストリアカルカソンヌカトリック教会カタリ派ガリレオ・ガリレイキリスト論キリスト教グレゴリウス9世 (ローマ教皇)コンスタンティヌス1世ゴア州ジョルダーノ・ブルーノスペイン異端審問公会議禁書目録第4ラテラン公会議異端盟神探湯西ローマ帝国講談社魔女魔女狩り魔術薔薇の名前歴史修正主義渡辺昌美...教会会議教皇勅書教義1184年1209年12世紀1307年1323年1542年16世紀17世紀1834年 インデックスを展開 (12 もっと) »

年代記

年代記(ねんだいき)または編年史(へんねんし)は、出来事や事件を年ごとに記述した歴史書のこと。.

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ナルボンヌ

ナルボンヌ(Narbonne)はフランス南西部、スペイン国境近くの都市。 モンペリエからバルセロナ方面の国際列車が停車する街で、プロヴァンスからトゥールーズ、カルカソンヌやボルドーに向かう時の起点となる街。 紀元前の昔から古代ローマの有力な都市の一つとして重要な役割を持っており、当時のナルボンヌ付近には野生のブドウが自生していたため、退役軍人たちがワインを生産して生計を立てていた。そのためワイン生産の歴史は古く、2006年まで「ミレジム・ビオ」(Millesime Bio)という欧州最大のオーガニックワインの展示会が開催されていた。.

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ラインラント

ラインラントの位置 1905年のラインラント ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。 フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。.

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ルキウス3世 (ローマ教皇)

ルキウス3世(Lucius III, 1100年(?) - 1185年11月25日)は12世紀のローマ教皇(在位、1181年-1185年)。本名はウバルド・アルチンゴリ(Ubaldo Allucingoli)。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ロベール2世 (フランス王)

ベール2世(Robert II, 972年3月27日 - 1031年7月20日)は、カペー朝第2代のフランス国王(在位:996年 - 1031年)。「敬虔王」(le Pieux)と呼ばれる。ユーグ・カペーとその王妃であったアキテーヌ公ギヨーム3世の公女アデライードの息子。.

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ワルドー派

ワルドー派 (Waldensians)は、ヴァルド派ともいい、12世紀の中世ヨーロッパで発生したキリスト教の教派の1つである。カタリ派と並んで中世ヨーロッパを代表する異端として扱われた。当時ローマ・カトリック教会側からは二元論的異端として断罪されたが、近年では福音主義的・聖書主義的特性から宗教改革の先駆とも評される。 もともとはピーター・ワルドーによって創始された信徒宣教運動で、清貧を追求し、禁欲的な生活をすることをテーマとした。自らを「リヨンの貧者」あるいは「ロンバルディアの貧者」と呼んだ。彼らの特徴は清貧の強調と、信徒による説教、聖書の(ラテン語からの)翻訳であった。当時のカトリック教会によって異端宣告を受け、迫害されることになった。.

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トマス・デ・トルケマダ

トマス・デ・トルケマダ(Tomás de Torquemada、; 1420年 - 1498年9月16日)は15世紀スペインのドミニコ会の修道士、初代異端審問所長官。15世紀後半の「スペイン異端審問」期に初代長官に就任、在職18年間に約8000人を焚刑に処したと伝えられる。 モリスコとマラーノの間に多くの表面的な改宗者が存在(いわゆる「隠れユダヤ人」)し、より社会的、政治的、経済的にカトリック教徒の中に広がっていた。フェルナンド2世はそれがスペインの宗教的、社会的な脅威として異端審問所の設置を決めた。これによって、自身がコンベルソの祖先を持つトルケマダは1492年のアルハンブラ令の主な支援者としてユダヤ人をスペインから追放するのに尽力した。.

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トゥールーズ

トゥールーズ(トゥルーズ、Toulouse, オック語:Tolosa )は、フランスの南西部に位置するコミューンで、オクシタニー地域圏の首府、オート.

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パウルス3世 (ローマ教皇)

パウルス3世(Paulus III、1468年2月29日 - 1549年11月10日)は第220代ローマ教皇(在位:1534年 - 1549年)。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)。イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した事で知られる。.

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フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)はシチリア王(在位:1197年 - 1250年)、イタリア王(在位:1212年12月5日 - 1250年)及びローマ王(在位:1212年12月9日 - 1220年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1220年 - 1250年12月13日)、さらにエルサレム王(在位:1225年 - 1228年)。ホーエンシュタウフェン朝第2代シチリア王、第5代ローマ王、第3代ローマ皇帝。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれることが多い。 学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評したルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、134頁。中世で最も進歩的な君主と評価され、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛されたルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、136頁。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた小森谷『シチリア歴史紀行』、163頁。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していた。またその知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了した菊池『神聖ローマ帝国』、111頁。 一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、110頁。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は帝国に混乱をもたらした。.

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フェルナンド2世 (アラゴン王)

フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力地図 フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Católico 1452年3月10日 - 1516年6月23日)は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Católico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Católicos)と呼ばれる。.

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ドミニコ会

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.

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ホロコースト

ホロコースト(Holocaust、The Holocaust、חורבן אייראפע、השואה)は、第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(en)(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。.

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ベルナール・ギー

ヨハネス22世 ベルナール・ギー(Bernard Gui、1261年/1262年 – 1331年12月30日)は、フランス出身の修道士、異端審問官。名前の綴りについては、Bernardo Gui、もしくは、ラテン語でBernardus Guidonis(ベルナルドゥス・グイドーニス)と書かれることもある。『異端審問の実務』という本を書いたことで知られている。.

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アルビ

アルビ(Albi)はフランス南部、オクシタニー地域圏の都市で、タルヌ県の県庁所在地である。.

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アルビジョア十字軍

アルビジョア十字軍(アルビジョアじゅうじぐん、フランス語:Croisade des Albigeois, オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年 - 1229年)は、1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。アルビジョワ十字軍とも。 他の十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により主に北フランスの諸侯を中心に結成されたが、南フランス諸侯の反撃の中で次第に領土戦争の色合いが強まり、最終的にはフランス王ルイ8世が主導して王権の南フランスへの伸張に利用された。独自の文化を誇った南フランスは20年に渡る戦乱により荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を受けることになる。.

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アルザス地域圏

アルザス地域圏(アルザスちいきけん、アルザス語: Elsàss、アレマン語: Elsäß、標準Elsass、Alsace、Alsace)は、フランス中東部にかつて存在した地域圏である。ストラスブール(独:シュトラースブルク)を首府とする。ヴォージュ山脈のある西側の大部分をかつてのロレーヌ地域圏と接し、残りはかつてのフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツとスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県とオー=ラン県二つの県を含む。中フランクと重なるブルーバナナ圏に属している。 2016年1月1日より、グラン・テスト地域圏となった。.

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インノケンティウス4世 (ローマ教皇)

インノケンティウス4世(Innocentius IV, 1195年頃 - 1254年12月7日)は、第180代ローマ教皇(在位:1243年 - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。ハドリアヌス5世は甥に当たる。 1245年、第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。一方で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペやホラント伯ウィレム2世を対立王に選出した。また、ポルトガル王サンシュ2世を廃位に追い込み、弟のアフォンソ3世に王位を譲らせた。 東欧では以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国がモンゴル帝国のジョチ・ウルスの属国になると、第二次ブルガリア帝国を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、イヴァン・アセン2世時代に失効したブルガリアとの教会合同をカリマン1世に申し出た。 1246年、ジョチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロに王位を授けてルーシ王とし、ジョチ・ウルスを牽制したが、同年8月24日のクリルタイでグユクが第3代ハーンになり、カルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユク・ハンの勅書が現存しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。 Category:教皇 Category:リグーリア州出身の人物 Category:1190年代生 Category:1254年没.

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インクィジター

インクィジター(Inquisitor)はアメリカの作家マーティン・クルーズ・スミス(Martin Cruz Smith 本名:Martin William Smith)が別名義サイモン・クインで執筆したアクション小説。 全6巻。日本ではこのうち4巻が出版された。.

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イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

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イエス・キリスト

イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.

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イエズス会

イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.

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イサベル1世 (カスティーリャ女王)

イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica, 1451年4月22日 - 1504年11月26日)は、トラスタマラ朝のカスティーリャ女王(在位:1474年 - 1504年)。夫フェルナンド2世と共にカトリック両王と称される。.

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オルレアン

ルレアン(Orléans、 オルレアン)、フランスの中部に位置する都市で、サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏の首府、ロワレ県の県庁所在地である。パリの約130km南西に位置する。.

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オーストリア

ーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、、バイエルン語: )、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都は音楽の都といわれたウィーン。 ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。.

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カルカソンヌ

ルカソンヌ (Carcassonne) は、フランス南部のオクシタニー地域圏ラングドック地方に属するオード県の県庁所在地である。カルカッソンヌとも表記する。 古代ローマ時代には要塞に囲まれた都市機能の基盤が形成され、中世にはさらに外側にもう一重の要塞が建設されて、この二重の防備が施された丘の上の城塞都市であるシテ(cité, またはville haute)を核として、オード川をはさんで展開した下街(ville basse)との二層の区域が合わさって発展した都市である。 シテを覆う城塞は19世紀に建築家のウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクにより修復されており、シテは「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で1997年にユネスコの世界遺産に登録された。 街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていたカルカス (Carcas) が勝利の鐘を鳴らした (sonner) ことに由来するという伝説がある。またこのときに篭城した市民が家庭に残っていた食材である豆、雑穀、豚や腸詰や鴨などの鳥獣肉を持ち寄りまとめて大鍋に入れ煮込んだものがカルカソンヌの名を冠したカスールという鍋料理:カスレのルーツになったと言われている。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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カタリ派

Occitan cross''La vie quotidienne des cathares du Langudoc'', René Nelli. カタリ派(カタリは、Cathares)は、10世紀半ばに現れ、フランス南部とイタリア北部で活発となったキリスト教色を帯びた民衆運動。.

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ガリレオ・ガリレイ

リレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。 パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。.

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キリスト論

リスト論はキリスト教の教理・教義、また神学の細目の一。イエス・キリストはどのような存在であるかの定義、付随して先在、受肉、公生涯、十字架、復活、昇天などのキリストに纏わる事象や行為の意味などをキリストとの関わりにおいて考察する神学分野。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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グレゴリウス9世 (ローマ教皇)

レゴリウス9世(Papa Gregorius IX, 1143年? - 1241年8月22日)は中世のローマ教皇(在位:1227年 - 1241年)。アナーニ(イタリア中部)出身。本名はウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との確執で有名だが、法学者としても有能で、各司教が自らの裁量で行っていた異端審問の制度を整備した事でも知られる。.

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コンスタンティヌス1世

アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大) ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:、272年2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。 ミラノ勅令を発布したことでキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。 1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。.

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ゴア州

ア州(コンカニ語:गोंय、マラーティー語:गोवा、Goa)は、インド西海岸の州である。16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領インドの一部であり、ポルトガルのアジアにおける拠点であった。.

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ジョルダーノ・ブルーノ

ョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる。.

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スペイン異端審問

ペイン異端審問(スペインいたんしんもん)は、15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。.

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公会議

公会議(こうかいぎ、Οικουμενικές σύνοδοι, Concilium Oecumenicum, Ecumenical council)とは、キリスト教において全世界の教会から司教(主教)等の正規代表者が集まり、教義・典礼・教会法などについて審議決定する最高会議『キリスト教大辞典』(660頁、教文館、昭和48年改訂新版第二版)。それぞれの公会議は、開催地の名前を伴って~公会議と呼ばれ、同地域で複数回の公会議が行われた場合はそれぞれ第~を冠する。 別称として、世界公会議、エキュメニカル会議、普遍的公会議、全地公会議、総会議、万国公会議などがある。 公会議(公会)に対して、地方ごとに行われる教会会議も存在する。とくに西ヨーロッパにおいて、地方ごとの教会会議もしばしば公会議 (concilium, council) と称されることがあるが(例:1095年のクレルモン教会会議を「クレルモン公会議」と称するなど)、世界公会議と、こうした地方ごとに開催された公会議とも呼ばれる教会会議の性格は異なる。 正教会は787年の第2ニカイア公会議(第7回公会議)までのみを普遍的公会議と認め、7回の公会議を全地公会、全地公会議と呼ぶ。正教会においては地方ごとに行われる教会会議も地方公会等と称し、「公会」の語義が広い。.

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禁書目録

禁書目録(きんしょもくろく、ラテン語:Index Librorum Prohibitorum)とは16世紀から20世紀の半ばまでカトリック教会によって作成された書物のリストで、カトリック教会と信徒に対して危険を及ぼすとみなされた書物が掲載された。禁書目録の目的は信徒を、非道徳あるいはカトリック信仰を脅かす書物から守ることにあった。禁書目録は単に出版後の本だけを対象としていたわけではなく、カトリック信徒が著作を行うときはあらかじめ検閲を受けさせることも習慣として行われた。.

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第4ラテラン公会議

4ラテラン公会議(だいよんラテランこうかいぎ)は1215年にローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接するラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の代表による公会議。かつてないほどの多くの参加者がヨーロッパ中から集まり、中世における教皇権隆盛の立役者であった教皇インノケンティウス3世の面目躍如となった。.

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異端

端(いたん、heresy あるいは heterodoxy)とは、.

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盟神探湯

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。.

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西ローマ帝国

西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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魔女

女(まじょ、witch、sorcière、Hexe)とは、古いヨーロッパの俗信で、超自然的な力で人畜に害を及ぼすとされた人間、または妖術を行使する者のことを指す。 現代の人類学では非ヨーロッパ諸国の呪術にシャーマニズムの概念を適用することがあるが、ヨーロッパの魔女や魔法にもシャーマニズムに通じる面があることが指摘されている。旧石器時代の洞窟壁画には呪術師ないし広義の「シャーマン」と解釈される人の姿が描かれており、呪術は有史以前に遡る人間とともに古い営みであると考えられている。現存する史料からうかがわれる魔女狩りの時代の魔女観では、魔女は、多くの場合女性で、時には男性であったとされている。近代ヨーロッパ言語には「男性の魔法使い」を指す言葉(sorcier、Hexer, Hexenmeister)も存在するが、日本語では「魔男」という言い方は普及しておらず、男性形の sorcier に「魔法使い」という訳語を当てる場合がある。.

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魔女狩り

女狩り(まじょがり、chasse aux sorcières、Hexenverfolgung、witch-hunt)は、魔女または妖術の被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と結託してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。 かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。 妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会にみられる人類学的事象であり、20世紀以降もアフリカ、パプアニューギニア、インドなどで妖術の容疑者に対する迫害が行われたことが報告されている。それら非ヨーロッパ諸国の現代の魔女狩りとヨーロッパの歴史的魔女狩りとの類似点に鑑み、魔女狩りの定義を拡大適用して時代や地域の限定から解き放つ必要が生じている。.

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魔術

術(まじゅつ)とは、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。魔法(まほう)とも。 人類学や宗教学の用語では呪術という。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある。.

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薔薇の名前

『薔薇の名前』(ばらのなまえ、イタリア語原題:Il Nome della Rosa イル・ノーメ・デッラ・ローザ)は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。 映画化作品(1987年)については映画「薔薇の名前」を参照。.

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歴史修正主義

歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、Historical revisionism、Geshichtsrevisionismus)とは、下記のような意味である。単に修正主義とも言うが、ここでは曖昧さ回避のために歴史修正主義とする。.

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渡辺昌美

渡辺 昌美(わたなべ まさみ、1930年2月26日 - 2016年6月24日)は、日本の西洋史学者、高知大学名誉教授。フランス中世史、特に異端を研究した。.

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教会会議

教会会議(synodもしくはcouncil)とは、教会の会議。通常はキリスト教教会が、教義や管理上の問題を話し合うために催す会議を指す。公会議は教会全体の会議であるため(あるいはより正確には、会議の参加者たちを教会全体であるとみなす者が集めた会議であるため)にそう呼ばれる。 教会会議を示す英単語Synodは、ギリシャ語で集まりを意味するsynodosから来ており、ラテン語のconciliumと同義である。教会会議という言葉は元は司教:主教の会議を意味しており、現在でもカトリック教会と正教会ではその意味で用いられる。 時折、総会(general synodあるいはgeneral council)という言葉が公会議を指すために用いられることがある。またシノド(synod)という言葉は正教会で独立教会を統治している高い地位の主教達の会議を指すのに用いられることもある(聖シノド:Holy Synod)。.

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教皇勅書

教皇勅書(きょうこうちょくしょ Bulla apostolica)とは、ローマ教皇によって出された一種の勅令をいう。教皇勅書の末尾には教皇の印章(ラテン語: bulla)が添えられる。それによりbullaという単語そのものが教皇勅書をも意味する。 元来、教皇勅書は教皇からのさまざまなメッセージを民衆に広く伝えるために発行されたが、15世紀以降は最も重要な正式通知を行う場合にのみ利用されるようになった。ローマ教皇によって出された文書であれば、それが正式なものか簡易なものかにかかわらず、過去にさかのぼってあらゆる勅令、勅許の類を教皇勅書と近年の研究者は呼んでいる。 教皇の印章は遅くとも6世紀には使用されていたが、教皇印章という名称が使われ始めたのは13世紀の中頃である。その後、教皇の文書記録を管理するために教皇庁内部で非公式に利用されるようになり、15世紀までに教皇庁尚書院の一つが「教皇文書集記録」(ラテン語: registrum bullarum)と呼ばれるようになると公式なものとなった。 今日、教皇が自分自身を「司教にして神のしもべのしもべ」(ラテン語: episcopus servus servorum Dei)と称する文書は教皇勅書のみである。たとえば、ベネディクト16世が教皇勅書の形式をとる教令を発するときの書き出しは、"Benedictus, Episcopus, Servus Servorum Dei"となる。かつては金属の印章が使用されたが、現在では最重要文書の場合に限られる。バチカン教皇庁尚書院が教皇の名において発行する勅令の中で、最も正式な形態が教皇勅書である。.

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教義

教義(きょうぎ、、ドグマ)とは、宗教の教えを体系化したもの。多岐に亘る宗教があり、そのいずれにも独自のこれが存在し、各々の宗教を信奉する人が、これに則って物事を理解したり判断する助けとなるものとされる。教理とは相違がある。転じて、一定集団の中においてのみ支持されているルールや考え方も、比喩的に教義と呼ばれることがある。また教義を絶対化する、あるいは固執する傾向を教条主義()という。.

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1184年

記載なし。

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1209年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1307年

記載なし。

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1323年

記載なし。

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1542年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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1834年

記載なし。

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