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末期養子

索引 末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

147 関係: 南部利用 (吉次郎)南部利用 (大膳大夫)大名大老大森映子天保天和 (日本)天然痘天明嫡男宝暦官年宗義功 (富寿)宗義功 (猪三郎)安芸国安永 (元号)安政対馬府中藩寛永寛文寛政山内容堂山内豊熈山内豊惇岡山藩島原の乱上杉綱憲常陸国幕藩体制享保人吉藩広島藩井伊直弼井伊直憲延享仙台藩伊達宗村 (仙台藩主)伊達周宗伊達斉宗伊達斉村彦根藩征夷大将軍御目見徳川家光徳川家重徳川家斉徳川将軍家徳川四天王土佐藩判元見届...嘉永喧嘩両成敗備中国備中松山藩備前国公辺内分元禄元服勝小吉稲葉弘通稲葉泰通立花鑑広立花鑑備笠間藩筑後国米沢藩細川宗孝細川重賢由井正雪熊本藩牧野貞久牧野貞直相良頼完相良晃長盛岡藩養子縁組高田藩豊後国越後国近江国赤ちゃん赤穂藩肥後国臼杵藩陸奥国柳河藩板倉勝該桜田門外の変森忠徳森忠貫榊原政純榊原政永武家武断政治水谷勝美水谷勝晴江戸幕府江戸時代池田政広池田政弼池田政善池田政恭池田政房明和浪人浅野長経新人物往来社文化 (元号)文治政治文政播磨国改易慶安慶安の変承応の変10月29日 (旧暦)1637年1651年1652年1663年1683年1693年1719年1744年1747年1762年1769年1777年1785年1796年1809年1812年1821年1825年1827年1833年1848年1850年1851年1860年2月10日 (旧暦)3月29日 (旧暦)7月27日 (旧暦)8月12日 (旧暦)8月15日 (旧暦)8月1日 (旧暦)9月18日 (旧暦) インデックスを展開 (97 もっと) »

南部利用 (吉次郎)

南部 利用(なんぶ としもち)は、陸奥盛岡藩の第11代藩主。ただし、公式には同一人物とされたが、この名を名乗った人物は2人いた。本記事ではその1人目の人物について記述する。幼名は駒五郎、のち吉次郎で、いわば本物の南部利用である。.

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南部利用 (大膳大夫)

南部 利用(なんぶ としもち)は、陸奥盛岡藩の第11代藩主。ただし、公式には同一人物とされたが、この名を名乗った人物は2人いた。本記事ではその2人目の人物について記述する。幼名は善太郎。文政4年(1821年)に不慮の死を遂げた1人目の利用(幼名:吉次郎)の替え玉として藩主に擁立された。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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大森映子

大森 映子(おおもり えいこ、1952年-)は、日本の歴史学者。多摩大学教授。専門は日本近世史。 湘南国際女子短期大学国際ビジネス学科教授を経て、多摩大学教授(2007年4月就任)、日本女子大学文学部非常勤講師(1993年4月)。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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官年

官年(かんねん)は、近世武家社会において幕府や主家などの公儀に対して届けられた公式な年齢をいう。家督相続や出仕、御目見などに関わる年齢制約を回避するため、年齢を操作して届け出るこのような慣行が成立した。公年(こうねん)ともいった。これに対し、実際の年齢は生年といった。.

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宗義功 (富寿)

宗 義功(そう よしかつ)は、対馬府中藩の第12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。.

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宗義功 (猪三郎)

宗 義功(そう よしかつ)は、対馬府中藩の第11代藩主。幼名は猪三郎という。将軍・徳川家治に御目見することなく死去したことから、その死後、弟が替え玉として擁立された。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.

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山内豊熈

山内 豊熈(やまうち とよてる)は、江戸時代後期の大名。土佐藩の第13代藩主。.

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山内豊惇

山内 豊惇(やまのうち とよあつ、1824年7月2日(文政7年6月6日)- 1848年10月14日(嘉永元年9月18日))は、土佐藩の第14代藩主。幼名は敏衛。通称は式部、兵部。第12代藩主・山内豊資の次男。母は美芳院。 嘉永元年(1848年)、先代藩主だった兄の豊熈が7月10日に死去したため、同年9月6日に家督を継いだが、2週間足らず後の9月18日に25歳で死去した。嗣子がなく、跡を従弟の豊信(豊資の弟・豊著の長男)が継いだ。あまりに早すぎる死と豊信擁立のため、その死は翌年2月まで隠されたという。法号は譲恭院篤信自省。 とよあつ とよあつ Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1824年生 Category:1848年没.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。.

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上杉綱憲

上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国米沢藩4代藩主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉氏に養子入りする。藩主在任中は、教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方、財政窮乏を悪化させた。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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人吉藩

人吉藩(ひとよしはん)は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.

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井伊直憲

井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江国彦根藩第16代(最後)の藩主(17代藩主、14代当主という数え方もある。参照:彦根藩)。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。.

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延享

延享(えんきょう)は日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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伊達宗村 (仙台藩主)

伊達 宗村(だて むねむら)は、陸奥仙台藩の第6代藩主。伊達氏宗家第22代当主。.

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伊達周宗

伊達 周宗(だて ちかむね)は、陸奥仙台藩の第9代藩主で、伊達氏の第25代当主。第8代藩主・伊達斉村の長男。母は鷹司輔平の娘、誠子(のぶこ)。仁孝天皇のはとこにあたる。婚約者は11代将軍・徳川家斉の娘である綾姫と浅姫。.

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伊達斉宗

伊達 斉宗(だて なりむね)は、陸奥国仙台藩の第10代藩主で、伊達氏の第26代当主。第8代藩主・伊達斉村の次男。.

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伊達斉村

伊達 斉村(だて なりむら)は、陸奥仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。第7代藩主・伊達重村の次男。.

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。 江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。 幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。 江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。 近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家重

増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川四天王

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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判元見届

判元見届(はんもとみとどけ)は、江戸時代に武家から末期養子の申請が出された際に、江戸幕府から役人が派遣されて行われる確認作業のこと。申請者である危篤の当主(判元)の生存を見届けるとともに、願書に不審な点がないかを確認するために行われる。元来は、末期養子の届出に押判しなければならない当主が既に死亡していて、押印が偽造されている事態を防止するために行われるものである。 大名家の場合には大目付が、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(不在の場合には目付が代行)が、当主および養子予定者の親族縁戚、また当主の同役などが立ち会った上で確認が行われ、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(目付)によって改めて末期養子届が作成され、併せて老中・若年寄に提出された。 実際には時代が進むにつれて形骸化しており、明らかに当主が死亡している場合でも、遺体を屏風の奥に寝かせて危篤・昏睡状態という体にし、確認役は形式的に声をかけるだけの生存確認が行われたり、相当に融通の利いた運用がなされるようになっていた。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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喧嘩両成敗

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)とは、中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備中松山藩

松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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公辺内分

公辺内分(こうへんないぶん)は、近世武家社会において、幕府や主家などの公儀に対して報告義務がある事象が発生したのに届出を行わなかったり、事実と異なる届出や申請を行い、内密に処理を行ったことをいう。当主や跡継ぎの生死など、家の相続に関わる事柄で多くみられた。また、内密のまま処理が完了することを公辺無事といった。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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勝小吉

勝 小吉(かつ こきち、享和2年1月15日(1802年2月17日) - 嘉永3年9月4日(1850年10月9日))は、江戸時代後期の旗本。左衛門太郎惟寅(これとら)と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入った後は小吉。隠居後は夢酔(むすい)。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。 旗本・男谷平蔵の三男で男谷思孝の弟、勝海舟の父。剣客・男谷信友は血縁上は従甥で兄思孝の婿養子でもあり、系図上は甥に当たる。また、島田虎之助とは、海舟が柔道の兄弟弟子(後に剣の師匠)だった縁から親交があった。著書『夢酔独言』で自分の奔放な人生を語り、現在も読まれている。いくつかの小説のモデルにもなっている。.

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稲葉弘通

葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。 弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男・副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に父が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治に御目見することも、若年ゆえに継嗣を指定することもないまま、1年も経たない明和6年(1769年)6月に16歳で夭折した。この稲葉家改易の危機に藩の重役たちは慌て、泰通の跡をただちに弘通が継いだことにして御目見させることで乗り切った。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない(『寛政重修諸家譜』巻第六百六では、弘通の初名が「副通」だとしており、実際の副通については記載が無い)。ちなみに、弘通が正室に迎えた国清院(牧野貞長の娘)は、清操院の姪にあたる。 藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の大飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。寛政12年(1800年)9月10日、家督を次男・雍通に譲って隠居する。文化8年(1811年)、剃髪して伊賀入道と号した。 文政元年(1818年)10月28日、67歳で死去した。.

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稲葉泰通

稲葉 泰通(いなば やすみち)は、豊後国臼杵藩の第9代藩主。 元文2年(1737年)、父稲葉菫通の死去により跡を継ぐ。翌年には藩内の領民の多くが逃散し、寛保・寛延年間には大火と風雨による災害が相次いで藩内は大被害を受け、その復興のために出費が莫大なものとなった。さらに幕命による手伝い普請も相次いで、藩財政は窮乏化の一途をたどった。このような中で明和5年(1768年)7月2日、39歳で死去した。跡を次男で正室清操院の子の副通が継いだが、1年足らずで夭逝したため、副通でなく庶長子の弘通が継いだことにして将軍に御目見をした。 やすみち やすみち Category:1730年生 Category:1768年没.

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立花鑑広

立花 鑑広(たちばな あきひろ)は、筑後国柳河藩の第10代藩主。第9代藩主・立花鑑賢の長男。母は側室の清光院(宝珠山玄琢の娘)。婚約者は山内豊資の養方叔母・兎見(山内豊策の娘)。夭折により末期養子規定の都合上、同母弟の立花鑑備が公式上、鑑広と同一人物ということになったために、明治35年(1902年)まで死去が極秘とされ、歴代藩主に数えられなかった。.

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立花鑑備

立花 鑑備(たちばな あきのぶ)は、筑後国柳河藩の第11代(公式には第10代)藩主。夭折した(本来の)第10代藩主・立花鑑広の同母弟で、その替え玉となる。第9代藩主・立花鑑賢の次男。母は側室の清光院(文子・宝珠山玄琢の娘)。婚約者は山内豊資の養方叔母・兎見(山内豊策の娘)。正室は広島藩主浅野斉賢の娘・加代子。幼名は初め竹千代、後に俣次郎、万寿丸。明治35年(1902年)まで鑑広と別人であることは極秘とされていた。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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細川宗孝

細川 宗孝(ほそかわ むねたか、正徳6年4月27日(1716年6月16日) - 延享4年8月15日(1747年9月19日))は、肥後熊本藩の第5代藩主。熊本藩細川家6代当主。.

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細川重賢

細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。 紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。 初めは父・宣紀より1字を与えられて長岡紀雄(ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。改名後の「重」の字は将軍徳川家重より偏諱を賜ったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家が通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。.

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由井正雪

由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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牧野貞久

牧野 貞久(まきの さだひさ)は、常陸笠間藩の第7代藩主。成貞系牧野家10代。.

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牧野貞直

牧野 貞直(まきの さだなお)は、常陸笠間藩の第8代藩主。江戸幕府の寺社奉行・大坂城代である。成貞系牧野家11代。.

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相良頼完

良 頼完(さがら よりさだ)は、肥後人吉藩の藩主。公式には第9代藩主とされる2人目の人物である(後述)。.

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相良晃長

良 晃長(さがら みつなが)は、江戸時代中期の肥後国人吉藩主。8代藩主・相良頼央の養子として、宝暦9年(1759年)から宝暦12年(1762年)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる1人目の人物である(後述)。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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赤ちゃん

っている赤ちゃん 赤ちゃん(あかちゃん)は、産まれたばかりの子供のこと。赤子(あかご)、赤ん坊(あかんぼう)とも言う。なお、人間以外の動物にも「赤ちゃん」が用いられることがしばしばある。種にもよるが、生存のために援助を必要とする弱い存在である。多くの種で赤ちゃんは愛らしい外見をしており、これは援助を受けやすくするために有利な形質なのではないかとの解釈もある。 以下、本稿では人間の赤ちゃんについて解説する。 母子保健法は、出生からの経過期間によって、「赤ちゃん」を次のように定義する。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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臼杵藩

臼杵藩(うすきはん)は、豊後国に存在した藩。藩主は稲葉氏。藩庁は海部郡臼杵城(現在の大分県臼杵市)に置かれた。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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柳河藩

柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。.

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板倉勝該

板倉 勝該(いたくら かつかね)は、江戸時代の中期の旗本。熊本藩主・細川宗孝を殺害したことで知られる。.

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桜田門外の変

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん、正字体:櫻田門外の變、正仮名遣:さくらだもんぐわいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。 この襲撃者らを「(桜田)十八烈士」と呼ぶこともある。またこの事件自体を「桜田事変」や、「桜田義挙」と呼んだ例がある。.

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森忠徳

森 忠徳(もり ただのり)は、播磨赤穂藩の第10代藩主。赤穂藩森家16代。 文化15年(1818年)3月24日、第9代藩主・森忠敬の三男として生まれる。父の死後、家督は兄の忠貫が継いでいたが、文政10年(1827年)5月に早世した。忠貫には嗣子が無く、藩では改易や減封を恐れて6月に忠徳を忠貫の替え玉(表向きは同一人物)として擁立した。そのため記録上では、文政7年(1824年)8月5日に家督を継いだことにされている。 天保3年(1832年)12月26日、従五位下・信濃守に叙位・任官する。若年のため、分家の森主税家出身の家老・森可真が藩政を行い、緊縮財政政策を採用して藩財政の再建を目指した。しかし、天保の大飢饉でさらなる被害を受け、窮した可真は借金返済の繰り延べを商人に求めたが、逆にその商人らに大坂城代に訴えられるほどで、結局のところ天保9年(1838年)に失脚する。 代わって藩主一門の森采女家出身の家老・森三勝が実権を握り、倹約を中心とした5ヵ年計画を行ったが、嘉永2年(1849年)に借金が27万両になるなどして効果がなく、失敗して失脚する。今度は、藩主一門の森続之丞家出身の家老・森可則と勘定奉行・鞍懸寅次郎による改革が行われる。この間、忠徳は病弱で藩政を執ることもできず、長男・忠弘が名代として藩政を行っていたが、この改革も忠弘の急死によって失敗し、可則らは可真によって追放・蟄居に処せられ、以後は可真によって赤穂藩は専横されることとなる。 忠徳は文久2年(1862年)1月21日、次男・忠典に家督を譲って隠居する。明治14年(1881年)12月27日に死去した。享年64。.

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森忠貫

森 忠貫(もり ただつら、文化13年閏8月13日(1816年10月4日) - 文政10年5月28日(1827年6月22日))は、江戸時代後期の播磨国赤穂藩の実質的な第10代藩主だった人物である。赤穂藩森家実質16代。 文化13年(1816年)閏8月13日、第9代藩主・森忠敬の長男として生まれる。幼名は勝蔵。父が文政7年(1824年)6月4日に死去したため、8月5日に家督を継いだ。文政9年(1826年)4月19日に江戸本所の御蔵火番に任じられた。 文政10年(1827年)5月28日に死去した。享年12。戒名は顕良院殿鶴山伯一童子。墓所は東京都港区東麻生の瑠璃光寺。 忠貫には継嗣が無く、改易や減封を恐れた藩では、弟の忠徳を身代わりにして立て、忠貫没後の6月に家督を継がせたとある。このため、忠貫は歴代藩主として数えられず、後に忠貫が忠徳と改名したとされているため、第10代藩主の忠貫と忠徳は同一人物とされている(森家譜より)。.

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榊原政純

榊原 政純(さかきばら まさずみ)は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第4代藩主、越後高田藩初代藩主、榊原家9代当主。ただし、早世後に異母弟の榊原政永が身代わりで擁立され、公式には同一人物とされた。.

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榊原政永

榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名。越後高田藩初代藩主、榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武断政治

武断政治(ぶだんせいじ)とは、武力を背景にして行われる専制的な政治のこと。 江戸幕府初期の、初代将軍徳川家康から3代将軍徳川家光までが行った政治姿勢のことを指す。家光の時代には、取り潰される藩も多く、浪人が増えて社会問題化した。慶安の変(1651年)や承応の変を機に、4代将軍徳川家綱が、文治政治への転換を進めた。.

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水谷勝美

水谷 勝美(みずのや かつよし、1663年(寛文3年)-1693年11月3日(元禄6年10月6日))は、備中松山藩の第3代藩主。第2代藩主・水谷勝宗の次男。母は青山幸成の娘。正室は水戸支流府中藩主・松平頼隆の娘。官位は従五位下、出羽守。 寛文12年2月8日(1672年)、初めて将軍徳川家綱に御目見する。延宝4年12月26日(1676年)、従五位下出羽守に叙任。生来病弱であったが、元禄2年閏正月14日(1689年)、父勝宗の隠居により家督を継いだ。6月28日はじめて領地松山に入る。 民政や治水工事、土木工事に尽力し、特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれた。しかしこのような無理と、もともと病弱だったことがたたって、元禄6年10月6日(1693年11月3日)に31歳で死去した。法号は隆昌寺殿天山全長大居士。 実子がなく、従兄弟にあたる旗本・水谷勝阜の長男・勝晴を末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため、水谷氏は無嗣断絶で改易となった。備中松山城の召し上げにあたって、赤穂藩主・浅野長矩が城受け取り役となり、1年半後に安藤重博が新城主として入城してくるまでの間、浅野家家老の大石良雄が松山城の管理を行った。 大名としての水谷家の名跡はこれをもって絶えたが、勝美の弟水谷勝時が3000石の旗本として名跡存続を許された。さらにその養子の勝英の代に500石が加増されて3500石の上級旗本となり、この知行のままで明治維新を迎えた。 かつよし Category:備中松山藩主 Category:外様大名 Category:1663年生 Category:1693年没.

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水谷勝晴

水谷 勝晴(みずのや かつはる、天和元年(1681年) - 元禄6年11月27日(1693年12月23日))は、江戸時代の備中松山藩の嗣子。 天和元年(1681年)、水谷勝阜の長男として生まれる。母は妻木頼保の娘。幼名は彌七郎。元禄6年10月6日(1693年11月3日)、備中松山藩主・水谷勝美が嗣子無く没したため、勝美の末期養子となった。本来ならばそのまま家督を継承するはずであったが、約1ヵ月後の同年11月27日(1693年12月23日)に疱瘡のためわずか13歳で死去した。戒名は見徳院朝華日理。 「末期養子の末期養子」は認められなかったため、備中松山藩水谷氏は無嗣廃絶により改易となった。 なお、水谷家自体は勝美の弟・水谷勝時に3000石が与えられたため、旗本として存続した。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田政広

池田 政広(いけだ まさひろ、文化7年12月9日(1811年1月3日) - 天保10年8月21日(1839年9月28日)『お家相続 大名家の苦闘』p.89)は、備中鴨方藩の(当初の)第8代藩主。第6代藩主・池田政養の三男または四男。母は岡山藩主池田治政の娘・兼子(瑞松院)。幼名は甚次郎。諱は初め奄有、のち政広、また政徳。内密で異母弟の池田政善とすり替わり、藩主を退いた後に栄(さかえ)を名乗ったが、公式には政広と政善は同一人物で、栄とは別人とされた。 父政養の死後、同母兄の政共が家督を継いでいたが、政共は文政7年5月22日(1824年6月18日)に数え19歳で早世した。政共に子はなく、仮養子に指名されていた15歳の甚次郎がそのまま末期養子として家督を継いだ『お家相続 大名家の苦闘』p94-100。 しかし甚次郎は生来病弱であり、相続にともなう幕府への手続きや諸行事にその都度名代を立てて対応しなければならなかった『お家相続 大名家の苦闘』p93-94。甚次郎が17歳になるのを待って、その後に改めて甚次郎の跡を継ぐ養子を届け出ることも考えられたが、それまでに元服や将軍への御目見が無事に実現するかも危ぶまれた上、頻繁に当主が交代しては諸行事にともなう経済的負担も大きかった。 そこで鴨方池田家は、甚次郎と6か月違い(数え年では1歳下)の庶出の異母弟である虎吉を身代わりに立てることにした。虎吉はすでに、池田家の家中ではしばしば付き添いとして、甚次郎が当主としてふるまう場に立ち会っていた。文政8年5月1日(1825年6月16日)、虎吉は異母兄に代わって「甚次郎政広」を名乗り、家督を相続することとなった。間もなく諱を政敏と改め、翌文政9年(1826年)に将軍徳川家斉に初御目見し、元服した。翌年にはさらに政善と改めた『お家相続 大名家の苦闘』p88-92。 一方、弟に当主と自身の名を譲った元の甚次郎は、本家の岡山藩主池田斉政から「栄」の名(仮名)を贈られて、以後これを名乗り、また剃髪した。 この兄弟の入れ替わりは内密に行われた。そのため、池田家家内の史料である「池田氏系譜」には記録されているが、『寛政重修諸家譜』や明治政府に提出した「家系・家譜」では、政共の跡を嫡出の同母弟の政善(甚次郎)が継ぎ、彼らの庶出の弟であった政徳(虎吉)が栄を名乗ったことになっている。.

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池田政弼

池田 政弼(いけだ まさすけ、寛保2年7月27日(1742年8月27日) - 安永5年7月25日(1776年9月7日)『お家相続 大名家の苦闘』p.76-77)は、備中生坂藩の第4代藩主。 第2代藩主・池田政晴の三男。正室は松平直純の娘・利佐姫(真明院)。子は池田政峰(長男、届出上は三男)、池田政房(次男、届出上は四男)、娘(竹中重寛正室)。養子に池田政良、秀次郎(いずれも池田政員の子、届出上はそれぞれ長男と次男)『お家相続 大名家の苦闘』p.59-63。官位は従五位下。丹波守。幼名は永次郎。 明和4年(1767年)、兄で先代藩主の政員が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。 安永5年(1776年)7月25日、35歳で死去した。ただし、幕府には4日後の7月29日死去として届出された。法名は持光院殿観海帷聞大居士。 前年に生まれたばかりの正室との息子の政房が跡を継いだが、翌安永6年(1777年)に夭逝したため、宗家の岡山藩主池田治政の庶長子で、いまだに幕府に出生を届け出ていなかった鉄三郎が密かに岡山から江戸まで迎えられ、身代わりに立てられて政房を名乗り、のち政恭と名を改めた。.

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池田政善

池田 政善(いけだ まさよし、文化8年5月9日(1811年6月29日) - 弘化3年10月4日(1846年11月22日))は、備中国鴨方藩の(2人目の)第8代藩主。 第6代藩主・池田政養の三男または四男。母は側室・岩田氏『お家相続 大名家の苦闘』p.102-103。正室は山内豊敬の養女(福原資敬の娘)。子に政樹、宇多子(池田慶政正室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は虎吉、甚次郎。諱は初め政広、のち政敏、政善。内密で異母兄の池田政広とすり替わって家督を継いだが、公式には政広と政善は同一人物とされた。 文政7年(1824年)、兄で先代藩主の政共が早世した際、その末期養子として跡を継いだ、というのが公式上の記録である(実情は後述する)。文政9年(1826年)1月28日に将軍徳川家斉に初御目見し、元服する『お家相続 大名家の苦闘』p.90。同年5月には藩主として初めて岡山へ帰国し(鴨方藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)、翌文政10年(1827年)から諱を政善と名乗るようになった。 弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日(1847年6月10日)、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に37歳(数え年)で死去したことになっている。.

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池田政恭

池田 政恭(いけだ まさゆき、安永元年10月11日(1772年11月5日) - 文政10年7月30日(1827年9月20日))は、備中生坂藩の(2人目の)第5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。 公式には第4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩主池田治政が側室の柏尾氏(池田家家臣の娘)との間にもうけた庶出の長男である大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)p.72-85。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。子は池田政範(長男)、池田長貞(次男)、池田政徳(三男)。官位は従五位下、山城守。幼名は鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進。 池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された。 生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、すでに嫡男として届出ずみであった政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房)が満1歳(数え2歳)で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った。安永8年に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に将軍徳川家斉に初御目見し、従五位下山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。 文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。法号は大機院殿前城州刺使心源宗徹大居士。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。.

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池田政房

池田 政房(いけだ まさふさ、安永4年7月8日(1775年8月3日) - 安永6年3月11日(1777年4月18日)『お家相続 大名家の苦闘』p.78-81)は、備中生坂藩の(当初の)第5代藩主である。幼名は永次郎。家督相続の翌年に夭逝し、身代わりで池田政恭が擁立されたが、公式には同一人物とされた。 公式には第4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には次男であった。これは、第3代藩主の政員がまだ幼い息子を後継指名するのを避け、弟の政弼を養子とした際、政員には実子がいないことにして幕府に届け出たことに起因する『お家相続 大名家の苦闘』p.59-63。政弼は明和4年(1767年)に家督相続して間もなく、兄の息子2人(豊之助政良、秀次郎)を自身の部屋住み時代の庶子として届け出、そののち安永元年(1772年)に政良を継嗣と定めた。政良と秀次郎の早世後、政弼は庶出の長男(届出上は三男)の巴三(池田政峰)を幕府に庶子として届け出、そののち正室の利佐姫(松平直純の娘)に永次郎が生まれたため、これを継嗣として届け出た。 安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去すると、満1歳(数え2歳)の永次郎政房が跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年3月11日に早世した。永次郎の死を表立って幕府に報告すれば生坂池田家の断絶は避けられず、密かに身代わりの当主を立てることが、本家の岡山藩池田家の主導で画策された。永次郎の庶兄の巴三は幕府へ届け出済みのため身代わりにはできず、岡山藩主池田治政の庶長子でいまだ出生の届け出がなかった鉄三郎が選ばれ、永次郎政房を名乗ったのち、初之進政恭と改めた。一方、本来の永次郎は無届けのまま密かに東禅寺に葬られた。しかし表向きは、政弼の嫡子の永次郎政房が初之進政恭と改名したことにされた。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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浅野長経

浅野 長経(あさの ながつね、宝永6年11月14日(1709年12月14日) - 享保4年4月23日(1719年6月10日))は、備後三次藩の第4代藩主。第3代藩主・浅野長澄の三男。幼名は撫三郎、又六郎。官位は夭折したため受けていない。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文治政治

文治政治(ぶんちせいじ)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍徳川家継までの時期の政治をさす。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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慶安の変

慶安の変(けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。.

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承応の変

承応の変(じょうおうのへん)は、慶安5年9月13日(1652年10月15日)に起こった事件。戸次庄左衛門の乱、承応事件とも。主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門。.

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10月29日 (旧暦)

旧暦10月29日は旧暦10月の29日目である。年によっては10月の最終日となる。六曜は友引である。.

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1637年

記載なし。

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1651年

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1652年

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1663年

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1683年

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1693年

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1719年

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1744年

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1747年

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1762年

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1769年

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1777年

記載なし。

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1785年

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1796年

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1809年

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1812年

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1821年

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1825年

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1827年

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1833年

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1848年

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1850年

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1851年

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1860年

記載なし。

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2月10日 (旧暦)

旧暦2月10日(きゅうれきにがつとおか)は、旧暦2月の10日目である。六曜は大安である。.

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3月29日 (旧暦)

旧暦3月29日は旧暦3月の29日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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7月27日 (旧暦)

旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.

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8月12日 (旧暦)

旧暦8月12日は旧暦8月の12日目である。六曜は先勝である。.

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8月15日 (旧暦)

旧暦8月15日は旧暦8月の15日目である。六曜は仏滅である。.

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8月1日 (旧暦)

旧暦8月1日(きゅうれきはちがつついたち)は旧暦8月の1日目である。六曜は友引である。.

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9月18日 (旧暦)

旧暦9月18日(きゅうれきくがつじゅうはちにち)は、旧暦9月の18日目である。六曜は友引である。.

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