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安芸国

索引 安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

185 関係: 加地春綱基兄王厳島の戦い厳島神社古事記名神大社吉川氏吉田郡山城の戦い坂上苅田麻呂多家神社大同 (日本)大久保忠増大久保忠真大内氏大竹市天安 (日本)宍戸隆家宝亀宮川房長安倍肱主安芸安芸高田市安芸郡 (広島県)安房勝山藩安房国寛文小田原藩小早川弘平小早川弘景 (初代)小早川盛景小早川氏尼子経久尼子晴久尾道市山名宗全山名是豊山名政豊山名教豊山名時熙山県郡山陽道上国常陸国三原市三次市三日月藩一宮平経盛平頼盛平清盛...久安康平府中町広島市広島県広島藩今川貞世仁和仁科盛能令制国令制国一覧延喜式神名帳延暦廿日市市廃藩置県佐伯郡保元信濃国北広島町北条高広嘉祥呉市和名類聚抄出雲国国府石川盛義竹原市笠間藩細川頼元総社美濃国相模国百済河成芸予諸島遠国遠江国鏡山城の戦い角川日本地名大辞典諏訪忠厚諏訪忠虎諏訪頼満 (安芸守)諏訪藩諏訪時継高宮郡高富藩高田郡豊前王豊田郡貞観 (日本)賀茂郡 (広島県)足利安芸守黒川晴氏藤原伊勢人藤原園人藤原興世藤原関主酒井忠一 (安房勝山藩主)速谷神社陶晴賢折敷畑の戦い東広島市松平資俊森長記橘真直橘貞根武田信光武田信賢武田信武武田信時武田元繁武田光和武田氏信毛利季光毛利元就毛利氏江田島市沼田郡渋川満頼源季遠源頼清源有光本庄道貫有田中井手の戦い明治昭和浜松藩浅野吉長浅野宗恒浅野光晟浅野綱長浅野重晟浅野長勲浅野長訓浅野氏浅野斉粛浅野斉賢浅野慶熾斉衡日本旧高旧領取調帳播磨国承和 (日本)1062年1146年1156年12月26日 (旧暦)1517年1523年1540年1541年1554年1555年1664年1866年1870年1871年1956年1月27日771年785年7世紀7月14日 (旧暦)806年846年847年848年849年850年854年858年861年865年869年886年8月29日 インデックスを展開 (135 もっと) »

加地春綱

加地 春綱(かじ はるつな)は、戦国時代の武将。越後国上杉氏の家臣。上杉二十五将の一人。.

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基兄王

基兄王(もとえおう、天長元年(824年) - 元慶5年11月22日(881年12月16日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。名は基枝王とも記される。桓武天皇の孫。三品・葛井親王の長男。官位は正四位下・大蔵卿。.

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厳島の戦い

月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵 厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年合戦の発生年について「弘治元年」とする資料や史跡案内(厳島各所の史跡説明板)も多いが、天文から弘治への改元は天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)である。10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である。.

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厳島神社

境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.

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古事記

真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。.

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名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.

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吉川氏

吉川氏(きっかわし)は、藤原南家工藤流の流れを汲む日本の氏族。.

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吉田郡山城の戦い

吉田郡山城跡の遠景。合戦時はまだ小規模な旧城(写真右の尾根)であった。 吉田郡山城の戦い(よしだこおりやまじょうのたたかい)は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦(こおりやまかっせん)とも呼ばれる。.

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坂上苅田麻呂

坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ、神亀4年(727年)- 延暦5年1月7日(786年2月14日))は、奈良時代の公卿・武人。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守・坂上犬養の子。官位は従三位・左京大夫。勲等は勲二等。.

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多家神社

戦前の本殿 多家神社(たけじんじゃ)は、広島県安芸郡府中町にある神社。式内社(名神大社)後継社、安芸国総社後継社。旧社格は県社。 別名として埃宮(えのみや)とも。社名の「多家」を現在は「たけ」と訓ませているが、本来は「おおいえ」と訓んでいたとも考えられ、またかつては「たが」などとも訓んでいた。.

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大同 (日本)

大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.

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大久保忠増

大久保 忠増(おおくぼ ただます、明暦2年(1656年) - 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。小田原藩大久保家4代。 初代藩主大久保忠朝の長男。正室は松平忠弘の娘(寿昌院慈岳元長尼)。子に大久保忠方(六男)、石川総陽(七男)、宇津教保(八男)、宇津教逵(十男)、岩姫(松平定逵正室)ら。寺社奉行、若年寄を経て、老中となる。.

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大久保忠真

大久保 忠真(おおくぼ ただざね)は、江戸時代後期の譜代大名、老中。相模国小田原藩第7代藩主。小田原藩大久保家9代。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大竹市

大竹市(おおたけし)は、広島県の南西部に位置する市である。 山口県との境に位置し、山口県の岩国市・和木町とつながりが強く一体の都市圏を形成している。小瀬川を挟んで大竹市から和木町・岩国市にかけての沿岸部に石油コンビナート・紙パルプ・化学繊維などの企業が立地し、瀬戸内工業地域の一拠点として発展している。.

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天安 (日本)

天安(てんあん/てんなん)は、日本の元号の一つ。斉衡の後、貞観の前。857年から859年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇、清和天皇。.

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宍戸隆家

宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸氏の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。.

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宝亀

宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.

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宮川房長

宮川 房長(みやがわ ふさなが)は、戦国時代の武将。陶氏の家臣。周防国玖珂郡高森城主。.

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安倍肱主

安倍 肱主(あべ の ひじぬし、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。三河守・安倍氏主の子。官位は従五位下・安芸守。.

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安芸

安芸(あき) - 広島県の地名。.

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安芸高田市

安芸高田市(あきたかたし)は、広島県の北部に位置する人口は約3万人の市。戦国武将毛利元就の本拠地として知られ、その居城郡山城が所在する。.

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安芸郡 (広島県)

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安房勝山藩

安房勝山藩(あわかつやまはん)は、安房国平郡の勝山陣屋(現・千葉県安房郡鋸南町勝山)に藩庁を置いた藩。 1668年以降、酒井氏(若狭小浜藩の分家)が藩主を務め、廃藩置県まで9代約200年にわたって存続した。これは安房国に藩庁を置いた藩の中で最長である。酒井家時代の石高は1万2000石で、所領は越前国・上野国にも存在した。明治維新後は加知山藩(かちやまはん)に改称した。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小田原藩

小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄下郡を治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。.

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小早川弘平

小早川 弘平(こばやかわ ひろひら、生没年不詳)は、戦国時代の安芸国の国人領主。竹原小早川氏の第12代当主。室町幕府奉公衆。父は小早川弘景。元服時には、家の慣例に倣って大内政弘より偏諱を受け弘平と名乗る。.

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小早川弘景 (初代)

小早川 弘景(こばやかわ ひろかげ)は、室町時代の武将。竹原小早川氏の第9代当主。小早川仲義(なかよし)の嫡男。.

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小早川盛景

小早川 盛景(こばやかわ もりかげ)は、室町時代の武将。竹原小早川氏の第10代当主。小早川弘景(初代)の嫡男。.

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小早川氏

小早川氏(こばやかわうじ/こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。.

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尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

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尼子晴久

尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。.

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尾道市

尾道市(おのみちし)は、広島県の南東部、山陽地方のほぼ中南部に位置する市である。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名是豊

山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.

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山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

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山名教豊

山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.

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山名時熙

山名 時熙(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。.

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山県郡

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山陽道

山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.

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上国

上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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三原市

三原市(みはらし)は、広島県の南部に位置する市。.

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三次市

三次市(みよしし)は、広島県の北部に位置する市。.

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三日月藩

三日月藩(みかづきはん)は播磨国佐用郡三日月(兵庫県佐用郡佐用町三日月)周辺を領した藩。藩庁は三日月陣屋。別名・乃井野藩(のいのはん)。.

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一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.

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平経盛

平 経盛(たいら の つねもり)は、平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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康平

康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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府中町

府中町(ふちゅうちょう)は、広島県の南西部に位置する町。日本の町村の中で推計人口が1番多い推計人口において長らく、町の中で当町が全国1位(参照)、岩手県岩手郡滝沢村が村の中で全国1位(参照2)であり、町村合わせると滝沢村が第1位、当町が第2位だった。2014年1月1日に滝沢村が市制施行して滝沢市となったため、同日以降、町村合わせて当町が全国1位となった。その後同年11月1日に宮城県黒川郡富谷町に抜かれ、全国2位になったが、富谷町が2016年10月10日に市制施行して富谷市となったため、同日以降、町村合わせて当町が再度、全国1位となった。。.

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広島市

広島市(ひろしまし)は日本の広島県の都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で最大の人口を有する市でもある。.

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広島県

広島県(ひろしまけん)は、日本の中国地方に位置する都道府県の一つ。瀬戸内海に面する。県庁所在地は広島市。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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仁和

仁和(にんな)は、日本の元号の一つ。元慶の後、寛平の前。885年から889年までの期間を指す。この時代の天皇は光孝天皇、宇多天皇。.

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仁科盛能

仁科 盛能(にしな もりよし)は、戦国時代の武将。信濃国安曇郡森城主。.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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令制国一覧

大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.

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延喜式神名帳

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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廿日市市

弥山からみた厳島神社および対岸の阿品・地御前 廿日市市(はつかいちし) は、広島県西部にある市。 郵便番号の上3桁は738、739。市外局番は、0829(一部地域を除く)。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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佐伯郡

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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北広島町

芸北高原大佐スキー場 北広島町(きたひろしまちょう)は、広島県山県郡に属する町。.

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北条高広

北条 高広(きたじょう たかひろ)は、戦国時代の武将。越後国刈羽郡北条(新潟県柏崎市北条)の領主、北条城主。 娘に沼田朝憲室がいたと伝わるが、朝憲死去の年代から否定されている。.

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嘉祥

嘉祥(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。承和の後、仁寿の前。848年から851年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇、文徳天皇。.

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呉市

ヶ峰からの呉市中心部 呉市(くれし)は、広島県の南西部に位置する市。瀬戸内海に面し、人口規模は広島県内で福山市に次ぐ3位。中核市、保健所政令市に指定されている。.

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和名類聚抄

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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国府

国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.

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石川盛義

石川 盛義(いしかわ もりよし、生年不詳 - 文保2年8月2日(1318年8月28日))は、鎌倉時代の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏11代目当主。石川元盛の長男。家光、家隆、光教、義尊、板橋光行らの父。従五位下信濃守、従四位下安芸守。夫人は北条経時の娘。 正和3年(1314年)10月、次男家隆、一族石川光助を引き連れて鎌倉を訪れ、将軍守邦親王に拝謁。上洛して盛義は従四位下大和守、光助は従五位下丹波守に任じられる。.

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竹原市

朝日山より望む竹原市街 竹原市(たけはらし)は、広島県の市。古くから瀬戸内の交通の要衝として発展した。室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。現在は 『安芸の小京都』 と呼ばれ、2000年に国土交通省によって、町並地区が「都市景観100選」に選定された。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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細川頼元

細川 頼元(ほそかわ よりもと)は、室町時代の武将、守護大名。第4代室町幕府管領、小侍所別当、侍所頭人、摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護。第7代細川京兆家当主。父は細川頼春、母は近衛経忠の娘。兄に頼之、詮春、頼有、弟に満之。異母兄・頼之の養子となる。正室は赤松則祐の娘。子に満元、満国、娘(宇都宮基綱室)。幼名は聡明丸、通称は三郎。初名は頼基(読み同じ)、のち頼元に改名(以後「元」の字は京兆家の家督継承者が用いる通字となる)。官位は右馬助、従四位下右京大夫。.

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総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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百済河成

済 河成(くだら の かわなり、延暦元年(782年) - 仁寿3年8月24日(853年9月30日))は、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代の王である恵王の後裔で、余時善の子で、子に岑人がいたとする系図がある。官位は従五位下・安芸介。.

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芸予諸島

芸予諸島(げいよしょとう)は、日本の瀬戸内海西部に位置する諸島。広島県と愛媛県に属しているため、両県の旧国名である安'''芸'''国と伊'''予'''国から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。.

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遠国

遠国(おんごく、えんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 古代日本の律令制の下において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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鏡山城の戦い

鏡山城の戦い(かがみやまじょうのたたかい)は、戦国時代の大永3年(1523年)、安芸国西条の鏡山城で起きた尼子氏と大内氏の戦いである。.

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角川日本地名大辞典

『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.

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諏訪忠厚

諏訪 忠厚(すわ ただあつ)は、信濃諏訪藩の第6代藩主。第5代藩主・諏訪忠林の四男。.

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諏訪忠虎

諏訪 忠虎(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。.

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諏訪頼満 (安芸守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。.

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諏訪藩

諏訪藩(すわはん)は、信濃国諏訪郡周辺を領有した藩。高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高島城(長野県諏訪市)。.

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諏訪時継

諏訪 時継(すわ ときつぐ、生年不詳 - 建武2年8月19日(1335年9月6日))は鎌倉時代から南北朝時代の武将。諏訪頼重の子。諏訪頼継(よりつぐ、大祝)、諏訪継宗(高遠氏祖)、諏訪信継(のぶつぐ)の父。安芸守。.

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高宮郡

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高富藩

富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.

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高田郡

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豊前王

豊前王(とよさきおう、延暦24年(805年) - 貞観7年2月2日(865年3月3日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。知太政官事・舎人親王の曾孫にあたる木工頭・栄井王の子。官位は従四位上・伊予守。.

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豊田郡

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貞観 (日本)

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.

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賀茂郡 (広島県)

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足利安芸守

足利安芸守(あしかがあきのかみ、生年不詳 - 建武3年(1336年))は鎌倉時代の武将。足利高義の長男。弟に田摩御坊源淋。 叔父の足利尊氏が九州に敗走した際、奥州で戦死したとされる。 Category:鎌倉時代の武士 あきのかみ Category:生年不明 Category:1336年没.

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黒川晴氏

黒川 晴氏(くろかわ はるうじ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。陸奥黒川氏第9代当主。陸奥国黒川郡鶴楯城主。月舟斎と号す。黒川景氏の孫。.

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藤原伊勢人

藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど、天平宝字3年(759年) - 天長4年3月13日(827年4月12日))は、奈良時代末期から平安時代初期の廷臣。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の七男『日本後紀』天長4年3月13日条。子に友永がいた。官位は従四位下・治部大輔。.

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藤原園人

藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.

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藤原興世

藤原 興世(ふじわら の おきよ、生年不詳 - 寛平3年7月14日(891年8月21日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家、讃岐守・藤原村田の子。官位は従四位上・伊勢守。.

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藤原関主

藤原 関主(ふじわら の せきぬし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家、右大臣・藤原園人の子。官位は正五位下・因幡守。.

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酒井忠一 (安房勝山藩主)

酒井 忠一(さかい ただかず)は、安房勝山藩の第8代藩主。 文政6年(1823年)、第7代藩主・酒井忠嗣の次男として江戸で生まれる。嘉永元年(1848年)に従五位下、安芸守に叙任する。嘉永4年(1851年)の父の死去により家督を継いだ。幕末の動乱期の中、外国船に対する海防強化をはじめ、緊縮財政政策や殖産興業による藩財政再建、人事一新などの藩政改革を推進したが、あまり効果はなかった。 万延元年(1860年)11月13日に死去、享年38。跡を長男の忠美が継いだ。 たたかす category:安房勝山藩主 Category:幕末の大名 Category:1823年生 Category:1860年没.

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速谷神社

戦前の本殿 速谷神社(はやたにじんじゃ)は、広島県廿日市市上平良にある神社。式内社(名神大社)、安芸国二宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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陶晴賢

陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。 晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。.

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折敷畑の戦い

折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)は、日本の戦国時代に行われた合戦のうちのひとつ。明石口の戦い(あかしぐちのたたかい)とも呼ばれる。天文23年(1554年)に陶晴賢(派遣部将は宮川房長)と毛利元就との間に行われた戦いである。厳島の戦いの前哨戦として扱う場合もある。 従来は、9月15日に合戦が行われたとされていたが、この日付は江戸期に成立した『吉田物語』や『新裁軍記』によって通説化したもので誤りとされ、実際に合戦が行われたのは6月5日とされている戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 吉川弘文館)毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)戦国合戦史事典(著:小和田泰経 2010年 新紀元社)(後述)。.

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東広島市

東広島市(ひがしひろしまし)は、広島県の中央部に位置する市。.

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松平資俊

松平 資俊(まつだいら すけとし)は、江戸時代前期の旗本、のち大名。常陸笠間藩第2代藩主、遠江浜松藩初代藩主。本庄松平家2代。.

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森長記

森 長記(もり ながのり、貞享4年6月16日(1687年7月24日) - 明和4年5月4日(1767年5月31日))は、播磨国三日月藩の第2代藩主。 初代藩主・森長俊の長男。母は側室布宇(浄心院)。子は森可敦(長男)、森俊春(五男)。官位は従五位下、安芸守。 作州にて生まれる。正徳5年(1715年)7月27日、父の隠居により跡を継いだ。藩政に見るところはない。しかし性格的に面白い藩主であった。 長記は泰平の世の中では珍しいほど自由奔放に振舞う藩主であった。だからといって暗愚とか馬鹿殿だったわけではない。いわゆる藩とか体制に縛られるのが大嫌いな性格であった。そのため藩政は重臣に任せて、長記は供を連れることもほとんどせずに、まるで無頼のように山や川を駆け回っては狩猟を行って獲物を狩り、屋敷に帰還するのはいつも明朝頃だったと言われている。このため、世間からは「森の夜鷲」とまで称された。また、参勤交代の途上、箱根の関所を午前2時に無理やり通させたこともある(播陽政実録)。しかしこのように無頼な生活を遂げたことが、逆に領民などの下情に通じることにもなり、当時の諸大名の中では最も下情に通じた大名とも言われた。 元文4年(1739年)6月26日、五男・俊春に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月4日に81歳で死去した。墓所は東京都大田区池上の本行寺。 なかのり なかのり Category:1687年生 Category:1767年没.

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橘真直

橘 真直(たちばな の まなお、弘仁7年〈816年〉 - 仁寿2年6月20日〈852年7月10日〉)は、平安時代前期の貴族。右大臣・橘氏公の三男。子に葛直がいる。官位は従四位下・相模権守。.

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橘貞根

橘 貞根(たちばな の さだね、弘仁7年(816年) - 貞観15年8月28日(873年9月23日)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。越中守・橘宗嗣の子。官位は従四位上・弾正大弼。.

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武田信光

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.

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武田信賢

武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代の武将、守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。若狭武田氏第2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。.

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武田信武

武田 信武(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。.

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武田信時

武田 信時(たけだ のぶとき、承久2年5月17日(1220年6月19日) - 正応2年2月9日(1289年3月2日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信時項の傍注による。)は、鎌倉時代中期の武将。甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。 父は第6代当主・武田信政。母は大内惟義の娘と伝わる。兄弟に政綱(五郎三郎)。子に武田時頼、武田政頼、武田時綱、武田信実などがいる。.

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武田元繁

武田 元繁(たけだ もとしげ)は、日本の戦国時代の武将。安芸武田氏当主。安芸国の分郡守護。智勇に優れた武将で、全盛期には.

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武田光和

武田 光和(たけだ みつかず)は、戦国時代の武将。安芸武田氏当主。武田元繁の嫡男。正室は熊谷元直の娘。官位は刑部少輔、安芸守。子に武田小太郎、武田小次郎、武田小三郎(宗慶)がいる。仮名は太郎。別名は光貞(みつさだ)。.

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武田氏信

武田 氏信(たけだ うじのぶ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将・守護大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む安芸武田氏の初代当主。甲斐武田氏第10代当主・武田信武の次男。.

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毛利季光

毛利 季光(もうり すえみつ)は鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府の御家人。大江広元の四男。.

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毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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江田島市

江田島市(えたじまし)は、広島県の西部、瀬戸内海島嶼部に位置する市である。.

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沼田郡

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渋川満頼

渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名、九州探題。.

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源季遠

源 季遠(みなもと の すえとお、生没年不詳)は平安時代後期の武士・歌人。実父は源義忠の三男源忠宗。後に源重時の養子に入った。子に光季(光遠とも、豊後守)、飯富季貞がいる。 平忠盛や清盛の郎党として近侍し右兵衛尉、安芸守、信濃守を歴任した。久寿2年(1155年)、後白河天皇の時代には北面武士、二条天皇が立太子されると帯刀舎人となった。 著名な歌人ではないが、勅撰和歌集(詞花和歌集)に入選している(子の季貞は千載和歌集に入選している)。.

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源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ).

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源有光

源 有光(みなもと の ありみつ)は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む柳瀬流源頼遠の次男。陸奥石川氏第2代当主。 摂津国物津荘に生まれる。松千代、河内右馬之允師任、源太有光を称し、柳津に住してから柳津源太を称した。永承6年(1051年)、父頼遠とともに源頼義に従い陸奥に下向して安倍氏と戦うが、康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで父を失い兵の指揮を引き継ぎ、軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫)の中から、石川を中心とした六十六郷の地を与えられた。 当初、石川荘の泉郷(いずみごう)の南、川辺(かわべ)にあった保源城へ住した。 泉郷は、阿武隈川を挟んだ西側が古代の東山道が通じ賑わっていた三条目(三城目)郷であり、賑わった土地である事からこの地を本拠地と定めた。しかし保源城は三方を急勾配に囲まれた山頂にあり、守るに堅牢な城ではあったが、水・交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。その為、南に2キロ程の中野の地に藤田城を築くが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。.

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本庄道貫

本庄 道貫(ほんじょう みちつら、寛政9年11月5日(1797年12月22日) - 安政5年8月26日(1858年10月2日))は、江戸時代後期の大名・伏見奉行・若年寄。美濃高富藩第9代藩主。.

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有田中井手の戦い

有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)は、戦国時代の永正14年(1517年)に安芸国で起こった戦い。有田合戦とも呼ばれる有田城址説明板「有田城跡と有田合戦」(芸北東部広域観光連絡協議会・千代田町観光協会)など。。尼子氏の支援を受けて安芸国旧守護の勢威回復を目指す武田元繁が、吉川氏の有田城を攻めたことが発端になり、発生した。毛利元就の初陣としても知られる。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浜松藩

浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)の浜松城を居城とした。.

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浅野吉長

浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸広島藩の第5代藩主。浅野家宗家6代。.

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浅野宗恒

浅野 宗恒(あさの むねつね)は、安芸広島藩の第6代藩主。浅野家宗家7代。将軍徳川吉宗より偏諱を賜って宗恒と名乗った。.

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浅野光晟

浅野 光晟(あさの みつあきら)は、安芸広島藩の第2代藩主。浅野宗家3代。.

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浅野綱長

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期の国主外様大名。安芸広島藩第4代藩主。浅野家宗家5代。.

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浅野重晟

浅野 重晟(あさの しげあきら)は、江戸時代の大名で安芸広島藩第7代藩主。浅野家宗家8代。第6代藩主・浅野宗恒の長男。将軍徳川家重から賜った偏諱(「重」の字)と、初代長晟・2代光晟・3代綱晟の3名が用いた「晟」の字とにより重晟と名乗る。.

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。.

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浅野長訓

浅野 長訓(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、安芸国広島新田藩第5代藩主、のち広島藩第11代藩主。浅野家宗家12代。 浅野長懋(ながとし、第7代藩主・浅野重晟の四男)の五男。正室は浅野長容の娘・峻。養子に甥(弟・懋昭(としてる)の子)の浅野長勲、浅野雪年(ゆきとし、1861-1936)がいる。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長( -もちなが)を名乗っていた。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。 文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩第10代藩主の浅野慶熾の死去にともない、その跡を継いで広島藩主となる(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下侍従に任官し、将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。 第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。 明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗藩の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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浅野斉粛

浅野 斉粛(あさの なりたか、文化14年9月28日(1817年11月7日) - 慶応4年1月12日(1868年2月5日))は、安芸広島藩の第9代藩主。浅野家宗家10代。 第8代藩主・浅野斉賢の長男。正室は将軍徳川家斉の二十四女・末姫。子は浅野慶熾(長男)。幼名は勝吉。初めは長粛(ながたか)を名乗っていたが、のちに父同様に義父である家斉の偏諱を賜って斉粛に改名した。官位は従四位上、安芸守、備守、左少将。 文政6年(1823年)6月18日、将軍徳川家斉の娘末姫と縁組する。天保2年(1831年)1月20日、家督を相続した。天保3年7月23日、従四位下侍従・安芸守に任官する。天保7年12月16日、左少将に任官した。天保11年12月16日、従四位上に昇進する。斉粛が藩主の時代、広島藩は天保の大飢饉、河川の普請工事、第11代将軍・徳川家斉の娘との婚儀など、天災や事業、行事などが重なって、藩政は多難を極め、財政は火の車となった。このため、斉粛は野村帯刀を登用して藩政改革に取り組んだが、あまり効果は得られなかった。 天保6年(1835年)、広島城の鬼門に位置する明星院に浅野家の初代浅野長政を祭神とする社を建立した(明治6年(1873年)県社となり饒津神社となる)。 安政5年(1858年)4月12日、長男・慶熾に家督を譲って隠居した。隠居により、通称を備後守に改める。慶応4年(1868年)正月12日、52歳で死去した。法号は温徳院殿寛洪日順大居士。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 なりたか Category:幕末の大名 なりたか 主09 Category:1817年生 Category:1868年没.

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浅野斉賢

浅野 斉賢(あさの なりかた)は、安芸広島藩の第8代藩主。浅野家宗家9代。.

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浅野慶熾

浅野 慶熾(あさの よしてる、天保7年11月12日(1836年12月19日) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、安芸広島藩の第10代藩主。浅野家宗家11代。 第9代藩主・浅野斉粛の長男。正室は徳川斉荘の娘(徳川斉彊の養女)・利姫。官位は従四位上、侍従、上総介、安芸守。幼名は定吉、定之丞、善次郎。初名は長裕。 嘉永4年(1851年)3月25日、元服し、伯父で将軍の徳川家慶より偏諱を賜って慶熾に改名する。また、従四位上侍従・上総介に任官する。安政5年(1858年)4月12日、父の隠居により跡を継ぐ。通称を安芸守に改める。幼少期から聡明で知られており、その力量は時の名君と呼ばれた島津斉彬や山内豊信、松平慶永らからも一目置かれるほどであったが、家督を継いでから半年足らずの同年9月10日に23歳の若さで江戸にて他界してしまった。跡を養嗣子の長訓が継いだ。 法号は大光院。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 よしてる Category:幕末の大名 よしてる 主10 Category:1836年生 Category:1858年没.

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斉衡

斉衡(さいこう)は、日本の元号の一つ。仁寿の後、天安の前。854年から857年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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承和 (日本)

承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.

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1062年

記載なし。

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1146年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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12月26日 (旧暦)

旧暦12月26日は旧暦12月の26日目である。六曜は先勝である。.

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1517年

記載なし。

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1523年

記載なし。

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1540年

記載なし。

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1541年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1555年

記載なし。

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1664年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1956年

記載なし。

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1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。.

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771年

記載なし。

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785年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.

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806年

記載なし。

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846年

記載なし。

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847年

記載なし。

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848年

記載なし。

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849年

記載なし。

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850年

記載なし。

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854年

記載なし。

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858年

記載なし。

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861年

記載なし。

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865年

記載なし。

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869年

記載なし。

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886年

記載なし。

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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