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天台座主

索引 天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

228 関係: 半田孝淳坂本 (大津市)堀河天皇増命増誉天台宗天長天海太政官妙法院室町幕府室町時代守貞親王守澄法親王宗良親王安慧 (天台宗)寛永寺寛慶尊助法親王尊卑分脈尊円法親王尊円流尊純法親王尊真法親王尊証法親王尊朝法親王尊朝流尊意尊性法親王 (鎌倉時代)尭延入道親王尭然法親王尭胤法親王尭恕法親王尋禅山田恵諦上野中世中御門天皇三千院三条実冬三条実房三条公忠一条実家一条実有一条経嗣一条経通九条兼実九条道家九条良平平清盛...久邇宮久邇宮朝彦親王久我通相座主二条師基二条師良二条良実二条持基亀山天皇仁実仁豪以仁王延暦寺延昌 (僧)伏見天皇伏見宮貞常親王伏見宮貞建親王伏見宮貞致親王伏見宮貞敦親王伏見宮貞敬親王伏見宮邦頼親王伏見宮邦輔親王伏見宮邦永親王住職余慶征夷大将軍徳大寺実盛徳大寺公能徳川綱吉後奈良天皇後宇多天皇後二条天皇後伏見天皇後嵯峨天皇後光厳天皇後白河天皇後西天皇後鳥羽天皇後醍醐天皇後陽成天皇後柏原天皇後水尾天皇俊堯忠尋忠房親王土御門天皇北白川宮能久親王円仁円珍円澄八条宮智仁親王公弁法親王元亀灌頂織田信長義真真性甲斐国白川伯王家鎌倉幕府遷化道元道覚法親王青蓮院順徳天皇行尊行玄顕真西園寺実兼西園寺公相覚尋覚快法親王覚円覚猷覚恕法親王誠仁親王護良親王鳥獣人物戯画鳥羽天皇足利将軍家足利義満足利義教足利満詮鷹司兼平輪王寺近衛基通近衛家基近衛家実近衛道嗣霊元天皇赤穂事件閑院宮孝仁親王閑院宮典仁親王閑院宮直仁親王開祖門跡藤原師実藤原師輔藤原俊家藤原俊忠藤原忠経藤原忠通藤原公実藤原経輔藤原頼経藤原頼通藤原能長藤原重隆良尚入道親王良真良源雅子内親王雅成親王東山天皇松殿基房桓守梨本宮梨本宮守脩親王梶井義承正親町天皇武田信玄比叡山江戸幕府江戸時代法主法親王洞院実泰洞院公守源基平源師房源俊房源義仲源隆国源顕仲源顕雅源顕通源有頼澄覚法親王末寺本山有栖川宮織仁親王有栖川宮韶仁親王有栖川宮職仁親王有明親王最雲法親王最澄惟康親王明尊明快明雲明暦明治明救日光市日本摂家愚管抄慶円 (天台宗)慈円慈眼堂 (大津市)慈道法親王慈胤法親王承胤法親王書家1177年1183年1192年1213年1217年1238年1240年1241年1259年1571年1656年1871年1885年824年 インデックスを展開 (178 もっと) »

半田孝淳

半田 孝淳(はんだ こうじゅん、1917年9月21日 - 2015年12月14日)は日本の天台宗の僧侶。2007年より第256世天台座主。2012年より全日本仏教会会長。 長野県小県郡別所村(現上田市別所温泉)常楽寺(北向観音本坊)に住職半田孝海の長男として生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、大正大学宗教学科卒業。.

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坂本 (大津市)

坂本(さかもと)は、滋賀県大津市の町名、地区名。延暦寺および日吉大社の門前町(鳥居前町)として古くから栄えた。現行行政町名では坂本一-八丁目が置かれているほか、広義の坂本には町名変更前の所属であった坂本本町や隣接する下阪本なども含まれる。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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増命

増命(ぞうみょう、承和10年(843年) - 延長5年11月11日(927年12月7日))は、平安時代前期の天台宗の僧。父は左大史桑内安峰。死後に静観僧正の号を下賜される。第10代天台座主(在任:延喜6年10月17日-同22年5月26日)。.

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増誉

増誉が建立した聖護院 増誉(ぞうよ、長元5年(1032年) - 永久4年1月29日(1116年2月14日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は大納言藤原経輔。一乗院大僧正と称される。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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天長

天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.

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天海

喜多院山門前にある銅像 天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。.

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太政官

太政官.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守貞親王

守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。.

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守澄法親王

守澄法親王(しゅちょうほっしんのう、寛永11年閏7月11日(1634年9月3日)- 延宝8年5月16日(1680年6月12日))は、初代輪王寺宮門跡(日光門跡とも呼ばれる)。東叡山(寛永寺)・日光山(輪王寺)貫主。天台座主。朝廷より二品・一身阿闍梨・一品・護持・牛車・検封阿闍梨などの宣下を受ける。.

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宗良親王

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311年)/正和元年(1312年) - 元中2年/至徳2年8月10日( 1385年9月14日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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安慧 (天台宗)

安慧(あんえ、延暦13年(794年) - 貞観10年4月3日(868年5月2日))は、平安時代前期の天台宗の僧。俗姓は大狛氏。河内国大県郡の出身。 下野国小野寺の広智(こうち)に師事して出家、ついで比叡山に登って最澄・円仁について顕教・密教を学んだ。遮那業学生(密教専攻の学僧)として得度し、規定により12年篭山修行を行った。その後、844年(承和11年)出羽国の講師に任じられ、その地の法相宗徒の多くを天台宗に改宗させたという。848年(承和13年)延暦寺定心院十禅師に任じられ、内供奉十禅師を経て、864年(貞観6年)天台座主に就任した。 Category:平安時代の僧 Category:天台座主 Category:河内国の人物 Category:794年生 Category:868年没.

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寛永寺

広重『名所江戸百景』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。 寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。.

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寛慶

寛慶(かんけい、寛徳元年(1044年)-保安4年11月3日(1123年11月22日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶。右大臣藤原俊家の三男。母は藤原季範の娘。 慶範・広算・賢暹らに教えを受け「寛慶」『日本仏教人名辞典』P133、寛治5年(1091年)に法眼に叙され「寛慶」『平安人名辞典―康平三年〈下〉』P45、比叡山無動寺にある大乗坊に居住した根井浄「寛慶」『平安時代史事典』。康和年間以降、藤原忠実の元に出入りして、病気平癒など各種の祈祷を行う。 天仁元年(1109年)に無動寺管領・多武峰座主に任じられ、天永2年(1111年)には権大僧都に叙される。この年の10月に延暦寺の悪僧の行動に対して白河法皇から解決策を求められた天台座主の仁豪が治安の安定化策を進め、これを受けた大衆が「悪事の停止」に関する奏状を法皇に提出したところ、無動寺を代表する寛慶は奏状への署名を拒否して白河法皇に対して異論を提出した。その後、座主・僧綱らの会議でも座主が責任をもって綱紀粛正を図るために権力を集中させようとする仁豪と東塔・西塔・横川・無動寺がそれぞれの責任で綱紀粛正を行うべきだとする寛慶が対立した衣川「延暦寺三門跡の歴史的機能」P64。永久元年(1113年)には法性寺座主に任ぜられる。この年、延暦寺の大衆が清水寺を破却し、興福寺の僧兵が抗議の強訴を行った永久の強訴が行われ、興福寺側から事件の張本人として天台座主の仁豪とともに寛慶の配流が求められたが、平忠盛らの活躍で興福寺の強訴は鎮圧された。ところが、寛慶は清水寺の破壊の責任は仁豪にあると主張して天台座主の辞任を求め、これに同調した大衆が強訴を起こしたものの平忠盛ら検非違使によって追い返された衣川「延暦寺三門跡の歴史的機能」P65衣川「延暦寺三門跡の歴史的機能」P71。その後も仁豪の命令に従わず、翌永久2年(1114年)7月には大衆同志の衝突が起きたため、仁豪が寛慶による座主職奪取の企てであると白河法皇に訴えている衣川「延暦寺三門跡の歴史的機能」P72。にも関わらず、同年12月には法成寺の権別当に起用され、永久4年(1116年)には正式な別当となった。その後、保安元年(1120年)に僧都に叙されると、翌保安2年10月6日(1121年11月17日)、仁豪に代わって天台座主に任じられ、同時に権僧正に任ぜられた。だが、翌保安3年(1122年)8月には延暦寺と園城寺の対立の際の対応を巡って今度は根本中堂の大衆が寛慶を襲撃したため、比叡山を一時退去するも10月には帰山した。保安4年(1123年)に天台座主在位のまま死去した。 門人には、寛慶から無動寺を継承し、後に青蓮院門跡の師とされる天台座主行玄がいる。なお、青蓮院門跡の成立そのものが、寛慶と仁豪の対立が法流間の対立として教学・施設・大衆とともに弟子達に引き継がれ、やがて法流のトップに法親王などの貴種を入れることによって確立されたと言う背景があったと考えられている。.

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尊助法親王

尊助法親王(そんじょほっしんのう、建保5年(1217年) - 正応3年12月1日(1291年1月2日))は、鎌倉時代中期の法親王。父は土御門天皇。母は法印尋恵の娘。後嵯峨天皇らの異母兄弟。青蓮院・大原宮と号した。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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尊円法親王

尊円法親王(そんえんほうしんのう、永仁6年6月23日(1298年8月1日) - 正平11年9月13日(1356年10月7日)は、青蓮院第十七世門跡。伏見天皇の第6皇子。母は三善俊衡の娘。初名は守彦親王。尊円入道親王とも。.

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尊円流

尊円流(そんえんりゅう)は、尊円法親王が興した書の流派(書流)である。青蓮院流(しょうれんいんりゅう)、御家流(おいえりゅう)、粟田流(あわたりゅう)とも呼ばれる。.

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尊純法親王

尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)- 承応2年5月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。 1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主177世に就任している。書に秀でていた。 Category:日本の親王 Category:江戸時代の男性皇族 Category:江戸時代の僧 Category:天台座主 Category:1591年生 Category:1653年没.

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尊真法親王

尊真法親王(尊眞法親王・そうしんほうしんのう、寛保4年1月19日(1744年3月3日)-文政7年3月17日(1824年4月16日))は、江戸時代後期の法親王。伏見宮貞建親王の第四皇子で、母は家女房の岡本応子。幼名は雄香宮(おかのみや)、後に喜久宮。諱は成輔。字は良璠。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある。 延享3年(1747年)10月に桜町天皇と姉小路定子(開明門院)の養子になる。当初は一乗院に入る予定であったが、宝暦2年(1752年)になって勅命によって一乗院から連れ戻されて青蓮院を継承し、同年12月に親王宣下を受けた。翌宝暦3年(1753年)に出家、宝暦12年(1762年)に一身阿闍梨となる。 明和元年(1764年)に天台座主に補任され、以降4度にわたって座主を務める。また、同年には二品親王となる。天明5年(1785年)12月に一品親王に叙される。天明7年(1787年)に牛車宣旨を受ける。文化13年閏8月13日(1816年10月4日)に准三宮となる。文政5年(1822年)に老齢のために宮中で杖を用いることを許された。文政7年(1824年)に81歳で逝去。諡号は施無畏王院。墓地は善峯寺内にある青蓮院宮墓地。 書道に優れており、『入木道十七条之口決』・『入木抄口決』などの著作がある。.

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尊証法親王

尊証法親王(尊證法親王・そんしょうほうしんのう、慶安4年2月10日(1651年3月31日) - 元禄7年10月15日(1694年12月1日))は、江戸時代前期の法親王。後水尾天皇の第十七皇子で、母は園基子(新広義門院)。幼名は玲瓏宮(ゆらのみや)、諱は周賢。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある。 承応2年(1653年)に青蓮院門跡相続、明暦2年(1656年)に青蓮院に入室、万治3年(1660年)5月に親王宣下を受けて周賢と名乗り、7月に良尚法親王を師として出家して尊證と称する。寛文9年(1669年)に天台座主に補任され、同13年(1673年・延宝元年)に二品親王に叙されて天台座主に再任、元禄6年(1693年)にも3度目の補任をされるが辞退している。書道の達人で後世に「尊證流(尊証流」)と称される流派を創始した。 元禄7年(1694年)に44歳で薨去。実兄の尭恕法親王の撰で諡号を後桂蓮院とされた。.

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尊朝法親王

尊朝法親王(そんちょう ほうしんのう、天文21年8月20日(1552年9月8日) - 慶長2年2月13日(1597年3月30日))は伏見宮邦輔親王の第6王子。天台座主。 天文19年(1550年)に尊鎮法親王が亡くなった後、空席が続いていた青蓮院門跡をわずか4歳で継承するが、門跡の職務を行い得なかった。これに対して青蓮院傘下とされていた浄土真宗本願寺の顕如は朝廷に働きかけて、永禄2年(1559年)に本願寺の門跡昇格を果たしている。成長後の尊朝法親王は書道に優れ、青蓮院流から、その別流の尊朝流を創立した。また、越後国の戦国大名・上杉景勝と親交があった。同国内で新発田重家が反乱を起こした際の天正15年(1587年)、景勝の要請を受け、新発田重家に対し和睦を勧告する使者を派遣している。.

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尊朝流

尊朝流(そんちょうりゅう)は、尊朝法親王が尊円流から、分化発展させた書流。.

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尊意

尊意(そんい)は仏教用語の1つで、尊い師僧の意見を伺うという意味。法戦式などで使用される。また、僧の名称でもある。 ---- 尊意(そんい、貞観8年(866年)- 天慶3年2月24日(940年4月4日))は、平安時代中期の天台宗の僧・13世天台座主。通称は梨本祖師、号を法性房。近江国の出身。.

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尊性法親王 (鎌倉時代)

尊性法親王(そんしょうほつしんのう、建久5年(1194年)-延応元年9月3日(1239年10月1日))は、鎌倉時代の法親王。守貞親王(後高倉院)の第一皇子で、母は持明院基子(北白河院)。後堀河天皇の同母兄にあたる。通称は綾小路宮。 承元3年(1209年)3月に出家して、妙法院の実全の元に入る。後に一身阿闍梨・権大僧都になる。承久3年(1221年)に弟の後堀河天皇の即位に伴って親王宣下を受け、貞応2年(1223年)に二品親王となる。実全から譲り受けた綾小路房を綾小路小坂殿と称する御所とした。 嘉禄元年(1225年)、慈円(九条家出身)が没すると彼が持っていた四天王寺別当の後継問題が浮上した。延暦寺(山門)は慈円の甥である良快(九条兼実の子)を推挙し、園城寺(寺門)は慈円の大甥である良尊(九条良経の子、良快の甥)を推挙して争った。ところが、後堀河天皇は両方の要求を斥けて自分の兄である尊性を後任に補任したのである。続いて、安貞元年(1227年)には天台座主に補任されている。 寛喜元年(1229年)、尊性が延暦寺の内紛から天台座主を辞退すると、かねてから尊性の別当補任に不服を抱く四天王寺の僧侶が尊性の排除を図って放火未遂を起こし、更に同寺の絵解法師が同寺の仏舎利を奪って失脚を図ろうとした。同寺の混乱は寛喜3年(1231年)に山場を迎えた。藤原定家の日記『明月記』の同年9月3日条にその様子が詳しく書かれており、関白の九条教実(良快にとっては大甥、良尊にとっては甥)が四天王寺の混乱を鎮圧するように鎌倉幕府に要請したところ四天王寺が戦場になって被害が出るのを恐れた幕府がこれを断って尊性が一旦辞退してほとぼりが冷めた後に復帰する案を出したこと、それを聞いた尊性は教実の父で当時の朝廷の最高実力者であった九条道家(良快にとっては甥、良尊にとっては兄)が自分を辞めさせるために幕府に進言していると疑ったこと、これに対して道家は良快も良尊も自分の身内でありどちらにも味方できないのに(尊性続投が望ましいのに)疑われる事態になって困惑している状況が記されている。最終的には尊性は12月13日になって幕府の意向に沿う形で良快に譲ることになった。 ところが、翌貞永元年(1232年)2月に入ると関白九条教実と六波羅探題北条重時の間で尊性を天台座主に復帰させることが協議されて本人も受諾、天福元年(1233年)には四天王寺別当に再任されている。尊性は後堀河天皇の兄であることから、天皇及び天皇を支持する鎌倉幕府・六波羅探題に対して積極的な政治工作を行って自らに有利な立場を築くことに努めた。特に自らの拠点であった妙法院の立て直しに尽力し、同院を天台宗の有力門跡に育て上げた。尊性が弟の後堀河天皇に充てた自筆書状103通は法親王の薨去後にそれらを裏紙にして法華経を摺り写したことから、紙背文書として現存している(重要文化財「尊性法親王消息飜摺法華経」として南真経寺・北真経寺が共有)。尊性が幕府と密接でなおかつ自身も一定の武力を持つ権門の一員であったことは、藤原定家が彼を「兵を好む」と評している(『明月記』天福元年2月20日条)ことからもうかがえる。また、琵琶の達人でもあった。 暦仁元年(1238年)、天台座主を退き、翌延応元年(1239年)に46歳で薨去した。.

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尭延入道親王

尭延入道親王(ぎょうえん にゅうどう しんのう、正字体:堯延、延宝4年旧暦12月28日(1677年1月31日)- 享保3年旧暦11月29日(1719年1月19日))は、江戸時代前期から中期にかけての入道親王。父は霊元天皇。母は五条庸子。幼名六宮。出家前は周慶親王(ちかよし しんのう)といった。 9歳のとき京都妙法院に入り、堯恕法親王に師事した。親王宣下を受けたのちに出家し、その後は3度天台座主を務めている。4代将軍徳川家綱の三十三回忌の法会、徳川家康の百回忌の法会では、その導師を務めている。.

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尭然法親王

堯然法親王(ぎょうねん ほっしんのう、慶長7年10月3日(1602年11月16日)- 寛文元年閏8月22日(1661年10月15日))は、江戸時代前期の皇族・僧。天台宗延暦寺別院門跡妙法院の門跡。後陽成天皇の第六皇子。母は持明院基孝の娘掌侍持明院基子。六宮と称される。諡号は慈音院。.

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尭胤法親王

堯胤法親王(ぎょういんほっしんのう、長禄2年(1458年) - 永正17年8月26日(1520年10月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての法親王。父は伏見宮貞成親王の子貞常親王。 応仁2年(1468年)京都三千院で出家した。後花園天皇の猶子となって文明3年(1471年)親王宣下を受ける。明応2年(1493年)天台座主に就任し、焼失した比叡山根本中堂の再建に尽力した。 Category:日本の親王 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:天台座主 Category:1458年生 Category:1520年没 Category:伏見宮.

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尭恕法親王

堯恕法親王(ぎょうじょ ほっしんのう、寛永17年10月16日(1640年11月29日) - 元禄8年4月16日(1695年5月28日))は、江戸時代前期の皇族・僧。後水尾天皇の第十皇子。母は園基音の娘・新広義門院園国子。天台宗延暦寺別院妙法院の門跡。幼名は照宮。諱は完敏(さだとし)。字は体素。号は逸堂。.

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尋禅

尋禅(じんぜん、天慶6年(943年) - 永祚2年2月17日(990年3月16日))は、平安時代中期の天台宗の僧。藤原師輔の十男。母は醍醐天皇皇女雅子内親王。.

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山田恵諦

山田 恵諦(やまだ えたい 明治28年(1895年)12月1日 - 平成6年(1994年)2月22日)は、日本の天台宗の僧侶。第253世天台座主を20年つとめ、「比叡山宗教サミット」を開催、また一隅を照らす運動を推進した。行動的だったので「空飛ぶお座主」といわれた。.

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上野

上野(うえの)は、東京都台東区の地名で、旧下谷区にあたる下谷地域内である。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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三千院

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。 京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。.

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三条実冬

三條 實冬(さんじょう さねふゆ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条公忠

三条 公忠(さんじょう きんただ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅がいる。.

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一条実家

一条 実家(いちじょう さねいえ)は鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。父は円明寺関白一条実経、母は内大臣大炊御門家嗣の娘、あるいは右少将坊門有信の娘。兄弟に後光明峰寺摂政一条家経、一条師良、一条忠輔、一条家房らがいる。号は一条、又号町。室は滋野井公光の娘、子に一条内家がいる。.

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一条実有

一条 実有(いちじょう さねあり)は、鎌倉時代前期の公卿。父は准三宮西園寺公経。清水谷家祖。正二位権大納言左近衛大将。一条を号す。子の公持と公藤は共に正二位権大納言に至った。.

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一条経嗣

一条 経嗣(いちじょう つねつぐ、正平13年/延文3年(1358年) - 応永25年11月17日(1418年12月14日))は、室町時代前期の公卿(関白)。関白二条良基の三男で、一条経通の猶子として一条家を継いだ。子に一条兼良・僧雲章一慶がいる。.

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一条経通

一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。.

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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九条良平

九条 良平(くじょう よしひら、元暦元年4月19日(1184年5月30日) - 延応2年3月17日(1240年4月10日))は、鎌倉時代の公卿。九条兼実の三男で、母は藤原頼輔の女。兄九条良経の養子となり、醍醐太政大臣と呼ばれる。 侍従、右少将、左中将などを経て、元久元年(1204年)に参議となり、その後権中納言、権大納言、大納言と歴任。元仁元年(1224年)、内大臣に就任。安貞元年(1227年)には、左大臣となったが、病のため辞任。しかし、暦仁元年(1238年)太政大臣として官界に復帰した。暦仁2年(1239年)再び病を得て出家。翌年播磨で没した。 よしひら Category:1184年生 Category:1240年没 Category:鎌倉時代の公家.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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久邇宮

久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。.

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久邇宮朝彦親王

久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。 第125代天皇・明仁の曽祖父である。.

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久我通相

久我通相(こが みちまさ)は南北朝時代の公卿。従一位太政大臣。千種太政大臣、または中院と号す。父は太政大臣久我長通。母は参議園基顕の娘。.

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座主

座主(ざす).

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二条師基

二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平20年/貞治4年1月26日(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。.

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二条師良

二条 師良(にじょう もろよし、貞和元年(1345年)- 永徳2年/弘和2年5月1日(1382年6月12日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。左大臣。二条良基の嫡男。 北朝の後光厳天皇、後円融天皇の2代にわたって関白を務める。晩年に発狂した。.

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二条良実

二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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仁実

仁実(にんじつ、寛治5年(1091年)- 天承元年6月8日(1131年7月4日))は、平安時代後期の天台宗の僧。藤原公実の次男。母は藤原光子(藤原隆方女)。待賢門院藤原璋子の同母兄。.

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仁豪

仁豪(にんごう、永承6年(1051年) - 保安2年10月4日(1121年11月15日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶。藤原北家、中御門流の出身で、内大臣・藤原能長の子。母は下野守兼資の娘、あるいは憲方の娘(姓は不明)。南勝房と号す。第42代天台座主。.

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以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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延昌 (僧)

延昌(えんしょう、元慶4年(880年)- 応和4年1月15日(964年2月6日))は、平安時代中期の天台宗の僧。加賀国江沼郡の出身。諡号は慈念。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家、伏見宮第4代当主。.

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伏見宮貞建親王

伏見宮貞建親王(ふしみのみや さだたけしんのう、元禄13年12月21日(1701年1月29日) - 宝暦4年7月21日(1754年9月7日) )は、江戸時代中期の皇族。伏見宮第15代。伏見宮邦永親王の第三王子。母は、霊元天皇第五皇女福子内親王(よしこないしんのう)。幼称は若宮。 宝永5年(1708年)東山天皇の猶子となり、翌宝永6年(1709年)5月親王宣下を蒙り、貞建と命名される。正徳5年(1715年)10月元服し、兵部卿に任ぜられる。享保4年(1719年)正月東山天皇の第一皇女秋子内親王と結婚。 享保12年(1727年)二品に叙され、宝暦4年(1754年)7月21日一品に叙せられる。同21日薨去。55歳。法名、後乾徳院。 王子女に邦忠親王のほか、邦頼親王(尊宝入道親王)、尊英入道親王、千代宮寿子女王(東本願寺乗如室)、尊真入道親王、安津宮賢子女王(広幡前豊室)、田鶴宮貞子女王(徳川重好室)がいる。また、養子に富宮徳子女王(今出川公詮女、徳川宗将室)、賀伝宮近子女王(専修寺円超女、専修寺円遵室)がいる。.

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伏見宮貞致親王

伏見宮貞致親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)は、江戸時代初期の皇族。伏見宮第13代当主。父は伏見宮第10代当主の貞清親王と言われるが、一説には邦尚親王の王子とも伝えられる。母の少納言局・安藤定子は安藤定元の女で、曾祖父は邦輔親王の王子・安藤惟実(邦茂王)。同母弟に邦道親王がいる。妃は関白近衛尚嗣の女、好君。 丹波国に養子に出された後、寛永20年から21年(1643〜44年)ごろに山城国西陣の鍛冶・埋忠の徒弟となり、慶安2年(1649年)まで長九郎と名乗っていた。承応3年(1654年)に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去すると伏見宮家は断絶の危機に直面したが、安藤家の働きかけにより京都所司代が吟味したところ伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。万治3年(1660年)に親王宣下、元服。 王子女に邦永親王、真宮理子女王(徳川吉宗室)など。.

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伏見宮貞敦親王

伏見宮貞敦親王(ふしみのみや さだあつしんのう)は、戦国時代の皇族。中務卿、式部卿。伏見宮第6代当主。邦高親王第一王子。母は今出川教季の娘。 文亀2年(1502年)に元服、永正元年(1504年)に親王宣下。天文14年(1545年)に出家。.

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伏見宮貞敬親王

伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだゆきしんのう、安永4年12月10日(1776年1月1日) - 天保12年1月21日(1841年2月12日))は、江戸時代の日本の皇族。伏見宮第19代。伏見宮邦頼親王の王子。幼称は嘉禰宮(かねのみや)。 安永8年(1779年)の後桃園天皇の崩御の際には、後継候補に名が挙がった。 寛政9年(1797年)8月親王宣下。貞敬と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。享和2年(1802年)父邦頼親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。文化元年(1804年)兵部卿となり、翌文化2年(1805年)には二品に昇叙される。文化8年(1811年)一条輝良の女輝子(てるこ)と結婚する。天保12年(1841年)正月一品に昇叙するが、間もなく薨去した。67歳。.

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伏見宮邦頼親王

伏見宮邦頼親王(ふしみのみや くによりしんのう)は、江戸時代の皇族。伏見宮第18代。伏見宮貞建親王の第二王子。幼称ははじめ孝宮、後に堯宮と改める。.

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伏見宮邦輔親王

伏見宮邦輔親王(ふしみのみや くにすけしんのう)は、戦国時代の皇族。式部卿。伏見宮第7代当主。貞敦親王第一王子。母は三条実香の娘・藤原香子。 享禄4年(1531年)に親王宣下、翌天文元年(1532年)に元服。 王子女に、貞康親王、邦房親王、常胤法親王、尊朝法親王、最胤法親王など。 墓地は京都市上京区の伏見宮墓地。 Category:日本の親王 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 くにすけ Category:1513年生 Category:1563年没.

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伏見宮邦永親王

伏見宮邦永親王(ふしみのみや くにながしんのう)は、江戸時代中期の皇族。伏見宮第14代当主。伏見宮貞致親王第3王子。 元禄8年(1695年)に、元服、親王宣下。 妃は霊元天皇の第五皇女・福子内親王。王子女に道承入道親王、尊祐法親王、岩宮光子女王(出雲松江藩主松平宣維室)、貞建親王、基宮輔子女王(今出川公詮室)、比宮培子女王(第9代江戸幕府将軍徳川家重室)など。.

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住職

住職(じゅうしょく)は、本来「住持職」と呼ばれている仏教の職名(宗教上の地位)を省略した呼称で、一寺院を管掌する僧侶のこと。.

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余慶

余慶(よけい、延喜19年(919年)- 正暦2年閏2月18日(991年4月5日))は、平安時代中期の天台宗の僧。俗姓は宇佐氏。筑前国早良郡の出身とされるが、一説によれば日向国の出身ともいう。諡号は智弁。観音院僧正とも言われる。墓所は大雲寺(京都市左京区)にある。 比叡山の明仙から天台教学を学び、行誉から灌頂を受けた。979年(天元2年)に園城寺長吏となり、981年(天元4年)には法性寺座主となっているが、円仁の流れを汲む山門派の反対により辞任している。989年(永祚元年)延暦寺座主に就任しているが、これも山門派の反対にあい3ヶ月で辞任している。しかし、同じ年には権僧正に任じられている。当時の宣命(天皇の命令書)の文中には山門派の門徒のことを獅子身中の虫と断じている。円珍の門流である寺門流は余慶によって発展し、その後山門派・寺門派の対立が激しくなるきっかけとなった。 Category:平安時代の僧 Category:天台寺門宗 Category:天台座主 Category:919年生 Category:991年没.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳大寺実盛

徳大寺 実盛(とくだいじ さねもり、応永7年8月5日(1400年8月24日) - 応永35年4月23日(1428年6月6日))は、室町時代の公卿。主に後小松天皇(100代)・称光天皇(101代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで進んだ。父は太政大臣徳大寺公俊。室は右兵衛督持明院基親の娘。子に右大臣徳大寺公有、教覚(天台座主)、尊任(仁和寺大僧正)。 応永11年(1404年)叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・加賀介・右近衛中将・播磨介となり、応永21年(1414年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言をへて、応永28年(1421年)に権大納言に任じられる。応永35年(1428年)に踏歌節会内弁をつとめたが、同年に薨去。享年29。.

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徳大寺公能

徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は平安時代後期の公卿。右大臣正二位右大将。大炊御門右大臣と号す。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の女。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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後奈良天皇

後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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俊堯

俊堯(しゅんぎょう、元永元年(1118年)‐文治2年(1186年))は、平安時代末期の僧侶。第58世天台座主。源義仲の追従者で、明雲の死後に義仲に擁立されて天台座主となった人物。.

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忠尋

忠尋(ちゅうじん、治暦元年(1065年) - 保延4年10月14日(1138年11月18日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は源頼平の子の土佐守檜坂忠季、兄弟は貞頼とする。大谷座主とも称される。佐渡国出身。.

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忠房親王

忠房親王(ただふさしんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の皇族・公卿。親王宣下を受けるまでは源 忠房と記される。順徳天皇の曾孫。正三位・源彦仁の子。臣籍時の官位は従二位・権中納言。.

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土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

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北白川宮能久親王

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、弘化4年2月16日(1847年4月1日) - 明治28年(1895年)10月28日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本の皇族、陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。.

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円仁

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。.

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円珍

円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。.

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円澄

円澄(えんちょう、772年(宝亀3年)- 837年11月27日(承和4年10月26日))は、平安時代前期の天台宗の僧。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。.

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八条宮智仁親王

八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての皇族・歌人。八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた。.

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公弁法親王

公弁法親王(こうべんほっしんのう、寛文9年8月21日(1669年9月16日) - 正徳6年4月17日(1716年6月6日))は、江戸時代の天台宗僧侶。後西天皇の第6皇子、貴宮秀憲親王。出家後、親王宣下を受け法親王となる。 毘沙門堂門跡のほか日光山(東照宮、輪王寺門跡)、東叡山寛永寺貫首、東叡山輪王寺門跡、比叡山延暦寺天台座主を兼任した。一品、准三宮。号は脩礼、玄堂。隠居後は大明院と称した。 狩野常信に書を学び能筆家としても知られる。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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灌頂

頂(かんじょう, abhiṣeka, abhiṣecana)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。本項では密教における潅頂について述べる。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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義真

義真(ぎしん、天応元年(781年) - 天長10年7月4日(833年8月26日))は、平安時代前期の天台宗の僧。俗性は丸子連または丸子部。相模国の出身。修禅大師とも称される。 奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒されて中国語にも通じた。その後は最澄に師事し、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国した。822年(弘仁13年)に最澄が没した後には比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となる。824年(天長元年)初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となった。 著書に『天台法華宗義集』がある。 Category:平安時代の僧 Category:天台座主 Category:大伴氏 Category:中国語通訳 Category:相模国の人物 Category:781年生 Category:833年没.

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真性

真性(しんしょう、仁安2年(1167年) - 寛喜2年6月14日(1230年7月25日))は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての天台宗の僧。後白河天皇の第三皇子以仁王の第二皇子。 1183年(寿永2年)に出家し、比叡山の明雲や慈円、承仁に天台教学を学んだ。後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇と3代に渡り天皇の護持僧をつとめた。1203年(建仁3年)に天台座主に就任し、翌1204年(元久元年)には大僧正に任じられている。その他四天王寺別当をつとめている。 1197年(建久8年)に承仁が没すると、師から城興寺を譲られた。同寺はかつて実父の以仁王が平氏政権によって没収され、明雲に与えられた経緯があった。1230年(寛喜2年)、彼はこの寺で咳病によって没した。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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白川伯王家

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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遷化

遷化(せんげ)は、高僧の死亡を、婉曲的に、かつ、敬っていう語。正しくは遷移化滅(せんいけめつ)で、遷化はその略語。お隠れになるとも表現する。死因については特に問わない。丁寧には御遷化(ごせんげ)という。.

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道元

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。.

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道覚法親王

道覚法親王(どうかくほっしんのう、元久元年(1204年) - 建長2年1月11日(1250年2月13日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての天台宗の僧。父は後鳥羽天皇。母は尾張局。親王宣下後の入道のため、道覚入道親王(どうかくにゅうどうしんのう)とも。 1208年(承元2年)親王宣下を受けて朝仁と称した。1216年(建保4年)出家して慈円・慈賢・真性などに天台教学を学んだ。1247年(宝治元年)に天台座主となり、翌1248年(宝治2年)青蓮院門跡を引き継いでいる。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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行尊

行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。.

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行玄

行玄(ぎょうげん、承徳元年(1097年)- 久寿2年11月5日(1155年12月1日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は藤原師実。母は源師房の娘或いは藤原忠俊(藤原隆家の孫)の娘で、同母弟に尋範がいる。.

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顕真

顕真(けんしん、天承元年(1131年)- 建久3年11月14日(1192年12月20日))は、平安時代後期の天台宗の僧。 号は宣陽房。父は右衛門権佐藤原顕能。母参議藤原為隆娘。 比叡山で天台教学・密教を学んだあと、1173年(承安3年)大原別所に隠棲した。浄土信仰へ傾き1186年(文治2年)勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされるが、参加者については異説もある。翌1187年(文治3年)勝林院で不断念仏をはじめ、1190年(建久元年)には第61代天台座主に就任した。最勝会(『金光明最勝王経』を講じ、国家の安泰を祈願する勅会)の証義もつとめている。1192年(建久3年)、比叡山円融房で没した。 Category:平安時代の僧 Category:天台座主 Category:勧修寺流 Category:1131年生 Category:1192年没.

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西園寺実兼

西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位太政大臣。西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。父は太政大臣西園寺公相、母は大外記中原師朝の娘。.

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西園寺公相

西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。冷泉相国と号す。太政大臣西園寺実氏の二男。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。.

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覚尋

覚尋(かくじん、長和元年(1012年) - 永保元年10月1日(1081年11月4日))は、平安時代中期の延暦寺の僧。父は左馬頭藤原忠経(権大納言藤原道頼の子)。.

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覚快法親王

覚快法親王(かくかいほっしんのう、長承3年(1134年) - 養和元年11月16日(1181年12月23日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は鳥羽天皇。母は美濃局(石清水八幡宮祀官家田中勝清の実妹)。 13歳の時比叡山に上り、行玄大僧正に師事して出家、顕教・密教を兼学した。1150年(久安6年)に権律師となり、翌1151年(久安7年)行玄から伝法灌頂をうけ、法印に任じられた。1160年(永暦元年)宮中において日食の祈祷を行い効験があったという。1170年(嘉応2年)無品親王となり、1177年(治承元年)延暦寺座主明雲が流罪となった跡を受けて座主に就任、法性寺座主も兼任したが、病身のため1180年(治承4年)に職を辞し、青蓮院に隠退した。 京都府京都市西京区大原野小塩町善峯寺内に青蓮院宮廟(墓地)はある。 Category:日本の親王 Category:平安時代の男性皇族 Category:平安時代の僧 Category:天台座主 Category:1134年生 Category:1181年没.

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覚円

覚円(かくえん、長元4年(1031年)- 承徳2年4月16日(1098年5月19日))は、平安時代後期の天台宗の僧。摂政関白太政大臣藤原頼通の子。宇治僧正とも称される。 園城寺明尊のもとで出家し、顕教・密教を学んだ。天喜2年(1054年)権少僧都、天喜3年(1055年)法印、康平6年(1063年)園城寺長吏、康平7年(1064年)平等院第2代執印、康平8年(1065年)大僧正に任じられた。承暦元年(1077年)に天台座主就任の勅許を受けたが、延暦寺門徒の反対により3日で辞任に追い込まれ、代わりに法勝寺初代別当となった。その後は、宮中で修法を行い霊験が著しかったという。宮中や貴族たちの信任が厚く、嘉保3年(1096年)1月には牛車宣旨を賜っている。.

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覚猷

覚猷(かくゆう、天喜元年(1053年) - 保延6年9月15日(1140年10月27日))は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそうじょう)と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。.

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覚恕法親王

覚恕(かくじょ、大永元年(1521年)- 天正2年1月3日(1574年1月25日))は、戦国時代の天台宗の僧。天台座主。父は後奈良天皇。母は壬生雅久の娘伊予局。.

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誠仁親王

誠仁親王(さねひとしんのう、天文21年4月23日(1552年5月16日) - 天正14年7月24日(1586年9月7日))は、安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく早世したが、遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院である。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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鳥獣人物戯画

鳥獣人物戯画(甲巻、部分) 鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。 成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。 作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)が擬されてきたが、それを示す資料はなく、前述の通り各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうかは疑わしい。おそらく歴史上無名の僧侶などが、動物などに仮託して、世相を憂いつつ、ときには微笑ましく風刺したものであろう。 現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利満詮

足利 満詮(あしかが みつあきら)は南北朝時代から室町時代にかけての武将。室町幕府第2代将軍・足利義詮の4男。母は紀良子。同第3代将軍・足利義満の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って満詮と名乗る。.

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鷹司兼平

鷹司 兼平(たかつかさ かねひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、太政大臣。鷹司家の祖。通称は照念院関白(しょうねんいん かんぱく)。関白近衛家実の四男。 暦仁元年(1238年)従二位権大納言兼右近衛大将となる。その後右大臣、左大臣を歴任。建長4年(1252年)摂政・藤氏長者宣下を賜り、太政大臣に任じられた。同6年(1254年)関白となる。一旦辞任するが建治元年(1275年)に再度摂政・藤氏長者となった。正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。 後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大殿」はこの兼平のことだと考えられている。.

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輪王寺

輪王寺 観音堂(旧四本龍寺所在) 輪王寺 大猷院廟唐門 輪王寺 慈眼堂 神橋(二荒山神社所属) 輪王寺 慈眼堂 天海墓 輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。 輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。.

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近衛基通

近衞 基通(このえ もとみち)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。従一位・摂政 関白・内大臣。通称は普賢寺関白(ふげんじ かんぱく)。.

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近衛家基

近衛 家基(このえ いえもと)は、鎌倉時代後期の公卿。近衛基平の長男。右大臣、関白等を歴任した。号に近衛関白。.

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近衛家実

近衞 家実(このえ いえざね)は、鎌倉時代前期の公卿。関白近衛基通の一男で、母は坊城顕信の女・顕子。子には兼経・鷹司兼平などがいる。晩年六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことに因み、猪隈関白(いのくま かんぱく)と呼ばれた。.

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近衛道嗣

近衛道嗣(このえ みちつぐ)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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閑院宮孝仁親王

閑院宮孝仁親王(かんいんのみや たつひとしんのう、寛政4年4月28日(1792年6月17日) - 文政7年2月9日(1824年3月9日))は、江戸時代の皇族。世襲親王家、閑院宮第4代当主。幼名は寿宮(ひさのみや)。 文化5年(1808年)に親王宣下、元服、常陸太守。文政3年(1820年)に式部卿。文政7年(1824年)に一品。.

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閑院宮典仁親王

閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう、享保18年2月17日(1733年4月1日) - 寛政6年7月6日(1794年8月1日))は、江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」(きょうこうてんのう)または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)。 古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。.

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閑院宮直仁親王

閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう、宝永元年9月9日(1704年10月7日) - 宝暦3年6月3日(1753年7月3日))は江戸時代の皇族。弾正尹。准三宮。幼名は秀宮。宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。.

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開祖

開祖(かいそ)とは、学問・学芸上の流派や宗教の創始者。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原俊家

藤原 俊家(ふじわら の としいえ)は平安時代中期の公卿、歌人。右大臣藤原頼宗の次男。正二位・右大臣。大宮右大臣と号す。中御門流の祖であり、子孫からは中御門家(松木家)・持明院家を始めとして、9家の堂上家(羽林家)を出した。.

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藤原俊忠

藤原 俊忠(ふじわら の としただ)は平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。従三位・権中納言。二条を号す。.

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藤原忠経

藤原 忠経(ふじわら の ただつね、生年不詳 - 長和3年(1014年))は、平安時代中期の貴族。藤原北家、権大納言・藤原道頼の子。官位は従四位下・左近衛少将。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原経輔

藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期の公卿。中納言・藤原隆家の次男。.

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藤原頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原能長

藤原 能長(ふじわら の よしなが)は平安時代中期から後期にかけての公卿。右大臣藤原頼宗の四男。.

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藤原重隆

藤原重隆(ふじわら の しげたか、承保3年(1076年) - 元永元年(1118年))は平安時代後期の廷臣。藤原北家勧修寺流の出身で、参議藤原為房の三男。母は源頼国の娘。同母兄に為隆、顕隆がある。右衛門権佐、中宮大進。 堀河朝蔵人、白河院殿上人を務める。殿上人の作法故実書『蓬莱抄』、公事の指図書『雲図抄』を著すなど、識見豊かな官人として活躍した。その一方、その死に際し『中右記』において「心性頗悪、為人有凶」と評されるなど毀誉褒貶も多く、『古今著聞集』には死後冥界において閻魔庁に出仕していたという説話が伝えられている。嗣子はなく、末弟の親隆らを養子に迎えている。 しけたか Category:平安時代後期の貴族 Category:1076年生 Category:1118年没.

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良尚入道親王

良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう、元和8年12月16日(1623年1月16日)- 元禄6年7月5日(1693年8月6日))は、江戸時代前期の京都曼殊院の門跡。父は八条宮智仁親王。母は丹後国宮津藩主京極高知の娘常照院。幼称は二宮。俗名は勝行・寛恒。 曼殊院宮の付弟(ふてい)となり、1632年(寛永9年)後水尾天皇の猶子となった。1634年(寛永11年)8月に親王宣下を受け、9月に曼殊院で得度している。1646年(正保3年)3月には天台座主に任じられ、1656年(明暦2年)現在の京都御所近くにあった曼殊院を洛北一乗寺村へ移転し、伽藍を整備している。1681年(天和元年)には曼殊院の門主に任ぜられて竹之内門跡と称された。1687年(貞享4年)4月に曼殊院を退院して天松院と号した。 絵画を狩野探幽・尚信兄弟に学び、池坊華道を納めて古典に通じるなど文化人としても知られた。.

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良真

良真(りょうしん).

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良源

良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。.

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雅子内親王

雅子内親王(がしないしんのう、延喜10年(910年) - 天暦8年8月29日(954年9月28日))は、第60代醍醐天皇第10皇女。母は更衣・源周子。伊勢斎宮、のち藤原師輔室。西四条斎宮と呼ばれた。同母兄弟に源高明、時明親王、盛明親王、同母姉妹に勤子内親王、郁子内親王(都子内親王とも)、源兼子がいる。子女は藤原高光、藤原為光、尋禅、愛宮。.

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雅成親王

雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日(1200年10月20日) - 建長7年2月10日(1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院の養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。 建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚した。将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、鎌倉幕府打倒を決意していた後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国に流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。 ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに、雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのまま同地で病死して葬られた。 歌人としても優れており、家集『雅成親王集』がある他、『続後撰和歌集』などの勅撰和歌集にも採録されている。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.

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桓守

桓守(かんしゅ、弘安7年(1284年) - 没年不詳)は鎌倉時代後期の僧。太政大臣・洞院公守の子。母は不明。松岡または岡崎を号す。 嘉暦4年(1329年)2月11日、権僧正のときに第117世天台座主に補任されるが、同年10月8日これを辞任している(『華頂要略』)。その後、法務大僧正に至った(『尊卑分脉』)。建武2年(1335年)正月28日には中宮(珣子内親王)の安産を祈って金剛童子法を修している。弟子に桓豪など。没年は不明だが、22日に没したらしい。.

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梨本宮

梨本宮(なしもとのみや)は、伏見宮貞敬親王の第10王子守脩親王が創設した宮家。明治初期に数多く立てられた伏見宮系の新設宮家のうち、唯一邦家親王の兄弟によって創設されている。.

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梨本宮守脩親王

梨本宮守脩親王(なしもとのみや もりおさしんのう、文政2年10月29日(1819年12月16日) - 1881年(明治14年)9月1日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の皇族。梨本宮初代。伏見宮貞敬親王の第10王子。伏見宮邦家親王の弟。王子幼称は、万代宮。.

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梶井義承

義承(ぎしょう)または梶井 義承(かじい ぎしょう)は、室町時代の僧。足利将軍家の一族であり、父は室町幕府第3代将軍・足利義満。母は側室の藤原誠子。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教の異母弟にあたる 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.244。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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法主

法主(ほうしゅ/ほっす)とは、仏教においてその教義を護持してその教えの要となるべき人を指し、転じて宗派(宗門)・教団の最高指導者(首長)を指すようになった。.

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法親王

法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 これに対して、すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した。.

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洞院実泰

洞院 実泰(とういん さねやす)は鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。洞院左大臣または後山本左府と号す。父は太政大臣洞院公守。母は従三位平親継の娘。子に公賢、公敏、実守らがいる。.

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洞院公守

洞院 公守(とういん きんもり)は、鎌倉時代の公卿。同母兄妹に権中納言公宗、亀山天皇皇后佶子(京極院)がいる。亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇の外叔父にあたり、位人臣を極めて従一位・太政大臣に至った。.

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源基平

源 基平(みなもと の もとひら)は、平安時代中期の公卿。御子宰相と号す。.

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源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源隆国

源 隆国(みなもと の たかくに)は、平安時代後期の公卿。醍醐源氏、大納言源俊賢の子。幼名は宗国。官位は正二位権大納言。宇治大納言と称された。.

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源顕仲

源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿、歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の子。.

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源顕雅

源 顕雅(みなもと の あきまさ)は平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。楊梅大納言と号す。.

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源顕通

源 顕通(みなもと の あきみち)は平安時代後期の公卿。太政大臣・源雅実の長男。久我大納言と号す。.

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源有頼

源 有頼(みなもと の ありより、生没年不詳)は、平安時代後期の武士。摂津源氏の流れを汲む僧行延の子。源明国の養子。弟に盛隆があり、義兄に行国、経光がある。源頼氏、慈賢(慈源)らの父。別名は多田四郎。 源実国の孫にあたるが、三井寺の僧であった父行延は実国の弟頼綱(多田頼綱)の養子となっており、有頼は弟と共に頼綱の長子明国(多田明国)の養子となった。官位などは伝わらず詳しい事跡も不明であるが、その別名から多田荘に拠っていたものと考えられる。一子慈賢は源頼政(もしくは源頼兼)の養子となり、のちに天台座主となった。.

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澄覚法親王

澄覚法親王(ちょうかくほっしんのう、承久元年(1219年) - 正応2年(1289年))は、鎌倉時代の天台宗三千院の門跡。父は後鳥羽天皇の皇子雅成親王。母は藤原親経の娘。房号は円融房。.

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末寺

末寺(まつじ)とは、本山の支配下にある寺院のことを指すが、江戸時代の本末制度成立以前においては今日とはやや違った意味を持っている。.

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本山

本山(ほんざん)は、日本の仏教の特定の宗派内に於いて、特別な位置づけをされている寺院を指す。上方本寺とも言う。宗派によっては中枢機能を有する寺院も多い。対義語は末寺。 位置づけによって、総本山、大本山、別格本山、本山などの区別があるほか、宗派によってそれぞれの用法が異なり、使用されない事もある。たとえ、寺院が山中と呼べる場所に無くても「本山」と呼ばれることは多い。 また、日本仏教以外の宗教に於いても、例えば「バチカン市国はカトリックの総本山で…」のように便宜的に、また、日常的に使用される事がある。.

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有栖川宮織仁親王

有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう 宝暦4年7月2日(1754年8月19日) - 文政3年2月20日(1820年4月2日))は、江戸時代の皇族。職仁親王第7王子。有栖川宮第6代当主。徳川慶喜(江戸幕府第15代征夷大将軍)の外祖父。.

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有栖川宮韶仁親王

有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう 天明4年12月19日(1785年1月29日) - 弘化2年2月28日(1845年4月4日))は、江戸時代の皇族。有栖川宮第7代当主。.

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有栖川宮職仁親王

有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう 正徳3年9月10日(1713年10月28日) - 明和6年10月22日(1769年11月19日))は江戸時代の皇族。有栖川宮第5代当主。霊元天皇第17皇子。いわゆる有栖川流書道を創始した。 享保元年(1716年)に、有栖川宮の第4代当主正仁親王が嗣子なく没したため、有栖川宮を相続した。享保11年(1726年)に親王宣下・中務卿となる。寛延2年(1749年)5月に一品に叙せられる。 霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者として知られる。.

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有明親王

有明親王(ありあきらしんのう)は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第七皇子。母は女御源和子。四品・大宰帥。.

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最雲法親王

最雲法親王(さいうんほっしんのう、長治元年(1104年) - 応保2年2月16日(1162年3月3日)は、平安時代中期の天台宗の僧。父は堀河天皇。 比叡山に上り、天台座主仁豪に師事して出家・受戒し、仁実僧正から顕教・密教を学んだ。1156年(保元元年)延暦寺座主に就任し、1158年(保元3年)には僧正に任じられ、親王宣下を受けて法親王となった。同じ年座主の職を辞して山房に閑居、座禅看経の生活を送った。.

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最澄

最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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明尊

明尊(みょうそん、天禄2年(971年)- 康平6年6月26日(1063年7月24日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は兵庫頭・小野奉時で、三蹟・小野道風は祖父にあたる。.

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明快

明快(みょうかい、永延元年(987年)-延久2年3月18日(1070年5月1日))は、平安時代中期の天台宗の僧侶。通称は梨本僧正。藤原魚名の子孫で、父は文章生の藤原俊家とも藤原俊宗ともされる塩入『平安時代史事典』。天台座主や大僧正に任じられた。 幼くして延暦寺に入り、明豪・皇慶・慶命らに顕教・密教を学ぶ。後に東塔の円融房(梶井殿)に住んだことから、「梨本僧正」と呼ばれた。長暦元年(1037年)に後朱雀天皇の護持僧として権律師に任じられ、長久4年(1043年)に権少僧都に進み、永承4年(1049年)に四天王寺別当、同5年(1050年)に権大僧都、同7年(1052年)に法性寺座主となる。天喜元年(1053年)には第32代の天台座主となり、法成寺別当と恵心院検校を兼ねた。同2年(1054年)には大僧都に進み、法印とされた。同3年(1055年)には僧正に任じられ、康平3年(1060年)に大僧正となった。治暦元年(1065年)に大僧正を辞する。 後朱雀・後冷泉の2代の天皇や上東門院に仕え、藤原頼通の正室である源隆姫の戒師を務めるなど、皇室や摂関家からの信頼が厚かった。弟子に覚尋・良真・仁覚・仁豪らがいる。.

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明雲

明雲(みょううん)は、平安時代末期の天台宗の僧。久我顕通の長男。弟に久我雅通。.

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明暦

明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明救

明救(みょうぐ、天慶9年(946年) - 寛仁4年7月5日(1020年7月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は醍醐天皇の皇子有明親王。兄弟に大蔵卿源泰清らがある。.

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日光市

日光市(にっこうし)は、栃木県の北西部に位置する市。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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慶円 (天台宗)

慶円(けいえん/きょうえん・慶圓、天慶7年(944年) - 寛仁3年9月3日(1019年10月3日))は、平安時代中期の天台宗僧侶。天台座主を務めた。「三昧座主」と称された。 藤原南家・播磨守藤原尹文の子で藤原実資の母方の叔父とされているが、他にも尹文の父である大納言藤原道明の子説や、尾張守藤原連実の子説などがある。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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慈眼堂 (大津市)

慈眼堂 堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期) 境内 13体の石仏(安土桃山時代) 慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。.

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慈道法親王

慈道法親王(じどうほっしんのう、弘安5年(1282年) - 興国2年4月11日(1341年4月27日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての法親王。父は亀山天皇。母は平時仲の娘帥典侍。法号は青竜院・十楽院。 1295年(永仁3年)青蓮院に入り、同年親王宣下を受けた。その後法住寺座主・青蓮院門跡となり、1314年(正和3年)以後は3度天台座主に任じられている。またその間四天王寺別当をも務めている。 和歌に秀で、「新後撰和歌集」以下の勅撰和歌集に入集している。また、家集に「慈道親王集」がある。 Category:日本の親王 Category:鎌倉時代の男性皇族 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 Category:鎌倉時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:天台座主 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:1282年生 Category:1341年没.

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慈胤法親王

慈胤法親王(じいんほっしんのう、元和3年3月13日(1617年4月18日)- 元禄12年12月2日(1700年1月21日))は、江戸時代前期から中期にかけての法親王。父は後陽成天皇。母は土佐局中山親子。幼名は清宮。俗名は幸勝。法院号は常修院。.

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承胤法親王

承胤法親王(しょういんほっしんのう、文保元年(1317年)- 天授3年4月9日(1377年5月16日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての法親王。父は後伏見天皇。母は従三位正親町(藤原)守子(権大納言正親町実明女)。光聚院宮とも称される。光厳天皇・光明天皇らの異母兄弟で、同母兄弟に長助法親王・亮性法親王・璜子内親王(章徳門院)がいた。.

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書家

『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。.

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1177年

記載なし。

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1183年

記載なし。

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1192年

記載なし。

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1213年

記載なし。

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1217年

記載なし。

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1238年

記載なし。

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1240年

記載なし。

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1241年

記載なし。

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1259年

記載なし。

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1571年

記載なし。

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1656年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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824年

記載なし。

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