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上杉憲顕

索引 上杉憲顕

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。.

113 関係: 南北朝時代 (日本)南朝 (日本)吉川弘文館太平記室町幕府室町時代守護守護大名宇都宮城宇都宮氏綱宅間上杉家安房国小山城 (下野国)小山義政山内上杉家岩松直国川越城上野国上野頼兼上杉能憲上杉重能上杉氏上杉清子上杉朝定 (二橋上杉家)上杉朝房上杉憲将上杉憲藤上杉憲英上杉憲栄上杉憲房 (南北朝時代)上杉憲春上杉憲方常陸国九州京都延元建武 (日本)建武の新政建武記伊豆の国市伊豆国征夷大将軍徳治後醍醐天皇従五位信濃国応安北畠顕家元弘国清寺...犬懸上杉家石見国甲斐国畠山国清白旗一揆花ヶ前盛明芳賀高名鎌倉鎌倉幕府鎌倉府鎌倉公方鎌倉時代静岡県観応観応の擾乱諏訪氏高師冬高師直高師泰貞和貞治越後国足利基氏足利尊氏足利将軍家足利義詮足利直義足利氏足利氏満興国関東管領薩タ山体制脇屋義治長尾景忠暦応正平 (日本)武将武蔵国民部省河越直重深谷上杉家成良親王斯波家長新人物往来社新田義宗新田義貞文和摂津国扇谷上杉家10月31日1306年1334年1335年1336年1338年1341年1349年1351年1352年1362年1367年1368年9月19日 (旧暦) インデックスを展開 (63 もっと) »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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宇都宮城

宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。.

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宇都宮氏綱

宇都宮 氏綱(うつのみや うじつな、嘉暦元年(1326年) - 建徳元年/応安3年7月5日)(1370年7月28日)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下野宇都宮氏第10代当主。下野、上野、越後3国の守護職を任された。父は宇都宮公綱。母は千葉宗胤の娘。妻は足利高経(斯波高経)の娘。長男(嫡子)に宇都宮基綱、次男に宇都宮氏広(うじひろ)がいる。.

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宅間上杉家

宅間上杉氏(たくまうえすぎし)は、室町時代に勢力を持った上杉氏の一族。上杉重兼を祖とする。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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小山城 (下野国)

小山城(おやまじょう)は栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。 また、関東の富士見百景の一つに選ばれている。.

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小山義政

小山 義政(おやま よしまさ)は、南北朝時代の下野国の武将。小山城主。藤原秀郷流小山氏の第11代当主。小山義政の乱で知られる。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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岩松直国

岩松 直国(いわまつ ただくに)は、南北朝時代の武将。岩松氏当主。岩松氏の中興の祖とされる人物。.

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川越城

川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上野頼兼

上野 頼兼(うえの よりかね『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』P.80「上野頼兼」の項(執筆:伊藤一美)より。、? - 観応2年/正平6年(1351年)9月3日)は、南北朝時代の武将。本姓は源氏、家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の支流上野氏である。 父は上野頼遠(のち頼勝)『尊卑分脉』第3篇 P.261。で、上野氏勝の兄にあたる。子に上野詮兼がいる。法名は以紹。官職は左馬助、右京権大夫。丹後・石見両国の守護。.

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上杉能憲

上杉 能憲(うえすぎ よしのり)は、南北朝時代の武将・守護大名。関東管領。上野国・武蔵国・伊豆国守護。.

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上杉重能

上杉 重能(うえすぎ しげよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。足利尊氏・直義とは従兄弟である。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉清子

上杉 清子(うえすぎ きよこ、文永7年(1270年)? - 興国3年/康永元年12月23日(1343年1月20日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期の女性。本姓は藤原氏。勧修寺流の一流である上杉氏の出身で、父は上杉頼重。足利貞氏の側室。足利尊氏、直義兄弟の母。上杉重顕(扇谷上杉家祖)、上杉憲房、日静の姉妹。上杉憲顕(山内上杉家祖)、憲藤(犬懸上杉家祖)兄弟と上杉重能(宅間上杉家祖)は甥で、山名時氏は従兄弟に当たる。 生年は『三宝院賢俊僧正日記』の興国3年/暦応5年(1342年)2月条に「大方殿 七十三 卯酉」とあり、これにしたがえば逆算して文永7年となる。嘉元3年(1305年)に尊氏を生む。この際、紀伊粉河寺の観音に祈ったことから、後年、延元元年/建武3年(1336年)に粉河寺に戸帳を寄付し、さらに翌年には領地を寄進している。 夫貞氏の没後も足利家を支え、尊氏、直義兄弟が倒幕に動いた際には終始行動をともにした。室町幕府成立後は、実家である上杉家の興隆に力を用いた。 浄妙院殿雪庭と号し、世上は錦小路殿と呼ばれた。また大方禅尼とも呼ばれた。和歌にも通じ、作品が『風雅集』に入選している。法号は果証院殿といい、墓は京都等持院にある。.

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上杉朝定 (二橋上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、南北朝時代の武将。二橋上杉家当主。丹後国守護。.

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上杉朝房

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・信濃国守護。犬懸上杉家2代当主。.

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上杉憲将

上杉 憲将(うえすぎ のりまさ)は、南北朝時代の武将。.

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上杉憲藤

上杉 憲藤(うえすぎ のりふじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。犬懸上杉家の祖。足利尊氏・直義の母方の従弟にあたる。.

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上杉憲英

上杉 憲英(うえすぎ のりふさ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武士。庁鼻和上杉家初代当主。武蔵国庁鼻和城主。.

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上杉憲栄

上杉 憲栄(うえすぎ のりよし)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。越後国守護。越後上杉家の祖。.

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上杉憲房 (南北朝時代)

上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。上杉氏3代当主。室町幕府初代将軍・足利尊氏やその弟・直義の母方の伯父。.

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上杉憲春

上杉 憲春(うえすぎ のりはる)は、南北朝時代の武将・守護大名。関東管領 上野国・武蔵国守護。.

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上杉憲方

上杉 憲方(うえすぎ のりまさ/のりかた)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国・下野国・安房国守護。山内上杉家5代当主。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建武記

建武記(けんむき・建武年間記(けんむねんかんき))とは、建武新政期において出された法令や諸機関の結番交名などを採録・編集した記録。全1巻。 編者は不明である。文書の宛先や写本の奥書から鎌倉幕府・建武政権・室町幕府において法曹官僚であった松田氏・太田氏などが挙げられているが不詳。建武年間から離れていない時期に成立したと考えられている。25の記録類が年代別に編纂されているが、一部の文書の配列が乱れているものがある。なお、著名な「二条河原落書」もこの書に所収されている。.

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伊豆の国市

伊豆の国市(いずのくにし)は、静岡県の伊豆半島北部に位置する市。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳治

徳治(とくじ)は、日本の元号の一つ。嘉元の後、延慶の前。1306年から1307年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇、花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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国清寺

国清寺(こくせいじ)は、仏教寺院の名称。.

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犬懸上杉家

懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。四条上杉家とも呼ばれる。犬懸家は一時期は上杉氏の惣領とも目された名門で、室町時代中期には関東管領となり、下総国を中心に関東全域に影響力を及ぼしたが、上杉禅秀の乱で大きく衰退した。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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畠山国清

山 国清(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。.

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白旗一揆

白旗一揆(しらはたいっき)とは、南北朝時代から室町時代の武蔵国と上野国の国人一揆である。.

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花ヶ前盛明

花ヶ前 盛明(はながさき もりあき、1937年11月2日 - )は、日本の歴史学者、郷土史学者、宮司。元高等学校教諭。.

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芳賀高名

芳賀 高名(はが たかな)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。宇都宮氏の家臣。父は宇都宮景綱の次男で芳賀氏を継いだ芳賀高久。子に高貞、高家(高貞については、実子説と宇都宮貞綱の子を養子とした説がある)。弟に芳賀氏の庶流岡本氏の祖となった岡本富高。出家後に直山禅可という法名を名乗ったことから芳賀 禅可(はが ぜんか)の別名で知られている。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

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高師冬

師冬(こう の もろふゆ、生年不詳 - 正平6年/観応2年1月17日(1351年2月13日))は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵・伊賀守護。高師行(もろゆき)の子で兄弟に高師秋、三戸師澄(もろずみ)。高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)。妻は高師泰の娘明阿。甥(弟・師澄の子)にあたる師親(もろちか)を猶子としている。官位は播磨守、三河守。 従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。 正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。享年は30代か。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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高師泰

師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代の武将。高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利氏満

足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日))。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。.

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興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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薩タ山体制

薩埵山体制(さったやまたいせい)とは、観応の擾乱以後における鎌倉府の体制のこと。若年の鎌倉公方足利基氏を関東執事畠山国清及び薩埵山の戦いで足利尊氏に味方した東国の外様有力武家が支えた。.

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脇屋義治

脇屋 義治(わきや よしはる)は、南北朝時代の武将。脇屋義助の子。新田義貞の甥。.

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長尾景忠

長尾 景忠(ながお かげただ).

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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民部省

民部省(みんぶしょう)は、.

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河越直重

河越 直重(かわごえ ただしげ / なおしげ、生没年不詳)は南北朝時代から室町時代初期の武蔵国の国人。武蔵平一揆の中心人物の一人。武蔵河越氏最後の当主。河越高重の子。河越館城主。弾正少弼。相模守護。.

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深谷上杉家

深谷上杉家(ふかやうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。 扇谷上杉家と共に武蔵国を割拠していたが、扇谷上杉家の上杉朝定が北条氏康に敗れ滅亡し、後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、憲英から数えて7代目の憲盛の代に、後北条氏に降伏した。 以後は後北条氏の傘下となったが、憲盛長男の氏憲の代に小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われた。氏憲は子息の憲俊と共に信州に隠居したが、憲俊はのちに池田輝政に取り立てられて岡山藩士となった。 また、憲盛の次男・吉次の子孫は500石の旗本となり江戸幕府に仕えた(深谷氏)。幕末の子孫である上杉盛房(深谷盛房)は、1837年(天保8年)に66歳で勘定奉行、1844年(弘化元年)に73歳で大目付(役高3000石)に昇進、1854年(安政元年・83歳6月)に83歳になるまで勤めた。 庶流に深谷氏、小久保氏、久下氏、市田氏。代表的な家臣には岡谷氏、秋元氏、井草氏、上原氏らがいる。.

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成良親王

成良親王(なりよししんのう、なりながしんのう、嘉暦元年(1326年) - 興国5年/康永3年1月6日(1344年1月21日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。同母兄弟に恒良親王、義良親王(後村上天皇)がいる。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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斯波家長

斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義宗

新田 義宗(にった よしむね)は、南北朝時代の武将。新田義貞の三男。 生母は義貞の正室、小田真知の娘。生年は諸説がある。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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10月31日

10月31日(じゅうがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から304日目(閏年では305日目)にあたり、年末まであと61日ある。10月の最終日である。.

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1306年

記載なし。

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1334年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1341年

記載なし。

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1349年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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1362年

記載なし。

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1367年

記載なし。

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1368年

記載なし。

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9月19日 (旧暦)

旧暦9月19日は旧暦9月の19日目である。六曜は先負である。.

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