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高雲

索引 高雲

雲(こう うん、不詳 - 409年)は、五胡十六国時代の後燕の皇帝、または北燕の初代天王。高句麗の王族の出身。 後燕では慕容会の反乱を鎮圧する等の武功を立てて慕容宝の養子となり、慕容雲(ぼよう うん)と名乗った。407年、暴君の慕容熙を殺すと、馮跋に擁立されて燕王となり、高姓に戻した。409年、近臣に殺されて馮跋が政権を継いだ『晋書』巻125「慕容雲載記」。 『三国史記』には、黄帝の孫、顓頊高陽氏の子孫であるという考えゆに「高」姓を付けたとあり、中国の英雄顓頊高陽氏の子孫だとしていた。.

39 関係: 天王好太王三崎良章三国史記五胡十六国時代後燕北燕北魏センギョク前燕国史編纂委員会遼東郡馮弘馮跋高句麗資治通鑑黄帝金光林 (歴史学者)苻訓英東アジア文化交渉学会東方書店楽浪郡正始 (北燕)慕容宝慕容会慕容コウ慕容策慕容熙慕容詳慕容部晋書2002年355年397年406年407年408年409年

天王

天王(てんのう・てんおう).

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好太王

好太王(こうたいおう、374年 - 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。 王の即位年について、好太王碑文では前述の通り辛卯年(391年)とするが、『三国史記』高句麗本紀や同書・年表、また『三国遺事』王暦においては壬辰年(392年)の即位としており、1年の差異が見られる。これにより、治績年や死去年についても1年の差異があるが、本稿においては、干支表記年は好太王碑文によるものとし、干支を伴わない表記年は『三国史記』によるものとする。 『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六によると、好太王は、自分たち高句麗王は黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していたp30。.

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三崎良章

三崎 良章 (みさき よしあき、1954年 - )は、日本の歴史学者、教員。東アジア史専攻。埼玉県深谷市出身。.

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三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。.

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五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

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後燕

後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。.

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北燕

北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 - 436年)。 鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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センギョク

顓頊。 顓頊(せんぎょく)は、『史記』に記される帝王で、名は高陽。あるいは、高陽に都して高陽氏と称したと言われている。五帝の1人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。顓は耑に頁、頊は王に頁。 父は昌意、母は蜀山氏の女の昌僕である。昌意は黄帝の子なので顓頊は黄帝の孫となる。子に窮蝉(舜の六世の祖)、五世の孫に鯀がいる。帝位を嚳に譲る。末裔にがおり、戦国時代の秦・趙はこの子孫。 『史記』 五帝本紀 史記五帝本紀には、「依鬼神以制義、治氣以教化、絜誠以祭祀」とあり、鬼神を信奉しており、物忌みして祭祀を執り行った帝として記される。また、「靜淵以有謀、疏通而知事」とあり、物事に通じ、物静かで奥ゆかしい人柄であるとされている。 顓頊は、民間の人々が神と関わる事を厭い、孫の重黎(祝融)に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、神と人との別を設けさせたという。 『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六によると、高句麗王は、自分たちは黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していたp30。.

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前燕

前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.

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国史編纂委員会

国史編纂委員会(こくしへんさんいいんかい、국사편찬위원회)は、朝鮮の歴史を研究する為に設置された大韓民国の国家機関。 1946年3月に、申奭鎬らが朝鮮史編修会の資料を引き継ぐ形で、「国史館」を景福宮緝敬堂に設置したことが始まり。その後、「国史館」は1949年7月に「国史編纂委員会」として職制を改編し、大韓民国教育部の傘下に設置された。.

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遼東郡

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''遼東郡'''の位置 遼東郡(りょうとう-ぐん、)は、かつて中国に存在した郡。現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当する。.

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馮弘

馮 弘(ふう こう)は、五胡十六国時代の北燕の第3代天王。 漢人で、晋の長楽郡信都県の出身。馮跋の弟。父は馮安。もとは中山公となっていた。馮跋の病が篤くなると、妾の宋氏が後継者の馮翼を差し置いて我が子を即位させようと謀った。馮弘はこの対立につけこんで宋氏を殺し実権を握ると、それを知った馮跋がショックのあまり急逝した。そこで馮弘は天王となり、馮翼ら馮跋の子全員を殺害した。 南朝宋へ入朝し、燕王に封ぜられた(435年 - 436年)。 北魏の攻撃を受けて国は滅び、436年(太興6年)に高句麗に亡命したが、北魏の圧力を受けた高句麗によって438年に殺害された。.

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馮跋

馮 跋(ふう ばつ)は、五胡十六国時代の北燕の第2代天王。 漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てた。慕容雲が近臣に殺された後、馮跋が北燕の天王の位についた。南朝宋へ入朝した。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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資治通鑑

『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.

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黄帝

帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年).

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金光林 (歴史学者)

金 光林(きん こうりん、1963年 - )は、中華人民共和国出身の日本の歴史学者。新潟産業大学教授。専門は比較文化、東アジア文化史。.

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苻訓英

苻 訓英(ふ くんえい、? - 407年)は、五胡十六国時代の後燕の昭文帝慕容熙の皇后。姉の苻娀娥は慕容熙の昭儀(死後に皇后を追贈)である。.

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東アジア文化交渉学会

東アジア文化交渉学会(Society for Cultural Interaction in East Asia)は、人文学知を総合して東アジアの文化諸現象をトータルに把握して、解明することを目的とする学会組織。北京・上海・台北・ソウルに連絡所が存在し、中国、日本、韓国、台湾、香港など東アジア諸国・地域の研究者が所属している。.

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東方書店

東方書店(とうほうしょてん)は、東京都にある中国関係書籍専門書店、中国関係図書出版社。 1951年(昭和26年)、前身の極東書店が操業開始。1966年に極東書店から中国部門が分離独立して東方書店(株)を創立。当初から日中出版文化の交流が目的であった。 本店は神田神保町にあり、日本国内の代表的中国関係書籍専門書店である。大阪府吹田市には関西支社がある。 出版部門は、中国語や韓国語の辞典・テキスト・参考書、中国をテーマとする東方選書、教養啓蒙書・専門書など幅広い出版活動を行っている。 1975年9月に創刊した月刊誌『東方』は東方書店のPR誌であるが、毎号学術面に重点を置いた中国関係図書書評および中国関連エッセイを掲載し、中国関係学術情報の重要な媒体となっている。.

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楽浪郡

楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する)。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く韓氏がこれに次ぎ、この二氏でかなりの率を占めていた。.

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正始 (北燕)

正始(せいし)は、五胡十六国時代、北燕(または後燕)の君主高雲(慕容雲)の治世で使用された元号。407年7月 - 409年10月。 高雲は北燕の君主とされるが、後燕の最後の君主とする説も存在する。.

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慕容宝

慕容 宝(ぼよう ほう、拼音:Mùróng Bǎo)は、五胡十六国時代の後燕の第2代皇帝。初代皇帝慕容垂の第4子。 慕容宝は慕容垂から後燕の膨大な領土を受け継いだが、その大部分を在位の数年のうちに北魏によって失った。北魏に反撃する道中で部下の反乱に遭い、簒奪した蘭汗によって殺されたが、子の慕容盛が蘭汗を斬って後を継いだ。慕容宝は優柔不断で軍事、政治的な決断ができなかったという『晋書』巻124「慕容宝載記」。.

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慕容会

慕容 会(慕容 會、ぼよう かい、? - 397年)は、五胡十六国時代の後燕の恵愍帝慕容宝の庶出の次男。.

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慕容コウ

慕容 皝(ぼよう こう、)は、五胡十六国時代の前燕の初代王。字は元真。昌黎郡棘城県の人。鮮卑慕容部の大人で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁、慕容昭、慕容評、慕容幼などがいる。.

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慕容策

慕容 策(ぼよう さく、386年 - 398年)は、五胡十六国時代の後燕の恵愍帝慕容宝の太子。諡号は献哀太子。母は恵徳皇后段氏。.

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慕容熙

慕容 熙(ぼよう き、拼音:Mùróng Xī)は、五胡十六国時代の後燕の第4代皇帝。 慕容垂の子で、慕容盛の死後即位した。絢爛豪華な龍騰苑を築くなど散財し、皇后の苻訓英に溺れて国財を傾けたため暴君とされる『晋書』「慕容熙載記」巻124。407年に苻皇后が死に、葬りに龍城を去ると慕容雲(高雲)に都を奪われて殺された。高雲は後燕の最後の皇帝とも、北燕の初代天王ともされるが、後者の場合慕容熙が後燕最後の皇帝となる。.

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慕容詳

慕容 詳(ぼよう しょう、? - 建始元年(397年))は、五胡十六国時代の後燕の僭称皇帝(在位:397年)。燕文明帝慕容皝の曾孫。.

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慕容部

慕容 部(ぼよう ぶ、拼音:Mùróng bù)は、4世紀前半より5世紀中期にかけて、中国の東北方、遼東・遼西地方より、華北地方にかけての地域で勢力を有した鮮卑系の部族である。五胡十六国時代には前燕、後燕、西燕、南燕の各王朝を建国した。慕容氏とも呼ばれる。.

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晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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355年

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397年

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406年

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407年

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408年

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409年

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