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薩州家

索引 薩州家

薩州家(さっしゅうけ)は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。 島津宗家8代当主である島津久豊の次子、用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の名前は用久が薩摩守を称したことに由来する。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。一時は半独立状態にあったが、5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられている山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(初出:『青山学院大学文学部紀要』第28号(1986年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5)が、最終的には同じく分家の伊作家に敗北した。以後は島津宗家となった伊作家に従う。7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣秀吉の九州平定に対しては、伊作家系宗家よりも先に降伏した。朝鮮出兵に際し豊臣秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が朝鮮在陣中に病死したため、薩州家はその所領を失った。.

30 関係: 守護大名島津季久島津実久島津久豊島津忠兼 (薩州家)島津忠国島津忠隣島津忠辰島津忠興 (薩州家)島津忠良島津忠清島津勝久島津国久島津立久島津義虎島津用久島津歳久島津氏三葉忠継九州平定伊作家入来院重高入来院氏頴娃氏豊臣秀吉薩摩国薩摩国司朝鮮文禄・慶長の役改易

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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島津季久

島津季久(しまづ すえひさ、応永22年(1413年) - 文明9年6月27日(1477年8月6日))は、室町時代中期の薩摩の人。薩摩島津氏の分家、豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊。 豊州家初代当主。島津宗家8代久豊の三子。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452 - 1455)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。 応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が起きると、九州でも東西両軍に別れ争いが繰り広げられた。島津宗家第10代当主の島津立久は東軍についたが、季久は西軍に属していた。他家同様どちらが勝利してもよい様にという考えからであった。 忠国・立久親子にはよく仕えたが、第11代当主である島津忠昌の時に肥後方面の戦略について忠昌と対立。帖佐で挙兵すると、本家の居城清水城に迫った。忠昌はこれにより伊集院一宇治城に避難している。しかし同じくして乱を起こした相州家の島津友久が忠昌に敗れると恭順。文明9年(1477年)死去。享年65。 法号 柱道題橋 晩年、季久は豊州家の菩提寺として総禅寺(現姶良市)を建立したが、完成を待たずして病死する。遺骸は一時近くの雲門寺に埋葬され、完成後に総禅寺に改装されたと伝えられている。 Category:室町時代の人物 すえひさ Category:1413年生 Category:1477年没.

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島津実久

島津 実久(しまづ さねひさ)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家5代当主。.

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島津久豊

島津 久豊(しまづ ひさとよ)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第8代当主。6代当主・島津氏久の次男で元久の弟。母は佐多忠光の娘。子に忠国、用久、季久、有久、豊久。 応永8年(1401年)頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。その後、応永10年(1403年)に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永17年(1410年)に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0。 応永18年(1411年)8月に兄が死去、甥の仲翁守邦は出家していたため、兄から後継者に決められていた甥の伊集院煕久が継承することになった。だが、久豊は閏10月になって鹿児島に乗り込んで元久の位牌を奪取した上で煕久を追放し8代当主となった。久豊の強引なやり方により国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになり、伊集院頼久(久氏の子で煕久の父)と衝突した。久豊には穆佐城に近く元久時代に権力を振るった伊集院氏を嫌う大隅・日向の一門・家臣が、頼久には薩摩の一門・家臣及び大隅の肝付兼元が支持し、更に総州家の島津久世もが頼久を支援した。さらに応永19年(1412年)には義兄である伊東祐立が離反して久豊の居城であった日向の穆佐城を奪って妹である久豊室と2人の息子(忠国・友久)を捕らえようとしたが、落城寸前に樺山教宗・北郷知久が久豊の妻子を救出した 。 一時苦戦したが、応永23年(1416年)に和睦を名目に鹿児島に呼び出した久世を討ち取る。しかし、久世を騙し討ちにしたことは久豊の心にも重くのしかかり、この年に出家して存忠と称している。翌応永24年(1417年)に和睦が成立。伊集院頼久とその盟友である伊作久義・勝久父子は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。また、応永25年(1418年)には市来氏と入来院氏も久豊に従い、戦いの焦点は久豊の奥州家と島津守久(久世の父)・忠朝兄弟が依然として抵抗を続ける総州家との争いに絞られていく 。 応永28年(1421年)に島津忠朝を降伏させて総州家に伝わる島津宗家の文書を接収するとともに総州家の拠点である薩摩郡を平定、また伊作氏と久豊派国人との所領争いを仲介して薩摩半島の安定化にも成功した。翌応永29年(1422年)に島津守久及び久林(久世の嫡男)を肥後に追放して総州家・奥州家の両島津氏の抗争も終結させた 。室町幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねた事を認め守護職を与えた。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。 応永30年(1423年)、伊東氏に報復するために日向への出兵を行い、大淀川以南を奪還して一旦は薩摩へ帰国する。だが、この年に病を発した久豊は2年後の応永32年(1425年)に鹿児島で病没した。享年51。 家督は嫡男の忠国が継いだ。また後に、次男の用久が薩州家、三男の季久が豊州家、四男の有久が羽州家(後に大島氏)、五男の豊久が伯州家(後に義岡氏・志和地氏)をそれぞれ興した。.

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島津忠兼 (薩州家)

島津 忠兼(しまづ ただかね、大永4年(1524年)? - 永禄8年7月8日?(1565年8月12日?))は、戦国時代の島津家一門。薩州島津家4代当主島津忠興の三男。5代当主島津実久の弟。幼名は近久。源三郎。常陸介。常陸守。野田領主。神号は若宮大明神。.

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島津忠国

島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫、陸奥守。法名は大岳玄誉。.

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島津忠隣

島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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島津忠辰

島津 忠辰(しまづ ただとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家7代(最後の)当主。.

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島津忠興 (薩州家)

島津 忠興(しまづ ただおき)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家4代当主。 文明18年(1486年)、薩州家3代当主・島津成久(重久とも)の子として誕生。 明応9年(1500年)、薩州島津家に内乱が起き、敵対する島津忠福(太田氏祖・島津延久の次男または羽州家・島津有久の子か)の拠る加世田城を攻め、忠福に加勢した島津久逸(島津忠良の祖父)を討ち取った。.

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島津忠良

島津 忠良(しまづ ただよし)は薩摩の戦国武将。日新斎(じっしんさい)の号で知られる。.

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島津忠清

島津 忠清 (しまづ ただきよ、元亀2年(1571年) - 元和6年1月5日(1620年2月8日))は、薩摩国島津氏庶流(薩州家)の武将。通称は又助。官位は備前守。父は島津義虎。母は御平(島津義久の娘)。 義虎の三男として誕生する。しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎五男)、忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられる。そこで行長の家臣である皆吉続能の娘・立野殿(洗礼名カタリナ、小西行長の元側室)を娶り、長女と長男を授かった。この妻は再婚であり、連れ子として娘(妙)がおり、喜入忠政の後室となっている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に小西行長が処罰され、宇土を召し上げられると、忠清は加藤清正を頼るべく熊本に入ったが、慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久、北郷久直、島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上するが、のちに忠清の死後、妻は隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となる(堅野カタリナ)。 元和6年(1620年)に病没した。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫・新納久珍の次男である新納久基が継いだ。.

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島津勝久

島津 勝久(しまづ かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の大名。島津氏第14代当主。.

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島津国久

島津 国久(しまづ くにひさ)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家2代当主。 嘉吉2年(1442年)、薩州家初代当主・島津用久の長子として誕生。 島津宗家11代当主・島津忠昌と対立し、所領の出水で叛旗を翻す。国久は大隅国の国分方面に侵攻したが、忠昌が救援に出向いたため撤退。手薄になった加世田を占領する。同時期に国久に応じるように豊州家の島津季久・相州家の島津友久が反乱を起こす。友久は鎮圧され季久も降伏するが、国久は出水で勢力を保っていた。 文明16年(1484年)、伊作家の島津久逸が忠昌に背き鹿児島に侵攻すると、忠昌に従い鹿児島の守備についている。また季久の子で豊州家2代当主・忠廉が久逸と時を同じくして反乱を起こすとこれを説得。味方につけて共に久逸を攻撃、久逸の反乱を治めている。こうして一種の半独立状態にあった薩州家だったが、明応7年(1498年)、国久が没すると跡目を巡り御家騒動が勃発。各分家を巻き込む騒乱となった。.

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島津立久

島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。 父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治・樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。 日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作家を伊作城から櫛間城へ、新納家を志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。 文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。 文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を市来雲竜寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。.

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島津義虎

島津 義虎(しまづ よしとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家6代当主。薩摩出水の領主。.

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島津用久

島津 用久(しまづ もちひさ)は、室町時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家初代当主。出水亀ヶ城主。.

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島津歳久

島津 歳久(しまづ としひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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三葉忠継

三葉 忠継(みつば ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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伊作家

伊作家(いざくけ)は、薩摩国の守護大名、島津氏の分家。 鎌倉時代の島津宗家3代当主、島津久経の次子、島津久長より始まる。 代々薩摩国阿多郡伊作荘(現在の鹿児島県日置市吹上地域の中心部)の地を領したことからこの名がついた。伊作氏ともいう。室町時代中期に断絶したが薩摩守護である島津氏の9代当主・島津忠国の庶子島津久逸が養子に入り継承した。 10代当主の伊作忠良の長子・伊作貴久は薩摩守護の島津勝久を退け島津宗家を称した。織豊時代以降の島津氏当主(薩摩藩主)は、この「久逸系伊作家」の流れである。.

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入来院重高

入来院 重高(いりきいん しげたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。元は島津氏庶流の薩州家出身だが、後に頴娃氏、入来院氏を称した。.

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入来院氏

入来院氏(いりきいんし、いりきいんうじ)は、桓武平氏、秩父氏の流れを汲む日本の氏族。渋谷氏の支流。.

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頴娃氏

頴娃氏(えいし)は、日本の氏族。 伴姓肝付氏の庶流。鎌倉時代に頴娃地方を支配していた平姓頴娃氏と区別される。初代兼政は肝付河内守兼元の次男で、島津久豊の養子に迎えられ、応永27年(1420年)に頴娃の地を与えられた。永禄元年(1558年)に8代久音が薩摩国谷山に移封されるまで頴娃の地を治めた。 * * Category:日本の氏族 Category:九州地方の氏族 Category:薩摩国の氏族.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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薩摩国司

薩摩国司(さつまこくし)は、薩摩国の国司。薩摩守、薩摩介、薩摩大掾、薩摩少掾、薩摩大目、薩摩少目の各1人で構成される。.

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朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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