ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

蕭望之

索引 蕭望之

蕭 望之(しょう ぼうし、? - 紀元前46年)は、前漢の政治家。字は長倩。東海郡蘭陵県の人で、後に京兆尹杜陵県に移る。.

36 関係: 劉向史高太子太傅宣帝 (漢)少府左馮翊丞相司直中書令丙吉京兆尹弘恭御史大夫周公旦儀礼 (経書)元帝 (漢)前漢皇太子石顕神爵紀元前46年紀元前59年顔師古詩経論語魏相霍光録尚書事蘭陵県蕭何東海郡杜陵県 (陝西省)梁 (南朝)斉 (南朝)政治家

劉向

劉 向(りゅう きょう、紀元前77年(元鳳4年) - 紀元前6年(建平元年))は、前漢の学者、政治家。はじめの名は更生、字は子政。多数の著作者で知られる。劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。.

新しい!!: 蕭望之と劉向 · 続きを見る »

史高

史 高(し こう、? - 紀元前42年)は、前漢の人。字は子長。元は魯国の人だが杜陵に遷る。宣帝の祖母である史氏の兄の史恭の子。.

新しい!!: 蕭望之と史高 · 続きを見る »

太子太傅

太子太傅(たいしたいふ)は前漢以降の官職名。官秩は前漢では二千石で、後漢になると官秩が中二千石となった。 太子少傅と共にいにしえの官を引き継いだものとされ、皇太子の師となって教え導くことが職務とされた。 『続漢書』百官志によると太子太傅は属官を持たず、太子門大夫、庶子等の属官は太子少傅に属した。.

新しい!!: 蕭望之と太子太傅 · 続きを見る »

字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

新しい!!: 蕭望之と字 · 続きを見る »

宣帝 (漢)

宣帝(せんてい)は、前漢の第9代皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。.

新しい!!: 蕭望之と宣帝 (漢) · 続きを見る »

少府

少府(しょうふ)とは、中国の官名である。.

新しい!!: 蕭望之と少府 · 続きを見る »

左馮翊

左馮翊(さひょうよく)は、かつて中国に存在した行政区画。前漢から後漢にかけて、現在の陝西省西安市および渭南市一帯に設置され、当時の都城である長安付近の県を管轄した。 また左馮翊は当該行政区画を監督する官名でもある。官名としては京兆尹、右扶風とともに三輔を構成した。県の統治を行う点では郡と同格であるが、人口が多くまた前漢においては畿内を管轄したことから参議にも参加し、宰相候補生の適性を見る場にもなる顕職であった。.

新しい!!: 蕭望之と左馮翊 · 続きを見る »

丞相司直

丞相司直(じょうしょうしちょく)は古代中国の官名。単に「司直」とも言う。 前漢、後漢に置かれ、丞相府に属して官僚の監察を行うことを職責とした。官秩は比二千石(『漢書』百官公卿表上)。 武帝元狩5年に設置された。司隷校尉のような他の監察官を含む官僚の監察弾劾を行った。官僚の席次では司隷校尉のよりも上であった(『漢書』翟方進伝)。 哀帝元寿2年に丞相が大司徒に改称されてからは大司徒司直と呼ばれ、王莽が簒奪し新の時代となっても存在し続けた。 更始帝政権や光武帝政権でも存在したが、光武帝の建武18年に廃止された(『続漢書』百官志1)。 後漢末期、建安8年に復活した。司徒に属せず、中央政府の官を監察した(『続漢書』百官志1注引『献帝起居注』)。 魏以降は史上に見えない。.

新しい!!: 蕭望之と丞相司直 · 続きを見る »

中書令

中書令(ちゅうしょれい)は、中国の漢代から明代にかけて存在した官職名。 漢代の中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長であり宦官が就任し、宦官となった司馬遷も就任した。宣帝以降側近として重用され、中書令の弘恭や石顕が権力を握った。しかし成帝の時に廃止された。 その後、魏の文帝の時代に復活し、宦官ではない皇帝の側近が就任した(孫資、李豊など)。さらに、中書令の役所である中書省が創設された。当初、中書省の長官は中書監といわれ、中書令はその次官であった。西晋期の官吏目録に中書監に荀勗、中書令に和嶠という記録がある。 隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。 宋代になると名誉職となっていたが、元代には名前だけを流用されて行政の最高職になった。その後、皇帝独裁を目指す明の洪武帝によって廃止された。 Category:中国の官名.

新しい!!: 蕭望之と中書令 · 続きを見る »

丙吉

丙 吉(へい きつ、? - 紀元前55年)は、前漢の政治家。字は少卿。宣帝擁立の功労者として丞相の地位に昇った。.

新しい!!: 蕭望之と丙吉 · 続きを見る »

京兆尹

京兆尹(けいちょういん)は古代中国の官職名。京師近郊を管轄する行政長官の官名として使用され、漢代にはその統括する行政区画の名称でもあった(行政区画に関しては別項を参照)。.

新しい!!: 蕭望之と京兆尹 · 続きを見る »

弘恭

弘 恭(こう きょう、生没年不詳)は前漢の宦官。字は不明、沛の人。 若いときに法律に触れて腐刑(宮刑)にされ、中黄門となり、中尚書(中書)に選ばれた。宣帝の時に中書令となり、中書僕射の石顕と共に有能さを称えられた(『漢書』佞幸伝)。 宣帝より元帝の輔弼を任された蕭望之らと対立し、蕭望之を自殺に追い込んで宦官による支配体制を維持した。 『漢書』佞幸伝によると元帝即位から数年で死亡したという。 Category:漢代の人物 Category:中国の宦官.

新しい!!: 蕭望之と弘恭 · 続きを見る »

御史大夫

御史大夫(ぎょしたいふ)は、古代中国の官職名であるが、日本においても短期間であるが採用されたことがある。副丞相とも呼ばれた。 一般には、御史台の長官で、官僚の監察を行うとされているが、秦漢時代に於いては、監察業務はその下に置かれた、御史と称される官僚が行い、御史大夫は副宰相格として、或いは皇帝の側近の筆頭として、政策立案を司っていたようであり、その管轄する官署は御史府と称されていた。 景帝、武帝の時代頃から、皇帝の権威・権勢が強まると、相対的に行政執行官であり、官僚の最高ポストでもある丞相の権威が低下して名誉職の色合いが濃くなった。そこで皇帝の側近筆頭たる御史大夫が、宰相の役割を果たすようになった。 この時期の御史大夫として、鼂錯や張湯がよく知られる。 だが、この状況も長くは続かず、外戚等の新たなる皇帝の側近勢力が、領尚書事として、政治の中枢に参与。これにより、彼等が政治の実権を握ることとなった。 日本では天智天皇の時代に一時期大臣に次ぐ官職名として採用されたが、壬申の乱によって近江朝廷が崩壊すると廃止された。大宝律令以後の律令制における大納言に相当するが、天皇近侍の官としての要素も含まれたとされている。なお、律令制下においては弾正尹の唐名として用いられた。 category:中国の官名.

新しい!!: 蕭望之と御史大夫 · 続きを見る »

周公旦

周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。.

新しい!!: 蕭望之と周公旦 · 続きを見る »

儀礼 (経書)

儀礼(ぎらい)は儒教の経書の一つ。礼について記す。十三経の一つであり、『礼記』『周礼』と共に三礼の一つである。前漢、魯の高堂生が伝えた『士礼』(しらい)17篇とされ、漢代、五経の一つ礼経として重視された。『儀礼』の名は晋代から始まる。周公旦制定や孔子編纂説がある。 周の階級秩序は王・諸侯・卿・大夫・士であり、『儀礼』は士に関する礼を中心とするが、一部、大夫礼と諸侯之礼が含まれている。 日本語版は池田末利訳註で全5巻で東海大学出版会より出されている。.

新しい!!: 蕭望之と儀礼 (経書) · 続きを見る »

元帝 (漢)

元帝(げんてい)は、前漢の第10代皇帝。.

新しい!!: 蕭望之と元帝 (漢) · 続きを見る »

前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

新しい!!: 蕭望之と前漢 · 続きを見る »

皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

新しい!!: 蕭望之と皇太子 · 続きを見る »

石顕

石 顕(せき けん、生没年不詳)は、前漢の人。字は君房。済南の人。 若い頃に罪があり宮刑に処せられ宦官となった。中黄門となって中書に選ばれた。宣帝は中書の宦官を重用し、宦官の弘恭を中書令、石顕を中書僕射とした。 宣帝が死亡し元帝の世になると、元帝は政務より音楽を好み、石顕ら宦官を信用し、政治を任せた。 前将軍蕭望之、宗正劉更生、光禄大夫周堪らが石顕らの排除を狙うと、彼らを陥れ、蕭望之を自殺、劉更生や周堪を罷免に追い込んだ。 元帝が即位して数年で弘恭が死ぬと、石顕が中書令になった。太中大夫張猛、魏郡太守京房、御史中丞陳咸、待詔賈捐之らが元帝に石顕の短所を述べて排除を狙ったが、石顕は彼らの罪を探し出し、京房と賈捐之は処刑され、張猛は自殺に追い込まれ、陳咸は髠刑に処せられた。こういったことから大臣たちも石顕を恐れるようになった。 石顕はまた少府五鹿充宗や中書僕射牢梁、御史中丞伊嘉といった者と交友関係を持ち、付き従う者は高い地位に昇った。彼らが石顕によって地位を得た様を世間では「牢よ石よ、五鹿は客よ。印はなんと多いことよ。綬はなんと長いことよ」と歌った。 石顕はまた左将軍馮奉世が、子の馮野王ともども大臣として有名であり、娘は後宮で元帝の寵愛を受けていることから、彼らを味方にしようとし、馮奉世の子の馮逡を元帝に推薦した。馮逡は石顕が権力をほしいままにしていることを述べ、元帝は激怒して彼を郎に戻した。このことがあって、後に御史大夫の後任を選ぶ時、大臣が馮野王を推薦した際、元帝が石顕に尋ねると、「寵姫の兄である馮野王を選べば、後世の者は陛下が寵姫の親族を贔屓して三公にしたのだと思うでしょう」と答えたため、元帝は馮野王を選ばなかった。 石顕はわざと宮門が閉じた後の夜間に出入りすると元帝に申し出ておいて、後から石顕が夜間に勝手に宮門を開けて出入りしたと告発する者がいた。石顕は元帝に対し「私を嫉妬して陥れようとする者がいるのです。大役をおおせつかりながら皆を喜ばせることが出来ず、天下から恨まれておりますので、役目を返上して後宮の掃除夫にしていただいて私を生かしていただければ幸いです」と言い、元帝に憐れみを催させ、慰労と恩賞を賜った。 世間で儒者の蕭望之を殺したことが批判されているのを知ると、儒者の歓心を買うため、儒者の貢禹と親交を結び、彼を推薦して御史大夫にまで至らしめた。これにより世間では石顕を称え、蕭望之を妬んだのではないのだと思うようになった。 元帝の晩年、定陶王(劉康)が寵愛を受け皇太子の地位を脅かしたが、石顕は皇太子を支持した。しかしその皇太子(成帝)が即位すると、石顕を長信中太僕に左遷し、数ヵ月後には丞相匡衡らが石顕の旧悪を告発した。石顕や牢梁、陳順らの一党は罷免され、石顕は妻子と共に故郷に戻る道中で憂いのあまり食を取らず死亡した。また五鹿充宗は玄菟太守、伊嘉は雁門都尉となり、この様を世間では「伊は雁門に、鹿は玄菟に。牢と陳とは価値が無いので取り去った」と歌った。.

新しい!!: 蕭望之と石顕 · 続きを見る »

神爵

爵(しんしゃく)は、中国、前漢の宣帝劉詢の治世に行われた4番目の元号。紀元前61年 - 紀元前58年。.

新しい!!: 蕭望之と神爵 · 続きを見る »

紀元前46年

紀元前46年は、ローマ暦の最後の年である。暦の調整のため、445日間あった。この年にユリウス暦が導入されたが、適用されたのは紀元前45年からである。.

新しい!!: 蕭望之と紀元前46年 · 続きを見る »

紀元前59年

紀元前59年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: 蕭望之と紀元前59年 · 続きを見る »

顔師古

師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者である。本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)、諱は籀、師古は字である。.

新しい!!: 蕭望之と顔師古 · 続きを見る »

詩経

『詩経』(しきょう、)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。 西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。 現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。.

新しい!!: 蕭望之と詩経 · 続きを見る »

論語

『論語』(ろんご、)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。 四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志に「」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。) 別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。.

新しい!!: 蕭望之と論語 · 続きを見る »

魏相

魏 相(ぎ しょう、? - 紀元前59年)は、前漢の政治家。字は弱翁。 済陰郡定陶県の出身で、後に平陵に移住した。易経を学んで郡の卒史から賢良に挙げられ、茂陵令となった。茂陵は大いに治まったという。 河南太守に昇進し、豪族も憚る厳格な統治を行なった。しかし丞相田千秋(車千秋)が死亡した時、洛陽武庫令を務めていた車千秋の子が、父という後ろ盾をなくして魏相に罪で囚われるのを恐れて辞職したことが当時の権力者霍光の不興を買い、魏相は獄に下される。しかし河南郡の卒で長安で働いていた者3000人ほどが、自分達がもう1年働くことで魏相の罪を贖ってほしいと霍光に申し出、同じく河南郡でも1万人にも及ぼうかという者が魏相のために嘆願書を出していた。刑が決せずに冬を過ぎたため、許されて獄を出ることができた。 その後、再度茂陵令となる。次いで揚州刺史となり、郡国を監察して多くの者を退けた。 そこで魏相は親交のあった丙吉(霍光の部下)から「もう少し自重し、能力を見せないほうが良い」と言われ、厳格さを多少抑えることにしたという。 2年後に諫大夫になり、再び河南太守に昇進した。数年後、宣帝が即位すると大司農となり、翌年には御史大夫に昇進した。 霍光が死ぬと、息子の右将軍霍禹や兄の孫の領尚書事霍山らが権力を握っていたが、魏相は宣帝の舅である平恩侯許広漢を通じて宣帝に霍禹らを排除すること、及びそれまで領尚書事が上奏文を皇帝より先に検閲していたことを止めるよう進言した。 宣帝はその進言を納れ、魏相に給事中を加えた(内朝に入り皇帝の側仕えをすることを指す)。 宣帝は魏相の進言に従い霍光の息子たちを退け始め、また丞相韋賢が引退すると魏相を後任の丞相とした。霍光の息子たちは魏相を恨み、魏相を殺して宣帝を廃位するというクーデターを計画したが発覚し、誅殺された。霍光の息子たちを排除して宣帝が親政を始めると、魏相はその丞相として臣下を統率した。 魏相はこれまでの賈誼、鼂錯、董仲舒といった名臣の上奏などを再編集して施行したり、陰陽の調和を図ることを進言するなどの実績を挙げた。 また、丞相府の部下が各地に派遣されて戻ってきた後に各地の異聞や賊、天変地異などを報告させ、郡国が報告していないものなどがあれば上奏した。 魏相は紀元前59年(神爵3年)に死亡した。 Category:漢代の人物 Category:紀元前59年没.

新しい!!: 蕭望之と魏相 · 続きを見る »

霍光

霍光(三才図会より) 霍 光(かく こう、? - 紀元前68年、Huò Guāng)は、前漢の政治家。昭帝・宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟、霍禹の父、上官皇后の祖父。字は子孟。.

新しい!!: 蕭望之と霍光 · 続きを見る »

録尚書事

録尚書事(ろくしょうしょじ)は、中国後漢代から魏晋南北朝時代に存在した官職。尚書を束ねる役職として政権を握り、宰相職としてあったが、隋代に廃止された。 尚書省・尚書令なども合わせて参照のこと。.

新しい!!: 蕭望之と録尚書事 · 続きを見る »

蘭陵県

蘭陵県(らんりょう-けん)は中華人民共和国山東省臨沂市に位置する県。.

新しい!!: 蕭望之と蘭陵県 · 続きを見る »

蕭(しょう)は、漢姓のひとつ。『百家姓』の99番目。南北朝時代の南斉および梁の国姓である。 2007年の公安部の統計によると、中華人民共和国で33番目に多い姓だった。第二次漢字簡化方案で「肖」と書き換えたことがあったため、その時代に生まれた人の身分証明書では「肖」と記される。改姓の手続きが困難であるため、「肖」のままで定着することが多い。.

新しい!!: 蕭望之と蕭 · 続きを見る »

蕭何

蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。.

新しい!!: 蕭望之と蕭何 · 続きを見る »

東海郡

東海郡(とうかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省臨沂市と江蘇省北部、および安徽省天長市にまたがる地域に設置された。.

新しい!!: 蕭望之と東海郡 · 続きを見る »

杜陵県 (陝西省)

---- 杜陵県(とりょう-けん)は、紀元前65年から紀元3、4世紀頃まで中国にあった県である。前漢の都長安の南東郊外にあり、これは現在の陝西省西安市雁塔区三兆邑西北にあたる。前身は秦の杜県。前漢のとき宣帝の陵墓杜陵を築くことになり、杜陵県に改称した。新代の一時期饒安県と改称したがすぐに戻され、晋代には杜城県と改称した。北魏のときまた杜県と改称し、北周のとき廃止になった。.

新しい!!: 蕭望之と杜陵県 (陝西省) · 続きを見る »

梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.

新しい!!: 蕭望之と梁 (南朝) · 続きを見る »

斉 (南朝)

斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。.

新しい!!: 蕭望之と斉 (南朝) · 続きを見る »

政治家

政治家(せいじか)とは、職業として政治に携わっている者のことである。.

新しい!!: 蕭望之と政治家 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »