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葛尾城

索引 葛尾城

葛尾城(かつらおじょう)は、信濃国埴科郡(長野県埴科郡坂城町)にあった日本の城。山城。.

48 関係: 埴科郡坂城町塩崎氏塩田城天正天文 (元号)小諸城山城山浦景国屋代城屋代氏川中島川中島の戦い上田城上田原の戦い上杉謙信上杉景勝井戸宇右衛門徳川秀忠信濃川信濃国北信元亀砥石崩れ真田幸隆真田信繁荒砥城高梨氏関ヶ原の戦い長野県松代城村上義清村上氏根知城森忠政武田信玄江戸時代戦国時代 (日本)戸石城於フ子日本の城日本の城一覧慶長1553年1565年1572年1582年1600年

埴科郡

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坂城町

坂城町(さかきまち)は、長野県の埴科郡(はにしなぐん)の町。本項では町制前の名称である坂城村(さかきむら)についても述べる。.

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塩崎氏

塩崎氏(しおざきし)は日本の氏族の一つ。紀伊国潮岬を発祥とする津守系/桓武平氏系が多い。津守系が滅亡後、桓武平氏系が起こった。信濃国塩崎氏は清和源氏小笠原系。その他、藤原系、楠木系とその名を継続している。.

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塩田城

塩田城(しおだじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市前山)にあった日本の城である。長野県指定史跡。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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小諸城

小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市にある日本の城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。.

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山城

山城(やまじろ、やまじょう)は、険阻な山を利用して築かれた城の一種。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つ。 ヨーロッパの山城(ドイツ・マルクスブルク城).

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山浦景国

山浦 景国(やまうら かげくに)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の家臣。.

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屋代城

屋代城(やしろじょう)は、長野県千曲市屋代にあった日本の城。.

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屋代氏

屋代氏(やしろし)は、河内源氏(清和源氏)の村上氏の支流で、信濃国埴科郡屋代郷(現長野県千曲市)を本拠地とした一族。.

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川中島

川が合流する 犀川(右) 川中島(かわなかじま)は、長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名。.

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川中島の戦い

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.

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上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城である。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって寛永年間に再建築城されたものである。.

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上田原の戦い

上田原の戦い(うえだはらのたたかい)は、天文17年2月14日(1548年3月23日)に信濃国上田原(長野県上田市)で行なわれた、甲斐国の戦国大名武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫した。上田原は、千曲川南岸に展開する段丘平野で、現在は上田原古戦場として保存されている。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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井戸宇右衛門

井戸 宇右衛門(いど うえもん)は、安土桃山時代の武将。斎藤氏、森氏の家臣。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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信濃川

新潟市の河口部(写真左(西)は日本海)写真上(北)から、阿賀野川、信濃川、関屋分水。 信濃川(新潟県十日町市) 信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流である。新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼるとと呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ記述する。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。 流域面積11,900km2は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。 千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市・小諸市周辺を島崎藤村(千曲川旅情のうた、小諸なる古城のほとり)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現:中野市)周辺を高野辰之(朧月夜、故郷)が歌にしている。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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北信

北信(ほくしん、きたしん).

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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砥石崩れ

砥石崩れ(といしくずれ、戸石崩れ)とは、天文19年(1550年)9月に信濃国小県郡(長野県上田市)の砥石城(戸石城)において、甲斐国の戦国大名・武田晴信(信玄)と北信濃の戦国大名・村上義清との間で行われた合戦。.

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真田幸隆

真田 幸隆 / 幸綱(さなだ ゆきたか / ゆきつな)は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。 幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。.

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真田信繁

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。.

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荒砥城

荒砥城(あらとじょう)は、信濃国更級郡(長野県千曲市)にあった日本の城。山城。別名、新砥城。.

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高梨氏

梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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長野県

長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.

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松代城

松代城(まつしろじょう)は、長野県長野市松代町松代にある日本の城跡である。元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。.

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村上義清

村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。.

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村上氏

村上氏(むらかみし)は、日本の氏族。複数の系統があり、血縁関係にある氏族もあれば、無関係な氏族もある。.

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根知城

根知城(ねちじょう)は、新潟県糸魚川市根知谷区に位置する、日本の城(複合型山城)である。.

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森忠政

森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸石城

戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡。.

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於フ子

於フ子(おふね、生年不詳 - 天文22年(1553年))は、戦国時代の武将村上義清の側室。信濃国中野城主高梨澄頼の娘。 北信濃で村上義清と並んで勢力を誇った高梨政頼の姉妹にあたる。嫁いだ正確な時期は不明だが、天文19年(1550年)高梨政頼と村上義清が和睦しているので、あるいはその直後とも考えられる。天文22年(1553年)村上氏本城の葛尾城が武田信玄によって陥落すると、城から千曲川対岸にある東国寺を目指して脱出し北へ走る。途中千曲川にぶつかるが、機転を利かせた船頭によって対岸に渡ることに成功し、お礼に自らの笄を渡したという(笄の渡し)。その後、夫の戦死の報を聞いて、子とともに千曲川に身投げしたと伝わる(しかし義清戦死は誤報だった)。自害の手段については異説も存在する。また途中で敵兵に見つかって惨殺されたとも、高梨館に落ち延びて自害はしなかったという伝説も伝わっている。 しかし、この時代の女性の風俗は髪を束ねて後ろに長く垂らしており笄を必要としていない。髷を結い笄を身につけるのは江戸時代からの風習であるので、伝説は江戸時代の創作とする説がある。 また千曲川に面する葛尾城の麓は高い崖が連なっていたとされ、この崖下の流れの浅瀬を選んで渡っていたことから「高崖の渡し」と言うのが本来とされる。それが落城伝説とのこじつけで変化した、との言い伝えも存在している。 Category:戦国時代の女性 (日本) Category:1553年没 Category:村上氏 Category:高梨氏.

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日本の城

日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 姫路城(世界遺産・現存天守) 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。.

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日本の城一覧

日本の城の一覧(にほんのしろのいちらん)は、日本の城(および朝鮮半島の倭城)の都道府県ごとの一覧索引である。財団法人日本城郭協会が選定した100名城の一覧については「日本100名城」を参照のこと。また、天守を主とする「画像」の一覧については、「日本の城の画像」を参照のこと。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1553年

記載なし。

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1565年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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1582年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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