ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

小諸城

索引 小諸城

小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市にある日本の城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。.

98 関係: 城下町しなの鉄道あの夏で待ってる千曲川旅情の歌史料大名大井光忠大手門天守天正天文 (元号)安土桃山時代寛永小田原征伐小諸市小諸市動物園小諸市立小山敬三美術館小諸市立小諸義塾記念館小諸市立郷土博物館小諸市立藤村記念館小諸駅小諸藩小諸藩牧野氏の家臣団小海線山本勘助島崎藤村上田城市街地下曾根浄喜仙石忠政仙石秀久佐久市依田信蕃徳川家達徳川氏後北条氏信濃川フジテレビジョンソメイヨシノサザエさん元和 (日本)元禄石垣神流川の戦い種田山頭火箕輪城縄張り織田信長群馬県牧野康重...牧野康済牧野氏道家正栄菅沼正貞青山氏高峰高原高崎市軍師黒田基樹関ヶ原の戦い重要文化財長享長野県酒井氏若山牧水東御市東日本旅客鉄道松平氏村田修三桐紋武田信玄武田信豊 (甲斐武田氏)武田勝頼江戸時代滝川一益木曾義昌本能寺の変戦国時代 (日本)戌の満水明治浅間山日本100名城日本の城日本の城一覧日本さくら名所100選政教分離原則懐古神社扁額曲輪1487年1554年1582年1590年1622年1626年1702年1742年2006年 インデックスを展開 (48 もっと) »

城下町

山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.

新しい!!: 小諸城と城下町 · 続きを見る »

しなの鉄道

しなの鉄道株式会社(しなのてつどう、)は、長野県上田市常田一丁目3番39号に本社を置く第三セクター鉄道事業者。北陸新幹線の開業に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)から1997年(平成9年)と2015年(平成27年)にそれぞれ経営分離された長野県内の並行在来線を経営している。 本項では、しなの鉄道が運行している観光列車「ろくもん」についても記述する。.

新しい!!: 小諸城としなの鉄道 · 続きを見る »

あの夏で待ってる

『あの夏で待ってる』(あのなつでまってる)は、J.C.STAFFによる日本のオリジナルテレビアニメ作品。2012年1月から3月まで放送された。キャッチコピーは「その夏の思い出が、僕達の永遠になる」。略称は「なつまち」または「あの夏」。.

新しい!!: 小諸城とあの夏で待ってる · 続きを見る »

千曲川旅情の歌

『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は、島崎藤村の詩。この詩に作曲した歌曲も有名である。 明治38年(1905年)に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされる。詩に歌われた小諸城址は、跡地の一隅が懐古園として整備され歌碑が建立されている。 幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでもたびたび放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。.

新しい!!: 小諸城と千曲川旅情の歌 · 続きを見る »

史料

史料(しりょう、Quellen、Source, historical materials)は、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。.

新しい!!: 小諸城と史料 · 続きを見る »

大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

新しい!!: 小諸城と大名 · 続きを見る »

大井光忠

大井 光忠(おおい みつただ)は、戦国時代の武将。信濃国鍋蓋城城主。大井光照の嫡子。.

新しい!!: 小諸城と大井光忠 · 続きを見る »

大手門

大手門(おおてもん)とは、日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる。.

新しい!!: 小諸城と大手門 · 続きを見る »

天守

天守(てんしゅ)とは、日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物の名称。日本の建築学の学術用語である。俗語は天守閣(てんしゅかく)。ヨーロッパの城の象徴的建築である「keep tower」の日本語訳として使われることもある。後述するが、建物の用途については諸説ある。.

新しい!!: 小諸城と天守 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 小諸城と天正 · 続きを見る »

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

新しい!!: 小諸城と天文 (元号) · 続きを見る »

安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

新しい!!: 小諸城と安土桃山時代 · 続きを見る »

寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 小諸城と寛永 · 続きを見る »

小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

新しい!!: 小諸城と小田原征伐 · 続きを見る »

小諸市

小諸市(こもろし)は、長野県東部に位置する市。小諸藩の城下町であった。.

新しい!!: 小諸城と小諸市 · 続きを見る »

小諸市動物園

小諸市動物園(こもろしどうぶつえん)は、長野県小諸市にある市立の動物園である。.

新しい!!: 小諸城と小諸市動物園 · 続きを見る »

小諸市立小山敬三美術館

小諸市立小山敬三美術館(こもろしりつこやまけいぞうびじゅつかん)は長野県小諸市にある美術館。.

新しい!!: 小諸城と小諸市立小山敬三美術館 · 続きを見る »

小諸市立小諸義塾記念館

小諸市立小諸義塾記念館(こもろしりつこもろぎじゅくきねんかん)は長野県小諸市にある博物館。1994年に小諸市に寄贈された戦前の私塾「小諸義塾」の本館校舎を館施設とし、当時の資料を展示する施設である。.

新しい!!: 小諸城と小諸市立小諸義塾記念館 · 続きを見る »

小諸市立郷土博物館

小諸市立郷土博物館(こもろししりつきょうどはくぶつかん)は、長野県小諸市にある小諸市に関する博物館。2009年より一般公開は休止し、団体の希望がある場合のみ開館する。現在古文書を中心とした郷土資料の研究を実施している。 小諸市の自然、歴史、生活文化に関する資料を収集し、市内の遺跡より出土した縄文時代より中世の品々や、農耕具や養蚕用品、寄贈された品の展示、映像による解説等を行う。.

新しい!!: 小諸城と小諸市立郷土博物館 · 続きを見る »

小諸市立藤村記念館

小諸市立藤村記念館 小諸市立藤村記念館(こもろしりつとうそんきねんかん)は、長野県小諸市の懐古園内に、詩人・作家島崎藤村の顕彰を目的に設立された文学館、設計は谷口吉郎。.

新しい!!: 小諸城と小諸市立藤村記念館 · 続きを見る »

小諸駅

小諸駅(こもろえき)は、長野県小諸市相生町一丁目にある、しなの鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。しなの鉄道とJR東日本の共同使用駅で、駅管轄はしなの鉄道が行っている。.

新しい!!: 小諸城と小諸駅 · 続きを見る »

小諸藩

小諸藩(こもろはん)は、信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に存在した藩。藩庁は小諸城に置かれた。.

新しい!!: 小諸城と小諸藩 · 続きを見る »

小諸藩牧野氏の家臣団

小諸藩牧野氏の家臣団(こもろはんまきのしのかしんだん)は、元禄15年(1702年)に、越後国与板の陣屋から、小諸城主に栄転して、明治4年(1872年)廃藩置県まで存続した小諸藩牧野氏の家臣団である。小諸藩主牧野氏は、三河国宝飯郡牛久保城主を発祥とする徳川譜代・越後長岡藩主牧野氏の完全な支藩であるため、その家風は、本藩を見習うことが定められていた。その家風とは、「参州牛久保之壁書」と呼ばれる"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"などを家訓として掲げたものである。 以下は門閥諸士(小諸四天王家=加藤・稲垣・真木・牧野)をはじめとする重臣家系の盛衰を中心に解説し、全家臣団の概要を掲載する。.

新しい!!: 小諸城と小諸藩牧野氏の家臣団 · 続きを見る »

小海線

| 小海線(こうみせん)は、山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。「八ヶ岳高原線」の愛称が付けられている。.

新しい!!: 小諸城と小海線 · 続きを見る »

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる平山(2006)、p.44。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年( 1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている「山本菅助」文書については後述。。.

新しい!!: 小諸城と山本勘助 · 続きを見る »

島崎藤村

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂馬籠。越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。しかし藤村本人は、「信州人」意識を強く持っている。(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。 『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。.

新しい!!: 小諸城と島崎藤村 · 続きを見る »

上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城である。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって寛永年間に再建築城されたものである。.

新しい!!: 小諸城と上田城 · 続きを見る »

市街地

市街地(しがいち)とは、家屋、商業施設や商店・商店街が密集した土地、区域をさす言葉。市区町村内で比較的大きい街や町のことを指す。農村的地域の対義としては「都市的地域」の語があり、国勢調査に用いられる区分としてDID(人口集中地区)の語がある。 消防水利では、市街地を「消防力の基準」(平成12年消防庁告示第1号)第2条第1号に定義しており、建築物の密集した地域のうち、平均建ぺい率がおおむね10%以上の街区がひと固まりとなり人口1万人以上となっている区域とした。また、1万人以上の区域がなくても、人口千人以上の区域(準市街地)が近接して複数ある場合は、市街地とすることとしている。 以下に、各法令や行政において用いられる関連用語について列挙する。.

新しい!!: 小諸城と市街地 · 続きを見る »

下曾根浄喜

下曾根浄喜(しもそね じょうき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、御一門衆。通称は源六郎、受領名は出羽守、号は岳雲軒浄喜。実名は不詳だが、諱を信恒とする所伝がある。 下曾根氏は武田氏庶流で、甲斐守護武田信重の子賢信を祖とする武田氏庶流の一族。『甲陽軍鑑』に拠れば浄喜は足軽大将衆として同心衆30騎・足軽50人持で、永禄2年(1559年)に譜代家老春日虎綱の後任として信濃小諸城代となったという。 浄喜は武田氏からの書状で名字を省略されており、武田姓使用を許可された一門待遇を受けていたと考えられている。 『甲乱記』に拠れば、天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては、同年3月16日に小諸城に逃れた武田信豊を討ち、その首を織田信長に進上するが、誅殺されたという。.

新しい!!: 小諸城と下曾根浄喜 · 続きを見る »

仙石忠政

仙石 忠政(せんごく ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名、信濃小諸藩の第2代藩主。のちに信濃上田藩の初代藩主。出石藩仙石家2代。.

新しい!!: 小諸城と仙石忠政 · 続きを見る »

仙石秀久

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。 豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え(上田市立博物館)、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。.

新しい!!: 小諸城と仙石秀久 · 続きを見る »

佐久市

佐久市(さくし)は、長野県東信地方の市であり、群馬県との県境に位置する。東信地方第二の都市、また佐久地域の中心都市である。 岩村田(いわむらだ)、中込(なかごみ)、野沢(のざわ)といった集落があり、中心街はそれぞれに分散する。古くは中山道と佐久甲州街道との交点であり、宿場町として発達し、岩村田藩ならびに田野口藩の陣屋町としての側面もあった。.

新しい!!: 小諸城と佐久市 · 続きを見る »

依田信蕃

依田 信蕃(よだ のぶしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。.

新しい!!: 小諸城と依田信蕃 · 続きを見る »

徳川家達

德川 家達(徳川 家達、とくがわ いえさと、1863年8月24日 - 1940年6月5日)は、徳川宗家の16代当主。もとは田安徳川家の7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助といった。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。.

新しい!!: 小諸城と徳川家達 · 続きを見る »

徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

新しい!!: 小諸城と徳川氏 · 続きを見る »

後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

新しい!!: 小諸城と後北条氏 · 続きを見る »

信濃川

新潟市の河口部(写真左(西)は日本海)写真上(北)から、阿賀野川、信濃川、関屋分水。 信濃川(新潟県十日町市) 信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流である。新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼるとと呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ記述する。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。 流域面積11,900km2は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。 千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市・小諸市周辺を島崎藤村(千曲川旅情のうた、小諸なる古城のほとり)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現:中野市)周辺を高野辰之(朧月夜、故郷)が歌にしている。.

新しい!!: 小諸城と信濃川 · 続きを見る »

フジテレビジョン

株式会社フジテレビジョン(Fuji Television Network, Inc.)は、関東広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送の特定地上基幹放送事業者。また、フジテレビONE・フジテレビTWO・フジテレビNEXTの衛星一般放送を行う衛星一般放送事業者でもある。産経新聞や扶桑社などとともにフジサンケイグループに属する フジサンケイグループ。 略称は、開局から現在に至るまで正式に定められたことがなくフジネットワークの加盟局一覧にも略称の表記がない。なおOX仙台放送も略称表記がない。、後述の通りコールサイン「JOCX-DTV」(東京 21ch)から一般的に用いられるCX(シーエックス)が半ば公式略称の様相を呈している。通称はフジテレビ、フジただし、地上デジタル放送のEPGと『あしたのジョー』(第1作)での制作クレジットは、正式社名のフジテレビジョンと表示。。 FNNフジニュースネットワーク、FNSフジネットワーク(フジテレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDはアナログ親局8chから「8」。.

新しい!!: 小諸城とフジテレビジョン · 続きを見る »

ソメイヨシノ

メイヨシノ(染井吉野、学名: Cerasus ×yedoensis (Matsum.) Masam.

新しい!!: 小諸城とソメイヨシノ · 続きを見る »

サザエさん

東京都世田谷区、桜新町駅前に設置されているサザエさん一家の銅像(フグ田サザエ・フグ田タラオ) 東京都世田谷区、桜新町駅前に設置されているサザエさん一家(フグ田家)の銅像(フグ田サザエ・フグ田タラオ・フグ田マスオ) 『サザエさん』は、長谷川町子による日本の漫画、およびそれを原作とするテレビアニメ。また、その主人公である「フグ田サザエ」の呼び名である。.

新しい!!: 小諸城とサザエさん · 続きを見る »

元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

新しい!!: 小諸城と元和 (日本) · 続きを見る »

元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

新しい!!: 小諸城と元禄 · 続きを見る »

石垣

石垣(いしがき、stone fence、stone wall)は、石を組み上げて作られた壁、もしくは柵のこと。「石積み」「石塁(せきるい)」も同様に用いられる。.

新しい!!: 小諸城と石垣 · 続きを見る »

神流川の戦い

流川の戦い(かんながわのたたかい)は、天正10年6月16日(1582年7月5日)から6月19日(同7月8日)にかけて、織田信長が本能寺の変によって敗死した後、織田方の滝川一益と北条氏直・北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦い。戦国時代を通じて関東地方でもっとも大きな野戦とも言われている。.

新しい!!: 小諸城と神流川の戦い · 続きを見る »

種田山頭火

山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一(たねだ しょういち)。『種田山頭火』(講談社現代新書363).

新しい!!: 小諸城と種田山頭火 · 続きを見る »

箕輪城

箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城(平山城跡)で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。.

新しい!!: 小諸城と箕輪城 · 続きを見る »

縄張り

縄張り(なわばり)あるいはテリトリー(territoriality)とは、動物個体あるいはグループが、直接に防衛するかあるいは信号を通じて他個体を排斥し、排他的に占有する地域のことである。縄張りを作ることを、縄張り行動という。日本語のこの言葉自体は日本人が古来土地の所有権を示すために縄を張った事に由来するものである。 動物にとっての縄張りは個体や集団の防衛、食料の確保、繁殖の成功などを容易にする機能を持つ。人間の場合、それ以外にも聖と俗、身分の上下など、価値を区切る役割を持つ文化的な制度である。 脊椎動物や節足動物には様々な縄張りを持つものがある。変わったところでは、海岸の岩の上に付着する巻き貝類(餌の藻類を栽培するカサガイ類)でも、縄張り行動をするものが知られている。縄張り行動は、動物行動学のみならず、個体群の構造に関わる問題なので、個体群生態学の問題でもある。.

新しい!!: 小諸城と縄張り · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 小諸城と織田信長 · 続きを見る »

群馬県

群馬県(ぐんまけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方の北西部に位置する。県庁所在地は前橋市。 米麦栽培・養蚕・繊維工業などの伝統産業に加え、畜産・野菜栽培・機械工業が盛んで、県北西部は温泉・保養地であるとともに、利根川上流ダム群による電力・上水道供給地となっている。県南東部は都市化が進み、首都圏整備法の都市開発区域に指定され、工業地域を形成している。.

新しい!!: 小諸城と群馬県 · 続きを見る »

牧野康重

牧野 康重(まきの やすしげ、延宝5年9月22日(1677年10月18日) - 享保7年11月28日(1723年1月4日))は、越後与板藩の第3代藩主、信濃小諸藩の初代藩主。越後長岡藩分家牧野家3代。 下野足利藩主(のち常陸笠間藩主)本庄宗資の五男。母は隠俊実(五摂家・二条家の家司)の娘。正室は小倉藩主小笠原忠雄の娘(小倉新田藩主・小笠原真方の養女)。子に康周(長男)、六角広安(次男、六角広豊の養子)、康徳(四男)、娘(柳生俊峯正室のち水野忠之正室のち大島義苗室)、娘(小笠原定政正室)。官位は従五位下、周防守。 幼名は伊弥吉。大蔵。先代藩主牧野康道の長男の康澄が早世したため、貞享5年(1688年)7月29日に康道の養嗣子となる。元禄2年(1689年)7月3日の康道の隠居により跡を継いだ。元禄9年(1696年)12月22日に叙任する。元禄15年(1702年)9月12日、5000石加増の上で信濃小諸藩に移封された。享保7年(1722年)11月28日に死去し、跡を長男の康周が継いだ。 牧03 Category:小諸藩主 Category:譜代大名 Category:北小路本庄氏 やすしけ Category:1677年生 Category:1723年没.

新しい!!: 小諸城と牧野康重 · 続きを見る »

牧野康済

牧野 康済(まきの やすまさ)は、信濃小諸藩の第10代(最後)の藩主。越後長岡藩分家牧野家12代。別名康民。.

新しい!!: 小諸城と牧野康済 · 続きを見る »

牧野氏

牧野氏(まきのし)は、日本の氏族。譜代大名・諸侯・華族に列した家系ほか、さまざまな系統がある。.

新しい!!: 小諸城と牧野氏 · 続きを見る »

道家正栄

道家正栄(どうけ まさひで、生没年未詳)は戦国時代の武将。道家氏。通称は、彦八郎。滝川一益の甥『佐久郡其儘草』。.

新しい!!: 小諸城と道家正栄 · 続きを見る »

菅沼正貞

菅沼 正貞(すがぬま まささだ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。長篠菅沼氏6代目当主。菅沼貞景の子。長篠城を築いた菅沼元成の玄孫。通称、新九郎。 三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の支族で、長篠城を有する長篠菅沼氏に生まれた。永禄12年(1569年)1月に父・菅沼貞景が討死。若年で家督を継いだため、大叔父・菅沼満直の後見を受ける。 元亀2年(1571年)に本家・田峯菅沼氏が武田信玄に与したとき、一度はこれに抗ったため、武田軍の天野景貫と交戦に及んだという。戦後、武田軍の先遣・秋山虎繁(信友)は、使者を遣わして長篠菅沼氏などを懐柔した。 正貞の意思は、家康への従属を貫くものであったが、大叔父・菅沼満直に牛耳られた家中は、本家からの使者に同調して武田信玄の靡下に入る事を望んだ。以後は、本家・田峯菅沼氏と、その縁戚・奥平氏と共に山県昌景の与力に組み込まれる。奥三河で進退を共にする誓いを立てたこの3家は山家三方衆と呼ばれる存在と成り、武田軍の手先として三州・遠州の各地を転戦した。 元亀4年(1573年)7月末には、武田軍が信濃国経由で帰国した間隙を衝く徳川家康によって居城・長篠城を攻囲される。この時、武田信豊を主将とした武田の救援軍が三河まで到達していたとされる。しかし、連絡路を遮断され援軍の存在を知らなかったためか、城方では、信豊たち援軍の到来を待たずして同年8月には開城降伏を選択。正貞は一命を奪われる事無く、北へ逃れて武田の援軍に合流した。ところが信豊たち来援の武田首脳部では、正貞が家康に内通していると疑念を抱いており、証拠物件を挙げようとする。内通疑惑は真実であったが、幸いにも証拠は出なかった。それでも、首脳部の疑念を晴らすには至らず、正貞の身柄は信濃小諸城にまで運ばれ、幽閉されてしまう。 天正10年(1582年)、武田氏滅亡の前後で獄中死したとされる。 正貞の妻も小諸城に軟禁されており、小諸で男子を出産したという。武田氏滅亡後、乳飲み子を伴って家康に対し赦免を要求し、容認された。その後、乳飲み子は長じて菅沼正勝と名乗り、徳川頼宣付けとなった。.

新しい!!: 小諸城と菅沼正貞 · 続きを見る »

青山氏

青山氏(あおやまし、あおやまうじ)は、日本の氏族。.

新しい!!: 小諸城と青山氏 · 続きを見る »

高峰高原

峰高原(たかみねこうげん)は、上信越高原国立公園や湯の丸・高峰自然休養林に属しており、浅間連峰の北側に位置し、長野県小諸市の北部にある標高2,000mの高原地帯である。車坂峠を中心とした比較的なだらかな地形。6月から9月にかけて、高山植物が多く見られる。 スキー場など各種レジャー施設があり、冬も賑わっている。.

新しい!!: 小諸城と高峰高原 · 続きを見る »

高崎市

崎市(たかさきし)は、関東地方の北西部、群馬県中部よりやや南西に位置する中核市。1900年(明治33年)の市制施行当時の区域は旧:群馬郡。現在の市域は、旧:群馬郡・碓氷郡・甘楽郡・多野郡(多胡郡・緑野郡)の区域で構成される。中核市に指定されており、群馬県内では最大の人口を擁する都市である。.

新しい!!: 小諸城と高崎市 · 続きを見る »

軍師

軍師(ぐんし)は、軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者のことである。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。 知将、策士などとも言われる。.

新しい!!: 小諸城と軍師 · 続きを見る »

黒田基樹

黒田 基樹(くろだ もとき、1965年4月 - )は、日本の歴史学者、駿河台大学法学部教授。専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開する。.

新しい!!: 小諸城と黒田基樹 · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 小諸城と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

新しい!!: 小諸城と重要文化財 · 続きを見る »

長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

新しい!!: 小諸城と長享 · 続きを見る »

長野県

長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.

新しい!!: 小諸城と長野県 · 続きを見る »

酒井氏

酒井氏(さかいし)は、日本の氏族のひとつ。三河国の在地領主から、徳川政権下で譜代大名となった氏族である。.

新しい!!: 小諸城と酒井氏 · 続きを見る »

若山牧水

若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。.

新しい!!: 小諸城と若山牧水 · 続きを見る »

東御市

東御市(とうみし)は、長野県の市。市名は、旧東部町の「東」と旧北御牧村の「御」の各1文字を取ったものである。.

新しい!!: 小諸城と東御市 · 続きを見る »

東日本旅客鉄道

東日本旅客鉄道株式会社(ひがしにほんりょかくてつどう、)は、1987年4月1日に、日本国有鉄道(国鉄)から鉄道事業を引き継いだ旅客鉄道会社の一つ。通称はJR東日本(ジェイアールひがしにほん)、英語略称はJR East。 日本国内では東北地方、関東地方、甲信越地方を中心とした地域に鉄道路線を有するほか、多様な関連事業を展開する(「関係会社」の節を参照)。英国ウェストミッドランズ鉄道の運行、バンコク・メトロへの車両供給など、国際業務部が他社やグループ企業と連携して、海外事業も展開している。鉄道を運営する会社としての輸送人数×距離で世界最大、運輸収入ではドイツ鉄道と比肩する規模である。 本社は東京都渋谷区。コーポレートカラーは緑色。東証一部上場企業。日経225(日経平均株価)およびTOPIX Core30の構成銘柄の一社。 2012年に発表した「グループ経営構想V 〜限りなき前進〜」で経営の方向性として定めたJR東日本グループのコンセプトワードは「地域に生きる。世界に伸びる。.

新しい!!: 小諸城と東日本旅客鉄道 · 続きを見る »

松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

新しい!!: 小諸城と松平氏 · 続きを見る »

村田修三

村田 修三(むらた しゅうぞう、1938年9月27日 - )は、日本史学者、大阪大学名誉教授。城郭研究で知られる。 兵庫県生まれ。京都大学文学部史学科卒業。1967年同大学院博士課程中退。奈良女子大学助教授、教授、1998年大阪大学文学研究科教授、2002年定年退官、名誉教授。.

新しい!!: 小諸城と村田修三 · 続きを見る »

桐紋

桐紋(きりもん)とは、ゴマノハグサ科の樹木であるキリ(桐)の葉や花を図案化した、家紋などの総称である。桐花紋(とうかもん)とも呼ばれる。 室町幕府では小判などの貨幣に刻印された。これ以来、室町幕府のほか皇室や豊臣政権など様々な政権が用いており、現在では日本国政府の紋章として用いられている。.

新しい!!: 小諸城と桐紋 · 続きを見る »

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

新しい!!: 小諸城と武田信玄 · 続きを見る »

武田信豊 (甲斐武田氏)

武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男。信豊は武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。『甲陽軍鑑』に拠れば幼名は「長老」、諱は当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない。正室は西上野の国衆・小幡憲重の娘。.

新しい!!: 小諸城と武田信豊 (甲斐武田氏) · 続きを見る »

武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

新しい!!: 小諸城と武田勝頼 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 小諸城と江戸時代 · 続きを見る »

滝川一益

滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。.

新しい!!: 小諸城と滝川一益 · 続きを見る »

木曾義昌

木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。.

新しい!!: 小諸城と木曾義昌 · 続きを見る »

本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

新しい!!: 小諸城と本能寺の変 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 小諸城と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

戌の満水

戌の満水(いぬのまんすい)は、1742年(寛保2年)8月に千曲川と犀川流域で発生した大洪水である。台風が大雨の原因と考えられている。.

新しい!!: 小諸城と戌の満水 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 小諸城と明治 · 続きを見る »

浅間山

浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。.

新しい!!: 小諸城と浅間山 · 続きを見る »

日本100名城

日本100名城(にほん100めいじょう)は、数ある日本の城のうち財団法人日本城郭協会が2006年に定めた名城の一覧である。同協会が2007年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、2005年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、2006年4月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家などが審査の上で選定したとされる。2007年6月2日からは、選定された全国の100城を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』が開始された。名城番号が付いたスタンプは、同協会がデザインしたものである。選定された100名城を地域別に以下に列記する。2017年(平成29年)4月には、この選考から漏れた城郭から続日本100名城が定められた。.

新しい!!: 小諸城と日本100名城 · 続きを見る »

日本の城

日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 姫路城(世界遺産・現存天守) 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。.

新しい!!: 小諸城と日本の城 · 続きを見る »

日本の城一覧

日本の城の一覧(にほんのしろのいちらん)は、日本の城(および朝鮮半島の倭城)の都道府県ごとの一覧索引である。財団法人日本城郭協会が選定した100名城の一覧については「日本100名城」を参照のこと。また、天守を主とする「画像」の一覧については、「日本の城の画像」を参照のこと。.

新しい!!: 小諸城と日本の城一覧 · 続きを見る »

日本さくら名所100選

200px 日本さくら名所100選(にほんさくらめいしょひゃくせん)は、1990年に公益財団法人日本さくらの会の創立25周年記念として選定、建設省、運輸省、環境庁、林野庁、全国知事会、財団法人国際花と緑の博覧会協会の後援によって行われたものである。各都道府県から最低1か所を選ぶなど、9つの選定基準によって選ばれた。.

新しい!!: 小諸城と日本さくら名所100選 · 続きを見る »

政教分離原則

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す『宗教の事典』、山折哲雄、2012年、朝倉書店、p862。。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。 国家により、日本などに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年小原克博「日本人の知らないの多様性」『論座』2001年10月号 などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は不可分である。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。.

新しい!!: 小諸城と政教分離原則 · 続きを見る »

懐古神社

鏡石 懐古神社(かいこじんじゃ)は、長野県小諸市にある神社本庁に所属する神社である。小諸城址公園・懐古園の主要部の地主でもある。.

新しい!!: 小諸城と懐古神社 · 続きを見る »

扁額

小諸城三の門とその扁額 土佐神社の神額 扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、体育館、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。特に神社に掲げられている額を「神額」、寺社に掲げられている額を「寺額」という。扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある。扁額は奉納したものが掲げられることがあり、特に区別して奉納額ということもある。 扁額は中国に由来し、日本、ベトナム、韓国などでも見られる。図案(意匠)としては神職であった氏族や家(いえ)が家紋として用いることがあるほか、小出氏の使用した紋として有名である。 皇帝や天皇が与える扁額を勅額という。.

新しい!!: 小諸城と扁額 · 続きを見る »

曲輪

多数の曲輪で構成された中世山城(千早城) 曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。.

新しい!!: 小諸城と曲輪 · 続きを見る »

1487年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1487年 · 続きを見る »

1554年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1554年 · 続きを見る »

1582年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1582年 · 続きを見る »

1590年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1590年 · 続きを見る »

1622年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1622年 · 続きを見る »

1626年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1626年 · 続きを見る »

1702年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1702年 · 続きを見る »

1742年

記載なし。

新しい!!: 小諸城と1742年 · 続きを見る »

2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

新しい!!: 小諸城と2006年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

懐古園穴城

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »