ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

荘王 (周)

索引 荘王 (周)

荘王(そうおう)は、周朝の第15代の王。桓王の子。姫胡斉(釐王)、弭叔頽(姫頹)らの父。 前694年、王族の周公黒肩が荘王を弑し、その弟の儀叔克(姫克)を擁立する計画が露見した。 荘王は大夫辛伯に命じ、そのため黒肩は殺害され、儀叔克は南燕(現在の河南省延津)に逃れた。 側室の姚氏が産んだ弭叔頽を溺愛し、太子の姫胡斉(釐王)を疎んじたが、結局は太子がその後を継いだ(しかし、孫の恵王の代に弭叔頽は自ら周王と称した)。.

11 関係: 大夫延津県周公黒肩王族紀元前7世紀釐王 (周)恵王 (周)桓王 (周)河南省春秋左氏伝

大夫

大夫(たいふ/だいぶ/たゆう)とは、ほんらい古代中国における身分呼称のひとつ。日本では太夫(たゆう)とも表記し、人物の呼称として色々な意味を持つようになった。.

新しい!!: 荘王 (周)と大夫 · 続きを見る »

延津県

延津県(えんしん-けん)は中華人民共和国河南省新郷市に位置する県。.

新しい!!: 荘王 (周)と延津県 · 続きを見る »

周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

新しい!!: 荘王 (周)と周 · 続きを見る »

周公黒肩

周公黒肩(しゅうこうこくけん、生年不詳 - 紀元前694年)は、東周初期の周公。 紀元前707年、周の桓王が諸侯を率いて鄭を攻撃したとき、黒肩は周の左軍を率いた。この繻葛の会戦は周の敗北に終わった。紀元前694年、黒肩は周の荘王を殺害して王子克を立てようと計画した。辛伯がこのことを荘王に告げると、黒肩を殺害した。王子克は燕に亡命した。.

新しい!!: 荘王 (周)と周公黒肩 · 続きを見る »

王族

王族(おうぞく)は、国の君主の一族(家族・親族)のこと。狭義では王を親や先祖に持つ者とその配偶者の中で、現在の王や法律により王族と承認されている者である。広義では、一般的に王の親族関係にあると認識される者を全て含む。国王と合わせて総称した場合、王室(王家)という。.

新しい!!: 荘王 (周)と王族 · 続きを見る »

紀元前7世紀

アッシリアの世界帝国。強力な軍事力と過酷な統治体制でアッシリアは最初の「世界帝国」を樹立した。画像は都ニネヴェの北宮殿を飾っていたアッシリア王アッシュールバニパルの浮き彫り(ロンドンの大英博物館蔵)。 第25王朝の崩壊とともにエジプトを離れ故地へと南下したヌビア人はこの地に幾つものピラミッドを造営した。 スパルタ。第二次メッセニア戦争でメッセニア人に勝利したことでスパルタは厳しい軍律を定める国民皆兵の社会を確立した。画像は現在のスパルタで、前景に古代の遺跡を、中景に新市街スパルティを、後景にタイゲトス山を望むことができる。 騎馬民族スキタイ。スキタイはユーラシア中央部に拠点を持ち交易や略奪を通じてオリエント諸国に大きな影響を与えた。画像はアゼルバイジャンのミンガチェヴィルで発見された黄金製動物意匠のベルトの留め金。 神武天皇。『日本書紀』『古事記』の神武東征の記録によると日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位し初代の天皇になったとされる。画像は月岡芳年『大日本名将鑑』の金の鵄(とび)を従えて敵を圧倒する神武天皇。 紀元前7世紀(きげんぜんななせいき、きげんぜんしちせいき)は、西暦による紀元前700年から紀元前601年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 荘王 (周)と紀元前7世紀 · 続きを見る »

釐王 (周)

釐王(りおう)は、周朝の第16代王。『史記』では「釐王」であるが、『春秋左氏伝』では「僖王」(きおう)と表記される。荘王の子。 長男として生まれるが、父王から寵愛を受けられず、在位中は父王から溺愛された異母弟の弭叔頽(姫頹)と対立していた。 前679年、曲沃に拠った晋の分家出身の武公が晋の宗家を滅亡させた後、宝器を釐王に献上した。釐王は武公を晋国君主に封じ諸侯に列している。 子の姫閬(恵王)がその後を継いだ。.

新しい!!: 荘王 (周)と釐王 (周) · 続きを見る »

恵王 (周)

恵王(けいおう)は、周朝の第17代王。釐王の子。.

新しい!!: 荘王 (周)と恵王 (周) · 続きを見る »

桓王 (周)

桓王(かんおう)は、周朝の第14代の王。太子洩父の子。父が即位前に早世していたため、王太孫に定められ、祖父の平王が崩御すると継いで即位した。 叔父に姫烈、姫狐(太子洩父の弟)がいる。 即位した後、諸侯の力を弱め、相対的に王権を強化する政策を実行した。また周領と鄭の領地が接しており、鄭が境界線を越えて黍(稷、キビ)を収穫したことから、族祖父(祖父の又従弟)にあたる鄭の荘公を卿士の職位より罷免し、これに不満を持った荘公は一切朝見を行わなくなり、周と鄭の関係も悪化している。前707年、桓王は蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃したが(繻葛の戦い)、撃退されてしまい、周王室の力の衰えを露呈する形になってしまった。 桓王が王権の強化に努めたが、周王室の衰退はとどまらず、諸侯間の紛争を阻止する影響力を失った。紀元前697年、桓王は崩御し、子の姫佗(荘王)が王位を継承した。 しかし、桓王は少子の儀叔克(姫克)を溺愛していたため、太子の姫佗が即位すると、王族の周公黒肩が儀叔克を擁立し、兄弟による相続争いに発展してしまった。.

新しい!!: 荘王 (周)と桓王 (周) · 続きを見る »

河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

新しい!!: 荘王 (周)と河南省 · 続きを見る »

春秋左氏伝

『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字:春秋左氏傳、)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。.

新しい!!: 荘王 (周)と春秋左氏伝 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »