83 関係: 劇場、古川久、坊城俊政、大津事件、天野文雄、外遊、宝生九郎知栄、宝生流、小林静雄、山崎楽堂、山階宮晃親王、岩倉具視、岩波書店、上野恩賜公園、三条実美、九条道孝、式三番、土方久元、ニコライ2世、喜多流、前田利鬯、前田斉泰、創元社、勧進能、国立能楽堂、倉田喜弘、紅葉館、猿楽、白州、芝公園、鞍馬天狗 (能)、遊就館、華族、靖国神社、表章、観世紅雪、観世清孝、観世清廉、高砂 (能)、賀茂 (能)、近衛忠煕、霞会館、能、能楽、藤堂高潔、野上豊一郎、野々村戒三、重野安繹、金剛唯一、英照皇太后、...、東京大神宮、東京創元社、東京国立博物館、松本金太郎 (能楽師)、梅若実 (初世)、櫻間伴馬、欧米、池内信嘉、池田茂政、明治、明治維新、昭憲皇太后、日清戦争、1878年、1880年、1881年、1882年、1883年、1886年、1887年、1890年、1891年、1892年、1894年、1896年、1897年、1898年、1899年、1900年、1902年、1923年、1924年、1938年。 インデックスを展開 (33 もっと) »
劇場
プロセニアム・シアター(宝塚大劇場) 劇場(げきじょう)とは、演劇や歌舞伎、舞踊、オペラ、バレエ、コンサートなどを観客に見せるための施設。 オペラを上演するための劇場は歌劇場、日本の能楽では能舞台と称することが多い。また主に中小の劇団が公演を行う小規模な劇場を特に芝居小屋(しばいごや)と呼ぶことがあり、大きな劇場であっても演劇関係者は業界用語としてこれを「小屋」と呼ぶことがある。近年では、演劇が倉庫で上演されたり、小さなコンサートや大道芸が路上で行われたりすることもあるが、これらの場所は演出空間ではあっても劇場とは呼ばない。 演劇は日本では芝居と呼ばれ、古くから庶民の娯楽であり、各地に数多くの小規模な劇場が建設された。これらの劇場は各地域の芸能ばかりではなく、「ドサ回り」と呼ばれる地方を巡回して劇を行う旅芸人が、劇を行う場でもあった。後にこれらの劇場の多くは映画を上映する設備を備えるようになり、地方巡業の演芸者が減少するにつれて映画館へと役割を変えていった。このため、演劇を上演しない映画館であっても「劇場」と名付けられているものが多く残っている。。 現代においても、映画館を指して「劇場」と表現する場合は多い。テレビドラマやテレビアニメ等の映画化作品を「劇場版」と銘打つ、映画を放送するテレビ番組のタイトルに「…洋画(/邦画/映画)劇場」などと名付ける、といった例も挙げられる。.
古川久
古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日 - 1994年(平成6年)8月15日)は、日本の国文学者。 愛知県名古屋市生まれ。東北帝国大学国文科卒、松本高等学校教授、宇都宮大学助教授、東京女子大学教授、68年定年退任、名誉教授、東京農業大学教授、武蔵野女子大学教授。52-81年法政大学能楽研究所兼任所員。能楽・狂言を主として研究。ほか、師の小宮豊隆を助けて戦後の岩波書店『漱石全集』の編纂に携わり、漱石研究も行った。.
坊城俊政
坊城 俊政(ぼうじょう としただ、1826年9月22日(文政9年8月21日)- 1881年(明治14年)9月16日『明治維新人名辞典』78頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。.
大津事件
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。 当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。.
天野文雄
天野 文雄(あまの ふみお、1946年12月20日 - )は、日本の美学者、能楽研究者。京都造形芸術大学舞台芸術センター所長、大阪大学名誉教授。.
外遊
外遊(がいゆう)とは留学や研究、視察などを目的として外国を旅行することを指す。特に政治家など公人の外国訪問に対して使われることが多い。.
宝生九郎知栄
16世 宝生 九郎(16せい ほうしょう くろう、1837年7月10日(天保8年6月8日) - 1917年(大正6年)3月9日)は日本の能楽師。能楽シテ方宝生流16世宗家。本名は知栄(ともはる)。 維新後衰退した能楽界にあってその復興の中心を担い、初世梅若実・桜間伴馬とともに「明治の三名人」と並び称される。また多くの後進を育て、宝生流のみならず、能楽界全体の発展に力を尽くした表・天野(1987)、366~7頁。.
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宝生流
宝生流(ほうしょう-りゅう)は能楽の流派の一。現在、シテ方とワキ方(下掛宝生流)とがあり、それぞれ別の流儀である。単に「宝生流」というときはシテ方の宝生流をいうことが多い。 また、かつて大鼓方にも「宝生流」「宝生錬三郎派」と呼ばれる流儀があったが、1986年に観世流の名に復した。.
小林静雄
小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが能・狂言事典、第二次世界大戦で戦死した。.
山崎楽堂
山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月19日 - 1944年(昭和19年)10月29日)は日本の建築家、能楽研究者。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎。.
山階宮晃親王
山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう、 文化13年9月2日(1816年10月22日) - 明治31年(1898年)2月17日)は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の第一王子。勧修寺宮済範親王。二品。.
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岩倉具視
岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
上野恩賜公園
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。総面積約53万m2。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。.
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三条実美
若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.
九条道孝
九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.
式三番
式三番(しきさんばん)とは、能・狂言とならんで能楽を構成する特殊な芸能の一つ。能楽の演目から転じて、歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されており、極めて大きな広がりを持つ芸能である。なお、現代の能楽師たちはこの芸能を、その文化を共有する人たちにだけ通じる言葉、いわゆる符牒として「翁」「神歌」(素謡のとき)と呼んでおり、「式三番」と呼ぶことはほとんど無い。.
土方久元
土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日)は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。.
ニコライ2世
ニコライ2世(、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。 皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。.
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喜多流
喜多流(きたりゅう)とは、日本の伝統芸能である能楽のうち、能のシテ方の流派である。.
前田利鬯
前田 利鬯(まえだ としか)は、加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。.
前田斉泰
前田 斉泰(まえだ なりやす)は、加賀藩の第12代藩主。加賀前田家13代。第11代藩主前田斉広の長男。.
創元社
創元社(そうげんしゃ)は、日本の出版社。大阪市に本社を置き、主に心理学、歴史学の書籍を出版している。 海外推理小説、SF小説の出版などで知られる東京創元社は、1954年にのれん分けで独立し別会社となったもの。.
勧進能
勧進能(かんじんのう)は、寺社の建立、改築などの際に寄付を募るために、入場料を取って行われた田楽や猿楽の公演である。後には本来の目的が薄れ、猿楽師の収益のため行われるようになった。.
国立能楽堂
国立能楽堂(こくりつのうがくどう、英語:National Noh Theatre)は、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場である。1983年8月竣工。設計は大江宏。591席。所在地は東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目18番1号。.
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倉田喜弘
倉田 喜弘(くらた よしひろ、1931年1月14日- )は、日本の芸能史研究家。.
紅葉館
紅葉館(こうようかん)は、明治・大正・昭和期に東京の芝区芝公園20号地に存在した会員制の高級料亭。.
猿楽
猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.
白州
白州(はくしゅう、しらす).
芝公園
芝公園(しばこうえん)は、東京都港区にある公園である。一般的に、都立芝公園と港区立芝公園の総称。また、「芝公園」は港区の町名でもあり、芝公園一丁目から芝公園四丁目まで存在する。この記事では、公園と町名の双方について述べる。.
鞍馬天狗 (能)
鞍馬天狗」(くらまてんぐ)は、能の演目の一つ。五番目物、天狗物、太鼓物に分類される。牛若丸伝承に題を採った曲で、大天狗と牛若丸との間の少年愛的な仄かな愛情を、華やかな前場と、山中での兵法相伝を行う後場の対比の中に描く。 作者は「能本作者註文」が宮増とするが、宮増についてはその実像がはっきりとは解っておらず、不明な点も多い。「自家伝抄」は世阿弥作と記すが、考えにくい石黒吉次郎「「鞍馬天狗をめぐって」。.
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遊就館
遊就館(ゆうしゅうかん)は、靖国神社境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法の適用外)。.
華族
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.
靖国神社
(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区九段北にある神社である。.
表章
表 章(おもて あきら、1927年4月26日 - 2010年9月7日)は、能楽研究者。法政大学名誉教授。能楽史、世阿弥伝書などの研究で著名であった。.
観世紅雪
観世 紅雪(かんぜ こうせつ、1843年(天保14年) - 1911年(明治44年)3月31日)は、シテ方観世流能楽師。 観世銕之丞家の五代目で、名は清永(きよひさ)。四代銕之丞清済の長男、1855年、父が没して翌年家督を継ぎ、1859年元服して銕之丞を襲名。 明治維新で観世宗家は静岡に移った徳川家についていったが、弟源次郎が梅若実の養子だったため当時六郎といった梅若と行動をともにし、明治5年(1872年)、梅若舞台で観世流として数十年ぶりに「道成寺」を披いた。妻は梅若実の姪で、弟が梅若六郎と改名した後、梅若家を離れて観世喜之家の祖となった後も梅若家と行を共にした。明治21年(1888年)、宗家の観世清孝が没した際には、年若の後継者観世清廉の後見役となった。 明治39年(1906年)、演能中に倒れ、明治43年(1910年)、長男織雄に銕之丞の名を譲って紅雪と号した。これが銕之丞家で存命中に雪号を名乗った始まりである。.
観世清孝
観世清孝(かんぜ きよたか、1837年(天保8年) - 1888年(明治21年)2月11日)とは、シテ方観世流能楽師。観世流二十二世宗家。二十一世宗家観世左近清長の子。幼名・鋠之助。通称は三十郎。また維新後、一時的に代々の通り名である観世左近を名乗っている。号は普雪(雪号参照)。幕末〜明治期の宗家であり、「最後の観世大夫」と称される。.
観世清廉
観世 清廉(かんぜ きよかど、慶応3年(1867年)5月26日 - 明治44年(1911年)7月17日)は、シテ方観世流能楽師。二十三世観世宗家。二十二世宗家・観世清孝の長男。幼名・鋠之助。号は和雪、擔雪(雪号参照)。.
高砂 (能)
『高砂』(たかさご)は、能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。 ワキ、ワキヅレがアイとの問答の後、上ゲ歌で謡う『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり『謡曲集 上』224-225ページより引用。』は結婚披露宴の定番の一つである。江戸時代、徳川将軍家では『老松』とともに『松』をテーマにした筆頭祝言曲二曲の一つであった。.
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賀茂 (能)
『賀茂』(かも)は、能楽作品のひとつ。別表記加茂、古称は矢立鴨。賀茂神社の縁起を気品高く、また勇壮に表現した能である。作者は金春禅竹ともいわれるが、不詳。戦国末期の素人能役者下間少進の演能記録「能之留帖」に頻出し、また、豊臣秀吉の命をうけて山科言経らが注釈をするなど、その当時からよく好まれた能である。.
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近衛忠煕
近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日(1808年9月4日) - 明治31年(1898年)3月18日)は、幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。.
霞会館
一般社団法人霞会館(いっぱんしゃだんほうじんかすみかいかん)は、旧華族の親睦団体。前身は華族会館(かぞくかいかん)。1947年(昭和22年)の華族制度の廃止により、霞会館(かすみかいかん)と名称を改めた。所在地は霞が関ビルディング34階。.
能
能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).
能楽
中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.
藤堂高潔
藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘・量子。.
野上豊一郎
野上豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。臼川(きゅうせん)と号する。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。.
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野々村戒三
野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9月7日 - 1973年(昭和48年)11月21日)は、日本の歴史学者、能楽研究者。号は蘆舟、芥叟。クリスチャン。 大分県生まれ。父・卓二は塩谷宕陰の門人で、母は三浦梅園の玄孫に当たる。 1901年(明治34年)東京帝国大学文学部史学科卒業。専攻は西洋中世史。 立教中学校の教員として勤めていた頃、校長の元田作之進の依頼で自宅を謡の稽古場として貸すこととなり、その稽古場の師匠が池内信嘉だったことから、能との関わりを持つこととなる。 以後明治学院・青山学院の教師を経て、1911年(明治44年)第三高等学校の教授に就く。折しも1909年(明治42年)に池内、吉田東伍により『世阿弥十六部集』が刊行され、能楽研究がその緒に就いた時期であり、野々村も能楽史の研究に従事するようになる。 1916年(大正5年)に関西学院、1920年(大正9年)には早稲田大学の教授に就任。1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)まで立教大学教授。 西洋史学者としての著作には『基督教史の研究』(1920年)、『パウロの研究』(1925年)などのキリスト教史、また南北アメリカ史、イギリス史に関するもの、あるいはギボン『ローマ帝国衰亡史』の翻訳(1929〜31年)などがある。 能楽研究者としては、能楽史に関する文献を多く発見・紹介、これに基づく堅実な研究で多くの功績を残し、特に近世能楽史研究においてはその先駆けと見なされている能・狂言事典、西野春雄による解説。観世流の現行謡本である「観世流大成版謡本」の編纂にも携わった。また能評も手がける。 能楽関係の主な著作に、『能楽古今記』(1931年)、『近畿能楽記』(1933年)、『能苑日渉』(1938年)、『能楽史話』(1944年)、『能の今昔』(1967年)などがある。また『謡曲三百五十番集』(1928年)、安藤常次郎との共著『狂言集成』(1931年)、『金春十七部集』(1932年)など基礎史料の刊行も多く行っている。ほか、吉田本を元にした『世阿弥十六部集』(1926年)など。.
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重野安繹
重野 安繹(しげの やすつぐ、1827年11月24日(文政10年10月6日) - 1910年(明治43年)12月6日)は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。通称は厚之丞。字は子徳、号は成斎、曙戒軒鞭。安繹は「あんえき」とも。.
金剛唯一
金剛 唯一(こんごう ただいち、文化12年(1815年)- 明治17年)(1884年)は、シテ方金剛流猿楽師。二十一世金剛宗家。前名、右近氏成。幕末は石高は100石で芝飯倉5丁目に住していた。 江戸期から明治時代にかけて活躍、能楽復興に尽力する。『土蜘蛛』の千筋の糸を考案したことで有名。子に金剛兵衛氏善。.
英照皇太后
英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日(1835年1月11日)天保4年11月13日(1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。 - 明治30年(1897年)1月11日)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。.
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東京大神宮
東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社全国神社名鑑上、314-315頁『◇東京大神宮(飯田橋大神宮)/由緒』。.
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東京創元社
株式会社東京創元社(とうきょうそうげんしゃ)は、日本の出版社である。.
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東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.
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松本金太郎 (能楽師)
松本金太郎(まつもと きんたろう、1843年10月12日(天保14年9月19日) - 1914年(大正3年)12月16日)は、シテ方宝生流能楽師。宝生九郎の高弟。 加賀藩お抱えの葛野流大鼓方中田万三郎の次男。宝生流シテ方の松本家に養子に入る。宝生九郎を支え、その片腕となって明治期の宝生流を復興した重鎮。晩年の徳川慶喜に謡曲を指南。その芸風は墨絵の名画にも喩えられ、後進の指導に大きな力があった。 次男が松本長。孫に松本惠雄、松本たかし。泉鏡花は甥(妹・鈴の子)。.
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梅若実 (初世)
五十二世梅若六郎(うめわか ろくろう、文政11年5月26日(1828年7月7日) - 明治42年(1909年)1月19日)とは、観世流シテ方能楽師。明治5年(1872年)以後は初世梅若 実(うめわか みのる)を名乗り、こちらの名でよく知られる。.
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櫻間伴馬
櫻間 伴馬(さくらま ばんま、1836年1月6日(天保6年11月18日) - 1917年(大正6年)6月24日)は、シテ方金春流能楽師。1911年(明治44年)以降は櫻間 左陣を名乗る。 維新後低迷を続ける能楽界にあって、熊本出身の一地方役者ながら、その卓抜した技で観客の喝采を博した。能楽復興の立役者として、初世梅若実、16世宝生九郎とともに「明治の三名人」の一角に数えられる。子に櫻間弓川がいる。.
欧米
欧米(おうべい)とは、ヨーロッパ州(欧州)とアメリカ州(米州。北アメリカ州と南アメリカ州)の3大州を指す。 狭義では、ヨーロッパの先進国及びアメリカ合衆国とカナダの北アメリカ2か国とを合わせた集団を指す。イギリス人が建国した、オセアニアにあるオーストラリアやニュージーランドを含める場合もある。.
池内信嘉
池内信嘉(いけのうち のぶよし、1858(安政5年2月7日)-1934年5月17日)は、能楽研究家。 伊予国松山(愛媛県松山市)出身。高浜虚子の兄。号は如水・如翠。愛媛師範学校卒業、教職に就く。のち養蚕事業を興し、愛媛県会議員を務めた。1902年上京、能楽館を設立して「能楽」を発行。1923年東京音楽学校に能楽囃子科が設置され、同校の嘱託教師となり、のち教授。能楽会理事。.
池田茂政
池田 茂政(いけだ もちまさ)は、備前岡山藩の第9代藩主。岡山藩池田家宗家11代。名は茂政のほか、松平昭休、松平忠矩、池田修政。位階勲等は従一位勲二等。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男。正室は池田慶政の娘・萬寿子。子は池田勝吉(長男)、西尾勝順(次男・西尾忠篤養子のち離縁)、娘(堀川護麿室)、娘(中川久任正室)、娘(佐々木祐哲室)、娘(泉谷祐勝室)。 主な兄弟に水戸藩主徳川慶篤と昭武、鳥取藩主池田慶徳、そして江戸幕府第15代将軍徳川慶喜がいる。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
昭憲皇太后
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。史上初めて洋装をした皇后。1914年(大正3年)で崩御(64歳)。.
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日清戦争
日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.
1878年
記載なし。
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1880年
記載なし。
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1881年
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1882年
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1883年
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1886年
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1887年
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1890年
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1891年
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1892年
記載なし。
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1894年
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1896年
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1897年
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1898年
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1899年
記載なし。
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1900年
19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.
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1902年
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1923年
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1924年
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1938年
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