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碁所

索引 碁所

碁所(ごどころ)は江戸幕府において、御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など囲碁を統括すると考えられていた役職従来はこのように考えられていたが、近年の研究で「将棋所」とともに、囲碁・将棋衆の自称であったという説が提示されている(詳細は「将棋所」を参照)。。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、御目見以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていたとされる。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。

目次

  1. 56 関係: 名人 (囲碁)坐隠談叢増川宏一大橋宗桂 (初代)天保天正天明宝永家元安井家安井算知寺社奉行寛永寛文将棋将棋所岩波書店中山典之中村道碩万治享保井上家井上幻庵因碩井上道節因碩延宝御城碁御目見徳川家康徳川斉昭元和 (日本)元禄囲碁囲碁の歴史豊臣秀吉老中林家 (囲碁)松平康任棋士 (囲碁)棋待詔水戸藩江戸幕府法政大学出版局本因坊本因坊察元本因坊丈和本因坊算砂本因坊算悦本因坊道知... インデックスを展開 (6 もっと) »

名人 (囲碁)

名人(めいじん)は、優れた技能を持つ棋士に対する敬称。江戸時代から昭和初期にかけては名人は天下に1人と定められていた。現代では、囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトルとなっている。

見る 碁所と名人 (囲碁)

坐隠談叢

『坐隠談叢』(ざいんだんそう)は、日本の囲碁の歴史を描いた書物。 1904年(明治37年)に、(のちに関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する)安藤豊次(号は如意)が刊行した林裕『囲碁風雲録』(講談社)上・P.216。6年後の1910年(明治43年)、安井算英、中川亀三郎、本因坊秀栄の死去後の情報を追記した「訂増版」と称した版が「関西囲碁会」から再刊林裕『囲碁風雲録』(講談社)上・P.216。いずれも山田光(号は玉川)が執筆を担当したとされる林裕『囲碁風雲録』(講談社)上・P.216。 その後、『囲碁全史: 坐隠談叢』として、広月絶軒と 安永一が増補したものが平凡社から1941年に刊行された。また『新編増補 坐隠談叢 囲碁全史』と題したものが渡辺英夫の改補で新樹社から1955年・1973年に刊行された。

見る 碁所と坐隠談叢

増川宏一

増川 宏一(ますかわ こういち、1930年〈昭和5年〉1月14日 - 2021年〈令和3年〉7月11日)は、日本の遊戯史研究家。遊戯史学会会長、国際チェス史研究グループ会員、チェス史研究支援財団名誉会員、元将棋博物館顧問(現在は閉館)。在野研究者として、遊技の歴史研究に関する著書を残した。

見る 碁所と増川宏一

大橋宗桂 (初代)

初代 大橋 宗桂(おおはし そうけい、弘治元年(1555年) - 寛永11年3月9日(1634年4月6日))は、将棋指し、一世名人。子に、二世名人・大橋宗古、初代大橋宗与がいる。近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。大橋本家初代。

見る 碁所と大橋宗桂 (初代)

天保

は、日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。

見る 碁所と天保

天正

天正(てんしょう)は、日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。1573年から1592年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。

見る 碁所と天正

天明

天明(てんめい、)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。

見る 碁所と天明

宝永

は、日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。

見る 碁所と宝永

家元

家元(いえもと)とは、日本の芸道などを家伝として承継している家系のこと。また、その家系の当主個人を指しても用いられる。

見る 碁所と家元

安井家

安井家(やすいけ)は、江戸時代、本因坊家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家の一つであり、名人碁所として二世算知がいる。また江戸後期には「大天才」と評される七世仙知、囲碁四哲の一人八世知得、天保四傑の一人九世算知などの名棋士がこの家門から生まれている。十世算英は明治時代まで活躍した。

見る 碁所と安井家

安井算知

安井 算知(やすい さんち、元和3年(1617年) - 元禄16年3月12日(1703年4月27日))は、囲碁の棋士で、家元安井家の二世安井算知。三世名人碁所。九世安井算知と区別して名人算知と呼ぶこともある。

見る 碁所と安井算知

寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。 江戸幕府では、寛永12年(1635年)に設置された。将軍直属で、三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。

見る 碁所と寺社奉行

寛永

寛永 (かんえい、寛󠄁永)は、日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1644年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。

見る 碁所と寛永

寛文

寛文 (かんぶん、)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

見る 碁所と寛文

将棋

将棋(しょうぎ)は、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べるを指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられている。本項では、主に本将棋について解説する(古将棋および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照)。

見る 碁所と将棋

将棋所

将棋所(しょうぎどころ)は、江戸時代の将棋の家元(名人を世襲し、大橋家・大橋分家・伊藤家が襲位していた)が名乗っていた称号である。名人家は寺社奉行の管轄下にあった。かつては将棋所という公式な役職が存在したと考えられていたが、近年の研究では公職ではなく家元の自称にすぎなかったとされている。

見る 碁所と将棋所

岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、)は、日本の出版社である。 文芸・学術の幅広い分野における専門書から一般啓蒙書までを広く扱い、国内外の古典的著作を収めた「岩波文庫」や「岩波新書」などの叢書や、国語百科事典『広辞苑』の刊行でも有名。

見る 碁所と岩波書店

中山典之

中山 典之(なかやま のりゆき、1932年9月3日 - 2010年2月16日)は、囲碁のプロ棋士。長野県上田市出身。日本棋院東京本院所属。1951年、長野県上田松尾高等学校卒業。1953年、鈴木五良八段に入門。1962年入段。1992年六段に昇進。 アマチュア出身であり、入段が遅かった。タイトル戦などには縁がなかったが、文才に長け、『実録囲碁講談』『囲碁の世界』など囲碁界に関する多数の著作がある。またライターや編者としての100冊以上の棋書の編纂を行った。若い頃は名記録係といわれ、読売新聞の観戦記者である山田覆面子に重用された。アマチュアへの指導に高い評価があり、1982年からほぼ毎年海外に出て囲碁の普及に努めた。これらの功労により、1996年に普及功労賞、2004年に大倉喜七郎賞を受賞した。

見る 碁所と中山典之

中村道碩

中村 道碩(なかむら どうせき、天正10年(1582年) - 寛永7年8月14日(1630年9月20日))は、江戸時代の囲碁棋士。本因坊算砂を継いで二世名人となり、算砂同様に碁打衆の頭領格となった。家元の井上家を興した井上玄覚因碩の師であり、後に道碩は十一世井上幻庵因碩により井上家一世に位置付けられた。道石とも記された。 道碩は本因坊算砂の弟子とされる。京都に居住し、慶長年間には算砂、林利玄らとともに、禁裏や公家屋敷、江戸城などに召し出されていたことが記録に残っている。(山科言経『言経卿記』、神龍院梵舜『舜旧記』、船橋秀賢『慶長日件録』など) 慶長17年(1612年)に碁打衆、将棋衆8人に俸禄が与えられた際には、道碩は50石を受けた。これは算砂、利玄、大橋宗桂 (初代)に次ぐ。

見る 碁所と中村道碩

万治

万治(まんじ、)は、日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府征夷大将軍は徳川家綱。

見る 碁所と万治

享保

1729(享保14)年版。国立科学博物館の展示。 享保(きょうほう)は、日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

見る 碁所と享保

井上家

井上家(いのうえけ)は江戸時代、本因坊・安井家・林家に並ぶ囲碁の家元であり、名人を2名出している。 初代道碩を除き、代々当主は因碩を名乗るしきたりであった。このため「春碩因碩」「幻庵因碩」などと、跡目(次期家元に指名された者)時代の名や隠居後の名をつけて区別することが多い。 初代名人である本因坊算砂の高弟で二世名人の中村道碩を祖とする。当初、玄覚因碩が一世と位置づけられていたが、幻庵因碩の時代に中村道碩を系譜に組み入れ、以降の家元を一代ずつずらす措置がとられた。歴代家元の中で最も知名度が高いのはこの十一世・幻庵因碩で、本因坊丈和と名人の地位を激しく争ったことで知られる。禄高は一世中村道碩の時の1612年(慶長17年)に本因坊(算砂)に次ぐ50石だった。

見る 碁所と井上家

井上幻庵因碩

井上 幻庵因碩(いのうえ げんあん(げんなん)いんせき、1798年(寛政10年) - 1859年(安政6年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十一世井上因碩、八段準名人。井上家は代々因碩を名乗ったため、隠居後の号である幻庵(玄庵)を付けて幻庵因碩と呼ぶ。相続前には橋本因徹、服部立徹、井上安節と改名。名人の技倆ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈、安井知得仙知、本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。本因坊丈和との名人碁所を巡る暗闘(天保の内訌)でも知られる。碁盤全体を使うスケールの大きな棋風が特色。別号として橘齋もある。 「幻庵」の読みには「げんあん『日本囲碁大系11 幻庵因碩』P.253」「げんなんhttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E4%B8%88%E5%92%8C-134971」がある。

見る 碁所と井上幻庵因碩

井上道節因碩

井上 道節因碩(いのうえ どうせついんせき、1646年(正保3年) - 1720年1月16日(享保4年12月7日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の四世井上因碩、五世名人碁所。元の名は桑原道節で、井上道節因碩、名人因碩と呼ぶ。難解さで古今唯一とされる『囲碁発陽論』の著者。本因坊道策の弟子であったが、道策流の理論的な布石よりは力戦的な碁であったとされる。 (井上家相続時は三世であったが、後の家系書き換えに基づき四世とする)。

見る 碁所と井上道節因碩

延宝

は、日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。

見る 碁所と延宝

御城碁

御城碁(おしろご)は、江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3年(1626年)頃に始まり、毎年1回、御城将棋とともに2、3局が行われ、幕末の元治元年(1864年)に中止となるまでの230年余りに渡って続いた。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとってもっとも真剣な勝負であった。また碁によって禄を受けている家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露する義務としての意味もあり、寺社奉行の呼び出しによるという形式で行われた。実際に将軍が観戦することは多くなかったが、代行として老中などが列席した。 全部で536局の対局が行われ、出仕した棋士は67名。代表的な成績としては、本因坊秀策の、嘉永2年(1849年)から文久元年(1861年)にかけての19連勝が有名。

見る 碁所と御城碁

御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。

見る 碁所と御目見

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。

見る 碁所と徳川家康

徳川斉昭

徳川斉昭と七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像(茨城県水戸市、千波公園) 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。

見る 碁所と徳川斉昭

元和 (日本)

は、日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。

見る 碁所と元和 (日本)

元禄

は、日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

見る 碁所と元禄

囲碁

とは、交互に盤上に石を置いて行き自分の石で囲んだ領域の広さを競う、2人で行うボードゲームの一種。 単にとも呼ばれる。

見る 碁所と囲碁

囲碁の歴史

狩野永徳による囲碁の絵 この項目では、囲碁の歴史(いごのれきし)について解説する。

見る 碁所と囲碁の歴史

禄(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。

見る 碁所と禄

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)は、戦国時代 - 安土桃山時代の日本の武将、戦国大名、公卿。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。官位は従一位、関白、太政大臣、贈正一位。 幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、豊臣の姓を賜った。

見る 碁所と豊臣秀吉

藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。

見る 碁所と藩

老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府に常設された最高職。2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執ったが、筆頭者(老中首座)は事実上の執政として幕政を主導した。 なお、諸藩で通常藩政を統括する者を家老というが、藩によって名称や職制はさまざまであり、老中と呼ぶところもあった。

見る 碁所と老中

林家 (囲碁)

林家(はやしけ)は、本因坊家・安井家・井上家と並ぶ、江戸時代の囲碁の家元四家の一つである。林家は始祖とされる林利玄の弟子の林門入(門入齋)が興した家であるが、他家より立家が遅く、名人も出していない。適当な後継者がいなかったため本因坊家から跡目を迎えたケースも多く、江戸期を通じて弱小勢力であった。明治に入り、十三世の 秀榮が本因坊家に戻ってその名跡を継いだため林家は絶家となった。 林家は初代が門入齋で、二世以降は代々「門入」を名乗った(九世門悦、本因坊家から移った十一世元美、十三世秀栄を除く)。このため跡目時代の名乗りを「門入」の前に加えて表記し、区別することが多い。

見る 碁所と林家 (囲碁)

松平康任

松平 康任(まつだいら やすとう)は、江戸時代後期の大名、老中。石見国浜田藩主。松井松平家8代。寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中と幕府の重職を歴任した。

見る 碁所と松平康任

棋士 (囲碁)

棋士(きし)は、囲碁を打つ人の総称である。碁打ちとも呼ばれる。プロ棋士を指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶことがある。 なお、将棋の専業プロも「棋士」と称しているため、区別のため「囲碁棋士」と表現する場合もある。

見る 碁所と棋士 (囲碁)

棋待詔

棋待詔(きたいしょう)は、中国の唐以降で置かれた官職で、待詔のうち棋(囲碁)をもって仕える役職。その時代の囲碁の名手、国手と呼ばれる者などが務めた。

見る 碁所と棋待詔

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。

見る 碁所と水戸藩

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 碁所と江戸幕府

法政大学出版局

一般財団法人法政大学出版局(ほうせいだいがくしゅっぱんきょく、英語名:Hosei University Press)は、法政大学の出版部にあたる法人。1948年(昭和23年)12月設立。

見る 碁所と法政大学出版局

本因坊

第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前 囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側 本因坊(ほんいんぼう)。

見る 碁所と本因坊

本因坊察元

本因坊 察元(ほんいんぼう さつげん、1733年〔享保18年〕 - 1788年3月3日〔天明8年1月26日〕)は、江戸時代中期の囲碁棋士。本因坊家九世本因坊察元。生国は武蔵国、本因坊伯元門下、名人碁所。6世井上春碩因碩との争碁に勝って本因坊道知以来の名人となり、棋道中興の祖と呼ばれる。法名は日義。

見る 碁所と本因坊察元

本因坊丈和

本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年) - 弘化4年10月10日(1847年11月17日))は、江戸時代の棋士。十二世本因坊、名人碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。 丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説があるが、伊豆説が有力。幼名は松之助。16歳で初段。文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁を打ち(丈和定先)、12局目まで8勝4敗で先相先とした。当時元丈の跡目には丈和の1歳上の奥貫智策が据えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝、文政2年(1819年)に丈和が跡目となる。その後33歳で六段。

見る 碁所と本因坊丈和

本因坊算砂

本因坊 算砂 本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。

見る 碁所と本因坊算砂

本因坊算悦

本因坊 算悦(ほんいんぼう さんえつ、慶長16年(1611年) - 万治元年9月16日(1658年10月12日))は、江戸時代の囲碁の棋士で、二世本因坊。本姓は杉村。生国は京都。上手。法名は日信。 一世本因坊算砂の臨終において13歳で跡目とされるが、幼年であるという理由で無禄とされた。このため本因坊家は一時中絶することとなる。その後算砂の遺命により中村道碩の後見を受ける。嘉永7年(1630年)20歳の時、病に伏した道碩は算砂より受けていた印可状を引き渡し、算悦の上手(七段)を認めて幕府へ嘆願し、30石を賜って本因坊家再興を許されて二世本因坊となる。 正保元年(1644年)に寺社奉行が、道碩の後継者を決めるために家元四家を集め、算悦と井上玄覚因碩に対戦の意思を問うが、因碩が辞退したために沙汰止みとなる。その後幕命により安井算知と碁所の地位を決する争碁を行うこととなり、正保2年(1646年)の御城碁を第1局とし、承応2年(1653年)まで6局を打って3勝3敗となり、碁所は決められなかったが、これが争碁の最初とされる。

見る 碁所と本因坊算悦

本因坊道知

本因坊 道知(ほんいんぼう どうち、1690年〔元禄3年〕 - 1727年7月28日〔享保12年6月10日〕)は江戸時代の囲碁棋士。五世本因坊。生国は江戸。本姓は神谷。本因坊道策門下、名人碁所。法名は日深。

見る 碁所と本因坊道知

本因坊道策

サムネイル 本因坊 道策(ほんいんぼう どうさく、正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日))は江戸時代の囲碁棋士。四世本因坊、名人碁所。本因坊算悦、本因坊道悦門下、生国は石見国、本姓は山崎、幼名は三次郎。法名は日忠。道策は圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称揚されたなお将棋の世界では大橋宗英や天野宗歩が同様に「実力十三段」と称される。十三段の項を参照。。 道策は手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出した。また、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して、前聖と称される。史上最強の棋士として、道策の名を挙げる人も多い。

見る 碁所と本因坊道策

明和

明和(めいわ、)は、日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

見る 碁所と明和

明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 碁所と明治

日本棋院

公益財団法人日本棋院(にほんきいん、)は、東京都千代田区五番町(市ケ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。「囲碁の世界の中心」としての役割を果たしている。約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。

見る 碁所と日本棋院

慶長

慶長(けいちょう)は、日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。日本史の時代区分においては安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。天下人は豊臣秀吉、豊臣秀頼。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。

見る 碁所と慶長

手合

手合(てあい)とは、。

見る 碁所と手合

本因坊道策明和明治日本棋院慶長手合