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棋士 (囲碁)

索引 棋士 (囲碁)

棋士(きし)は、碁打ちともいい、囲碁を打つ人の総称。 プロを指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶ事もある。.

345 関係: 加田克司加藤充志加藤正夫劉小光劉仲甫劉因劉菁劉棣懐劉星劉昌赫原田実 (棋士)半田道玄十段 (囲碁)南北朝時代 (中国)古力台湾台湾棋院名人 (囲碁)同朋衆吉田操子坂井秀至坂田栄男増川宏一夢渓筆談大平修三大竹英雄大正天保天元戦太田雄蔵女流名人戦女流立葵杯女流棋聖戦女流本因坊戦姜東潤孝文帝孫策孔傑孔祥明孔融室町時代宮下秀洋官子譜宇多天皇安井家安井知得仙知安井算哲安井算知 (俊哲)安徽省安倍吉輝...宋 (王朝)小川誠子小林千寿小林光一小林禮子小林覚小林鉄次郎小松英樹尹奇鉉将棋山城宏山下敬吾山田規三生山部俊郎屋良里之子岩本薫島村俊廣崔哲瀚工藤紀夫上野愛咲美丁偉中原中山典之中国囲碁棋士一覧中国囲棋協会中国囲棋会中国棋院中華人民共和国中華民国中野寛也中村道碩常昊三村智保三浦浩一力遼九条兼実九条良経平田博則平成四天王二中歴井山裕太井上家井上幻庵因碩井上道節因碩今村俊也建安文学伊田篤史伊藤友恵伊藤松和張栩張文東佐藤直男彦坂直人彭筌彭景華余正麒徐奉洙徐星友依田紀基御城碁徳川家康後鳥羽天皇応トウ応昌期忘憂清楽集北京市北魏北条幻庵北条氏直マイケル・レドモンドチョ薫鉉ハンス・ピーチプロ十傑戦フェルナンド・アギラール嘉永喜多文子周奎宏周小松周俊勲周鶴洋呂範呉 (三国)呉清源アマ四強 (囲碁)アメリカ合衆国アルゼンチンアレキサンダー・ディナーシュタインオーストラリアジェームズ・カーウィンスベトラーナ・シックシナゼイ廼偉唐莉全国囲棋個人戦全日本第一位決定戦兪斌元 (王朝)元晟ジン囲碁囲碁選手権戦囲碁棋士一覧 (韓国)石倉昇石田芳夫玄宗 (唐)玄玄碁経王導王尭王世貞王座 (囲碁)王元均王勃王磊 (囲碁)王積薪王立誠王粲王銘エン王雷王檄王戎班固現代囲碁大系琴棋書画睦鎮碩碁聖碁所秋山次郎窪内秀知竹林の七賢第二次世界大戦紀夏井羽根直樹羽根泰正羅洗河看聞日記結城聡片岡聡相原可碩白江治彦百済芝野虎丸銭宇平花鳥余情韓国棋院鎌倉時代過テキ生過百齢遣唐使適情録聶衛平聖徳王道観菊池康郎華以剛顧水如馬暁春許家元諸葛瑾高句麗高尾紳路高岳親王高川格高部道平高橋杵三郎高木祥一謝依旻謝赫謝赫 (囲碁)鯛中新豊臣秀次豊雲趙南哲趙善津趙治勲趙漢乗車敏洙黒嘉嘉黄奕中黄龍士范西屏胡耀宇阪口仙得阮籍関山利一関西棋院藤沢秀行藤沢里菜藤沢朋斎董彦邱峻邵イ剛蓋鹵王醍醐天皇金寅長寿王酒井安次郎苑田勇一雁金準一虞集陳祖徳陳詩淵陳臨新陳長清陳耀ヨウ陳毅陳永安陸遜NHK杯テレビ囲碁トーナメント柳時熏林家 (囲碁)林利玄林元美林聖賢林至涵林海峰李世ドル李昌鎬東野弘昭東晋村川大介村上文祥杉内寿子杉内雅男梶原武雄森田道博棋士採用試験棋待詔棋聖 (囲碁)棋正社棋戦 (囲碁)楼得達横田茂昭橋本宇太郎橋本昌二武宮正樹武帝 (南朝斉)水谷縫治江蘇省江鋳久江戸上り江戸時代江戸時代の囲碁棋士一覧汪雲峰河南省河燦錫河野臨沈括淡路修三満済漢陽区朝鮮通信使木谷實本因坊本因坊丈和本因坊元丈本因坊秀和本因坊秀哉本因坊秀策本因坊秀甫本因坊秀栄本因坊策元本因坊算砂本因坊道的本因坊道知本因坊道策本田幸子本田邦久本能寺本木克弥朱元璋朴廷桓朴ジ恩朴永訓明治明月記昭和浙江省新羅方円社斉 (南朝)日中囲碁交流日本の囲碁棋士一覧日本囲碁大系日本棋院日本棋院第一位決定戦日本棋院選手権戦日本最強決定戦早碁名人戦支遁慈円扇興杯女流囲碁最強戦曲励起曹大元 インデックスを展開 (295 もっと) »

加田克司

加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996年8月24日)は、日本の囲碁棋士。大分県別府市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。加納嘉徳、大平修三とともに戦後新三羽烏と言われた。堅実な碁風で、特に序盤に時間をかける長考で有名。また現代における詰碁創作の第一人者と評されていた。.

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加藤充志

加藤 充志(かとう あつし、1974年(昭和49年)8月14日 - )は、日本の囲碁棋士。東京都出身、日本棋院所属、菊池康郎に師事、九段。JT杯星座囲碁選手権戦優勝など。中央を好む棋風。.

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加藤正夫

加藤 正夫(かとう まさお 1947年3月15日 - 2004年12月30日)は日本の囲碁棋士。号は「劔正」。名誉王座。 同じ木谷實門下の石田芳夫・武宮正樹とともに「木谷三羽烏」「黄金トリオ」と呼ばれ、名人2期、本因坊4期、王座11期など数々のタイトルを獲得。七大タイトル獲得数歴代4位。棋道賞最優秀棋士賞を7度受賞(歴代2位タイ記録)。 若い頃は力ずくで大石を仕留める豪腕から「殺し屋」のニックネームがあった(なお、加藤の前に大平修三が「殺し屋」とあだ名されていた)が、棋風とは裏腹に穏和で面倒見の良い人柄で人望が厚かった。2004年には日本棋院理事長に就任、日本棋院の改革に取り組むが、2004年暮れに脳梗塞に倒れ、死去した。享年57。門下に大森泰志、岡田伸一郎、鈴木伊佐男、梅沢由香里、小山栄美ら。 妻は書家の加藤石泉。妻の両親もそれぞれ書家である佐々木泰南・佐々木月花であり、佐々木泰南は木谷道場に書の指導に来ていた。 2005年2月8日、その功績により旭日小綬章追贈。.

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劉小光

劉小光(りゅう しょうこう)は中華人民共和国の囲碁棋士。中国囲棋協会所属、九段。第1期名人、天元4期、世界囲碁選手権富士通杯3位など。棋風は力戦型。 中国棋院囲棋部副主任。.

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劉仲甫

劉仲甫(りゅう ちゅうほ、生没年不詳)は中国宋代の囲碁の名手で、哲宗、徽宗の頃の人。山東省済南生まれ、字は甫之。宋代を代表する国手と呼ばれ、囲碁論「棋訣(棋訣四篇)」の作者としても知られる。.

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劉因

劉 因(りゅう いん、1249年 - 1293年)元代の中国の学者。出生の前夜に父の劉述が一人の子供を載せた馬を神人が連れてくる夢を見たところから、「駰」と名づけられ、字を夢驥といったが、後に名を因、字を夢吉と改めた。諡は文請。.

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劉菁

劉 菁(りゅう せい、刘菁、リォウ・ジン、1975年4月23日 - )は、中国の囲碁棋士。貴州省安順出身、中国囲棋協会所属、馬暁春九段門下、八段。阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦優勝、LG杯世界棋王戦ベスト8など。常昊らとともに七小龍の一人と呼ばれる。妻はチェスプレイヤーの許昱華。.

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劉棣懐

劉 棣懐(りゅう しょうかい、1897年 - 1979年)または、劉 昌華(りゅう しょうか、Liu Changhua)は、中国の囲碁棋士。南京出身。顧水如、過惕生らと並ぶ現代代中国初期の代表的な棋士、全国囲棋個人戦優勝2回など。.

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劉星

劉 星(りゅう せい、刘星、リュ・シン、1984年12月10日 - )は、中国の囲碁棋士。天津市出身、中国囲棋協会所属、七段。阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦2連覇、世界囲碁選手権富士通杯4位など。古力、孔傑らとともに6小虎組と呼ばれる。.

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劉昌赫

劉 昌赫(ユ・チャンヒョク、유창혁、りゅう しょうかく、1966年4月25日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、九段。王位戦4連覇など国内タイトル多数、世界囲碁選手権富士通杯など世界棋戦優勝6回。1990年代には曺薫鉉、徐奉洙、李昌鎬と並び四強と呼ばれた。攻めの強い棋風で「攻撃手」のニックネームを持つ。.

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原田実 (棋士)

原田実(はらだ みのる、1936年-)は、日本のアマチュア棋士。アマ四強の1人。 全日本アマチュア本因坊戦に7回優勝しており、2010年に「名誉アマチュア本因坊」の称号が贈られた。 日本棋院神奈川県支部連合会顧問、神奈川県囲碁連盟相談役、囲碁研究会「遊仙会」「みのる会」主宰、NPO法人日本福祉囲碁協会客員。.

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半田道玄

半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月25日 - 昭和49年(1974年)4月13日)は、囲碁の棋士。広島県出身、鈴木為次郎名誉九段門下、日本棋院から関西棋院所属、九段。旧名は早巳。十段獲得、本因坊挑戦など。求道的な姿勢と、殿様碁とも言われた独特のゆったりした棋風で知られる。.

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十段 (囲碁)

十段(じゅうだん)は、囲碁の棋戦の一つである十段戦で優勝した棋士に贈られるタイトル。日本棋院および関西棋院の昇段制度(初段~九段)とは別個に運営される、独立した称号である。.

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南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

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古力

古 力(こ りき、古力、グ・リ、1983年2月3日 - )は、中国の囲碁棋士。重慶市出身、中国囲棋協会所属、九段。日本でも元音でぐりと呼ばれることが多い。天元戦・名人戦で6連覇、LG杯世界棋王戦2度など世界選手権優勝8回を数え、現世界最強の棋士の一人。 ニックネームは「大象」、「古大力」。孔傑、胡耀宇らとともに「6小虎組」に数えられる。.

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台湾

台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.

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台湾棋院

台湾棋院(たいわんきいん)は台湾の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦や囲碁の振興活動などを行う。正式名は『台湾棋院文化基金会()』。英語名はTaiwan Chi Yuan Culture Foundation。.

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名人 (囲碁)

名人(めいじん)は、囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトルである。.

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同朋衆

同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。1866年(慶応2年)に廃止された。 時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。観阿弥、世阿弥や、江戸幕府における同朋衆がその例である。.

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吉田操子

吉田操子(よしだ みさこ、1881年(明治14年9月21日) - 1944年(昭和19年)11月26日)は、囲碁の棋士。京都生まれ、本因坊秀栄門下、七段。旧姓井上。昭和初期の関西囲碁界の柱となって、多くの棋士を輩出した。.

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坂井秀至

坂井 秀至(さかい ひでゆき、1973年4月23日 - )は、日本のプロ棋士。関西棋院所属。兵庫県三田市出身。佐藤直男九段門下。灘高校卒業。 囲碁界初の医師免許保持者、京都大学医学部卒業者。 関西棋院所属棋士29年ぶりの七大タイトル獲得者(第35期碁聖)。.

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坂田栄男

二十三世本因坊栄寿(にじゅうさんせいほんいんぼうえいじゅ、1920年(大正9年)2月15日 - 2010年(平成22年)10月22日)、本名:坂田 栄男 (さかた えいお)は、囲碁棋士。東京都出身、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。名誉日本棋院選手権者、名誉NHK杯選手権者。 本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また布石での三々を多用した。 日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、1988年7月より日本棋院顧問。2000年2月15日に現役を引退。2009年より日本棋院名誉顧問。.

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増川宏一

増川 宏一(ますかわ こういち、1930年(昭和5年) - )は、日本の遊戯研究家。遊戯史学会会長、大英博物館リーディングルーム登録者、国際チェス史研究グループ会員、チェス史研究支援財団名誉会員、元将棋博物館顧問(現在は閉館)。『賭博』『さいころ』『遊戯』などの著者がある。.

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夢渓筆談

『夢渓筆談』(むけいひつだん)は、北宋の沈括(しんかつ)による随筆集。26巻。ほかに『補筆談』・『続筆談』がある。とくに科学技術関係の記事が多いことで知られる。.

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大平修三

大平修三(おおひら しゅうぞう、1930年(昭和5年)3月16日 - 1998年(平成10年)12月11日)は、日本の囲碁棋士。岐阜県出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。日本棋院選手権戦4連覇5期など。棋風は剛腕で、「ハンマーパンチ」「丈和の再来」と称された。また、加藤正夫より前に「殺し屋」とあだ名された。準棋士小山嘉代三段は実姉。.

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大竹英雄

大竹 英雄(おおたけ ひでお、1942年(昭和17年)5月12日 - )は、囲碁棋士。'''名誉碁聖'''。福岡県北九州市出身、日本棋院所属・顧問、木谷實九段門下、九段。 碁聖位6連覇、名人位4期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など。 厚く味のよい形を好む本格的な棋風で大器、大竹美学と呼ばれる。布石では小目を好む。またNHK杯優勝5回など早碁を得意とし「早碁の神様」、名人戦では挑戦手合通算12回出場などで「名人戦男」などのニックネームを持つ。同年同月生まれでライバルでもある林海峰と並んで"竹林"とも称される。 通算タイトル獲得数は48。門下に西村慶二八段。木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。 2008年12月9日-2012年6月26日は日本棋院理事長、2010年から全日本囲碁連合の会長も務めた。日本棋院の新旧タイトル保持者で作る名棋会の会長でもある。 現在、存命の名誉称号資格者・三大タイトル獲得経験者・碁聖位獲得者・十段位獲得者では林海峰名誉天元と並び最年長である。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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天元戦

天元戦(てんげんせん)は、日本で開かれている囲碁の棋戦。優勝者には天元のタイトルが与えられる。.

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太田雄蔵

太田 雄蔵(おおた ゆうぞう、文化4年(1807年) - 安政3年3月20日(1856年4月24日))は、江戸時代の囲碁棋士。江戸生まれ、安井門下、七段上手。天保四傑と呼ばれる一人。幼名は川原卯之助、後に良輔、その後太田姓を名乗り、雄蔵とした。号は一石庵爛柯。気合いがよく華麗な碁と言われる。本因坊跡目秀策との三十番碁が著名。.

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女流名人戦

女流名人戦(じょりゅうめいじんせん)は、産経新聞が主催する囲碁の女流棋士による棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1988年創設。優勝者は女流名人の称号を得る。.

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女流立葵杯

女流立葵杯(じょりゅういごたちあおいはい)は、囲碁の女流棋士による棋戦。協賛の一般財団法人温知会の運営する会津中央病院を冠する、会津中央病院・女流立葵杯が正式名称となる。 第1回から第3回までは会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦であったが、第4回から女流立葵杯になった。女流棋戦では2番目の格式となる。.

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女流棋聖戦

ドコモ杯女流棋聖戦(ドコモはい じょりゅうきせいせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦。1997年に創設。囲碁・将棋チャンネル(パーフェクTVのちスカパー!プレミアムサービス)で放映される。.

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女流本因坊戦

女流本因坊戦(じょりゅうほんいんぼうせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1981年創設。女流棋戦では最も格が高い。優勝者は女流本因坊の称号を得る。また5連覇により名誉女流本因坊の資格を得る。2014年まで、名誉女流本因坊の資格を持つのは謝依旻のみである。前身は1952年創設の女流選手権戦。.

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姜東潤

姜 東潤(カン・トンユン、강동윤、かん とうじゅん、1989年1月23日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル市出身、韓国棋院所属、権甲龍八段門下、九段。第1回ワールドマインドスポーツゲームズ優勝など世界戦優勝3回、電子ランド杯王中王戦優勝など。.

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孝文帝

孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日 - 499年4月26日)は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。.

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孫策

孫 策(そん さく、175年 – 200年5月5日)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県現在の浙江省杭州市富陽区。 の人。 若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙桓王と諡された。.

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孔傑

孔傑(孔杰、こう けつ、1982年11月25日 - )は、中国の囲碁棋士。北京市出身、中国囲棋協会所属、九段。全国囲棋個人戦、倡棋杯中国プロ囲棋選手権戦各優勝2回、三星火災杯世界囲碁マスターズ優勝など。古力、胡耀宇らとともに「6小虎組」にも数えられる。.

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孔祥明

孔祥明(こう しょうめい、コン・シャンミン、 1955年9月10日 - )は、中国の囲碁棋士。四川省成都出身、中国囲棋協会所属、八段。中国の女流棋士の先駆的存在であり、また初の八段。全国囲棋個人戦女子の部優勝3回など。日本棋院の孔令文は実子。2014年、小学4年生の孫(孔令文の一人息子)が日本第35回少年少女囲碁大会出場、予選で山下敬吾九段の一人息子(4年生)を破り、7位入賞。.

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孔融

孔 融(こう ゆう、永興元年(153年) - 建安13年8月29日壬子(208年9月26日))は、中国後漢末期の人物。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。孔子と同じく青州魯国曲阜県の出身である。父は孔宙。兄は孔褒。子の名は不詳。娘は羊衜(羊祜の父)の妻。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮下秀洋

宮下 秀洋(みやした ひでひろ、1913年(大正2年)12月20日 - 1976年(昭和51年)8月8日)は、囲碁の棋士。福島県出身、日本棋院所属、本因坊秀哉門下、九段。早碁名人戦2期、王座1期など。力戦派で「福島の猛牛」の異名を取る。宮下鈴枝初段は実子。名前は「しゅうよう」とも読む。.

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官子譜

官子譜(かんずふ、官子谱)は、中国の詰碁(珍瓏)を集めた棋書。明の時代の過百齢によって著され、清の時代に陶式玉の編注、改訂により現在の形となった。終盤の死活や攻め合いなどの問題を集めたもので、詰碁の二大名著として「玄玄碁経」と並べられるが、手筋の網羅性は「官子譜」が上回っている。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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安井家

安井家(やすいけ)は、江戸時代、本因坊家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家の一つであり、名人碁所として二世算知がいる。また江戸後期には「大天才」と評される七世仙知、囲碁四哲の一人八世知得、天保四傑の一人九世算知などの名棋士がこの家門から生まれている。十世算英は明治時代まで活躍した。.

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安井知得仙知

安井知得仙知(やすいちとくせんち、安永5年(1776年) - 天保9年閏4月27日(1838年6月19日))は、江戸時代の棋士で、家元安井家の八世安井仙知、八段準名人。七世安井仙知と区別して、七世を仙角仙知または大仙知、中野知得と名乗っていた八世は知得、知得仙知と呼ぶことが多い。名人の技量ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈、井上幻庵因碩、本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。.

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安井算哲

安井 算哲(やすい さんてつ、天正18年(1590年) – 慶安5年1月9日(1652年2月18日))は、江戸時代の囲碁の棋士。元の名は六蔵。江戸幕府から俸禄を受けて家元安井家の始祖となる。実子の二世安井算哲(渋川春海)と区別して古算哲とも呼ばれる。.

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安井算知 (俊哲)

安井 算知(俊哲)(やすい さんち(しゅんてつ)、文化7年(1810年) - 安政5年7月4日(1858年8月12日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元安井家の九世安井算知、七段上手。八世安井知得仙知の長男で、二世安井算知の名を継ぐ。天保四傑と呼ばれた一人で、無双の力碁とされる。息子は十世安井算英。.

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安徽省

安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.

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安倍吉輝

安倍 吉輝(あべ よしてる、1941年9月28日 - 2009年10月25日)は、日本棋院に所属する囲碁の棋士(東京本院所属、九段)。門下に金川正明、釼持丈。女流棋士の岡田結美子は実娘、イラストレーターの安倍吉俊は息子。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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小川誠子

小川誠子(おがわ ともこ、1951年4月1日 - )は、囲碁棋士。日本棋院所属。木谷實九段門下。夫は俳優の山本圭。.

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小林千寿

小林 千寿(こばやし ちず、1954年(昭和29年)9月28日 - )は、囲碁の棋士。日本棋院所属、木谷実九段門下、六段。日本棋院常務理事(2010年6月 - 2012年6月、2016年6月 - 現在)。日本将棋連盟非常勤理事(2011年5月〜)。女流選手権戦優勝3連覇、女流鶴聖戦優勝3回など。海外囲碁普及活動を積極的に行っている。小林四姉弟の長子で、孝之準棋士、健二七段、覚九段は弟。娘あり。.

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小林光一

小林 光一(こばやし こういち、1952年9月10日 - )は、囲碁のプロ棋士。名誉棋聖、名誉名人、名誉碁聖。北海道旭川市出身。木谷實九段門下。日本棋院東京本院所属。前妻の小林禮子(1996年逝去)との間に一男一女がいる。後妻との間にも子どもがいる。長女は小林泉美。娘婿は張栩。門下に河野臨、大矢浩一、酒井真樹、大木啓司、金澤秀男、桑原陽子、穂坂繭がいる。 タイトル獲得数歴代3位。棋聖8連覇、名人7連覇、碁聖6連覇など、数々のタイトル連覇記録を樹立。日本の現役囲碁棋士の中で井山裕太と並ぶ3つの名誉称号を持つ。棋道賞「最優秀棋士賞」7回(歴代2位タイ記録)、秀哉賞7回。6年連続賞金ランキング1位(1988-1993)。 2006年から2007年5月まで、日本棋院副理事長。 現在、存命の棋聖位獲得者では最年長である。.

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小林禮子

小林 禮子(こばやし れいこ、旧姓・木谷 1939年12月23日 - 1996年4月16日)は、日本棋院所属の囲碁の女流棋士。神奈川県出身、七段。父は木谷實九段、夫は小林光一名誉三冠、女流本因坊などを獲得した小林泉美六段は娘。.

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小林覚

小林 覚(こばやし さとる、1959年4月5日 - )は、囲碁棋士。日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。 第19期棋聖。第20期碁聖、三星火災杯世界オープン戦準優勝など。第29回棋道賞最優秀棋士賞受賞。 木谷道場の中で最も若い七大タイトル獲得者(門下では7人目で最後の獲得者)。 兄姉弟4人皆プロ棋士で(小林千寿五段、小林健二七段、小林孝之準棋士二段)その末弟。なお同姓の小林光一名誉三冠は同じ木谷門下の兄弟子ではあるが血縁関係は無い。.

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小林鉄次郎

小林 鉄次郎(鐵次郎、こばやし てつじろう、1848年(嘉永元年) - 1893年(明治26年)11月7日)は、囲碁の棋士。江戸生まれ、井上松本因碩門下、七段。本因坊秀甫、中川亀三郎らと方円社を設立し、運営に手腕を発揮、また方円社四天王の一人と呼ばれた。.

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小松英樹

小松 英樹(こまつ ひでき、1967年(昭和42年)3月4日 - )は、日本の囲碁棋士。愛知県出身、日本棋院所属、安永一に師事、九段。 棋道賞優秀棋士賞・最多勝利賞などを受賞。 NECカップ囲碁トーナメント戦優勝、新人王戦2回優勝など。師の安永の研究した中国流布石に詳しい。夫人は小松英子四段、小松大樹二段は実子。.

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尹奇鉉

尹奇絃(ユン・キヒョン、1942年9月19日 - )は、韓国、日本の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、加納嘉徳、木谷實門下、九段。国手戦優勝2回など。.

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将棋

将棋(しょうぎ)は、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種で、一般に「将棋」というときは特に本項で述べる本将棋(ほんしょうぎ、古将棋や現代の変形将棋類、変則将棋などと区別するための名称)を指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源と考えられている。 以下、本項では主に本将棋について解説する(本将棋以外の将棋及び将棋に関連する遊戯については将棋類の一覧を参照)。.

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山城宏

山城宏(やましろ ひろし、1958年8月12日 - )は、日本の囲碁棋士。山口県下松市出身、日本棋院中部総本部所属、島村俊廣九段門下、九段。王冠戦優勝15回、棋聖戦挑戦、本因坊戦挑戦3回など。若手の頃から「中京の豆ダイヤ」と言われ、地に辛く中盤以降の追い込みが強い棋風で「浸透流」とも呼ばれる。2012年より日本棋院副理事長を務める。.

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山下敬吾

山下 敬吾(やました けいご、1978年9月6日 - )は、日本棋院所属のプロ棋士。九段。北海道旭川市出身。緑星囲碁学園出身。棋聖、名人、本因坊などのタイトルを獲得。雅号は「道吾(どうわ)」。 張栩、羽根直樹、高尾紳路らとともに「若手四天王」「平成四天王」と称される。 3大タイトル獲得数歴代6位タイ、棋聖位獲得数歴代4位。棋道賞最優秀棋士賞を2度・優秀棋士賞を6度受賞。.

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山田規三生

山田 規三生(やまだ きみお、1972年(昭和47年)9月9日 - )は、囲碁の棋士。大阪市出身、日本棋院関西総本部所属、九段、山下順源七段門下。 第45期王座。第5回三星火災杯世界オープン戦準優勝。第58回NHK杯優勝。第31回棋道賞優秀棋士賞受賞。 関西総本部の棋士として初の七大タイトル獲得者。また14年後に井山裕太が取るまで唯一の獲得者だった。 山田至宝七段、和貴雄七段は兄。.

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山部俊郎

山部俊郎(やまべとしろう、大正15年(1926年)7月31日 - 平成12年(2000年)2月5日)は、囲碁の棋士。東京都出身、日本棋院所属、向井一男門下、九段。本因坊戦、天元戦挑戦者など準優勝9回を数える。手の見える天才肌の棋士で「奔放」「変幻」が代名詞。藤沢秀行、梶原武雄と並んで戦後派三羽烏と呼ばれた。.

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屋良里之子

屋良 里之子(ヤラ サトゥヌシ、、時憲暦康熙18年2月15日(グレゴリオ暦1679年3月26日) – 時憲暦雍正12年7月12日(グレゴリオ暦1734年8月10日))は、琉球王国第二尚氏王朝時代の囲碁棋士。姓は薛。唐名は薛以恭、名乗は利忠、童名は真山戸、号は道機。出家後の法号は因祐。采地が屋良村であり、位階が里之子であったことから、「屋良里之子」の名で知られた。最終的な采地は屋嘉部村であったことから、屋嘉部里之子親雲上利忠とも呼ばれた。また出家により僧となった後は屋嘉部因祐あるいは屋嘉部因祐利忠と呼ばれた。.

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岩本薫

岩本薫(いわもと かおる、1902年(明治35年)2月5日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。 1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。 囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。 日本における七大タイトル獲得経験者では最年長にあたる。.

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島村俊廣

島村 俊廣(しまむら としひろ、明治45年(1912年)4月18日 - 平成3年(1991年)6月21日)は、日本の囲碁棋士。三重県鈴鹿市出身、日本棋院所属、九段、鈴木為次郎名誉九段門下。利博から、俊宏、俊広、俊廣と改名。王座戦、天元戦優勝、本因坊戦挑戦2回など、長く中部碁界の重鎮として活躍した。渋い辛抱のいい棋風で「いぶし銀」と呼ばれ、また「忍の棋道」を自認した。.

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崔哲瀚

崔 哲瀚(チェ・チョルハン、さい てつかん、최철한、1985年3月12日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、権甲龍七段門下、九段。中環杯世界囲碁選手権戦など世界戦優勝2回など。非常に攻撃的な棋風で渾名は「毒蛇」。.

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工藤紀夫

工藤 紀夫(くどう のりお、昭和15年(1940年)8月2日 - )は、囲碁の棋士。青森県弘前市出身、日本棋院東京本院所属、前田陳爾門下、九段。元日本棋院副理事長。 第25期王座・第23期天元位。第31回棋道賞優秀棋士賞受賞。若い頃は力碁で「眠狂四郎」のニックネームがあったが、後年粘り強く冷静な棋風へと変化した。 現在、存命の七大タイトル獲得経験者では最年長である。.

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上野愛咲美

上野 愛咲美(うえの あさみ、2001年(平成13年)10月26日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。二段。東京都出身。 藤澤一就八段門下。第21期女流棋聖戦で初タイトル獲得。.

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丁偉

丁 偉(てい い、丁伟、ディン・ウェイ、1979年5月16日 - )は、中国の囲碁棋士。雲南省南華出身、中国囲棋協会所属、九段。全国囲棋個人戦、CCTV杯中国囲棋電視快棋戦優勝、春蘭杯世界囲碁選手権戦ベスト8など。常昊らとともに七小龍と呼ばれる一人。.

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中原

中原 冬の華北平原 中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。 古代でいわゆる「中国」や「中州」、「中土」と同義で、異民族から隔てられる文明の中心地という意味があった。その後、南方へと発展していった漢民族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。また周王のいたこの地域は権力の象徴とみられることがあり、天下を取るために争うことを「中原に鹿を逐う」という成語が生まれた。 中国の大衆小説である武侠小説の世界においては、武林の覇権を争う場、もしくは世界の中心となる場、という意味で用いられることがある。 Category:中国の地域 Category:中国の歴史的地域 Category:中国の別名.

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中山典之

中山 典之(なかやま のりゆき、1932年9月3日 - 2010年2月16日)は、囲碁のプロ棋士。長野県上田市出身。日本棋院東京本院所属。1951年、長野県上田松尾高等学校卒業。1953年、鈴木五良八段に入門。1962年入段。1992年六段に昇進。 アマチュア出身であり、入段が遅かった。タイトル戦などには縁がなかったが、文才に長け、『実録囲碁講談』『囲碁の世界』など囲碁界に関する多数の著作がある。またライターや編者としての100冊以上の棋書の編纂を行った。アマチュアへの指導に高い評価がある。また、ほぼ毎年海外に出て、囲碁の普及に努め、その功労により、平成8年度普及功労賞、平成16年大倉喜七郎賞受賞。 若い頃は名記録係といわれ、読売新聞の観戦記者である山田覆面子に重用された。 珍瓏の名手であり、代表作の1つである「ハート」は世界中の囲碁愛好家に知られている。 2010年2月16日、脳梗塞により77歳で死去。追贈七段。.

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中国囲碁棋士一覧

中国囲碁棋士一覧は中華人民共和国の囲碁棋士の一覧である。.

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中国囲棋協会

中国囲棋協会(ちゅうごくいききょうかい)は、中国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、囲碁普及活動や、棋士の育成、棋戦などを行う。英語名はChinese Weiqi Association。.

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中国囲棋会

中国囲棋会(ちゅうごくいきかい)は、台湾の囲碁棋士の組織。1952年に中国囲棋社(中國圍棋社)として設立され、1953年に現名称。名人戦などの各種棋戦を主催し、1979年から職業棋士(プロ棋士)制度を開始した。 当初は応昌期の支援で活動していたが、応昌期囲棋教育基金会は90年代からは活動の中心を中国大陸(中華人民共和国)に移す。2000年からは台湾棋院と併存している。.

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中国棋院

中国棋院(ちゅうごくきいん、簡体字:中国棋院)は、中華人民共和国の中国全国体育総会の下部組織で、中国の棋類(棋牌)に分類されるボードゲームを管轄している団体。囲碁、シャンチー(象棋)、チェス(国際象棋)、連珠(五子棋)、ブリッジ(桥牌)、麻雀(麻将)などを実施。1992年に設立。プロやアマチュアの大会の開催、棋士の育成などを行っている。 各地方を統括するための同種の組織として、上海棋院、成都棋院などがある。.

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中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中华人民共和国、中華人民共和國、People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、China)は、東アジアに位置する主権国家である。 中華人民共和国は、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国である。中華人民共和国は、首都北京市を政庁所在地とする中国共産党により統治されるヘゲモニー政党制である。.

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中華民国

中華民国(ちゅうかみんこく)は、東アジアに位置する民主共和制国家。 アジアで2番目の共和国として1912年に中国大陸で成立し、国共内戦により中国大陸で中華人民共和国が建国された1949年以降は台湾島と周辺の島嶼群など(自由地区)のみを実効支配する海洋国家となった。自由地区は、日本やフィリピン、中華人民共和国などと領海を接する。 議会制民主主義・資本主義体制国であり、1971年までは国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし国連の代表権問題や一つの中国政策により、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求しているため、2018年5月24日現在では中華民国を正式に国家として承認している国は18か国に留まる。上記の経緯があるため以前の国交を結んでいた国々を中心に、日本を含めて多くの国々と活発な経済的文化的な交流が行われている。台湾島及びその周辺島嶼群を含む地域名である台湾(たいわん)と表記されるのが一般的である。.

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中野寛也

中野 寛也(なかの ひろなり、昭和44年(1969年)6月3日 - )は、囲碁の棋士。広島県呉市出身、日本棋院中部総本部所属、島村俊廣九段門下、九段。 王冠戦優勝2回、十段戦挑戦1回。2011年度前期「NHK囲碁講座」に出演。好戦的な棋風から「戦い王子」の異名を持つ。.

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中村道碩

中村 道碩(なかむら どうせき、天正10年(1582年) - 寛永7年8月14日(1630年9月20日))は、江戸時代の囲碁棋士。本因坊算砂を継いで二世名人となり、算砂同様に碁打衆の頭領格となった。家元の井上家を興した井上玄覚因碩の師であり、後に道碩は十一世井上幻庵因碩により井上家一世に位置付けられた。道石とも記された。 道碩は本因坊算砂の弟子とされる。京都に居住し、慶長年間には算砂、林利玄らとともに、禁裏や公家屋敷、江戸城などに召し出されていたことが記録に残っている。(山科言経『言経卿記』、神龍院梵舜『舜旧記』、船橋秀賢『慶長日件録』など) 慶長17年(1612年)に碁打衆、将棋衆8人に俸禄が与えられた際には、道碩は50石を受けた。これは算砂、利玄、大橋宗桂 (初代)に次ぐ。元和9年(1623年)、算砂より名人の印可状を受ける。この年に算砂が没するとその遺言により、算砂の養子で当時13歳の本因坊算悦の後見となり、嘉永7年(1630年)に算悦を上手(名人に先、七段)に進め、本因坊家を正式に継承(再興)させた。さらに弟子の井上因碩(玄覚)も禄を受けることを願い出て、家元井上家となった。同年没す。墓所は京都寂光寺。 寛永3年(1626年)には二条城の徳川秀忠御前で安井算哲と対局し(白番3目負)、御城碁の始めと考えられている。同6年(1629年)には江戸城で算哲と対局した。約60局の棋譜が残されており、中では安井算哲との碁が40局ほどを占める。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。 他の弟子には、寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策がいる。.

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常昊

常 昊(じょう こう、チャン・ハオ、1976年11月7日 - )は、中国の囲碁棋士。上海出身、中国囲棋協会所属、九段。中国囲棋天元戦5連覇他棋戦優勝多数、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦優勝など国際棋戦でも活躍のめざましい、中国を代表する棋士であり、聶衛平「大龍」、馬暁春「中龍」に次ぐ、「七小龍」の一人とされる。渾名は「鴨子(アヒル)」。中国囲棋協会副主席。夫人は張璇八段。.

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三村智保

三村 智保(みむら ともやす、1969年7月4日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁のプロ棋士。九段。福岡県北九州市出身、千葉県育ち。藤沢秀行名誉棋聖門下。 第35回棋道賞勝率第一位賞受賞。.

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三浦浩

三浦 浩(みうら ひろし、1930年10月19日 - 1998年3月24日)は、日本の作家朝日新聞データベース 聞蔵Ⅱにて検索 1998年3月25日朝刊 35ページ。東京生まれ。 父はコーヒー店主の三浦義武。1949年に京都大学文学部英文科に入学。同学在学中には高橋和巳・小松左京・北川荘平らと京大作家集団に在籍。この時期の活動については、のちに『記憶の中の青春 -小説・京大作家集団-』として小説化を行っている。1953年に同学を卒業し産経新聞に入社、文化部に所属した。当時の文化部長は福田定一(のちの司馬遼太郎)であった『薔薇の眠り』三一書房刊 285ページ あとがき・小さなハードボイルド論 小松左京記す。在職中に休職しノースウェスタン大学に一年間留学、オックスフォード大学にも二年間の留学経験がある。その後、文化面編集部長、論説委員などを歴任した。 産経新聞在職中より文筆活動を始め、1977年7月に上梓した『優しい滞在』が自身二度目となる第78回直木賞候補作となった。この作品は日本推理作家協会賞候補にもノミネートされている。78回直木賞は受賞作なしと決まったが、選考委員の柴田錬三郎は三浦の作品を強く推したと言われる。直木賞にはこの後もつごう四作を送り込んでいる。 1985年に産経新聞を定年退職し、執筆活動に専念した。司馬遼太郎との親交が厚かった三浦は、1996年2月に司馬が死去すると鎮魂歌ともいうべき『菜の花の賦 -小説・青春の司馬さん-』『レクイエム 司馬遼太郎』(三浦編)を発表している。 三浦は喘息の持病があったが、1997年春頃から大病を患い壮絶な闘病生活を送った。病床で妻に口述筆記してもらった『司馬遼太郎とそのヒーロー』が絶筆となり、1998年3月24日に満67歳で没した。 「国際的なスケールを持つサスペンス作家」として評価されている。.

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一力遼

一力 遼(いちりき りょう、1997年6月10日 - )は、日本の囲碁棋士。 第42期棋聖戦挑戦者。天元戦挑戦者2回。第65期王座戦挑戦者。NHK杯準優勝2回。2014年グロービス杯世界囲碁U-20優勝。 棋聖戦・王座戦・天元戦の最年少挑戦記録他、多数の最年少記録を保持している。.

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.

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九条良経

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.

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平田博則

平田 博則(ひらた ひろのり、1926年(大正15年)6月 -)は日本の数学者、昭和薬科大学名誉教授で、囲碁のアマチュア強豪として知られる。アマ四強 (囲碁)と呼ばれる一人。福岡県出身、東京都福生市在住。.

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平成四天王

平成四天王(へいせいしてんのう)は、平成期に活躍しているトップ囲碁棋士四名の総称。張栩、山下敬吾、高尾紳路、羽根直樹の四人を指す。.

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二中歴

二中歴(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典である。 その内容は、平安時代後期に成立した「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存するのみとなっており、二中歴がこれらの存在を知る手がかりとなっている。 掌中歴と懐中歴は三善為康(1049~1139)の手による、平安時代後期のものと推定されているが、二中歴の編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。 尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。.

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井山裕太

井山 裕太(いやま ゆうた、1989年5月24日 - )は、日本棋院関西総本部所属の囲碁棋士。九段。大阪府東大阪市出身。石井邦生九段門下。名誉棋聖・二十六世本因坊・名誉碁聖の名誉称号資格保持者。号は本因坊文裕(ほんいんぼう もんゆう)。 囲碁界・将棋界通して史上初の2度の七冠達成者であり史上初の年間グランドスラム(その年の七大タイトルをすべて独占)達成者。また、囲碁界史上初の七冠達成者・六冠達成者。2016年4月21日から11月3日までの197日間、2017年10月18日から現在まで日間、七冠を保持中。 七大タイトル獲得数歴代2位(歴代1位タイまであと1期)、三大タイトル獲得数歴代2位、タイトル総獲得数歴代4位記録。 天元位歴代最多獲得記録「6期」、碁聖位連覇最多タイ「6連覇」記録保持者。 史上2人目の大三冠達成者。史上3人目のグランドスラム達成者。また、七大タイトルの数々の最年少記録を保持している。2013年から5年連続棋道賞最優秀棋士賞を受賞。2011年から7年連続賞金ランキング1位。 世界戦ではLG杯世界棋王戦準優勝、テレビ囲碁アジア選手権戦で優勝を果たしている。 2012年7月24日から現在まで間、七大タイトルのうち四冠以上を保持し続けている。 平成30年、国民栄誉賞を受賞。.

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井上家

井上家(いのうえけ)は江戸時代、囲碁の家元四家の一つであり、名人 (囲碁)を2名輩出している。初代道碩を除き、代々当主は因碩を名乗るしきたりであった。このため「春碩因碩」「幻庵因碩」などと、跡目時代の名や隠居後の名をつけて区別することが多い。 初代名人である本因坊算砂の高弟中村道碩を祖とする。歴代家元中最も知名度が高いのは十一世の幻庵因碩で、本因坊丈和と名人の地位を激しく争ったことで知られる。井上家は家元四家の中では最も長続きし、十七世の津田因碩が1983年に死去して断絶した。.

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井上幻庵因碩

井上 幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき、1798年(寛政10年) - 1859年(安政6年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十一世井上因碩、八段準名人。井上家は代々因碩を名乗ったため、隠居後の号である幻庵を付けて幻庵因碩と呼ぶ。相続前には橋本因徹、服部立徹、井上安節と改名。名人の技倆ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈、安井知得仙知、本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。本因坊丈和との名人碁所を巡る暗闘(天保の内訌)でも知られる。碁盤全体を使うスケールの大きな棋風が特色。別号として橘齋もある。.

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井上道節因碩

井上 道節因碩(いのうえ どうせついんせき、1646年(正保3年) - 1720年1月16日(享保4年12月7日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の四世井上因碩、五世名人碁所。元の名は桑原道節で、井上道節因碩、名人因碩と呼ぶ。難解さで古今唯一とされる『囲碁発陽論』の著者。本因坊道策の弟子であったが、道策流の理論的な布石よりは力戦的な碁であったとされる。 (井上家相続時は三世であったが、後の家系書き換えに基づき四世とする).

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今村俊也

今村 俊也(いまむら としや、昭和41年(1966年)3月29日 - )は、囲碁の棋士。奈良県奈良市出身、関西棋院所属、苑田勇一九段門下、九段。関西棋院常務理事(渉外・ネット担当)。元NHK囲碁講座講師。 第14期碁聖戦挑戦者。第55期王座戦挑戦者。 独創的かつじっくり手厚く構える棋風で「世界一厚い碁」とも呼ばれる。また早島戸川氏(岡山県早島町)の国家老(70石)の末裔として知られる人物である。 門下に長谷川広六段。康子夫人はアマチュア強豪であり、TV司会などでも活躍。.

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建安文学

建安文学(けんあんぶんがく)は、中国の後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。 それまで文学の中心とされていた辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。.

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伊田篤史

伊田 篤史(いだ あつし、1994年3月15日 - )は、日本棋院中部総本部所属の囲碁棋士、八段。三重県鈴鹿市出身。馬場滋九段門下。夫人は万波奈穂。 第20代十段位(53期)。入段から七大タイトル獲得までの最短記録保持者。2016年十段保持中は井山裕太七冠への最後の砦となった。 現在、七大タイトル獲得経験者では最年少である。.

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伊藤友恵

伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10日 - 1987年(昭和62年)1月21日)は、囲碁の棋士。旧名清子、旧姓川田。栃木県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下、七段。女流選手権戦5連覇を含む優勝7回など。力戦派で巴流、巴御前の異名を取った。.

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伊藤松和

伊藤 松和(いとう しょうわ、享和元年(1801年) - 明治11年(1878年))は、江戸・明治時代の囲碁棋士。名古屋出身、本因坊元丈門下、八段準名人。幼名は松次郎。天保四傑の一人として数えられる幕末の強手で、軽妙、機知に富む碁風、雅韻があったとも言われる。.

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張栩

張栩(ちょう う、1980年1月20日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士。九段。林海峰名誉天元門下。小林光一名誉三冠は義父にあたる。 史上初の五冠王、史上二人目のグランドスラム達成、通算七大タイトル獲得数歴代5位、3大タイトル獲得数歴代6位、棋道賞最優秀棋士賞7回(歴代2位タイ)、王座位獲得数歴代2位など多数の記録を保持。4年連続通算7回の賞金ランキング1位(2003-05・07-10年).

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張文東

張文東(ちょう ぶんとう、1969年5月5日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。北京市出身、中国囲棋協会所属、九段。全国囲棋個人戦、五牛杯王位戦優勝など。 中国囲棋協会副事務総長。中国囲棋甲級リーグ戦組織委員会副主任。.

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佐藤直男

佐藤 直男(さとう すなお 1924年2月15日 - 2004年7月8日)は、埼玉県出身の日本の囲碁棋士。関西棋院所属、九段。細川千仭九段門下、1939年5月入段 、1963年4月九段。 詰碁作家としても評価が高く、創作詰碁集『さわやか詰碁』『しなやか詰碁』(誠文堂新光社)は代表作。また結城聡・坂井秀至ら、多くの関西棋院の弟子を育てた。.

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彦坂直人

彦坂 直人(ひこさか なおと、1962年〔昭和37年〕3月17日-)は、日本の囲碁の棋士。名古屋市出身、酒井利雄八段門下、日本棋院中部総本部所属、九段。 第36期十段位、棋道賞優秀棋士賞受賞。世界囲碁選手権富士通杯4位など。中央を重視する奔放な碁風。一方で「ポカ」が多いとも自認している。 中部総本部の棋士として史上2人目の七大タイトル獲得者である。.

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彭筌

彭 筌(ほう せん、彭荃、ペン・クァン、1985年11月9日 - )は、中国の囲碁棋士。貴州省出身、中国囲棋協会所属、劉小光九段門下、七段。全国囲棋個人戦準優勝2回、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦ベスト4など。「小李昌鎬」の異名もある。.

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彭景華

彭景華(ほう けいか)は台湾の囲碁棋士。中国囲棋会五品、台湾棋院七段。名人2期、国手2期など。.

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余正麒

余 正麒(よ せいき、1995年6月19日 - )は、台湾、日本の囲碁棋士。台湾台北市北投区出身。張呂祥六段門下、台湾棋院、関西棋院所属、七段。 第64期王座挑戦者。第55期十段位挑戦者。.

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徐奉洙

徐奉洙(ソ・ボンス、서봉수、1953年2月1日 - )は、大韓民国の囲碁棋士。大田出身、韓国棋院所属、九段。1970年代以後、曺薫鉉に伍してタイトルを争い、日本での修行経験のない棋士として人気を得る。国内タイトル多数の他、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦優勝など。戦闘的な碁で「野武士」「野戦司令官」などと呼ばれる。若くして名人位をとったことから「徐名人」と称される。『勝負する心 李昌鎬自伝』 自由国民社 2012年.

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徐星友

徐星友(じょ せいゆう、1644年(順治元年)頃 - 没年不詳)は中国清朝初期の囲碁の棋士。浙江省杭州生まれ、名は遠。国手。 黄龍士の弟子となり、康熙初年に周東侯を破り名を挙げた。黄と三子で打った十番の棋譜「血涙篇」が著名となる。康熙末年になって若い程蘭如に敗れて故郷で隠遁する。 著書に「兼山堂奕譜」がある。また徐の対局は、当時の棋譜を集めた「奇青霞館」に多く収められている。.

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依田紀基

依田 紀基(よだ のりもと、1966年2月11日 - )は日本の囲碁のプロ棋士。北海道岩見沢市出身。安藤武夫七段門下、九段。名人4期、碁聖6期、NHK杯優勝5回、世界棋戦で第1回三星火災杯世界オープン戦優勝など、タイトル獲得数35。棋道賞優秀棋士賞4回。左利だが、石を打つのは右手。.

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御城碁

御城碁(おしろご)は、江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3年(1626年)頃に始まり、毎年1回、御城将棋とともに2、3局が行われ、幕末の元治元年(1864年)に中止となるまでの230年余りに渡って続いた。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとってもっとも真剣な勝負であった。また碁によって禄を受けている家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露する義務としての意味もあり、寺社奉行の呼び出しによるという形式で行われた。実際に将軍が観戦することは多くなかったが、代行として老中などが列席した。 全部で536局の対局が行われ、出仕した棋士は67名。代表的な成績としては、本因坊秀策の、嘉永2年(1849年)から文久元年(1861年)にかけての19連勝が有名。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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応トウ

応瑒(おうとう、? - 217年)は、中国後漢末期の政治家・文人。字は徳璉。豫州汝南郡南頓県(河南省項城市)の出身。建安七子の一人。父は応珣。弟は応璩。伯父は応劭。伯祖父は応奉。 曹操に召し出されて丞相掾属に任ぜられた。後に曹操の三男曹植の庶子を経て、五官中郎将文学となる。しかし217年、華北で流行した疫病により死去した。同じく建安七子である徐幹も、この疫病で死去している。.

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応昌期

応昌期(おう しょうき)は台湾の実業家、囲碁ルール研究家。 独自の囲碁ルールである計点制ルール(応昌期ルール)を考案した。また囲碁の普及のために応昌期囲棋教育基金会を設立し、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦などの棋戦の主催、台湾や中国で囲碁学校設立や棋戦の後援など、囲碁普及に大きく貢献した。.

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忘憂清楽集

忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、忘憂清樂集)は、中国の古典的な囲碁に関する棋書で、現存する最古の棋書とされている。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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北条幻庵

北条 幻庵正確には「長綱」と「幻庵宗哲」が名乗った正式名称であり、「幻庵」という略称は正しくない(黒田基樹の研究に拠る)(ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ながつな)は、戦国時代の武将。伊勢盛時(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた4男。箱根権現社別当。金剛王院院主。.

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北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

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マイケル・レドモンド

マイケル・レドモンド(Michael Redmond, 1963年5月25日 - )は、日本、アメリカの囲碁棋士。九段。アメリカ・カリフォルニア州出身、日本棋院、アメリカ囲碁協会所属、大枝雄介九段門下。数少ないアメリカ出身のプロ棋士で、欧米人として初めて九段に昇段した。新人王戦準優勝など棋戦でも活躍。妻は中国囲棋協会の牛嫻嫻三段。.

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チョ薫鉉

曺薫鉉(チョ・フンヒョン、)、そう くんげん、1953年3月10日 - )は、韓国の囲碁棋士・政治家。全羅南道木浦市出身、瀬越憲作名誉九段門下、日本棋院、韓国棋院所属、九段。 韓国囲碁界のタイトル王であるとともに、第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦を始めとして世界選手権でも多数優勝、1990年代から2000年代前半にかけての世界最強棋士の1人。 史上最多世界タイトル保持者・李昌鎬の師匠としても知られる。 2016年から国会議員に就任している。.

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ハンス・ピーチ

ハンス・ピーチ(Hans Reinhard Pietsch、1968年9月27日 - 2003年1月16日)は、ドイツ出身の日本棋院所属のプロ棋士。小林千寿五段門下。数少ないヨーロッパ出身のプロ棋士として囲碁の普及活動にも積極的に携わっていたが、2003年普及に訪れたグアテマラで強盗に襲われ不慮の死を遂げた。.

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プロ十傑戦

プロ十傑戦(ぷろじっけつせん)は、囲碁の棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加した。1964年から1975年までの12期行われた。優勝者から第10位まで順位を付けることが特徴。アマ十傑戦との入賞同士によるアマ・プロ対抗戦を行い、人気を集めた。.

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フェルナンド・アギラール

フェルナンド・アギラール(Fernando Aguilar、1959年7月16日 - )は、アルゼンチンのアマチュア囲碁棋士。本業は建築技師。ブエノスアイレス在住、アマチュア六段。世界選手権大会の南米代表の常連で、ネット碁などで腕を磨く。 第1回トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦では長谷川直九段、楊嘉源九段のプロ棋士を連破してベスト8に進出して注目された。第3回出場時のコメントでは、第1回の成績について「藤原佐為が私に取り憑いていたのでしょう」と語った。2008年の世界アマチュア囲碁選手権戦では7勝1敗の成績で、韓国、中国代表に次ぐ3位となった。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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喜多文子

喜多文子(きた ふみこ、明治8年(1875年)11月16日) - 昭和25年(1950年)5月10日)は、囲碁の棋士。東京生まれ、方円社、日本棋院に所属、名誉八段。女流棋士として初の実力四段となり、また多くの女流棋士を育て、現代女流碁界の母と言われる。大正の碁界大合同、日本棋院設立にも大きな功績があった。.

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周奎宏

周 奎宏(しゅう けいこう)は台湾の囲碁棋士。原名は周 咸亨(しゅう かんきょう)。中国囲棋会、台湾棋院所属、六段。名人8期など。.

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周小松

周 小松(しゅう しょうしょう、1820年 - 1891年)は中国清代末期の囲碁の名手。江蘇省揚州生まれ。清朝最後の国手と呼ばれる。 18世紀前半に「晩清の十八国手」と呼ばれた一人、秋航に付いて囲碁をの腕を磨き、20歳を過ぎた頃に楊州を訪れたやはり国手の李湛源に二子で大勝して、国手の水準にありとされた。咸豊年間に戦乱を避けて東台県に移り、その地での囲碁を振興する。 東台県の頃、両江総督の曽国藩に招かれて対局をしたが、周は手加減することなく九子局でまで勝ってしまい、曽は怒ってその場から周を追い出してしまった。1870年(同治9年)に、やはり当時名声の高かった陳子仙と行った対局は熱戦として知られる。晩年は貧しい生活を送った。 清の時代は、初期の黄龍士や徐星友、その後の范西屏、施定庵などの頃は囲碁は盛んでレベルも高かったが、乾隆の頃からは国情とともに囲碁も低迷し、任惠南、董六泉らが「晩清の十八国手」とも呼ばれたが、前4人の頃の棋力には及んでいなかった。陳子仙が1871年に早逝した後は、金明斋、劉雲峰、英星垣などがいたが周に二、三子置く程度であり、周の死後は、国手のいなかった時代と言われる。.

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周俊勲

国手 3期天元 3期十段 3期王座 3期棋王 2期 | 通算成績.

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周鶴洋

周 鶴洋(しゅう かくよう、周鹤洋、1976年6月18日 - )は中国の囲碁棋士。河南省洛陽市出身、中国囲棋協会所属、九段。棋聖戦、テレビ囲碁アジア選手権戦優勝など。常昊らとともに「七小龍」の一人とされる。.

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呂範

呂 範(りょ はん、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。呉に仕えた。字は子衡。豫州汝南郡細陽県(安徽省太和県)の出身。子に呂拠(次男)。.

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呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.

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呉清源

呉 清源(ご せいげん、1914年6月12日 - 2014年11月30日 )は、囲碁の棋士。中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は呉 泉(ご せん、帰化後は くれ いずみ)、清源は字。一時日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、後に復帰。日本棋院名誉客員棋士。 木谷実とともに「新布石」の創始者としても知られる。門下に林海峰、芮廼偉。.

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アマ四強 (囲碁)

アマ四強(アマよんきょう)は、1950年代以降に台頭し、長らく活躍した囲碁のアマチュア強豪棋士4名、菊池康郎、平田博則、村上文祥、原田実をさす。 1950年代から1960年代にかけては、各アマチュア棋戦で4名で優勝をほぼ独占。1970年代以降も現在に至るまで、アマチュア棋戦で実績を重ねている。1976年、安永一とアマ四強には、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。 のちに西村修を含めてアマ五強、三浦浩を含めてアマ六強、中園清三を含めてアマ七強と呼ばれた。彼らはその実績から、アマチュア棋戦で地方予選を免除され「招待選手」として全国大会から出場した。 Category:囲碁 Category:名数4.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アルゼンチン

アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。 チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。 2005年と2010年に債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行し、9割以上の債務を再編した。これはアメリカ合衆国との国際問題に発展した。.

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アレキサンダー・ディナーシュタイン

アレキサンダー・ディナーシュタイン(Александр Григорьевич Динерштейн、1980年4月19日 - )は、ロシア、韓国の囲碁棋士。ロシア出身、韓国棋院所属、三段。スベトラーナ・シックシナとともに、ロシア人としては初めての囲碁のプロ棋士。ヨーロッパチャンピオン7回など。.

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オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

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ジェームズ・カーウィン

ェームズ・カーウィン(James Kerwin、1946年11月1日 - )は、日本の囲碁棋士。アメリカ合衆国ミネソタ州出身、岩本薫九段門下、日本棋院に所属、初段。日本棋院では欧米人として初のプロ棋士。棋聖戦初段戦優勝。2013年引退。.

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スベトラーナ・シックシナ

ベトラーナ・シックシナ(Svetlana Shikshina、쉭시나 스베틀라나、1980年3月7日 - )は、ロシア、韓国の囲碁棋士。ロシア出身、千豊祚八段門下、韓国棋院所属、三段。.

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ゼイ廼偉

芮廼偉(ぜい のい、芮乃伟、ルイ・ナイウェイ、루이나이웨이、Rui Naiwei、 1963年12月28日 - )は、中国、韓国等の囲碁棋士。中国上海出身、中国囲棋協会所属、韓国棋院客員棋士など、九段。女流世界棋戦で優勝8回、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦ベスト4など、女流では世界最強の棋士。師は呉清源九段。江鋳久九段は夫。力の強い戦闘的な棋風。「廼(乃)」の日本語の音は「ダイ」であるが、日本棋院では訓読みで「の」としている。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唐莉

唐 莉(とう り、1982年7月27日 - )は、中国の囲碁棋士。重慶出身、中国囲棋協会所属、初段。美人棋士としてテレビ囲碁番組の解説者などで活躍する他、芸能活動にも進出。.

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全国囲棋個人戦

全国囲棋個人戦(ぜんこくいきこじんせん、全国围棋个人赛)は、中国の囲碁の棋戦。正式には全国囲棋大会の個人戦であり、通称で全国個人戦と呼ぶことが多い。中華人民共和国において囲碁などが体育省によって振興されるようになった1957年に、シャンチー(中国象棋)とともに開始。1978年からは女子の部も開始された。中国で最も古い棋戦であり、参加選手も多く、プロとアマチュアの選手が参加する。 主催は国家体育総局棋牌運動管理センター。1959年は第1回全国運動会として開催。1964年の全国運動会では棋類は種目として採用されず、1975、79年は第3回、第4回全国運動会として開催された。1967年からは文化大革命により開催されず、1974年になって前年の日中囲碁交流に続いて全国大会も再開された。1976年は毛沢東死去により中止。 1974年には成年組に加えて、17歳以下の少年組、12歳以下の児童組が行われ、児童組では馬暁春、銭宇平の属する上海チームが団体優勝した。2004年からは男子甲組、男子乙組として行われる。 1988年から2011年まで、1、2位の選手は世界囲碁選手権富士通杯の出場権を得た。1996年から2000年までの女子の部の優勝者は、日中スーパー囲碁の女流戦に出場した。.

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全日本第一位決定戦

全日本第一位決定戦(ぜんにほんだいいちいけっていせん)は、日本の囲碁の棋戦。前身の日本棋院第一位決定戦から発展して、出場者にそれまでの日本棋院棋士に関西棋院も加えて、1970年に開始。1975年まで5期行われ、碁聖戦に発展解消する。.

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兪斌

兪斌(ゆ ひん、俞斌、1967年4月16日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。浙江省天台県出身、中国囲棋協会所属、九段。LG杯世界棋王戦優勝、棋王戦2連覇など。馬暁春と常昊らの中間世代の棋士で、常に安定した好成績を収めている。ニックネームは「常青樹」「江南才子」「魚頭」。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元晟ジン

元 晟溱(ウォン・ソンジン、원성진、げん せいしん,1985年7月15日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル市出身、韓国棋院所属、権甲龍七段門下、九段。沖岩高等学校卒業。バッカス杯天元戦優勝、三星火災杯世界オープン戦優勝など。.

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囲碁

囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。.

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囲碁選手権戦

囲碁選手権戦(いごせんしゅけんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1957年(昭和32年)開始、1967年(昭和42年)11期までで終了。正式名称は「高松宮賞、東京新聞社杯争奪囲碁選手権戦」。優勝者の他に、殊勲・敢闘者に高松宮賞が贈られた。.

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囲碁棋士一覧 (韓国)

韓国の囲碁棋士一覧では主に韓国棋院所属の囲碁の棋士を一覧にする。.

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石倉昇

石倉 昇(いしくら のぼる、1954年6月22日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。神奈川県横浜市出身。九段。.

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石田芳夫

二十四世本因坊秀芳 (にじゅうよんせいほんいんぼう しゅうほう、1948年8月15日 -)、本名:石田芳夫( いしだ よしお )は、日本の囲碁棋士。愛知県西春日井郡新川町(現清須市)出身、木谷實九段門下、日本棋院所属、九段。タイトル獲得数は24。 史上3人目の七大タイトル名誉称号資格者。本因坊の史上最年少獲得者。史上3人目の名人本因坊。大手合30連勝達成。 正確な計算と形勢判断により「コンピュータ」のニックネームがある。.

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玄宗 (唐)

宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.

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玄玄碁経

碁経(げんげんごきょう、)は、囲碁についての、中国の古典的な棋書。南宋時代に著わされ、元代に再編されて現在まで残っている。現存する棋書としては『忘憂清楽集』に次いで古いものとされる。詰碁や手筋などの問題が多数収録されており、日本でも江戸時代から現在に至るまで囲碁の勉強に活用されている。『玄玄集』、『玄々碁経』と記されることもある。.

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王導

王 導(おう どう、276年 - 339年)は、中国の晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった。王覧の孫で王裁の子。王悦、王恬、王洽、王協、王劭、王薈などの父。東晋の大将軍王敦は従兄、書家の王羲之は従甥に当たる。.

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王尭

王 尭(おう ぎょう、王尧、王垚、ワン・ヤオ、1983年1月26日 - )は、中国の囲碁棋士。雲南省昆明出身、中国囲棋協会所属、六段。リコー杯囲棋戦優勝、LG杯世界棋王戦ベスト4など。小虎世代の一人で、渾名は「じゃがいも(土豆)」。.

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王世貞

王世貞 王 世貞(おう せいてい、1526年 - 1590年)は、中国・明の学者、政治家。字は元美、号は弇州山人(えんしゅうさんじん)。南直隷太倉(江蘇省)出身。官は刑部尚書に至った。.

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王座 (囲碁)

王座(おうざ)は囲碁の棋戦の一つである王座戦で優勝した棋士に贈られるタイトル。.

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王元均

王元均(おう げんきん、ワン・ユァンジュン、1996年3月14日 - )は台湾の囲碁棋士。台北市出身、台湾棋院所属、林聖賢七段門下、八段。棋王戦2連覇、天元戦3連覇など。.

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王勃

王 勃(おう ぼつ、650年(永徽元年) − 676年(上元3年))は、中国・唐代初期の詩人。字は子安。「初唐の四傑」の一人。.

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王磊 (囲碁)

王 磊(おう らい、1977年12月26日 - )は中国の囲碁棋士。黒竜江省大興安嶺地区出身、中国囲棋協会所属、八段。覇王戦優勝、三星火災杯世界オープン戦準優勝など。2002年に中国棋士ランキング1位。常昊らとともに「七小龍」と呼ばれる一人。.

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王積薪

王 積薪(おう せきしん、生没年不詳)は中国唐代中期の囲碁の名手で、国手と呼ばれた。「囲碁十訣」の作者、及び鎮神頭(一子二解征)の手筋の発見者とも言われる。 唐の玄宗皇帝の頃に農家に生まれる。早くに父母を亡くしたために山に入って柴刈りで働いたが、当時山中に多くの仏教寺院があり、ここで僧侶達が碁を楽しんでいたのを見て碁を覚え、やがて僧侶達も上回る腕前になる。その後旅に出て腕を磨き、これが長安に伝わって、玄宗に招かれて、棋待詔(碁によって仕える待詔)として仕えた。外出時は常に竹筒に入れた紙製の碁盤と碁石を携えて、人々と対局したという。ある時金谷園で馬汪と対局して2勝4敗となるが、次に3連勝して5勝4敗となる。これが「金谷園九局図」として有名となった。 安史の乱で玄宗が蜀に逃れた時に積薪も随行し、山中の路上で宿した民家の老婦と嫁から「人間の敵の無い」碁の技を授かったという伝説が「集異記」に記されている。 王積薪は碁の精髄を記したという「碁経」を著したとされるが、現存していない。また後の棋書にも多く紹介されている「囲碁十訣」の作者とも言われるが、確かではない。 12世紀に出版された棋書『忘憂清楽集』には、積薪が発見した「一子二解征」と呼ばれる妙手が記載されている。 ファイル:Chinshintou.jpg 黒★の手が、白からの2つのシチョウを1手で防いでいる。.

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王立誠

王 立誠(おう りっせい、1958年11月7日 - )は日本、台湾の囲碁棋士。日本棋院東京本院所属、加納嘉徳九段門下、九段。 棋道賞最優秀棋士賞を2度受賞。3年連続賞金ランキング1位(2000年-02年)。 棋聖位3連覇、十段4連覇、LG杯世界棋王戦優勝など。シノギを得意とする勝負強い棋風で、特に中盤から終盤にかけての逆転力があり、「逆転の王」「王立誠マジック」と称される。 夫人との間に1女、1男。日本棋院中部総本部所属の王景怡三段は実娘、関西棋院研修棋士の王景弘初段は実息。台湾プロ棋士の張正平三段(陳詩淵九段の夫人)と張原栄二段は実甥。 呉清源の研究会に参加し、1990年代以降に呉が「21世紀の碁」として提唱する、コゲイマへの肩ツキ等の手法を実戦で用いて一般化させた。また早碁棋戦優勝が多く、「早碁の王様」のニックネームもある。門下に張豊猷八段、関西棋院の呉柏毅三段。.

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王粲

王 粲(おう さん、熹平6年(177年) - 建安22年(217年))は、中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。曾祖父は王龔(後漢の三公)。祖父は王暢(後漢の三公)。父は王謙。従兄弟は王凱。子は男子二人。文人としても名を残したため、建安の七子の一人に数えられる。.

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王銘エン

王 銘 (おう めいえん)は台湾の囲碁棋士。日本棋院所属、九段、瓊韻社の富田忠夫名誉九段門下。プロ棋士鄭銘瑝、鄭銘琦は実弟。台湾プロ棋士の周俊勲は義弟(妹の夫)。 第34回棋道賞優秀棋士賞受賞。獲得タイトルに本因坊2期、王座1期など。 厚み重視の棋風で、「ゾーンプレス」と名付けた序・中盤理論に基づく中央重視の戦法など独特な感覚を見せ、「銘ワールド」とも呼ばれる。またTV番組での解説や著書などで見せるユーモアあふれる語り口も人気が高い。.

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王雷

王雷(おう らい、ツォン・ウェンジン、王雷、1986年10月11日 - )は、中国の囲碁棋士。河北省保定出身、中国囲棋協会所属、六段。全国智力運動会準優勝、三星火災杯世界囲碁マスターズベスト8など。.

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王檄

王 檄(おう げき、王檄、ワン・シー、1984年1月9日 - )は、中国の囲碁棋士。河南省出身、中国囲棋協会所属、九段。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝、三星火災杯世界オープン戦準優勝など。古力らとともに「6小虎組」の一人。.

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王戎

王 戎(おう じゅう、青龍2年(234年) - 永興2年(305年))は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏・晋に仕えた。字は濬沖。徐州琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市蘭山区)の人(琅邪王氏)。祖父は王雄(字は元伯)。父は王渾(字は長源、王渾玄沖とは別人)。叔父は王乂(字は叔元、魏の平北将軍)。従弟は王衍。子は王万・王興・娘(裴頠妻)。『晋書』に伝がある。 竹林の七賢の1人であり、『世説新語』に数々の逸話がある。.

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班固

班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.

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現代囲碁大系

『現代囲碁大系』(げんだいいごたいけい)は、 講談社から1980年から1984年にかけて刊行された、呉清源、高川格、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲、小林光一ら、現代囲碁を代表する棋士たちの打碁全集。全47巻、別巻1。編集主幹は林裕。 古典棋士たちについては日本囲碁大系が刊行されている。.

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琴棋書画

棋書画(きんきしょが)とは、文人、士大夫が嗜むべきとされた芸。四芸。.

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睦鎮碩

鎮碩(モク・チンソク、ぼく ちんせき、목진석、1980年1月20日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、九段。LG杯世界棋王戦準優勝、KBS杯バドゥク王戦優勝など。.

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碁聖

碁聖(ごせい)は.

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碁所

碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。 各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。 また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。.

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秋山次郎

秋山 次郎(あきやま じろう、1977年11月23日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。東京都世田谷区出身。菊池康郎に師事。NEC俊英囲碁トーナメント戦優勝、天元戦挑戦者など。.

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窪内秀知

内秀知(くぼうち しゅうち、1920年(大正9年)1月25日 - )は、日本の囲碁棋士。大阪府出身、久保松勝喜代名誉九段門下、関西棋院所属、九段。関西棋院第一位決定戦優勝、名人戦リーグ4期・本因坊戦リーグ3期など。力戦派で、「サビ刀」(切られるとすごく痛い)と呼ばれた。一時雅邦に改名。関西棋院監事も務めた。2009年引退。.

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竹林の七賢

竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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紀夏井

紀 夏井(き の なつい、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大納言・紀古佐美の曾孫。美濃守・紀善峯の三男。母は石川氏。官位は従五位上『日本三代実録』貞観8年9月22日条・右中弁。.

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羽根直樹

羽根直樹(はね なおき、1976年8月14日 - )は囲碁のプロ棋士。日本棋院中部総本部所属。三重県志摩市磯部町出身。A型。七大タイトル獲得は8期。 棋聖2連覇、本因坊2連覇、天元位3連覇。中部総本部初の三大タイトル獲得者。 張栩、山下敬吾、高尾紳路らとともに「平成四天王」と称される。 親子棋士としても有名で史上初の親子での七大タイトル獲得者でもある。.

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羽根泰正

羽根 泰正(はね やすまさ、昭和19年(1944年)6月25日 - )は、日本の囲碁棋士。三重県度会郡神原村(現志摩市)出身、日本棋院中部総本部所属、島村俊廣九段門下、九段。王座1期、日中スーパー囲碁では聶衛平を破って日本の初勝利をもたらした。攻めの強い棋風で、特に高中国流の布石からの「戦いの碁」を得意とする。呼び名は「中京のダイヤモンド」。羽根直樹九段は実子。.

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羅洗河

羅洗河(ら せんか、罗洗河、ルオ・シィホォ、1977年11月23日 - )は中華人民共和国の囲碁棋士。湖南省出身、中国囲棋協会所属、九段。全国囲棋個人戦優勝、三星火災杯世界オープン戦優勝など。読みの深い碁。渾名は「快刀」、また風貌から「小猪」だったが、三星火災杯優勝により「飛猪」と称された。常昊ら「七小龍」と呼ばれる一人。.

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看聞日記

『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。 貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。 一部は消失しているが、原本は宮内庁書陵部に所蔵されている。1930年(昭和5年)に続群書類従完成会により宮内庁書陵部所蔵原本が翻刻され、以来室町期の政治・社会・文化を知る史料として活用されている。.

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結城聡

結城 聡(ゆうき さとし、1972年(昭和47年)2月11日 - )は、囲碁の棋士。元NHK囲碁講座講師。兵庫県神戸市出身、関西棋院所属、佐藤直男九段門下、九段。 第36期天元位、第51期十段位、NHK杯5回優勝、テレビ囲碁アジア選手権戦準優勝。橋本宇太郎・橋本昌二以来約30年ぶりの関西棋院所属のトップ棋士。関西棋院最優秀棋士賞7回。 2017年には史上最年少・最速・最高勝率・関西棋院初の1200勝達成。.

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片岡聡

片岡 聡(かたおか さとし、1958年(昭和33年)8月3日 - )は、囲碁の棋士。千葉県松戸市出身、日本棋院所属、榊原章二九段門下、九段。天元位獲得、本因坊戦挑戦者など。手厚くバランスのよい本格的な棋風。.

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相原可碩

原 可碩(あいはら かせき、元禄11年(1698年) - 安永5年(1776年))は、江戸時代の囲碁棋士。伊予国生まれ、四世井上道節因碩門下、七段。琉球碁士との対戦がある他、本因坊知伯、本因坊秀伯、本因坊伯元の時代に碁界を支えたとも言われる。.

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白江治彦

白江 治彦(しらえ はるひこ、1938年1月16日 - )は、囲碁のプロ棋士、八段。石川県小松市出身、大窪一玄門下。日本棋院所属、2004年に引退。 アマチュアへの普及活動に献身し、多くのファンの指導に当たったため剣術の吉岡一門になぞらえて「門弟三千人」などとも言われた。軽妙なトークを生かして囲碁番組の司会などを数多く務めており、囲碁界の底辺拡大の功績は極めて高く評価されている。 棋風は中央戦を得意とし、珍しい着点である大高目(4線と6線の交点)や「浮かび」(第6線と第10線の交点)などを多用したことで知られる。 息子に、ダイアモンド囲碁サロン経営者の白江徹一。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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芝野虎丸

芝野 虎丸(しばの とらまる、1999年(平成11年)11月9日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。七段。神奈川県出身。洪道場出身。兄は同じ囲碁棋士の芝野龍之介。 第26期竜星戦優勝者。第49回棋道賞勝率第1位賞受賞。 入段からリーグ入りの最短記録保持者。名人戦リーグ・本因坊リーグ入り史上最年少記録保持者。歴代2位のリーグ入り年少記録保持者。全棋士参加棋戦獲得の最短記録保持者。.

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銭宇平

銭宇平(せん うへい、1966年10月6日 - )は、中国の囲碁棋士。上海市出身、中国囲棋協会所属、九段。全国囲棋個人戦優勝、世界囲碁選手権富士通杯準優勝など。地に辛くヨセに強い棋風で、渾名は「鈍刀」。1999年より病気休業。.

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花鳥余情

『花鳥余情』(かちょうよせい、かちょうよじょう)は、一条兼良による『源氏物語』の注釈書である。.

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韓国棋院

韓国棋院(かんこくきいん、)は、大韓民国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦などを行う。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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過テキ生

過 惕生(か てきせい、1907年 - 1989年12月12日)は、中国の囲碁棋士。安徽省出身。現代中国の初期囲碁界の代表的な棋士で、第1、5回全国囲棋個人戦優勝。聶衛平を育てた。.

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過百齢

過百齢(か ひゃくれい)は、中国明代17世紀の囲碁棋士。詰碁、手筋などを集めた『官子譜』でその名を知られる。名を文年、字は伯齢。中国において国手と呼ばれている。 『無錫県誌』でも過についての記述があり、清朝の時に秦松が「過百齢伝」を著している。 江蘇省無錫の名家に生まれ、幼時から聡明で、11歳のときに人の打っているのを見て碁を覚え、急速に実力をつける。福清の葉閣という碁に長けた者が無錫を通ったときに百齢と対局し、百齢が勝ったので驚き、北上に同行を誘うが学業を理由に断る。その後百齢はますます腕を上げ、その名は江南に響き渡った。何年かして北京の貴族もその名が伝わり、百齢を北京に招く。当時北京には林符卿という名手がいたが、百齢はこれに勝って第一人者との評価を得るが、その後また無錫に戻る。晩年には、百齢を凌ぐほどの力をつけた周懶予との対局が「過周十局」として知られる。 著書に『官子譜』『三子譜』『四子譜』がある。林符卿、周懶予、汪漢年、周東候、汪幻清、盛大有などの協力で作られ、世に広まって、特に『官子譜』は幾度もの校訂を経て後々まで囲碁を学ぶために使われている。百齢によって、清朝初期の黄龍士らの囲碁レベルの飛躍的な向上の基礎が作られた。.

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遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.

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適情録

適情録(てきじょうろく、適情錄)は、中国明代の囲碁の棋書。林応龍が、日本の僧虚中と協力して編纂し、1525年(嘉靖4年)に刊行された。.

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聶衛平

聶衛平(じょう えいへい、聂卫平、ニエ・ウェイピン、1952年8月17日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。河北省深県出身。現代中国のプロ棋士制度の第1号であり、1982年に3人目の九段となる。1980〜90年代の中国の代表的棋士であり、世界最強棋士の一人でもあった。孔祥明八段は元夫人、日本棋院の孔令文は実子。 中国囲棋協会副主席、中国棋院技術顧問。.

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聖徳王

聖徳王(せいとくおう、生年不詳 - 737年)は新羅の第33代の王(在位:702年 – 737年)であり、姓は金、諱は興光。元の名は隆基であったが、唐の玄宗と同名であったため712年に唐の勅命によって改名させられた。第31代の神文王の第二子であり、母は一吉飡(7等官)の金欽運(『三国史記』新羅本紀・神文王紀の分注には金欽雲)の娘の神穆皇后。王妃は伊飡(2等官)の金順元の娘の炤徳王后。先代の孝昭王は同母兄であり、孝昭王が子を儲けないままに702年7月に死去したため、王位に就いた。.

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道観

道観(どうかん、)とは、道教教団において、出家した道士が集住し、その教義を実践し、なおかつ祭醮を執行する施設である。道教寺院。道教宮観の略。宮観(きゅうかん、)とも呼ばれる。.

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菊池康郎

菊池 康郎(きくち やすろう、1929年8月20日 - )は、アマチュアの囲碁棋士。東京都出身。世界アマチュア囲碁選手権戦優勝、全日本アマチュア本因坊戦等国内アマ大会優勝20数回を数え、アマ四強と呼ばれた一人。緑星囲碁学園を主宰し、山下敬吾を始め、多数のプロ・アマ棋士を育成している。国際囲碁交流にも尽力、緑星囲碁学園代表、国際囲碁友好会理事長、全国子ども囲碁普及会代表、一般社団法人全日本囲碁協会理事長。.

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華以剛

華以剛(か いごう、1949年4月2日 - )は、中国の囲碁棋士。江蘇省出身、中国囲棋協会所属、八段。全国囲棋個人戦準優勝など。中国囲棋協会副主席、中国棋院院長などを務める。.

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顧水如

顧 水如(こ すいにょ、顾水如、グ・シュイル、1892年3月3日 - 1971年6月19日)は、中国の囲碁棋士。本名は顧思浩で、水如は号。江蘇省楓涇鎮(現在の上海市金山区)出身。現代中国初期の代表的な棋士。楓涇古鎮出身者の「三画一碁」と呼ばれる一人。.

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馬暁春

暁春(ば ぎょうしゅん、马晓春、マア・シャオチュン、1964年8月26日 - )は、中国の囲碁棋士。浙江省嵊州出身、中国囲棋協会所属、九段。1990年代の中国棋界の覇者で、名人戦13連覇の記録を持つ。1995年に東洋証券杯と、富士通杯の二つの世界選手権に優勝し、中国棋士で最初の世界戦優勝者となる。軽快でスピードのある棋風。国内での渾名は「妖刀」。聶衛平の「大龍」に対して「中龍」とも呼ばれる。.

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許家元

許 家元(きょ かげん / Hsu Chia Yuan、1997年12月24日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。高林拓二六段門下。台湾出身。 碁聖戦挑戦最年少記録保持者(20歳5ヵ月)。2015年阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦準優勝者。棋道賞勝率第1位賞(2014)最多勝利賞(2015)。.

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諸葛瑾

諸葛 瑾(しょかつ きん、174年 - 241年)は、中国後漢末期から三国時代の呉の政治家・武将。字は子瑜。徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の出身。子は諸葛恪・諸葛喬・諸葛融・張承妻。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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高尾紳路

尾 紳路(たかお しんじ、1976年10月26日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁のプロ棋士、九段。千葉県千葉市出身、藤沢秀行名誉棋聖門下。本因坊雅号は「秀紳(しゅうしん)」。血液型A型。 本因坊3連覇、名人2連覇、十段2連覇、史上6人目の名人本因坊。2006年賞金ランキング1位。 張栩、山下敬吾、羽根直樹らとともに「平成四天王」と称される。 2015年4月23日以降、井山裕太九段以外で七大タイトルを獲得した唯一の棋士である。.

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高岳親王

岳親王(たかおかしんのう、延暦18年(799年) - 貞観7年(865年)?)は、平安時代初期の皇族・僧侶。法名は真如。平城天皇の第三皇子。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。品位は四品。.

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高川格

二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいんぼうしゅうかく、1915年9月21日 - 1986年11月26日)、本名:高川格(たかがわ かく)は、日本の囲碁棋士。和歌山県出身、光原伊太郎名誉八段門下。 本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。 本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数の、昭和を代表する名棋士の一人。「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風。.

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高部道平

部道平(たかべ どうへい、1882年(明治15年)7月 - 1951年(昭和26年)10月19日)は、囲碁の棋士。東京出身、方円社に学んだ後、本因坊秀栄門下となる。中国などとの囲碁交流を積極的に実施。裨聖会、棋正社などを結成。棋正社八段、棋正社分裂後に名人を名乗った。.

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高橋杵三郎

橋杵三郎(たかはし きねさぶろう、1836年(天保7年) - 1902年(明治35年)12月19日)は、江戸時代、明治時代の囲碁棋士。江戸生まれ、本因坊秀和門下、のち方円社に所属、六段。方円社四天王と呼ばれた一人で、定石の通、活きた碁経とも称された。.

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高木祥一

木 祥一(たかぎ しょういち、1943年(昭和18年)11月7日 - )は、囲碁の棋士。横浜市出身、日本棋院所属、中川新之七段門下、九段。2005年から日本棋院常務理事。 第11期十段戦挑戦者、NHK杯テレビ囲碁トーナメント準優勝2回。棋道賞最多勝利賞・最高勝率賞・連勝賞・技能賞受賞。 1972年に二十三世本因坊栄寿に次いで歴代2位記録となる22連勝を達成(現在歴代6位タイ)。.

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謝依旻

謝 依旻(しぇい いみん日本棋院の紹介ページによる。)は台湾出身の囲碁女流棋士。日本棋院所属、六段。黄孟正九段門下。 名誉女流本因坊・名誉女流名人・名誉女流棋聖の称号を保持。2010年棋道賞優秀棋士賞。女流賞を7度受賞。 2018年2月現在、女流本因坊を保持している。.

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謝赫

謝 赫(しゃ かく、Xie He、生没年不詳)は、中国南北朝時代の斉から梁 の間に活躍した画家・評論家。 中国史上初の完成された画論書とされる『古画品録』を著し顧愷之の画論を発展させた「画の六法」を提言した。以降の画家や評論家、専門家らはこの画論を遵守し発展させた。貫籍等は伝わらず詳しい事績は不明。生没年は明確でないが5世紀後半から6世紀前半の間に生存したものと推定される。(一説では479年 - 502年) 姚最はその著『続画品録』で謝赫の画業を伝えている。それによると謝赫は風俗画や肖像画を得意とし、画くべき人物をその場で画く事はなく、ポイントを頭の中に留めておき帰宅後に筆をとった。それでもなにひとつ画き残すことはなく、特に婦人の服装や化粧などの細かな流行には敏感だったという。 「安期先生図」や「晋明帝歩輦図」を画いたとされるが、彼の作品はひとつも伝存していない。また別体を創造したとされる。.

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謝赫 (囲碁)

謝 赫(しゃ かく、谢赫、シィ・ヘ、1984年5月14日 - )は、中国の囲碁棋士。青島市出身、中国囲棋協会所属、曹大元門下、九段。全国囲棋個人戦、リコー杯囲棋戦優勝、春蘭杯世界囲碁選手権戦準優勝など。中国棋士ランキングで2011年に1位。.

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鯛中新

鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30日 - 1992年(平成4年)8月20日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院、関西棋院に所属、九段。関西棋院早碁名人戦、関西棋院選手権戦優勝など。じっくりした棋風。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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豊雲

豊 雲(ほう うん、丰云、Feng Yun、フォン・ユン、1966年10月2日 - )は、中国、アメリカの囲碁棋士。遼寧省出身、中国囲棋協会等に所属、九段。全国囲棋個人戦女子の部、宝海杯世界女子選手権戦優勝など。女性では芮廼偉に次ぐ二人目の九段。.

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趙南哲

趙 南哲(チョ・ナムチョル、조남철、1923年11月30日 - 2006年7月2日)は、韓国の囲碁棋士。全羅北道扶安郡出身、木谷實門下、九段。韓国人で初の日本棋院プロ棋士。また韓国の現代囲碁の開拓者であり、韓国棋院の前身である漢城棋院を設立、韓国棋院名誉理事長。韓国国手戦9連覇など、現代韓国囲碁黎明期のトップ棋士として活躍し、また韓国の囲碁のレベル向上への功績は大きい。趙治勲の叔父。日本では、日本語読みでちょう なんてつの呼び名でも知られる。.

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趙善津

趙 善津(ちょう そんじん、조선진、1970年4月18日 - )は日本の囲碁棋士。韓国出身、日本棋院所属、安藤武夫七段門下、九段。 棋道賞優秀棋士賞受賞。本因坊1期、三星火災杯世界オープン戦準優勝1回。 本因坊10連覇・棋聖4連覇・名人3連覇・大三冠と絶頂期だった趙治勲(現名誉名人)から本因坊を獲得し、趙治勲の時代に最初に風穴を空けた棋士として知られる。.

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趙治勲

趙 治勲 (ちょう・ちくん、チョ・チフン、1956年6月20日 -)は、囲碁のプロ棋士。名誉名人・二十五世本因坊。韓国釜山広域市出身。日本棋院所属。血液型はB型。木谷實九段門下。本因坊10連覇の功績により特例で60歳未満で名誉称号を名乗ることができ、2016年6月19日まで無冠の際は二十五世本因坊治勲と表記されていた60歳以後は序列が上の名誉名人が表記されている。。 タイトル獲得数歴代1位、七大タイトル獲得数歴代1位、大三冠達成(史上初)、グランドスラム達成(史上初)、本因坊位獲得数・連覇数歴代1位、名人位歴代1位、棋聖位歴代1位タイ、棋道賞最優秀棋士賞9回(歴代最多)、秀哉賞9回(歴代最多)、公式戦通算1500勝(史上初)など数々の記録を保持している。 叔父に囲碁棋士の趙南哲、兄も囲碁棋士の趙祥衍。.

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趙漢乗

趙漢乗(チョ・ハンスン、ちょう かんじょう、조한승、1982年11月27日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、九段。国手戦3連覇、BCカード杯世界囲碁選手権準優勝など。.

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車敏洙

車 敏洙(チャ・ミンス、차민수、1951年1月15日 - )は、韓国、アメリカ合衆国の囲碁棋士であり、プロのポーカープレイヤー。現在はアメリカ合衆国に永住権を得て在住し、ジミー・チャ(Jimmy Cha)を名乗る。韓国ソウル市出身、韓国棋院、アメリカプロ囲碁協会所属、四段。アメリカプロ囲碁協会では初代会長も務めた。 世界囲碁選手権富士通杯など囲碁の国際棋戦でアメリカ(北米)代表として出場し、たびたび一流棋士を破る活躍をして注目された。また小説・テレビドラマ『オールイン』の主人公のモデルとして知られる。.

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黒嘉嘉

黒 嘉嘉(こく かか、黑嘉嘉、、ヘイ・ジャアジャア、1994年(中華民国暦83年)5月26日 - )は、台湾の囲碁棋士。オーストラリア出身、台湾棋院所属、七段。英語名はジョアンナ・ミシンガム(Joanne Missingham)。第1回穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権準優勝、女子囲棋最強戦2連覇など。.

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黄奕中

奕中(こう えきちゅう、黄奕中、ホァン・イィチョン、1981年8月24日 - )は、中国の囲碁棋士。湖南省出身、中国囲棋協会所属、七段。天元戦優勝、三星火災杯世界オープン戦ベスト4など。.

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黄龍士

龍士(こう りゅうし、1651年(順治8年)(または1654年(順治11年)) - 1700年頃)は、中国清朝初期の囲碁棋士。江蘇省泰州姜堰生まれ、名は霞、字は月天。康熙の頃において最強と言われ、現代でも棋聖と呼ばれている。 10歳の頃に既に近辺で相手がいなくなり、父に連れられて北京などを訪ねて対局した。1668年(康熙7年)に当時の国手である盛大有と対局して7戦7勝、他の相手にも勝ち、周東侯には互角であり「黄龍士龍のごとく、周東侯虎のごとし」と称された。しかしその後、周も圧倒して並ぶ者がなくなり、十四聖人の一人にもたとえられる。 黄は、弟子であり国手の一人でもある徐星友には先ニの手合だったが、三子(2箇所の隅の星と天元)で十番碁を打つことになり、黄の負け越しとなった。この十番の棋譜「血涙篇」が後世にも著名となった。著書に「弈括」「黄龍士全図」がある。後半生についてはなにも伝わっていない。.

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范西屏

范西屏(はん せいびょう、1709年(康熙48年) - 1769年(乾隆34年))は中国清代の囲碁の名手。名は世勲、浙江海寧郭店生まれ。国手と呼ばれ、同じ海寧の施襄夏との対局「当湖十局」が知られる。施、梁魏今、程蘭如とともに当時の「四大家」とも言われる。 3歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。少年時代は浙江の兪長侯を師とし、13歳の時に杭州で徐星友に学ぶ。16歳の時に師に付いて松江へ行き、実力を知られるようになり、同郷の施襄夏と並んで名をあげる。1739年(乾隆4年)に張永平に当湖(現平湖市)に招かれて、施と13局の対局をする。このうち11局の棋譜が残されており、これが「当湖十局」と呼ばれ、中国旧代の囲碁の代表作とされている。 その後は囲碁を教えることで過ごし、著作に『桃花泉弈譜』『二子譜』『四子譜』がある。死後、袁枚による墓誌銘では、「西屏之于弈。可謂聖矣。」(西屏は碁を打ち、聖人と言える)と記され、「棋聖」と讃えられている。.

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胡耀宇

胡 耀宇(こ ようう、ホォ・ヤオユイ、 1982年1月18日 - )は、中国の囲碁棋士。上海市出身、中国囲棋協会所属、八段。LG杯世界棋王戦準優勝、リコー杯囲棋戦優勝など。古力らとともに6小虎組の一人。.

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阪口仙得

阪口 仙得(さかぐち せんとく、享和元年(1801年) - 慶応3年(1867年)推定)は、江戸時代の囲碁棋士。安井仙角仙知門下、家元安井家の外家坂口家三世、七段上手。天保四傑と呼ばれる一人。元の名は荻野虎次郎。.

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阮籍

阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の思想家。字は嗣宗。兗州陳留郡尉氏県の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は阮瑀(建安七子の一人)。兄は阮煕。子は阮渾。甥は阮咸(竹林の七賢の一人)。.

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関山利一

関山利一(せきやま りいち、明治42年(1909年)12月23日- 昭和45年(1970年)1月15日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院、関西棋院所属、鈴木為次郎名誉九段門下、実力制第1期本因坊利仙(りせん)。関山利夫九段は長男。.

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関西棋院

一般財団法人関西棋院(いっぱんざいだんほうじんかんさいきいん)は囲碁の棋士を統括し、近畿を中心として棋戦や囲碁普及などの活動を行う組織(一般財団法人)。日本棋院から1950年に分離独立。現在117人の棋士、女流棋士が所属。機関誌『囲碁関西』(月刊)を発行している(2019年4月号をもって廃刊予定)。 なお、同じく大阪府大阪市にある囲碁団体の関西総本部は日本棋院の関西支部であり、関西棋院とは別の法人である。.

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藤沢秀行

藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、日本の囲碁棋士。本名:「藤沢 保(たもつ)」。棋聖戦6連覇、史上最年長タイトル保持者などに輝いた、昭和を代表する棋士の1人。 甥(秀行の方が年下)に藤沢朋斎九段、子(五男)に藤沢一就八段、孫に藤沢里菜四段。 正しい名前の読み方は「ひでゆき」だが、生涯を通じて「しゅうこう」と呼ばれ続けた。.

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藤沢里菜

藤沢 里菜(ふじさわ りな、1998年9月18日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁の女流棋士、四段。洪道場出身。埼玉県所沢市出生の東京都新宿区出身。 2017年女流タイトル四冠。第33期・35期女流本因坊、第29期女流名人。 史上最年少タイトル獲得者。囲碁棋士のプロ入り最年少記録保持者。他多数の最年少記録を保持している。 2017年には賞金ランキングで全棋士の中で4位。 祖父に藤沢秀行名誉棋聖、父に藤沢一就八段、従兄弟伯父に藤沢朋斎九段を持つ、囲碁棋士の家系に生まれたサラブレッドである。.

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藤沢朋斎

藤沢朋斎(ふじさわ ほうさい、1919年(大正8年)3月9日 - 1992年(平成4年)8月2日)は、囲碁棋士。本名は藤沢庫之助(ふじさわ くらのすけ)。神奈川県出身。日本棋院の大手合による昇段制度初の九段。呉清源と3度の十番碁を戦った。棋風は深い読みに裏付けられた力戦派で、「ダンプカー級の突進力」などと形容された。また白番のマネ碁を多く試みたが、シチョウを利用したマネ碁対策が現われてからは成績は芳しくなかった。藤沢秀行名誉棋聖は叔父、小島高穂九段は甥にあたる。 安倍吉輝は、入段した後に藤沢の門下となる安倍吉輝『対局ハプニング集』(日本棋院)著者紹介。.

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董彦

董 彦(とう げん、董彦、シュン・イェン、1977年8月8日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。陝西省西安市出身、中国囲棋協会所属、七段。NEC杯新秀戦優勝2回など。中国囲棋甲級リーグ戦13連勝の記録を持つ。渾名は野草。.

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邱峻

邱 峻(きゅう しゅん、チォウ・ジュン、1982年8月27日 - )は、中国の囲碁棋士。上海市出身、中国囲棋協会所属、九段。21歳で名人戦優勝は最年少記録。全国囲棋個人戦2回優勝、三星火災杯世界囲碁マスターズ準優勝など。.

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邵イ剛

邵 煒剛(しょう いごう、邵炜刚、シャオ・ウェイガン、1973年2月21日 - )は、中国の囲碁棋士。上海出身、中国囲棋協会所属、九段。友情杯戦優勝、NEC杯囲棋戦優勝2回、LG杯世界棋王戦ベスト4など。常昊らとともに「七小龍」の一人とされる。.

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蓋鹵王

蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。子に文周王。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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金寅

金 寅(キム イン、1943年11月23日 - )は、韓国、日本の囲碁棋士。全羅南道康津郡出身、木谷実九段門下、九段。1960年代に趙南哲に替わって韓国囲碁界の第一人者となる。国手戦6連覇などタイトル獲得30期。日本では、日本語読みできん いんとも、愛称としてキントラさんとも呼ばれる。.

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長寿王

長寿王(ちょうじゅおう、394年 - 491年)は、高句麗の第20代の国王(在位:413年 - 491年)。姓は高、諱は巨連。『魏書』などには「璉」の名で現れる。先代の好太王の長子であり、409年に太子に立てられ、413年に先王の死により後を継いで即位する。.

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酒井安次郎

酒井安次郎(さかい やすじろう、1853年(嘉永5年) - 1885年(明治18年)8月)は、日本の囲碁棋士。江戸生まれ、吉田半十郎門下、方円社に所属し、方円社四天王と呼ばれた。五段。安二郎とも書かれる。.

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苑田勇一

苑田 勇一(そのだ ゆういち、1952年(昭和27年)3月30日 - )は、囲碁の棋士。大阪府出身、関西棋院所属、小川正治六段門下、九段。天元戦、碁聖戦挑戦者など。中央を志向する独創的な棋風で「西の宇宙流」と称される。.

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雁金準一

雁金 準一(かりがね じゅんいち、1879年(明治12年)7月30日 - 1959年(昭和34年)2月21日)は、明治から昭和にかけての棋士。元の姓は岩瀬。東京都出身、初代中川亀三郎門下、九段。方円社、本因坊秀栄門下、日本棋院を経て、棋正社の総帥としての日本棋院との院社対抗戦などで、本因坊秀哉とライバル関係にあった。後に瓊韻社を創設。.

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虞集

虞集(ぐ しゅう、1272年 - 1348年)は、元代中国の儒学者。字は伯生、号は道園、邵庵先生と称された。 宋代に活躍した虞允文の五世の孫にあたる。柳貫・黄溍・掲傒斯とともに「儒林四傑」と称せられる。楊載・掲傒斯・范梈とともに元詩の四大家ともいわれる。.

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陳祖徳

陳祖徳(ちん そとく、陈祖德、チェン・ズゥドゥ、1944年2月19日 - 2012年11月1日)は、中国の囲碁棋士。上海市出身、顧水如、劉棣懐に師事、中国囲棋協会所属。現代中国のプロ棋士制度の第1号であり、最初の九段。1960〜70年代の中国囲碁界の第1人者。中国流布石を研究して、世に広まるきっかけとしたことでも知られる。 中国囲棋協会主席、中国国際象棋協会(中国チェス協会)主席、中国象棋協会(中国シャンチー協会)主席を歴任し、1992年から2003年まで中国棋院初代院長、その後顧問。.

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陳詩淵

陳 詩淵(ちん しえん、チェン・スゥイェン、ハングル: 천스위엔, 1985年10月28日 - )は台湾の囲碁棋士。台北市出身、権甲龍六段門下、韓国棋院及び台湾棋院所属、名誉王座、九段。王座戦5連覇他、周俊勲、林至涵とともに台湾三強と目され、2012年には六冠を達成した。張正平は夫人。.

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陳臨新

陳臨新(ちん りんしん、陈临新、1963年3月20日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。浙江省臨海県出身、中国囲棋協会所属、九段。国手戦、新体育杯戦優勝など。.

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陳長清

陳長清(ちん ちょうせい)は台湾の囲碁棋士。中国囲棋会四品。名人4期、国手9期など、1980年代の台湾を代表する棋士。1991年引退。.

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陳耀ヨウ

陳 耀燁(ちん ようよう、陈耀烨、チェン・ヤオエ、1989年12月16日 - )は、中国の囲碁棋士。北京市出身、中国囲棋協会所属、九段。LG杯世界棋王戦準優勝などにより、17歳で史上最年少の九段昇段。天元戦8連覇、春蘭杯世界囲碁選手権戦、百霊愛透杯世界囲碁オープン戦優勝など。周睿羊らとともに、古力ら小虎世代に続く小豹世代と呼ばれる。.

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陳毅

陳 毅(ちん き、チェン・イー、1901年8月26日 - 1972年1月6日)は中華人民共和国の軍人、政治家、外交官。中華人民共和国元帥。国務院副総理、外交部長(外務大臣)などを務めた。.

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陳永安

陳 永安(ちん えいあん、チェン・ヨンアン、1953年6月4日 - )は、台湾の囲碁棋士。中国囲棋会、台湾棋院所属、六段。旧国手戦2期、棋王戦3期など。子の陳義翔初段、陳永黄九品も囲碁棋士。.

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陸遜

遜(りく そん、183年 - 245年3月19日)は、中国の後漢、三国時代の武将、政治家。本名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸褒の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸駿の子。弟に陸瑁、子に陸延・陸抗。孫に陸機・陸雲など。 後漢末期より、揚州を中心とする江南に勢力圏を築き、後に呉を建国した孫権に仕えた。山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、関羽討伐戦や夷陵の戦いにおいて名をあげ、軍政両務における呉帝国前期の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。.

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NHK杯テレビ囲碁トーナメント

NHK杯テレビ囲碁トーナメント(NHKはいテレビいごトーナメント)とは日本放送協会が主催する囲碁の棋戦である。トーナメント方式で、優勝者には「NHK杯選手権者」(略して「NHK杯」)の称号が贈られ、次期の優勝者にその称号が贈られるまで主にNHKの囲碁番組内などで呼称される。対局はNHKのテレビスタジオで行われ、その模様はNHK教育テレビで毎週1局ずつ放送される(当初はNHKラジオ第2放送)。年度始めの4月に本選の放送がスタートし、年度末の翌年3月に決勝戦が行われる。 優勝賞金は500万円。1988年度からの優勝者と準優勝者はテレビ囲碁アジア選手権戦への出場権を得る。棋譜はNHK出版のテキスト『NHK囲碁講座』に掲載される。.

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柳時熏

柳 時熏(りゅう しくん、류시훈、ユ・シフン、1971年12月8日 - )は、囲碁の棋士。韓国ソウル市出身、日本棋院所属、九段、大枝雄介九段門下。天元戦4期、王座戦1期、棋聖戦挑戦など。棋風は全局的に手厚く、スケールの大きな攻めと柔軟性が特長。名前は日本では日本語読みで呼ばれている。.

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林家 (囲碁)

林家(はやしけ)は、本因坊家・安井家・井上家と並ぶ、江戸時代の囲碁の家元四家の一つである。林家は始祖とされる林利玄の弟子の林門入(門入齋)が興した家であるが、他家より立家が遅く、名人も出していない。適当な後継者がいなかったため本因坊家から跡目を迎えたケースも多く、江戸期を通じて弱小勢力であった。明治に入り、十三世の 秀榮が本因坊家に戻ってその名跡を継いだため林家は絶家となった。 林家は初代が門入齋で、二世以降は代々「門入」を名乗った(九世門悦、本因坊家から移った十一世元美、十三世秀栄を除く)。このため跡目時代の名乗りを「門入」の前に加えて表記し、区別することが多い。.

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林利玄

林 利玄(はやし りげん、永禄8年(1565年) - 不詳)は、囲碁の棋士で、家元林家の元祖とされる。本因坊算砂 と多くの対局があったライバル的存在。日蓮宗本能寺の僧侶であり、利玄坊と称されていた。利玄の弟子の林門入斎没後に、安井算知が弟子に二世林門入として家督を継がせたのが林家となった。このため林利玄と記されるが、利玄が林姓を名乗っていたかは不明。.

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林元美

林 元美(はやし げんび、1778年(安永2年) - 1861年7月20日(文久元年6月13日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家十一世林元美、八段準名人。本名は船橋源治、字は寛度。著作では爛柯堂または藍叟とも号す。『碁経衆妙』『碁経精妙』、及び史話、随筆からなる『襴柯堂棋話』などの著者として知られる。.

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林聖賢

林聖賢(りん せいけん)は台湾の囲碁棋士。台湾棋院七段、中国囲棋会四品。名人1期、国手3期など。.

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林至涵

林至涵(りん しかん、リン・チンハン、1980年11月14日 -)は台湾の囲碁棋士。台湾棋院所属、台北市出身、林聖賢門下、九段。天元戦優勝3回など。台湾の棋士としては周俊勲に次ぐ二人目の九段。.

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林海峰

林 海峰(りん かいほう、1942年5月6日 - )は日本、台湾の囲碁棋士。名誉天元。上海出身、日本棋院東京本院所属、藤田梧郎七段、呉清源九段門下。中華職業圍棋協会理事。海峯棋院設立者。元・全日本学生囲碁連盟副会長、特別顧問。 名人8期、本因坊5期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など獲得タイトルは35。史上2人目の1400勝達成。 名人戦挑戦手合に10年連続出場。名人戦リーグに最長記録となる35期連続在籍。 若い頃には地に辛く粘りのある棋風で「二枚腰」と呼ばれたが、壮年以後は戦闘的な棋風となった。同世代のライバルである大竹英雄とともに「竹林」とも称される。林海峯の表記も多く使われている。 2017年秋・旭日中綬章受賞。 現在、存命の名誉称号資格者・三大タイトル獲得経験者・碁聖位獲得者・十段位獲得者では大竹英雄名誉碁聖と並び最年長である。.

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李世ドル

李 世乭(イ・セドル、이세돌、1983年3月2日 - )は韓国の囲碁棋士。李昌鎬に次ぐ国際棋戦の優勝数回を誇り、2000年代半ばから2010年代前半における世界最強の棋士と目されている。兄は棋士・李相勲。.

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李昌鎬

李昌鎬(イ・チャンホ、이창호、1975年7月29日 - )は、韓国の囲碁棋士。全羅北道全州市出身、韓国棋院所属、曺薫鉉門下、九段。 わずか16歳で世界戦優勝。その後世界歴代1位の世界棋戦優勝21回、国内棋戦優勝140回を数え、1990年代から2000年代の世界最強棋士と称される。.

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東野弘昭

東野弘昭(とうの ひろあき、1939年(昭和14年)8月22日 - )は、囲碁の棋士。愛媛県出身、関西棋院所属、橋本宇太郎九段門下、九段。2005年10月31日引退。NHK杯戦優勝、関西棋院第一位決定戦優勝2回など。極めて渋い棋風。東野政治九段は弟。 1994年から2001年まで関西棋院理事。.

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東晋

前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.

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村川大介

村川 大介(むらかわ だいすけ、1990年12月14日 - )は、関西棋院所属の囲碁棋士。兵庫県西宮市出身。森山直棋九段門下。 第24代王座(第69期)。2013年阿含・桐山杯優勝。 関西棋院の最年少プロ入り記録を保持(11歳10か月)。囲碁界初の平成生まれかつ90年代生まれ、2004年に廃止された大手合を経験した最年少の棋士。 現在、井山裕太九段より年下で井山から七大タイトルを奪取した唯一の棋士であり、王座位獲得経験者では最年少である。.

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村上文祥

村上文祥(むらかみ ぶんしょう、1932年 - 1999年4月17日)は、囲碁のアマチュア棋士。広島県出身。全日本アマチュア本因坊戦優勝5回、朝日アマ囲碁十傑戦優勝6回等、アマチュア強豪として知られ、アマ四強と呼ばれた一人。世界アマチュア囲碁選手権戦では、第1回(1979年)4位、第3回(1981年)3位。強烈な攻めの碁風。荏原製作所代表取締役副社長などを務めた。.

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杉内寿子

杉内 寿子(すぎうち かずこ、1927年(昭和2年)3月6日 - )は、日本の囲碁棋士。静岡県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下。女流棋士として初の八段。女流選手権戦4期、女流名人戦4期など。旧姓本田。夫は杉内雅男九段。本田幸子、楠光子の棋士三姉妹の長姉。2004年まで日本棋院棋士会会長、女流棋士会会長を務めた。2017年まで夫婦続いて日本棋院の1番目と2番目の現役最年長現役棋士だった。 2014年に通算600勝達成。現在、女流棋士最多勝記録保持者である。 2017年11月21日より、夫である杉内雅男九段の死去に伴い日本棋院最年長現役棋士となる。.

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杉内雅男

杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月20日 - 平成29年(2017年)11月21日)は、囲碁棋士。宮崎県出身、日本棋院所属、井上一郎五段門下。日本棋院早碁名人戦優勝、囲碁選手権戦優勝、本因坊戦挑戦者2回など。「囲碁の神様」の異名をとった。夫人は杉内寿子八段。 昭和12年(1937年)に入段してから平成29年(2017年)に死去するまでの現役棋士生活は80年を超え、日本における最年長現役棋士記録(97歳1か月)をはじめとする数々の最年長記録を樹立し、最終対局を打ったのは死去の19日前であった。90歳を超えても打ち分けに近い年間成績を維持し、死去した2017年にも2勝を挙げるなど、その実力は最後まで健在であった。.

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梶原武雄

梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月25日 - 2009年(平成21年)11月28日)は、囲碁の棋士。新潟県佐渡市出身、日本棋院所属、九段、関山利一九段門下。優れた大局観と石の形にこだわる求道的な姿勢、及び若手棋士への薫陶で囲碁界に大きな影響を与え、また多くの新定石も生み出した。抉るような厳しい棋風は「ドリル攻め」「ヤスリ攻め」「部分感覚天下一品」と呼ばれ恐れられた。武田みさを五段は姉。2000年3月31日に引退。.

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森田道博

森田道博(もりた みちひろ、1970年10月18日- )は、日本の囲碁棋士。千葉県出身、日本棋院所属、田岡敬一に師事、藤沢秀行門下、九段。竜星戦優勝など。.

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棋士採用試験

棋士採用試験(きしさいようしけん)とは囲碁のプロ棋士を採用する試験である。入段試験とも言われる。.

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棋待詔

棋待詔(きたいしょう)は、中国の唐以降で置かれた官職で、待詔のうち囲碁をもって仕える役職。その時代の囲碁の名手、国手と呼ばれる者などが務めた。.

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棋聖 (囲碁)

棋聖(きせい).

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棋正社

棋正社(きせいしゃ)は、日本の囲碁の組織。1924年(大正13年)に雁金準一、高部道平らによって設立され、1926年に行った日本棋院との対抗戦(院社対抗戦)では満天下を湧かせたが、その後3棋士は日本棋院に復帰し、1941年に雁金の離脱により事実上消滅した。.

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棋戦 (囲碁)

棋戦(きせん)とは囲碁の大会、特にプロのものを指す言葉。.

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楼得達

楼得達(楼得达、生没年不詳)は中国明代初期の囲碁の名手。浙江省寧波生まれ。国手と呼ばれた。 明太祖の頃、楼より十数歳年長の相子先(相礼)が国手と呼ばれていた。次第に楼の評判が高くなり、囲碁好きだった永楽帝は相と楼の二人を呼び寄せて対局させたところ、楼が3連勝した。この時永楽帝は、碁盤の下に冠帯を描いた紙を置いていて、楼はこの冠帯のとおりの地位の役職を与えられた。 この後、洪熙帝年間には、同じ寧波出身の趙九成、范洪が出て、国手と言われた。.

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横田茂昭

横田 茂昭(よこた しげあき、1969年5月1日 - )は、囲碁の棋士。岡山県浅口郡金光町(現浅口市)出身、関西棋院所属、赤木一夫門下、九段。関西棋院第一位、碁聖戦挑戦者など。厚みを重視する棋風。趣味はクラシック音楽とバレーボール。.

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橋本宇太郎

橋本宇太郎(はしもと うたろう、1907年〔明治40年〕2月27日 - 1994年〔平成6年〕7月24日)は、昭和の囲碁棋士。第2、5、6期本因坊で本因坊昭宇と号する。大阪府出身、瀬越憲作名誉九段門下。1950年に関西棋院を率いて日本棋院から独立した。才気と闘志溢れる碁風で「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」のニックネームを持つ。 1950年7月から1994年7月まで関西棋院総帥、1986年5月から1994年4月まで同棋院理事長。 1945年の第3期本因坊戦での岩本薫七段との挑戦手合において、広島市郊外の五日市町(現:広島市佐伯区)で行われた第2局は原爆下の対局として有名。 2014年7月18日、囲碁殿堂入り(第11回囲碁殿堂表彰)。.

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橋本昌二

橋本昌二(はしもと しょうじ、1935年(昭和10年)4月18日 - 2009年(平成21年)12月2日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県明石市出身、関西棋院所属、橋本国三郎七段門下、九段。関西棋院独立当時から若手のエースとして活躍し、「天才昌二」とも言われ、入段から11年で九段に昇段、十段、王座などのタイトルを獲得。関西棋院第一位決定戦で12回優勝し、関西棋院名誉第一位の称号を持つ。棋風は深い読みの力戦型、長考派としても有名で、「重戦車」の異名を取った。 1994年から1998年まで関西棋院理事長。その後特別顧問。.

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武宮正樹

武宮 正樹(たけみや まさき、1951年1月1日 - )は、囲碁のプロ棋士、九段。名人1期、本因坊6期など。東京都葛飾区出身。日本棋院所属。本因坊時代の雅号は当初「秀樹(しゅうじゅ)」であったが、2度目の獲得以降は「正樹(せいじゅ)」と改めた。また世界選手権設立当初に活躍したため、「世界最強の男」の異名を取った。 中央に大模様を作る厚み重視の棋風は、「宇宙流」という愛称で知られる。田中三七一・木谷実に師事。尊敬する棋士は藤沢秀行名誉棋聖など。同じ木谷実門下の石田芳夫、加藤正夫と並んで「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれ、木谷一門黄金時代の一翼を担った。プロ棋士の武宮陽光は長男。.

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武帝 (南朝斉)

武帝(ぶてい)は、南朝斉(南斉)の第2代皇帝。姓諱は蕭賾(しょう さく)。高帝蕭道成の長男。.

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水谷縫治

水谷 縫治(みずたに ぬいじ、弘化3年(1846年) - 明治17年(1884年)11月27日)は、囲碁の棋士。伊予国出身、方円社に所属、七段。ほうじとも読む。明治初期に本因坊秀甫に次ぐ実力を持ち、方円社四天王にも数えられたが、38歳で死去。.

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江蘇省

江蘇省(こうそしょう、、、)は、中国東部にある行政区。長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市(中華民国政府が公表している省都は鎮江市)。略称は蘇。.

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江鋳久

江鋳久(こう ちゅうきゅう、ジャン・ジュウジォウ、江铸久、Jiang Zhujiu、장주주、1962年2月17日 - )は、囲碁棋士。中国山西省太原出身、九段。北京師範大学出身、中国囲棋協会、アメリカプロ囲碁協会を経て、1999年から韓国棋院客員棋士、2012年に中国帰国。第1回日中スーパー囲碁での5人抜きで一躍名を上げる。北米マスターズ・トーナメント8連覇。また米国にて江鋳久囲碁トーナメントを主催。妻は芮廼偉九段、兄は江鳴久七段。攻撃的な棋風。.

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江戸上り

江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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江戸時代の囲碁棋士一覧

江戸時代の囲碁棋士一覧 江戸時代の囲碁棋士の、活躍した年代ごとの一覧。 (太字は名人。各家門は最終のもの。) * Category:職業別人名一覧 Category:囲碁関連の一覧.

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汪雲峰

汪雲峰(おう うんぽう、1866年 - 没年不詳)は中国の囲碁棋士。北京出身。別名耘豊。清末から中華民国初期において張楽山らとともに代表的な棋士。 若い頃に、劉雲峰に学ぶ。1909年に高部道平が訪中した際、段祺瑞の紹介で張楽山とともに対局し、二子の手合だった。 1923年に8歳の呉清源が北京の碁会所海豊軒を訪ねた際に、五子、四子で対局し、呉が勝ったことから天才少年として名が知られるようになった。呉はその3年後の1926年には先で汪に勝つようになる。後の呉の評では、汪は清末の周小松には二目、顧水如に一目ぐらいであろうとしている。.

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河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

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河燦錫

河 燦錫(ハ・チャンソク、하찬석、か さんしゃく、1948年12月20日 - 2010年9月14日)は、韓国の囲碁棋士。慶尚南道陜川郡出身、韓国棋院、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。国手戦2連覇など棋戦優勝5回、準優勝13回。.

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河野臨

河野 臨(こうの りん、1981年1月7日 - )は、囲碁のプロ棋士、九段。東京都西東京市出身、明保中学校卒業、日本棋院東京本院所属。小林光一名誉三冠門下。 天元位3連覇(第31期-第33期)。棋聖位・名人位・碁聖位挑戦者。.

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沈括

沈括 沈 括(しん かつ、1030年 - 1094年)は、北宋時代中期の中国の政治家・学者。沈遘の従弟。字は存中。夢渓丈人と号する。.

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淡路修三

淡路 修三(あわじ しゅうぞう、1949年8月13日 - )は、日本の囲碁棋士。東京都出身、伊藤友恵七段門下、日本棋院東京本院所属、九段。名人戦、本因坊戦挑戦者など。青山学院大学法学部卒業という、棋士としては異色の経歴を持つ。兄は法学者の淡路剛久。 読み合い、ねじり合いを信条とする戦闘的な棋風で、接近戦を得意とし、打たれ強く倒すか倒されるかのスタイルから、「ロッキー」の異名をとり、ファンが多い。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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満済

満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られる。.

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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漢陽区

漢陽区(かんようく)は中国湖北省武漢市に位置する市轄区。 現地の習慣では武漢市の長江以北(左岸)・漢江以南(右岸)の漢陽区、武漢経済技術開発区(沌口)の2つの行政区画を漢陽と総称している。.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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木谷實

木谷 實「実」と書かれることもある。(きたに みのる、1909年1月25日 - 1975年12月19日)は、囲碁の棋士。兵庫県神戸市出身、鈴木為次郎名誉九段門下、九段。木谷道場主催。紫綬褒章受章。従四位勲二等瑞宝章。日本棋院囲碁殿堂入り。大倉賞受賞者。 20世紀の棋士の中でも指折りの存在とされており呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を木谷道場として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた。 弟子たちは1970年代初頭から1990年代半ば頃までタイトル戦線を席巻し、現在孫弟子まで含めた一門のプロ棋士は50人以上、段位の合計は500段を突破している。 弟子に大竹英雄名誉碁聖・加藤正夫名誉王座・二十四世本因坊秀芳・武宮正樹九段・小林光一名誉棋聖・二十五世本因坊治勲・小林覚九段・ほか多数。.

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本因坊

一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前 囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側 本因坊(ほんいんぼう).

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本因坊丈和

本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年) - 弘化4年10月10日(1847年11月17日))は、江戸時代の棋士。十二世本因坊、名人碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。 丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説があるが、伊豆説が有力。幼名は松之助。16歳で初段。文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁を打ち(丈和定先)、12局目まで8勝4敗で先相先とした。当時元丈の跡目には丈和の1歳上の奥貫智策が据えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝、文政2年(1819年)に丈和が跡目となる。その後33歳で六段。 文政10年(1827年)40歳の時、七段に進み、元丈の跡を継いで十二世本因坊丈和となる。翌年八段。天保2年(1831年)に、ライバル井上幻庵因碩を策謀によって降し、名人碁所に就く(後述)。 長男の戸谷梅太郎は、水谷琢順の養子となった後に井上家を継ぎ、12世井上節山因碩となった。三男は明治期方円社2代目社長の中川亀三郎。長女はなは本因坊秀策に嫁いだ。.

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本因坊元丈

本因坊 元丈(ほんいんぼう げんじょう、1775年〔安永4年〕 - 1832年11月20日〔天保3年10月28日〕)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元本因坊家の十一世本因坊元丈、本因坊烈元門下、八段準名人。元の名は宮重楽山、法名は日真。安井知得仙知と拮抗した好敵手であり、ともに名人の技量ありと言われながら名人とならなかった。囲碁四哲と称される一人。攻めの強い棋風。.

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本因坊秀和

本因坊 秀和(ほんいんぼう しゅうわ、文政3年(1820年) - 明治6年(1873年)7月2日)は、江戸時代の囲碁棋士、本因坊家十四世本因坊秀和。伊豆国出身。幼名は土屋俊平、後に恒太郎、秀和。本因坊丈和門下、八段準名人。法名は日悦。囲碁四哲の一人とされ、当時周囲にも名人の力量を認められていながら、幕末の混乱のために名人就位はならなかった。実子に十五世本因坊秀悦(長男)、十七・十九世本因坊秀栄(次男)、十六・二十世本因坊秀元(三男)。.

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本因坊秀哉

本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日)は、明治から昭和にかけての囲碁の棋士。家元本因坊家の二十一世で、終身名人制の最後の名人。東京出身、本因坊秀栄門下、本名は田村保寿(やすひさ)。法名は日温。 引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。2008年囲碁殿堂入り。 川端康成の『名人』でも知られる。 棋士の高橋俊光は義弟(秀哉の妻の弟)。.

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本因坊秀策

ムネイル 本因坊 秀策(ほんいんぼう しゅうさく、文政12年5月5日(1829年6月6日) - 文久2年8月10日(1862年9月3日))は江戸時代の囲碁棋士。備後国因島(現・広島県尾道市因島外浦町)出身で俗姓は桑原。幼名は虎次郎。法名は日量。父は桑原輪三。.

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本因坊秀甫

本因坊 秀甫(ほんいんぼう しゅうほ、天保9年(1838年) - 明治19年(1886年)10月14日)は江戸時代から明治にかけての囲碁棋士。本名は村瀬秀甫(むらせしゅうほ)。生国は江戸。本因坊丈策、秀和門下、八段準名人、十八世本因坊。法名は日寿。 奔放な棋風で知られる。江戸幕府の庇護がなくなった明治期に囲碁結社方円社を主宰して囲碁界を支え、さらに西欧にまで広める端緒をつくった。著書に『方円新法』など。2007年に囲碁殿堂入り。秀甫の養子の村瀬彪は棋士にならず、第一銀行に勤務した。.

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本因坊秀栄

本因坊 秀栄(ほんいんぼう しゅうえい、嘉永5年9月20日(1852年11月1日) - 明治40年(1907年)2月10日)は江戸時代・明治の囲碁棋士、十三世林秀栄、十七世、十九世本因坊、名人。生国は江戸。法名は日達。 本因坊秀和の次男で、本名は土屋平次郎。林家十三世を継ぐが、方円社に対抗するため本因坊家に復帰、五段で十七世を継ぎ、林家を絶家とした。明治後半において名人中の名人と謳われ、その平明な棋風は現代でも高く評価される。2008年囲碁殿堂入り。.

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本因坊策元

本因坊策元(ほんいんぼう さくげん、延宝3年(1675年) - 元禄12年(1699年)は江戸時代の囲碁棋士。江戸生まれ、本姓は佐山、上手。本因坊道策跡目で、道策五弟子の一人と数えられる。法名は日雲。 本因坊道策の跡目道的の死後の元禄5年(1692年)、18歳五段で道策の再跡目となる。この時に兄弟子の桑原道節は争碁を望んだとされるが、道節は井上家を継ぐ。策元はこの年から御城碁に出仕して扶持を得るようになり、毎年出仕して7局を務めて6勝1敗の戦績を残す。元禄12年(1699年)に25歳で没す。跡目を二人続けて失った道策は、その後は跡目を定めることはなく、神谷道知の成長に期待をかけた。;御城碁戦績  御城碁では、初年には安井知哲に先番13目勝。元禄9年、井上道節因碩に先番5目勝。元禄10年、4世安井仙角(定先)に白番11目勝などがある。.

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本因坊算砂

本因坊 算砂 本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。.

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本因坊道的

本因坊 道的(ほんいんぼう どうてき、寛文9年(1669年) - 元禄3年5月7日(1690年6月13日))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国松坂の生まれ、元の姓は小川、本因坊道策の跡目で七段上手。法名は日勇。.

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本因坊道知

本因坊 道知(ほんいんぼう どうち、1690年〔元禄3年〕 - 1727年7月28日〔享保12年6月10日〕)は江戸時代の囲碁棋士。五世本因坊。生国は江戸。本姓は神谷。本因坊道策門下、名人碁所。法名は日深。.

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本因坊道策

ムネイル 本因坊 道策(ほんいんぼう どうさく、正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日))は江戸時代の囲碁棋士。四世本因坊、名人碁所。本因坊算悦、本因坊道悦門下、生国は石見国、本姓は山崎、幼名は三次郎。法名は日忠。道策は圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称揚された。 道策は手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出した。また、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して、前聖と称される。史上最強の棋士として、道策の名を挙げる人も多い。 名人を九段、名人上手間を八段(準名人)、上手を七段とし、以下二段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われていた。.

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本田幸子

本田幸子(ほんだ さちこ、1930年(昭和5年)12月30日 - )は、日本の囲碁棋士。静岡県出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、七段。女流選手権戦・女流本因坊戦で優勝7期。海外囲碁普及にも貢献。杉内寿子、楠光子の三姉妹の次女。.

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本田邦久

本田邦久(ほんだ くにひさ、昭和20年(1945年)6月15日 -)は、日本の囲碁棋士。関西棋院所属、橋本宇太郎九段門下、九段。NHK杯戦優勝、関西棋院第一位決定戦優勝4回。布石では小目を多用する。人柄は温厚だが、盤上では相手の意図に反発して難解な接触戦になることが多い。趣味は山登り。.

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本能寺

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。.

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本木克弥

本木 克弥(もとき かつや、1995年8月2日 - )は 、囲碁の棋士。段位は八段。群馬県出身。日本棋院東京本院 所属。藤澤一就八段の門下。 第72期本因坊挑戦者。.

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朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.

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朴廷桓

朴 廷桓(パク・ジョンファン、박정환、ぼく ていかん、1993年1月11日 - )は、韓国の囲碁棋士。九段。ソウル市出身、韓国棋院所属、権甲龍七段門下、沖岩高等学校出身。世界囲碁選手権富士通杯優勝、圓益杯十段戦2連覇など。2013-16年に韓国囲碁棋士ランキング1位。.

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朴ジ恩

朴 鋕恩(パク・ジウン、박지은、ぼく しおん、1983年11月4日 - )は、韓国の女流囲碁棋士。京畿道富川市出身、韓国棋院所属、金東燁九段門下、九段。女流名人戦、正官庄杯世界女子囲碁最強戦優勝など。趙惠連、尹暎善、權孝珍、李英信らと並んで韓国女流五新星と呼ばれ、韓国人女性棋士初の九段となる。.

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朴永訓

朴 永訓(パク・ヨンフン、박영훈、ぼく えいくん、1985年4月1日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、崔珪昞九段門下、九段。沖岩高等学校卒業。富士通杯、中環杯で世界棋戦優勝3回、棋聖戦4連覇など。ヨセの名手で「第2の神算」と言われる。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明月記

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浙江省

浙江省(せっこうしょう、中国語:浙江省、拼音:Zhèjiāng Shěng、英語:Zhejiang)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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方円社

方円社(ほうえんしゃ、方圓社)は、明治、大正時代の日本の囲碁の組織。 1879年に村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)、中川亀三郎らにより設立され、1924年の碁界大合同による日本棋院設立まで続いた。明治後期の日本における最も繁栄した囲碁組織で、本因坊家などと対立しながらも、封建的な家元制度を脱却し、実力主義を導入、従来の段位制度に代わり、級位制を取り入れるなど、次々と新しい試みを打ち出し、囲碁の普及と近代化に大いに功績があった。 「方円」とは、四角の碁盤と丸い碁石を用いる囲碁の、古来からの別名である。機関誌「囲棋新報(囲碁新報)」は、世界初の囲碁雑誌であった。方円社を援助した財界人には、井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らがいる。.

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斉 (南朝)

斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。.

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日中囲碁交流

日中囲碁交流は、.

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日本の囲碁棋士一覧

日本の囲碁棋士一覧では、日本の現役の囲碁棋士全員を記述する。.

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日本囲碁大系

『日本囲碁大系』(にほんいごたいけい)は、筑摩書房から1975年から1977年に刊行された、本因坊道策、本因坊秀策ら、囲碁の古典棋士たちの打碁全集。総編集は林裕。1992年に再刊されている。現代の棋士については現代囲碁大系が刊行されている。.

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日本棋院

公益財団法人日本棋院(にほんきいん、)は、東京都千代田区五番町(市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。 約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。.

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日本棋院第一位決定戦

日本棋院第一位決定戦(にほんきいんだいいちいけっていせん)は、日本の囲碁の棋戦。前身の日本棋院最高段者トーナメント戦から発展解消して1959年に開始。1年半で1期、1968年まで7期行われ、全日本第一位決定戦に発展解消する(後に碁聖戦)。.

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日本棋院選手権戦

日本棋院選手権戦(にほんきいんせんしゅけんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1953年に開始、1975年まで22期行われ、天元戦に発展解消する。 中部日本新聞では、1949年から藤沢朋斎・木谷實・岩本薫の三者リーグ戦を実施、続いて高段者勝抜戦、坂田栄男らによる五番碁シリーズと中堅棋士選抜棋戦を実施。1953年から本棋戦を開始、その後北海道新聞、西日本新聞との三社共催となった。.

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日本最強決定戦

日本最強決定戦(にほんさいきょうけっていせん)は、囲碁の棋戦で、1957年から1961年にかけて3期行われた。6人の棋士によるリーグ戦であり「六強戦」とも呼ばれた。後に「名人戦」に発展する。.

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早碁名人戦

早碁名人戦(はやごめいじんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1954年(昭和29年)に開始された関西棋院早碁名人戦と、1956年(昭和31年)に開始された日本棋院早碁名人戦が行われた。それぞれ1961年まで、各8、6期で終了。後継棋戦はこの二つが統合された十段戦。多くの棋戦の持時間が10時間だった当時、持時間4時間、一日打切りの棋戦として実施された。.

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支遁

支遁(しとん, 314年 - 366年)は、東晋の僧。格義仏教の代表的人物。字は道林。本姓は関氏で、陳留(河南省開封市)の出身である。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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扇興杯女流囲碁最強戦

扇興杯女流囲碁最強戦(せんこうはいじょりゅういごさいきょうせん)は、日本の囲碁の女流棋戦。2015年に開始。日本棋院と関西棋院の女流棋士が出場する。女流棋戦としては最高額の優勝賞金の棋戦として創設された。.

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曲励起

曲 励起(まがり れいき、1924年(大正13年)11月13日 - )は、日本の囲碁棋士。三重県出身、日本棋院所属、岩本薫九段門下、九段。囲碁選手権戦優勝など。力戦・乱戦派の棋風。2005年現役引退。.

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曹大元

曹大元(そう たいげん、1962年1月26日 - )は、中華人民共和国の囲碁棋士。上海市出身、中国囲棋協会所属、九段。世界アマチュア囲碁選手権戦の他、全国囲棋個人戦など中国国内棋戦優勝多数の他、テレビ囲碁アジア選手権戦 準優勝など。妻は囲碁棋士の楊暉。.

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