目次
同光
同光(どうこう)は、五代の2番目の王朝である後唐において李存勗の治世で用いられた年号。923年4月 - 926年4月。
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大東出版社
大東出版社(だいとうしゅっぱんしゃ)は、仏教関連を中心とした日本の出版社。浄土宗浄閑寺住職の岩野真雄(1893年 - 1968年)が、『国訳一切経』を刊行するために1925年に設立した。 のちに青蛙房を興す岡本経一(岡本綺堂の養嗣子)は、戦前に大東出版社の編集長をつとめており、その時期に森銑三の著作が出されている。 現在は仏教の専門書を中心に、文学書(坂村真民詩集)など一般書籍も刊行している。1997年には美智子皇后の歌集『瀬音』を刊行した。
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崩御
崩御(ほうぎょ、)は、天皇、皇帝、国王(女王)等の君主や、太皇太后(太王太后)、皇太后(王太后)、皇后、上皇、上皇后、王妃などの死亡を表す最高敬語。 中国においては、主に『礼記』等にも見られる「駕崩」(がほう)の語が用いられる。 本項では、これらに準じる「薨去」(こうきょ)などについても扱っている。
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帰義軍
帰義軍(きぎぐん)は、唐末から北宋にかけて河西回廊の敦煌を中心として支配した政権である。曹議金が政権を取る前までは「金山国」。唐の節度使に任じられたことを権力の基盤のひとつとしたが、中央政権の政庁ではなくあくまで独立の政権として機能した。 張議潮が吐蕃に反抗し、挙兵して建てた。最盛期は河西地区の十一州を統治したが、後に領土が減り、主に瓜州・沙州の二州に割拠した。張氏・曹氏の両氏によって統治された。
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乾化
乾化(けんか)は、五代の最初の王朝である後梁において、初代皇帝朱全忠及び第3代皇帝朱友貞の治世で用いられた年号。911年5月 - 913年正月及び913年2月 - 915年10月。
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張承奉
張 承奉(ちょう しょうほう、生没年不詳)は、唐末から五代初期の帰義軍節度使であり、張議潮の子の張淮鼎の子。 景福元年(892年)、張淮鼎が死ぬと、索勛はその子供である張承奉を立てずに、自分が帰義軍節度使になってしまった。 これが、張議潮の第十四女で李明振の妻の張氏(索勛の義理の姉妹)の不満を引き起こし、乾寧元年(894年)、三人の子供を派遣して、索勛を殺して、張承奉を立てて帰義軍節度使とした。 張承奉は、李氏家族の支配を受けながら、唐と後梁の承認を受けることができた(光化三年八月十四日:900年9月10日)。 後梁の太祖朱温が死ぬと、張承奉は自ら「西漢白衣天子」と称した。このとき、帰義軍は瓜州・沙州の二州を支配しているだけであったので、甘州ウイグル王国に臣と称していた。
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後唐
後唐(こうとう、923年愛宕他 (1997)、p.15 - 936年愛宕他 (1997)、p.16)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は洛陽。
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後梁
後梁 後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。
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カガン
カガン(古テュルク語:右から読む。 qaγan、漢語:可汗、可寒、日本語読み:かかん)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。
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甘州
甘州(かんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から清代にかけて、現在の甘粛省張掖市一帯に設置された。
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甘州ウイグル王国
甘州ウイグル王国(かんしゅうウイグルおうこく)は、9世紀から1028年にかけて甘州(現在の中華人民共和国甘粛省張掖市)を中心に、回鶻(ウイグル)の残党によって建てられたオアシス都市国家。中国史書では甘州回鶻、古代ウイグル文書ではヤグラクル国(Yaγlaqür eli)と表記される。
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遼
遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。 中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。
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遼史
『遼史』(りょうし)は、中国の正史・二十四史(清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書)の一つで、遼の歴史書である。116巻。元の宰相であった脱脱が総裁となって、史料を集めて1344年に完成した。清代の歴史学者趙翼の『二十二史箚記』では「遼・金二史又缺略多し」と書かれているが、遼の歴史を知る上では根本史料である。
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都督
都督(ととく)は、中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。また4世紀 - 6世紀には、中国と外交関係を持つ近隣諸国・諸民族の君主・臣下に授与される称号の一部としても用いられた。
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英義可汗
英義可汗(えいぎかがん、拼音:Yīngyìkĕhàn、? - 924年)は、甘州ウイグル王国の王(権知可汗)。名は仁美。後唐の荘宗より英義可汗の称号を賜った。『遼史』では烏母主可汗(オルムズ・カガン、Ormuz Qaγan)と表記。
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耶律阿保機
耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。
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榎一雄
榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日 - 1989年(平成元年)11月5日)は、日本の東洋史学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。
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沙州
沙州(さしゅう)は、中国にかつて存在した州。五胡十六国時代から元初にかけて、現在の甘粛省敦煌市一帯に設置された。
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新五代史
『新五代史』(しんごだいし)は、北宋の欧陽脩による歴史書。元の名を『五代史記』といい、皇祐5年(1053年)書となった。私撰であるため家に蔵されていたが、撰を終えた後に朝廷に献上された。乾隆のとき、薛居正の『旧五代史』と共に正史とするため、欧陽脩の史は『新五代史』と改称された。本紀12巻・列伝45巻・考3巻・世家及年譜11巻・四夷附録3巻の合わせて74巻。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)までの歴史が記載されている。 現在の歴史学会の評価として、杉山正明のまとめた説によると、「事実誤認も多い上、著者の癖が強く、司馬光の『資治通鑑』のようなあからさまなウソはないものの、創作も混じっており、旧五代史に比べて良質な史料とは言いがたい」とされている。また、山崎覚士からは本来、五代王朝の節度使に過ぎない荊南節度使をあたかも別の国家(荊南)のように記載して「十国」としたのは欧陽脩個人の史観に過ぎないとする指摘もある。
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旧五代史
『旧五代史』(きゅうごだいし)は、北宋の薛居正らの撰である歴史書。原名は『梁唐晋漢周書』、通称『五代史』とされ、欧陽脩による『新五代史』の編纂後は「旧」を冠する。二十四史の一つ。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)に北宋が後周に代わって建つまでが記されている。本記61巻・列伝77巻・志12巻の計150巻を五代に区分して書とした。『梁書』24巻・『唐書』50巻・『晋書』24巻・『漢書』11巻・『周書』22巻・志12巻がある。 『新五代史』が発表されてから『旧五代史』は忘れ去られ、散逸した。清代になって邵晋涵らが『永楽大典』に引用されている部分を集めて復活させたのが現行の『旧五代史』である。現代の学界では、創作や事実誤認が多い『新五代史』に比べ、率直・素朴・雑駁であるがかえって史料性が高いとされている。
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拼音
拼音(ピンイン、、)は、中国語の発音記号。音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系である。1958年より中華人民共和国が制定した漢語拼音(かんごピンイン、, ハンユーピンイン)とそれに基づく文字・漢語拼音字母がある。当初は、将来的に漢字に代わる中国語の文字として位置づけられていた。 また、中国大陸とは異なる通用拼音のような拼音もあり、ウェード式、イェール式などの他のラテン文字による表記法も中国語では拼音と称することがある例えば中華民国(台湾)教育部ウェブサイトにあるでウェード式は「威妥瑪拼音」()、イェール式は「耶魯拼音」() と表記されている。。漢語拼音の名称は、それらと特に区別する必要がある場合に用いられる。
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1980年
この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。
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