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潼関の戦い

索引 潼関の戦い

潼関の戦い(どうかんのたたかい)は、中国後漢末期の211年(建安16年)に、馬超・韓遂ら関中軍閥の連合軍が、曹操と潼関周辺において行った戦い。.

57 関係: 劉備劉璋十常侍夏侯淵定軍山の戦い宋建三国志 (歴史書)三国志演義一騎討ち建安 (漢)伏兵張コウ (曹魏)張魯張既徐晃後漢テイ (民族)刺史ギョウ甘粛省韓遂韋康鍾ヨウ衛覬西平郡馬騰馬超許チョ魏略賈ク霊帝 (漢)関中董卓重騎兵雍州離間計陝西省陽平関の戦い李堪梁興楊秋楊阜涼州漢中郡潼関県朱霊成宜成都市...曹丕曹仁曹植曹操208年211年212年 インデックスを展開 (7 もっと) »

劉備

劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。 黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。 明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。.

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劉璋

劉 璋(りゅう しょう、? - 219年(建安24年))は、中国の後漢末期の群雄である。劉焉の子。家系は劉氏。字は季玉。劉瑁の弟である。.

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十常侍

十常侍(じゅうじょうじ)は、中国後漢末期の霊帝の時代に専権を振るった宦官の集団。 『後漢書』によれば.

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夏侯淵

夏侯 淵(かこう えん、? - 建安24年(219年)正月)は、中国後漢末期の武将。字は妙才。従兄は夏侯惇。正妻は曹操の妻の妹。甥は夏侯尚。子は夏侯覇ら。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。 軍の拠点間における迅速な移動や、それに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とした。その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた(『魏略』)。.

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定軍山の戦い

定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)は、後漢末期に、益州北部の要衝・漢中を巡って曹操と劉備の両者間で行われた戦い。演義では劉備が定軍山で夏侯淵を破った戦いを指すが、本項では漢中を巡る両者の戦闘の全容を記述する。.

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宋建

宋 建(そう けん、? - 214年)は、中国後漢末期の武将。涼州隴西郡の人。『三国志』魏志「武帝紀」・「夏侯淵伝」等に記述がある。.

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三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.

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三国志演義

劉備と関羽、張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、 )は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。.

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一騎討ち

一騎討ち 一騎討ち(いっきうち)とは、戦争状態にある戦場において戦士同士が一対一を原則として決着をつける戦闘手法である。一騎打ち(いっきうち)とも表記される。.

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建安 (漢)

建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀漢では延康の正統性を認めず、建安を26年(221年)まで使った。.

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伏兵

伏兵(ふくへい)は、戦闘を予期して、その予想される仮想戦場に兵士をおくこと、また、その兵士。あるいは戦闘時に先の展開を予想し戦場に隠しておく兵士のことも指す。.

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張コウ (曹魏)

張 郃(ちょう こう、? - 231年(太和5年))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。字は儁乂(しゅんがい)。『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。冀州河間郡鄚(ばく、現在の河北省任丘市)県の人。子は張雄、他4人。 初め韓馥、次いで袁紹に仕え、官渡の戦いにおいて曹操に降伏し、以後は魏の宿将として長く活躍した。.

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張魯

張 魯(ちょう ろ、? - 建安21年(216年))は、中国後漢末期の五斗米道(後の正一教)の指導者。字は公祺。豫州沛国豊県(現在の江蘇省徐州市豊県)の人。祖父は張陵。祖母は雍氏(または孫氏、張陵の妻)。父は張衡。母は盧氏(または陳氏)。姑は張文姫(字は文姫、名は不詳、張衡の姉)・張文光(字は文光、名は不詳、張衡の妹)・張賢(字は賢姫、張衡の妹)・張芝(字は芳芝、張衡の妹)。弟は張衛・張愧(字は公仁)・張徴。姉妹は張玉蘭(張衡の娘)。子は張富ら十人と女子一人(曹宇妻)。『三国志』では魏志に伝がある。.

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張既

張 既(ちょう き、? - 223年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。字は徳容。司隸左馮翊高陵県の人。子は張緝・張翁帰。孫は張藐・張皇后(曹芳の皇后)。『三国志』魏志に伝がある。また裴松之によると、『魏略』においての伝は、徐福・厳幹・李義・游楚・梁習・趙儼・裴潜・韓宣・黄朗と同じ伝に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」注)。.

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徐晃

徐 晃(じょ こう、? - 227年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。魏に仕えた。字は公明(こうめい)。司隷河東郡楊県(現山西省洪洞県南部)の人。子は徐蓋。孫は徐覇。『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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テイ (民族)

氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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ギョウ

鄴(ぎょう、業におおざと)は中国の歴史的地名。後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市にまたがっている。.

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矛(銅矛)の各部名称 矛、鉾(ほこ)は、槍や薙刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。 日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。日本では鉾や桙の字も使用されるが、ここでは矛の字で統一して記述する。.

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後漢末期(198年頃)の羌族の位置 羌(きょう、)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。.

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甘粛省

粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.

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韓遂

韓 遂(かん すい、? - 215年)は、中国後漢末期の武将。字は文約。『三国志』魏志「武帝紀」・蜀志「馬超伝」・『後漢書』「董卓伝」等に記録がある。 後漢末期における涼州・関中軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。元の名を韓約という。.

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韋康

韋 康(い こう、? - 212年?)は、中国後漢末期の人物。字は元将。司隷京兆尹杜陵県の人。父は韋端。弟は韋誕。『三国志』魏志「荀彧伝」注などに記録がある。.

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鍾ヨウ

鍾 繇(しょう よう、、151年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家・武将・書家。字は元常。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌周辺)の出身。 曾祖父は鍾皓。祖父は鍾迪。父の名は不詳。妻は賈氏・孫氏・張昌蒲。子は鍾毓・鍾劭・鍾会。娘は荀勗の母。孫は鍾豫・鍾駿・鍾邕(「鍾会伝」)・鍾毅(「鍾会伝」)・鍾峻(「鍾会伝」)・鍾辿(「鍾会伝」)・鍾徽(王渾妻の父、『晋書』)ら。曾孫娘は鍾琰(字は琰、鍾徽の娘、王渾の妻)。大叔父は鍾敷(鍾迪の弟)。族父は鍾瑜。弟は鍾演。甥は郭援(姉の子)。『三国志』魏志「鍾繇華歆王朗伝」に伝がある。.

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衛覬

衛 覬(えい き、? - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・学者・文化人。字は伯覦。司隷河東郡安邑県(山西省夏県)の人。子は衛瓘・衛寔(字は叔始)。孫は衛恒。曾孫は衛玠。『三国志』魏志21巻に伝がある。 若くして頭角を現し曹操に登用され、茂陵令・尚書郎となった。曹操は袁紹と対立すると、荊州の劉表が気がかりであったため、益州の劉璋に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んた。治書侍御史に任命された衛覬は、長安まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま関中に留まった。また関中の荒廃を見て、荀彧に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。民力の充実を第一にしたため、関中の軍事的な安定の確立を目指す鍾繇とは、対立することもあった。 その後、中央に召還され、官職は尚書にまで昇った。朝廷の古い慣例に詳しいという才を買われ、王粲と共に魏国体制の基礎を築く作業を行なった。曹操が没すると、魏への禅譲の道を開く作業に尽力し、功績があった。 曹丕(文帝)の時代も尚書・陽吉亭侯となり活躍し、曹叡(明帝)の時代には閿郷侯となって、領邑600戸を得た。また法の整備を提言し、功績があったという。 230年に没し、敬侯と号された。子の衛瓘が爵位を継いだ。『魏官儀』など著作を多く残し、西晋の時代には文筆家として著名を馳せた。また、書体にも精通していたため、後世の書道の世界でも名を知られるようになった。.

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西平郡

西平郡(せいへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。魏晋南北朝時代に2カ所の西平郡が立てられた。.

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馬騰

(ば とう、? - 建安17年(212年))は、中国後漢末期の武将。字は寿成。司隷扶風郡茂陵県(陝西省興平県の北東)の人。祖先は後漢初期の名将馬援。父は(字は子碩)。子は馬超・馬休・馬鉄。甥は馬岱。.

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馬超

成都武侯祠の馬超像 馬 超(ば ちょう、 、熹平5年(176年) - 章武2年(222年))は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷扶風郡茂陵県(陝西省興平市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。 後漢の名将馬援の子孫と称する一族の出身。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。 父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。.

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許チョ

許 褚(きょ ちょ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。字は仲康。兄は許定。子は許儀。孫は許綜。.

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魏略

『魏略』(ぎりゃく)とは、中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。後に散逸したため、清代に王仁俊が逸文を集めて輯本を編したが、はなはだ疎漏であったため張鵬一が民国11年に再び編した。著者は魚豢(ぎょかん)である。魚豢については事績が伝わっておらず、『魏略』の作者であること以外はほとんど分かっていない。『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている程度である。.

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賈ク

賈詡の肖像画 賈 詡(か く、147年 - 223年、建和元年 - 黄初4年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文和(ぶんわ)。涼州武威郡姑臧県の人。董卓・李傕・段煨・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり重臣として活躍した 。曾祖父は賈秀玉。祖父は賈衍。父は賈龔。子は賈穆・賈訪。孫は賈模。曾孫は賈胤・賈龕。『三国志』魏志「荀彧・荀攸・賈詡伝」に伝がある。.

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霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.

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関中

関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。.

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董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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重騎兵

パリを行進するフランスの重騎兵隊(1914年8月) 重騎兵(じゅうきへい、heavy cavalry)は、鎧で重武装した騎兵である。.

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雍州

雍州(ようしゅう)は中国にかつて存在した州。.

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離間計

離間計(りかんのけい)は、対象の仲を裂くことで状況を打破する戦術。 敵対する親子・兄弟・君臣・同盟といった関係の弱点を密かに突いたり、結びつく要因(人・物・利害)を悟られないように利用したりして心理戦を仕掛けることで、対象となる関係を内部から崩し、漁夫の利を得ようとするものである。 反間計と混同されることがあるが、それぞれ異なる計略である。古今東西で用いられる。.

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陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.

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陽平関の戦い

陽平関の戦い(ようへいかんのたたかい)は、中国の後漢末期に起きた争乱のひとつ。215年、曹操が漢中を支配する五斗米道の張魯を陽平関(現在の陝西省漢中市勉県)で撃破し、漢中制圧の道を開いた戦い。.

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李堪

李 堪(り かん、? - 211年)は、中国の後漢末期の武将。司隷河東郡出身。.

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梁興

梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力(関中十部)の一人(蜀志「馬超伝」が引く『典略』)。出自は不明である。 211年、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜城に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は蘭田に駐屯していたが、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を212年に受けて、斬られたという(「武帝紀」)。.

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楊秋

楊 秋(よう しゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。.

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楊阜

楊 阜(よう ふ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。字は義山。涼州漢陽郡冀県の人。父と子の名は不明。孫は楊豹。従弟は楊謨・楊岳。外兄は姜叙。『三国志』魏志に伝がある。 若い頃、同郡の尹奉や趙昂とともに名を馳せたという(『魏略』)。 曹操と袁紹が争っていた頃、州牧韋端の命により従事の資格で許都に赴き、安定郡の長史に任命された。帰還した後、曹操の勝利を確信し、その事を地元の諸将に伝えている。 長史の任務が合わず辞職したが、韋端が太僕に任命され、その子の韋康が涼州刺史となると、別駕として召し出された。孝廉となり、丞相府より召された事もあったが、涼州側は上奏して留め置き、参軍とした。 潼関の戦いで曹操に敗れた馬超は西方に逃れたが、その名声により羌族をはじめとした諸蛮族を掌中にし、再起を図っていた。この時、楊阜は曹操に対し韓信・黥布の例に擬えて、馬超の攻撃に対応する防備を厳重にするよう進言した。だが、同時期に河間で蘇伯らの反乱があったため、曹操は兵を引き揚げてしまった。 その後、馬超は隴上への侵攻を開始し、冀城を除く諸県が馬超に呼応した。冀城には韋康や諸郡の太守らが拠ったが、間もなく馬超は1万の兵を率いて冀城を攻撃した。漢中の張魯も馬超に援軍として楊昂を派遣していた。楊阜は城内の士大夫の子弟の内から、戦争ができる者を1000人ほど集めて即席の軍隊とし、従弟の楊岳に城壁の上に偃月の陣を敷き馬超に抵抗させた。 8ヶ月程抵抗したが援軍はやって来なかった。韋康は閻温を援軍の使者として城外に出したが、馬超に見つかり殺害されてしまった。色を失った韋康らが降参を考えるようになると、楊阜は涙を流してこれを諌めたが、聞き入れられなかった。結局、韋康らが城門を開いて馬超と和議を結ぼうとしたが、馬超は楊岳を冀城で軟禁する一方、楊昂に命じて韋康らを殺害させた。 このため、楊阜は馬超への復讐の機会を窺っていた。丁度、妻の葬儀があったため、これを理由として一時的に帰郷した。まず、歴城にいる姜叙と連絡をとり、姜叙とその母の前で無念の気持ちを述べたところ、姜叙の母は強く同情し、姜叙に楊阜の馬超打倒計画に参画するよう熱心に奨めた。趙昂や尹奉といった同郷人らや、武都の人々と連絡をとり、冀城の楊岳の元にも楊謨を送り計画を打ち明けた。安定の梁寛や南安の趙衢といった有力者も同心とした。 212年9月、楊阜は鹵城において姜叙と共に馬超打倒の兵を挙げた。馬超が直ちに楊阜を攻撃しようとしたが、かねての計画通り梁寛や趙衢らは冀城を襲撃し、楊岳の身柄を奪い返した上で、冀城を占拠した。 この反乱で、歴城にいた姜叙の母や馬超の人質となっていた趙月(趙昂と王異の子)が馬超に殺害され(皇甫謐『列女伝』)、さらに楊阜の一族7人が馬超によって殺され、楊阜自身も重傷を負った。214年春正月までには夏侯淵の援軍を得て、馬超を撃退し漢中に放逐し、馬超が冀城に留守として置いていた妻子一族を、全て処刑したという(「武帝紀」)。 隴右平定の功績により、曹操は11人の者を列侯した。曹操が楊阜を関内侯に封じようとしたが、楊阜は韋康らを守れず、馬超も殺害できなかった事を理由に辞退した。しかし、曹操が何度も位を与えようとしたため、遂に応じた。 215年の漢中討伐時に益州刺史(遥任)となり、帰還後は金城太守とされたが、その直後に武都太守に任命された。楊阜は、劉備が統治する益州との国境に近い地域である事も考慮して、法の厳格な適用に拘らない統治を心がけるよう要請した。 218年、劉備軍の張飛と馬超が下弁に攻め込むと、氐族らもそれに呼応し反乱を起こした。曹操は曹洪を送り馬超達を退却させた。曹洪は勝利を祝う宴会を開き、薄衣を身に付けた女性達に舞楽を行なわせた。同席していた諸将は笑い転げたが、楊阜だけが曹洪の不行跡を責めて退席した。曹洪は舞楽をやめさせ、楊阜に戻るよう願い出たため、その場は厳粛となったという。 劉備が漢中を取り下弁に再び迫ると、曹操は武都の地が遠方に孤立しているため、住民を京兆・扶風・天水へ移住させようとした。一万戸がこれに応じたが、これは楊阜のそれまでの統治が信頼を勝ち得ていたからであった。 やがて、武都に赴任すること十数年、漠然ながら下々の民に悪事を起こさせないように行政を実施した。曹丕(文帝)は、劉曄などから武都太守の評判がいいことを聞いてこれを召し出そうとしたが、果たせぬまま急死した。 曹叡(明帝)の代になると中央に召され城門校尉となり、将作大匠・少府に昇進した。その間、曹叡に対して服装や素行、大規模な宮殿造営などの放漫な政治に対し、諫言や上奏を何度も行なった。曹真が蜀漢を征伐しようとしたが、雨で進軍できなくなった時には撤兵を進言したため、曹叡もそれに従った。 楊阜の諫言は、曹叡にいつも聞き入れられた訳ではなかったが、楊阜の忠義の心には曹叡もそれなりに心を動かされるものがあったという。 ある時、諫言が何度も聞き入れられなかったため、官を辞退したところ、聴許が得られない内に偶然死去したという。孫が後を継いだ。家には財産を遺さなかったという。.

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涼州

涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。.

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漢中郡

漢中郡(かんちゅう-ぐん)は、古代中国に存在した郡。後に漢中(かんちゅう)は、郡の役所が置かれた南鄭(なんてい、現在の陝西省漢中市)を中心とした一帯の名称となる。劉邦が興した漢王朝や、現在の「漢民族」や「漢字」などの名称の由来となる地名でもある。.

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潼関県

潼関県(どうかんけん)は中華人民共和国陝西省渭南市に位置する県。.

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朱霊

朱 霊(しゅ れい、? - 229年以降)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての魏の武将。字は文博。冀州清河国鄃県(今の山東省徳州市)の人。曹操・曹丕・曹叡の3代に仕えた歴戦の将軍である。.

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成宜

成 宜(せい ぎ、? - 211年)は、中国後漢末期の人物。『三国志』魏書武帝紀・蜀書馬超伝などに記述がある。 馬超・韓遂らと同盟を結び反乱を起こした。正史の本文中において、馬超・韓遂と共に名が列挙されている部分が散見され、また、別の場所では楊秋・李堪とともに名を挙げられており、いわゆる「関中八部」の中では実力者であったと思われる。潼関の戦いで曹操軍を相手に善戦し活躍するものの、馬超と韓遂の内紛の隙を衝かれて敗れ、馬超・韓遂が涼州へ、楊秋も安定へ逃亡した。成宜は李堪等とともに戦死している。 小説『三国志演義』では、韓遂の「手下八部」の一人として奮戦するが、途中の一戦で夏侯淵に討ち取られ戦死している。 Category:三国志の登場人物 Category:生年不明 Category:211年没.

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成都市

成都市にはパンダの繁殖基地がある 成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地 四川省の伝統芸能『川劇』 麻雀は成都市における最もポピュラーな娯楽である 麻婆豆腐は成都の陳森富の妻劉氏が考案したとされている 成都武侯祠の劉備像・三国志の英雄 劉備は巴蜀の地で最期を遂げた 成都市の古地図(1930年) 琴台路(往年の宝石販売の大通り) 天府広場 成都市の木 銀杏(四川大学) 木芙蓉 成都市(せいとし/チェンドゥし、、、)は、中華人民共和国四川省の省都であり、副省級市。豊かな成都平原の中にあって古くから『天府の国』と呼ばれてきた。唐の時代から蜀錦を産出するため錦城の別称を持ち、また芙蓉の花を市花とするところから蓉城の別称ももつ。.

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曹丕

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。.

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曹仁

曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初4年3月19日(223年5月6日))は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。父は曹熾(字は元盛、侍中・長水校尉)。 従兄は曹操。弟は曹純。子は曹泰・曹楷・曹範ら。孫は曹初。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。 騎兵を率いて各地を転戦し、後には防衛司令官となり、晩年は大将軍・大司馬にまで昇った。.

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曹植

曹 植(そう しょく/そう ち、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の皇族。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。.

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曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.

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208年

記載なし。

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211年

記載なし。

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212年

記載なし。

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