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治承の大火

索引 治承の大火

治承の大火(じしょうのたいか)は、治承2年3月24日(1178年4月13日)に平安京内で起こった大火災。前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれる。 この日の夜半に七条東洞院から出火、折からの東風に煽られて朱雀大路に至るまでの三十数町が全焼した。この地域は当時の人口密集地であり、そこを直撃したことになる。そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、人々に甚大な衝撃を与えた。 なお、この火災の日付については、『玉葉』が3月24日、『後清録記』が4月24日のこととしており、『後清録記』の日付を採用する説もある。 Category:日本の火災 Category:平安時代の事件 Category:平安時代の京都 Category:1178年の日本.

12 関係: 安元の大火七条通平安京玉葉火災東洞院通治承朱雀大路1178年3月24日 (旧暦)4月13日4月24日 (旧暦)

安元の大火

安元の大火(あんげんのたいか)は、安元3年4月28日(1177年6月3日)に平安京内で起こった大火災。太郎焼亡(たろうしょうぼう)とも呼ばれる。.

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七条通

七条通(しちじょうどおり京都市内の通りの名称は「通」となっていて「り」を送らない。例外として道路標識では「通り」として送る表記を採用しているが、印刷資料で送るものは極めて珍しい。京都市内の通り#表記参照、京言葉:ひちじょうどおり、ひっちょうどおり)は京都市の主要な東西の通りの一つ、京都府道113号梅津東山七条線のほとんどの区間を占める。京都市内の中心部は平安京の七条大路にあたる。 東は東大路通との交差点、東山七条が起点。西は葛野大路通を越えて南に曲がり京都府道113号は西に直進し西京極総合運動公園の西側を北上、五条通りに接続。以北は葛野西通となり四条通へ続く。桂川に架かる桂大橋東詰で八条通と合流する。西の末端部は山陰街道である。 近世においては、現在の七条千本付近が洛中・洛外の境界であり、そこから七条通を西に延ばす形で山陰街道が続いていた。明治末期から大正初期にかけての京都市三大事業によって東大路通から大宮通まで、その後の大正 - 昭和初期の都市計画事業によって西は西大路通までが拡幅され、京都市電(七条線)が敷設された。そのため西大路から西に約700m先の大門町バス停付近から道幅が細くなって、葛野大路通以西は京都府道113号部分が拡幅され、府道と分かれる部分から狭くなり南下。桂大橋の東側や山陰街道(旧山陰街道)の樫原付近では旧街道の面影が残されている。 東山七条付近に京都国立博物館・三十三間堂・智積院・養源院がある。また烏丸七条上ルに東本願寺、堀川七条上ルに西本願寺がある。千本七条には京の台所である京都市中央卸売市場第一市場がある。この付近は道幅が広く通りに沿って駐車スペースが設けられている。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.

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火災

火災(かさい)とは、火による災害である。一般的には火事(かじ)ともいう。また、小規模な火災のうちに消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、怪我人や死者がでることも頻繁にある。.

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東洞院通

東洞院通(蛸薬師通付近から北方向を望む) 東洞院通(ひがしのとういんどおり)は京都市の南北の通りの一つ。 北は丸太町通から南は京都駅まで。京都駅を挟んで南側の延長線上に竹田街道がある。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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朱雀大路

朱雀大路(すざくおおじ/しゅじゃくおおじ)は、律令制時代の日本における都内の大路で、条坊制の都市において宮城・官衙の正面から南方に向かう道のこと。名称は南方の守護神である朱雀に因む。都を南北に走り、首都正門羅城門に始まり、大内裏正門朱雀門に終わる。 日本には遣隋使、遣唐使を通じて条坊制が伝わり、最初の整備都市藤原京造営時に採用された。藤原京は周礼に理想王朝である周の都城として伝わるモデルを基にしており、皇宮が正方形の都城の中央に位置するため、後の都より朱雀大路は短く、皇宮を挟んだ北側には対称をなして玄武大路があった。藤原京の朱雀大路の幅は2、30メートル程であったが、唐・長安の朱雀大街は幅147メートルもあったため、朝鮮半島の諸国に対する宗主権を主張していた当時の日本としては、それらの国の外交使節を迎える上で見劣りするものであった。外国使臣への示威に加え、大嘗祭での神饌運び込み儀式や軍隊の出征や凱旋といった朝廷の権威発揚の場となることが朱雀大路が担うべき役割であった。なお、藤原宮の南面から直進した途中地点より藤原京以前からのものとみられる古代寺院の遺構(和田廃寺)が発掘され、藤原京が持つ構造的問題(既存施設の存置)から朱雀大路の整備がされなかった可能性も指摘されている。 平城京からは長安同様に皇宮が都の北端にあり朱雀大路が長くのびる北闕型が採用され、平城京の朱雀大路は幅73メートル、平安京では幅82メートル(延喜式)となった。平安京朱雀大路は自動車道路の25車線分に相当し、日常の通行に必要な幅ではなかった。このサイズについては国家威信と現実の国力の兼ね合いで「長安の半分」を意図したという見方がある。平安京朱雀大路は全幅84.0メートル、側溝より内側の道路幅70.2メートルとする推定もある。 羅城門以南は、平城京では下ツ道、平安京では鳥羽作道に接続された。当時十数名ほどであった公卿を除いては大路に面して門を作ることが禁止されていたので、朱雀大路に面しては築地塀が続いた。道の脇の排水溝と街路樹の清掃や維持管理は沿道住民の義務とされた。もっとも、平安京遷都から20年後の時点で大路の管理が行き届かなくなっており、また平安時代にはいると外交使節の入京は渤海使のみとなり、渤海の滅亡により迎えるべき外交使節が途絶した。延喜式では牛馬が放牧されたり盗賊のねぐらとなったりしている状況を踏まえてこれらの取り締まりを謳っている。 しかし、朝廷の収税力減少、右京の衰退、管轄者の京職の形骸化に伴い荒廃が進んだ。鎌倉時代初期には朱雀大路を含む道路の農地化が横行していることが記されている。戦国時代には防衛上の理由から左京とその北側のうちそれぞれごく一部が惣構を持つ囲郭都市の下京と上京になり、もとの朱雀大路は市街地から切り離されることとなった。その後、豊臣政権が惣構を解体して上京・下京を一体に囲む御土居を構築し、もとの朱雀大路の区域の多くも御土居内部西辺に取り込まれたが、朱雀大路が復活することはなく、同じ場所には南北に千本通が通じている。 平城京の朱雀大路も一旦その姿を消したが、現代の奈良市では平城宮跡歴史公園内の「朱雀門ひろば」として、復元された朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備された。 鎌倉の鶴岡八幡宮参道の若宮大路が朱雀大路に見立てて設けられたとする見方もある。また、大宰府においては政庁地区から伸びる中央南北大路の事を平城京・平安京の例に倣い朱雀大路と呼ぶ事もある。 中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都は余り作られなくなり、朱雀大街も見られなくなった。.

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1178年

記載なし。

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3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

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4月13日

4月13日(しがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から103日目(閏年では104日目)にあたり、年末まではあと262日ある。誕生花はクマガイソウ、エビネ。.

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4月24日 (旧暦)

旧暦4月24日は旧暦4月の24日目である。六曜は先負である。.

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次郎焼亡

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