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1178年

索引 1178年

記載なし。

56 関係: 南宋大姫 (源頼朝の娘)大定 (金)大理国天皇天禧 (西遼)安徳天皇干支平安時代平能宗乾祐 (西夏)仏滅紀元伊賀光宗御家人ユダヤ暦ローマ王ヒジュラ暦フィリップ (神聖ローマ皇帝)ホーエンシュタウフェン朝喜海儒学者元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)国分胤長神武天皇即位紀元真徳秀盛徳 (大理)鎌倉時代華厳宗西夏西遼高麗貞符金 (王朝)李朝 (ベトナム)檀君紀元武将治承淳熙源頼朝戊戌明宗 (高麗王)政治家1185年1197年11月12日 (旧暦)1200年...1208年1235年1251年1257年12月22日6月25日 インデックスを展開 (6 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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大姫 (源頼朝の娘)

大姫(江戸時代、菊池容斎画『前賢故実』より) 大姫(おおひめ、治承2年(1178年) - 建久8年7月14日(1197年8月28日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子(頼朝の子としては第2子で長女、政子の子としては第1子で長女)。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不明。 6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。.

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大定 (金)

大定(だいてい)は中国・金の世宗の治世で用いられた元号。1161年 - 1189年。.

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大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天禧 (西遼)

天禧(てんき)は、西遼の末主耶律直魯古の治世に使用された元号。使用年代には異説があり、1178年 - 1211年説及び1168年 - 1201年説がある。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平能宗

平 能宗(たいら の よしむね、治承2年(1178年)? - 元暦2年5月7日(1185年6月6日))は平安時代末期の武将。平宗盛の次男。平清盛の孫にあたる。幼名は副将丸。位階は従五位上。号は自害大夫、または自在大夫と伝わる。諱名は良宗とも。.

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乾祐 (西夏)

乾祐(けんゆう)は、西夏の仁宗の治世で用いられた元号。1170年 - 1193年。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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伊賀光宗

伊賀 光宗(いが みつむね)は、鎌倉時代初期から中期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。父は伊賀朝光。 姉妹である伊賀の方が2代執権北条義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、元仁元年(1224年)、義時が急死すると、伊賀の方の子北条政村を執権に、また藤原頼経を廃して伊賀の方の娘婿一条実雅を将軍に据えようと画策。政村の烏帽子親である三浦義村にも支援を求めたが、計画は未遂に終わり、信濃国筑摩郡麻績御厨に流された(伊賀氏の変)。 だが伊賀氏謀反の風聞については執権となった北条泰時自身が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、北条政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。 政子の死後、罪を許され、所領を回復。寛元2年(1244年)には、評定衆に就任した。康元2年(1257年)1月25日、80歳で死去。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ローマ王

ーマ王は、古代ローマや神聖ローマ帝国における君主の呼称である。神聖ローマ帝国のローマ王はドイツ王とも通称される。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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フィリップ (神聖ローマ皇帝)

フィリップ・フォン・シュヴァーベン(Philipp von Schwaben, 1177年 - 1208年6月21日)はローマ王(在位:1198年 - 1208年)。ホーエンシュタウフェン朝第4代のローマ王。第2代ローマ王で皇帝のフリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの末子。。対立王オットー4世を下して事実上の皇帝となったが、ローマ皇帝として戴冠される前に暗殺されてしまった。.

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ホーエンシュタウフェン朝

ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年 - 1208年、1215年 - 1254年)は、神聖ローマ帝国の王朝。シュタウフェン朝およびシュタウファー朝とも呼ばれる。シュヴァーベン大公でもあった。家名はシュヴァーベンのシュタウフェン城を発祥とする。イタリアではシチリア王国を支配し、1266年まで続いた。.

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喜海

喜海(きかい、治承2年(1178年) - 建長2年12月20日(1251年1月13日))は、鎌倉時代中期の華厳宗の僧。号は義林房。 山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事し華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写・校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は有名である。弟子には静海・弁清などがいる。 Category:華厳宗の僧 Category:鎌倉時代の僧 Category:1178年生 Category:1251年没.

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儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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国分胤長

国分 胤長(こくぶん たねなが、治承2年(1178年)? - 正治2年4月13日(1200年5月27日)?)は、日本の鎌倉時代に陸奥国宮城郡にいたとされる武士である。国分胤通の子とされるが、実在しない可能性がある。 陸奥国の国分氏は、南北朝時代から戦国時代まで陸奥国宮城郡南部を領した武士である。下総国出身の国分胤通が宮城郡国分荘を奥州合戦の恩賞として与えられて移住したのがはじまりだと伝える。江戸時代に仙台藩の佐久間義和が編纂した系図では、国分胤長は胤通の長子、母は臼井常信の女。弟に胤清と道氏がおり、姉妹2人がいてそれぞれ大須賀胤秀と臼井秀行に嫁いだ。胤通の弟東胤頼の女を娶って子に国寿丸があり、これが長じて国分胤茂となったという。 佐久間編の系図では胤長は正治2年(1200年)4月13日に年23歳で没したというので、生まれた年は治承2年(1178年)となる。弟の胤清も年16で死に、末弟の道氏は長命で下総印旛郡山岡荘に領土を与えられた。 国分氏の本流は陸奥国にあって、胤通から胤茂に伝えられるというのが佐久間編の系図のいうことなのだが、下総側の系図にも、陸奥側で古内氏が蔵した系図にも、こうした人名は出てこない。仙台藩で江戸時代に編纂された複数の資料・系図は胤通を陸奥国分氏の先祖とするが、古い時代で一致するのは胤通だけで、戦国時代を下るまで異同がはなはだしい。そこで、陸奥の国分氏を胤通につなげたのは系図編纂者ではないかという説もある。下総から陸奥へという流れを大略認める説をとっても、系図の個々の人名は信用できるものではなく、胤長の実在性には疑問がある。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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真徳秀

真徳秀(しんとくしゅう、1178年 - 1235年)は、南宋中期の政治家、儒学者。字は景元または景希で、号は西山先生。諡は文忠。建州浦城(福建省)出身。.

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盛徳 (大理)

盛徳(せいとく)は、雲南に興った後理国の段智興の時代に使用された元号。1176年 - 1180年。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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華厳宗

華厳宗(けごんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつ。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を拠り所とした宗派で、開祖は杜順。日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。.

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西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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貞符

貞符(ていふ、Trinh Phù、チンフー)は、ベトナム、李朝の高宗李龍𣉙の治世で使われた元号。1176年 - 1186年旧7月。宝符にも作る。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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李朝 (ベトナム)

李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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淳熙

淳熙(じゅんき)は中国・南宋時代に孝宗の治世で用いられた元号。1174年 - 1189年。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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戊戌

戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの35番目で、前は丁酉、次は己亥である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の戌は陽の土で、比和である。.

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明宗 (高麗王)

明宗(めいそう、1131年11月8日 - 1202年12月3日)は、第19代高麗王(在位:1170年 - 1197年)。姓は王、諱は晧、諡号は皇明光孝大王。妃は江陵公王温の娘、光靖王后金氏。.

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政治家

政治家(せいじか)とは、職業として政治に携わっている者のことである。.

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1185年

記載なし。

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1197年

記載なし。

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11月12日 (旧暦)

旧暦11月12日は旧暦11月の12日目である。六曜は仏滅である。.

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1200年

記載なし。

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1208年

記載なし。

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1235年

記載なし。

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1251年

記載なし。

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1257年

記載なし。

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12月22日

12月22日(じゅうにがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から356日目(閏年では357日目)にあたり、年末まであと9日ある.

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6月25日

6月25日(ろくがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から176日目(閏年では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。誕生花はアガパンサス、ヒルガオ。.

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