ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

村木砦の戦い

索引 村木砦の戦い

村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)は、天文23年1月24日(1554年2月25日)、尾張国で起きた戦い。.

39 関係: 名古屋市大日本史料大手門天文 (元号)安藤守就尾張国中区 (名古屋市)三河国今川義元信長公記北区 (名古屋市)知多市知多郡知立市緒川城織田信友織田信光織田信長熱田区狭間那古野城逆櫓の松林秀貞林通具搦手門東浦町梶原景時水野忠分水野信元清洲城源義経戦国時代 (日本)斎藤道三愛知県1554年1月24日 (旧暦)2月25日

名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

新しい!!: 村木砦の戦いと名古屋市 · 続きを見る »

大日本史料

『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、1901年(明治34年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(『日本書紀』 - 『日本三代実録』)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。 平安時代の宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。.

新しい!!: 村木砦の戦いと大日本史料 · 続きを見る »

大手門

大手門(おおてもん)とは、日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる。.

新しい!!: 村木砦の戦いと大手門 · 続きを見る »

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

新しい!!: 村木砦の戦いと天文 (元号) · 続きを見る »

安藤守就

安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。西美濃三人衆の一人。姓は安東とも表記される。.

新しい!!: 村木砦の戦いと安藤守就 · 続きを見る »

尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 村木砦の戦いと尾張国 · 続きを見る »

中区 (名古屋市)

中区(なかく)は、名古屋市を構成する16区のうちのひとつ。.

新しい!!: 村木砦の戦いと中区 (名古屋市) · 続きを見る »

三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

新しい!!: 村木砦の戦いと三河国 · 続きを見る »

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

新しい!!: 村木砦の戦いと今川義元 · 続きを見る »

信長公記

信長公記/陽明文庫所蔵 『信長公記』(しんちょうこうき / のぶながこうき)は、戦国大名である織田信長の一代記で、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。著者は信長旧臣の太田牛一。原本は江戸時代初期に成立した。 信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、上洛(永禄11年(1568年))から本能寺の変(天正10年(1582年))まで15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。 読みに関しては米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵十冊本の内題に「しんちやうき」とあることから、音読みで「しんちょうき」と読まれていたと考えられている。また、森銑三は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し(有職読み)、同様の事例に『義経記(ぎけいき)』を挙げている。.

新しい!!: 村木砦の戦いと信長公記 · 続きを見る »

北区 (名古屋市)

北区(きたく)は、名古屋市を構成する16区のうちの一つ。1944年(昭和19年)に当時の東区と西区のそれぞれ一部を併せる形で成立した。区名は、当地が区制施行時における名古屋市の北部に位置する地域であったことに由来する。.

新しい!!: 村木砦の戦いと北区 (名古屋市) · 続きを見る »

知多市

知多市街地空撮 新舞子マリンパークのブルーサンビーチ 七曲古窯址群A群 3号窯 佐布里池。梅の名所である 知多市中心部周辺の空中写真。1987年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 知多市(ちたし)は、愛知県の知多半島の北西部に位置する市である。知多郡・知多半島から由来する呼称。.

新しい!!: 村木砦の戦いと知多市 · 続きを見る »

知多郡

*.

新しい!!: 村木砦の戦いと知多郡 · 続きを見る »

知立市

知立市(ちりゅうし)は、愛知県の中央部に位置する市。三河地方に属する。.

新しい!!: 村木砦の戦いと知立市 · 続きを見る »

緒川城

緒川城(おがわじょう)は、尾張国知多郡小河(愛知県知多郡東浦町緒川)にあった日本の城。.

新しい!!: 村木砦の戦いと緒川城 · 続きを見る »

織田信友

織田 信友(おだ のぶとも)は戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。大和守として知られる織田達勝の後継者である。実父は織田達広(たつひろ、又はみちひろ、織田因幡守)とされるが不明。一説に伯父とされる織田敏定が養父になったという(『寛政重修諸家譜』)。諱は広信(ひろのぶ、初名か)、また信豊(のぶとよ)とも。通称は彦五郎。尾張清洲城城主。.

新しい!!: 村木砦の戦いと織田信友 · 続きを見る »

織田信光

織田 信光(おだ のぶみつ)は、戦国時代の武将。津田信光とも。織田信定の子、信秀の弟。尾張守山城城主。通称は孫三郎。法名は梅岩 または梅厳。.

新しい!!: 村木砦の戦いと織田信光 · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 村木砦の戦いと織田信長 · 続きを見る »

民家の庭に置かれた甕 甕(かめ、英:pot, urn, 西:cantaro, 希:pithos 、瓶とも書く)は、土器、陶器の一種で、貯蔵、運搬、発酵、化学反応に用いられる容器。.

新しい!!: 村木砦の戦いと甕 · 続きを見る »

熱田区

熱田区(あつたく)は、名古屋市を構成する16区のうちの1つである。古くは東海道五十三次の宮宿の宿場町、熱田神宮の鳥居前町として栄えた場所である。.

新しい!!: 村木砦の戦いと熱田区 · 続きを見る »

狭間

姫路城城壁の狭間。外側になるほど狭くなっており、内側にいる射ち手からは動きやすく、敵からは狙いづらい造りとなっている。 狭間(さま)とは、おもに日本の城の天守や櫓の壁面、塀などに開けてある防御用の穴や窓のこと。銃眼、砲門とも。内側から外側に向かって円形・三角形・正角形・長方形などの穴が開けられており、戦闘の際はそこから弓矢や鉄砲などで攻撃した。.

新しい!!: 村木砦の戦いと狭間 · 続きを見る »

那古野城

那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった日本の城。今川氏親(今川義元の父)築城。織田信長生誕の城とされる。 16世紀前半に30年ほど存続した後に廃城となるが、旧城地は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になった。.

新しい!!: 村木砦の戦いと那古野城 · 続きを見る »

里(り)は、尺貫法における長さの単位である。現在の中国では500m、日本では約3.9km、朝鮮では約400mに相当する。.

新しい!!: 村木砦の戦いと里 · 続きを見る »

逆櫓の松

逆櫓の松趾碑 逆櫓の松趾碑付近の景色 逆櫓の松 (さかろのまつ)とは今の大阪府大阪市福島区福島付近にあったとされる老松のことである。源平合戦において、この老松の下で源義経と梶原景時が論争した事で知られる。.

新しい!!: 村木砦の戦いと逆櫓の松 · 続きを見る »

林秀貞

林 秀貞(はやし ひでさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。父に林通安(八郎左衛門)、弟に林通具(美作守)、子(あるいは娘婿)に林通政(新次郎)・林一吉がいる。 長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。.

新しい!!: 村木砦の戦いと林秀貞 · 続きを見る »

林通具

林 通具(はやし みちとも、永正13年(1516年) - 弘治2年8月24日(1556年9月27日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。林通安の子。兄に林秀貞。『信長公記』には通称の美作守のみで、実名の記載はない。蓬左文庫蔵の「林八郎左衛門系図」では、先祖の美作守の名を「通具」としている。.

新しい!!: 村木砦の戦いと林通具 · 続きを見る »

搦手門

茨木城の移築搦手門 搦手門(からめてもん)は城門の一つで、大手門に対して開かれる搦手口の門。 有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。 建物自体は、小型で狭く目立たない仕様であることも少なくなく、櫓門、埋門ではなく小型の冠木門を建てるのみということもあったというが、きわめて厳重で大手門などの大きな虎口に比べて少人数で警備できるように設計してあった。橋は、木橋であることが多い。.

新しい!!: 村木砦の戦いと搦手門 · 続きを見る »

東浦町

東浦町(ひがしうらちょう)は、愛知県中部、知多半島の付け根に位置する知多郡の町である。旧国名では尾張に属する。周辺を中規模の都市に囲まれ、ベッドタウンの性格をもつ。現在はファミリーサポート事業(子育て支援)など福祉行政にも力を入れている。.

新しい!!: 村木砦の戦いと東浦町 · 続きを見る »

梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.

新しい!!: 村木砦の戦いと梶原景時 · 続きを見る »

水野忠分

水野 忠分(みずの ただわけ、もしくは、みずの ただちか、天文6年(1537年)-天正6年12月8日(1579年1月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。藤二郎(藤次郎、藤治郎とも)。水野忠政の8男といわれ、兄弟に水野信元、於大の方がいる。室は佐治信方の妹。子に分長、重央、義忠、松平勝政、次女(松平家忠室)がいる。.

新しい!!: 村木砦の戦いと水野忠分 · 続きを見る »

水野信元

水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代の大名。水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の女。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。受領名は下野守。妻は松平信定の女。.

新しい!!: 村木砦の戦いと水野信元 · 続きを見る »

清洲城

五条川の桜 清洲城と桜 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。.

新しい!!: 村木砦の戦いと清洲城 · 続きを見る »

源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

新しい!!: 村木砦の戦いと源義経 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 村木砦の戦いと戦国時代 (日本) · 続きを見る »

斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.

新しい!!: 村木砦の戦いと斎藤道三 · 続きを見る »

愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

新しい!!: 村木砦の戦いと愛知県 · 続きを見る »

1554年

記載なし。

新しい!!: 村木砦の戦いと1554年 · 続きを見る »

1月24日 (旧暦)

旧暦1月24日は旧暦1月の24日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 村木砦の戦いと1月24日 (旧暦) · 続きを見る »

2月25日

2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。.

新しい!!: 村木砦の戦いと2月25日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

村木砦

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »