19 関係: 堰 (安曇野)、奈良井川、安曇野、安曇野市、寛政、万水川、延宝、勘左衛門堰、豊科町、長野県、長野県立こども病院、梓川、渇水、昭和、慶長、1608年、1679年、1796年、1937年。
堰 (安曇野)
堰(せぎ)は、長野県において用水路のことを意味する言葉。この項目では特に安曇野の堰について取り上げる。 安曇野は複合扇状地からできているため、乏水地域である。 そのため、水田の開発には向いていなかったが堰の開削により、水田の開発が盛んになった。.
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奈良井川
川との合流地点(長野県松本市) 奈良井川(ならいがわ)は、長野県中信地方を流れる信濃川水系の一級河川。松本盆地を東西に二分するように流れる。.
安曇野
安曇野(松本盆地の一部) 安曇野(現代仮名遣い:あずみの、歴史的仮名遣い:あづみの)は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、梓川・犀川の西岸(押野崎以南)から高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総括している。.
安曇野市
安曇野市(あづみのし)は、長野県中部(中信地方)の市。人口は約10万人で長野県内6位。.
寛政
寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.
万水川
万水川(よろずいがわ)は、長野県安曇野市を流れる信濃川水系の河川である。.
延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
勘左衛門堰
勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)は、安曇野を流れる灌漑用に作られた用水路(堰)である。この堰は、奈良井川の小麦淵(松本市島立)から揚水し、北流して安曇野の中央部に向かい万水川に至る。.
豊科町
豊科町(とよしなまち)は、長野県中西部の南安曇郡にあった町。現在の安曇野市南東部にあたる。 本項では町制前の名称である豊科村(とよしなむら)についても記す。.
長野県
長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.
長野県立こども病院
長野県立こども病院(ながのけんりつこどもびょういん)は、長野県安曇野市にある医療機関。地方独立行政法人長野県立病院機構が運営する小児専門病院である。 完全予約制で他の病院・診療所の紹介状が必要である。小児高度医療だけでなく周産期母子医療(妊娠から出産・新生児医療)を一体的に行うための施設である母子医療センターを併設している。長野県で唯一の総合周産期母子医療センターと小児救命救急センターの認定施設。県内でも心臓外科手術の件数が高い。.
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梓川
梓川(あずさがわ)は、長野県松本市を流れる信濃川水系犀川の上流域を示す別称。.
渇水
渇水(かっすい)とは降雨がない、もしくは少ないことを起因として水(水源)が涸れている、ないしはそうなりつつある状況を指す。水不足は家庭や農業、工業などに深刻な影響を与えるため、国や自治体でこれへの対策が取り組まれている。ここでは日本を中心に解説する.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
慶長
慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.
1608年
記載なし。
1679年
記載なし。
1796年
記載なし。
1937年
記載なし。