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断髪令 (朝鮮)

索引 断髪令 (朝鮮)

断髪令(だんぱつれい、단발령、タンバリョン)は、1895年12月30日(旧暦11月15日)に朝鮮で出された、男性のまげを切らせる詔勅である。金弘集らが進めていた近代化政策である甲午改革、乙未改革の一環として行われたが、「身体、髪の毛、肌は父母から譲り受けたもので、傷つけないのが孝の始まりだ」という儒教の考えから反発が広まり、また断髪令は日本の真似だとして反日感情にも結びつき、乙未義兵が発生する原因にもなった。露館播遷後に、人心を収拾するため、断髪令は撤回された。.

10 関係: 乙未改革儒教甲午改革詔勅露館播遷金弘集 (政治家)李氏朝鮮散髪脱刀令12月30日1895年

乙未改革

乙未改革(いつびかいかく)は、朝鮮で1895年から1896年にかけて、日本の影響力の下で行われた、急進的な近代化改革である。1894年から1895年にかけて行われた甲午改革の後を引き継いだものだが、乙未改革を甲午改革の一部として、全体を甲午改革と呼ぶこともある。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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甲午改革

午改革(こうごかいかく)は、李氏朝鮮で1894年(干支で甲午)から1895年にかけて行われた急進的な近代化改革である。1895年から1896年にかけて行われた乙未改革も甲午改革の一部として、全体を甲午改革と呼ぶこともある。.

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詔勅

詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。.

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露館播遷

露館播遷(ろかんはせん、아관파천、Бегство Коджона в русскую миссию、1896年2月11日 - 1897年2月20日)とは、李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では俄館播遷と呼ばれることが多い。俄館露遷との記述もある。 高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは年表に示す利権を獲得し、他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。.

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金弘集 (政治家)

金 弘集(きん こうしゅう、キム・ホンジプ、1842年-1896年2月11日)は、李氏朝鮮末期の政治家。内閣総理大臣。甲午改革によって朝鮮の近代化を図ったが、親露派のクーデターによって殺害された。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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散髪脱刀令

散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい、明治4年8月9日太政官第399)は、明治4年8月9日(1871年9月23日)に太政官によって出された法令。一般には、断髪令(だんぱつれい)という名称で呼ばれる。「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」とも。.

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12月30日

12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。.

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1895年

記載なし。

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