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年料租舂米

索引 年料租舂米

年料租舂米(ねんりょうそしょうまい)とは、平安時代に太政官符によって、諸国の田租の稲穀を精米した舂米を中央に貢進させる制度、またその舂米そのもののこと。 律令制において庸として中央に貢進されていた米が平安時代に滞るようになると、官司の大粮に宛がうために本来は不動穀に充てられる筈であった田租を中央に貢進したのが最初とされている。最古の記録は承和13年(846年)の太政官符によるものである。 延喜式においては、年料別納租穀を負担しない畿内周辺及び沿岸諸国を中心とした18ヶ国で計24,500斛を負担した。 当初は民部省に貢進された後で各官司に配分されたが、10世紀に入ると民部省を関与させずに特定の官司に対して特定の国が舂米を直接貢進する形式に替わり、各官司の財政が独立採算制に変わっていく一因となった。.

21 関係: 大粮太政官符官司不動穀平安時代年料別納租穀年料舂米令制国延喜式律令制石 (単位)租庸調畿内白米民部省承和 (日本)10世紀846年

大粮

大粮(たいろう)とは、古代律令制において、中央官司のもとで働く仕丁・衛士・采女らに支給した食料。ただし、衣料の材料として布・綿が支給されることもある。公粮(こうろう)とも。 財源は庸として諸国から徴収された米・塩・布・綿などであり、民部省より支給されることとなっていた。ただし、租庸調制の崩壊に伴って、代わりに年料租舂米が用いられるようになった。 各官司は毎月1回、所管の省に対して翌月支給すべき大粮の量とその支給対象者数を解の形で報告を行い、これを受けた各省は省単位で必要とする大粮総額を算定して民部省に対して請求の移を提出した。民部省は太政官より大粮支給許可の太政官符を受けて、各省を通じて翌月分の大粮を支給した。 Category:日本の律令制 Category:平安時代.

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太政官符

太政官符(だいじょうかんぷ.

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官司

官司(かんし)とは、古代日本における官庁及び官人組織のこと。 日本の官司の原型はヤマト王権(大和朝廷)の行政事務を複数の伴造が分掌して部民を動員・管理して業務を遂行した組織体であったと考えられている。その後、部民を管理して行政事務の実務を遂行する官人組織が伴部の下に形成された(人制)。 大化の改新以後、部民制に代わって四等官制度など律令制に基づく官司組織が形成されるようになるが、それが一応の完成をみたのは大宝律令の制定以後のことである。ただし、唐のような高度に体系化された官司間の統属関係は形成されず、一応は各省の下にあるものの独立した権限を有した品官や律令制の枠外に新たに設置された令外官などが存在した。.

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不動穀

不動穀(ふどうこく)とは、律令制において令制国に置かれた不動倉に保管された稲穀のこと。なお、粟で代用された不動粟穀(ふどうあわこく)や酒の形で保管された不動酒(ふどうしゅ)も不動穀の一種である。 和銅元年閏8月10日の太政官符で、正税である稲穀の貯蔵と不動倉設置が奨励され、国衙・郡衙に設置された正倉に貯蔵され、それが満載となると、国司・郡司による検封作業を経て封印されて不動倉とされると、その中に入った稲穀は不動穀とされた。不動倉の鑰は都の太政官に進上されて、太政官で厳重に保管された。飢饉の際の賑給などの非常時に限って、令制国が不動倉開検申請解と呼ばれる解を太政官に提出して許可を求め、不動開用符または不動充符と呼ばれる太政官符の交付とともに鑰の返送を得ることで例外的に開封が認められた。こうした厳重な管理体制が約30年近く後天平年間田租収入の30年分余りの(田地からの年間収穫量とほぼ同一)の貯蔵が存在していたことが現存する各令制国の正税帳から推測できる。 ところが、倉庫令では倉庫内の穀は一定期間(最長で9年)ごとに中身を入れ替えて腐敗を防止する規定があるにも関わらず、不動倉の封印が厳重であったために、封印後は放置された状況となり、各地の不動倉で不動穀が腐敗するという事件が相次いだ。このため、天平12年8月14日(740年)には、一定年限ごとに中身を入れ替えるために太政官符と鑰の交付を受けることが命じられた。この判断自体は正しいものであったが、結果的にこれが不動穀管理の原則を崩す結果となる。 その直後に行われた恭仁京などの遷都計画、東大寺の大仏の造営などで国家財政が悪化すると、地方財源である正税が中央に送られて消費され、これを補うために不動穀の取り崩しが行われた。一方、中央の朝廷(律令政府)もこれを抑止するどころか、8世紀末期の平安京造営と蝦夷討伐の費用の捻出のために不動穀の一部を中央に上供させたり、不動穀の財源である田租の中から国税にあたる年料租舂米・年料別納租穀を抽出したため、結果的に貯蔵に回す稲穀の量は減少することになった。 このため、正税及び不動穀のバランスが崩壊して、不動穀は慢性的な流出を続けるようになる。更にこの仕組みを支えてきた租庸調などの律令制税制・財政も崩壊していったために、不動穀・不動倉の前提である正税・正倉も有名無実化した。9世紀末に宇多天皇が譲位に際して書き記した『寛平御遺誡』にも不動穀が廃絶寸前であることが述べられている。その後も年料別納租穀の一部停止と不動穀への転用などの再建策が出されたが効果は無く、康保元年(964年)には令制国に対して不動穀の財源を田租に代わる税より賄うとする新委不動穀制(しんいふどうこくせい)が導入されるが、その実施と管理を令制国側に一任したために、現地ではほとんど実施されずに終わったとみられる。11世紀中期の一国平均役によって、朝廷・国衙の事業に必要な経費分だけが徴税される税制に変更されていくと、貯蔵すべき税収の余剰が出る余地も失われたために、不動穀は制度的な根拠を失って事実上消滅してしまったとされている。 なお、一説によれば、律令制における田租の原点は、神事の遂行のために在地首長(豪族)へ献上されていた初穂であったとされ、在地首長から政治的・宗教的権限を剥奪した朝廷(律令政府)がその初穂を自己に納めさせたものであるという。不動穀化はそれを囲い込むことによって在地首長と田租を切り離す目的があったとも言われている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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年料別納租穀

年料別納租穀(ねんりょうべつのうそこく)とは、平安時代に各国の正倉に納められた田租を不動穀とは別に稲穀の形態で現地で保管して、中央において財政が不足した折に太政官符に基づいて位禄・季禄・衣服料として京官に支給したもの。 遠国を中心として年料租舂米を負担しない国を中心に負担した(ただし、年料舂米と重複することでは、年料租舂米負担国と同様である)。本来、京官の給与は庸調から支出されたが、庸調の未進が相次いだり、納付された物の品質の悪化なより、財源に事欠くようになったために、代わりに本来は不動穀として備蓄する筈であった租の中から捻出しようとしたものである。また、平安時代に入ると都(平安京)の住人は貴族・庶民を問わず農業生産から切り離された都市生活者としての性格を強めるようになり、都における米の需要の増加への対応の側面も指摘されている。 延喜式において、25ヶ国が負担対象国であり、総計133,729斛を負担したことが記されている。平安京に勤務する貴族・官人でも原則として年料別納租穀を受ける場合には現地で支給を受けることになっていたが、延喜式には中国以上の国家からの位禄の輸送費用は官で負担する規定が存在していた。.

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年料舂米

年料舂米(ねんりょうしょうまい)とは、日本の律令制において、諸国より毎年一定量の舂米(つきしね/つきよね)を中央に貢進させる制度、またその舂米そのもののこと。 田令によれば、田租として納められた稲穀は一旦正倉として納められて正税とされたが、そのうちの一部を租を納める農民の個人負担により精米して所属する国に対して指定された時期(2-8月)に都へと運び(後に民部省式によって官による運送費の支給が定められる)、朝廷の大炊寮に貢進して京官官人の常食(月給)に充てられた。当初は田令の規定通り田租の一部が貢進されたが、田租を不動穀として備蓄する制度が始まると、国司による出納が許されていた動用正税の中から出挙が行われ、それによって得られた利息の一部を田租に替わって年料舂米にあてるようになった。正税帳や平城宮跡から発掘された木簡などによって、天平年間にはシステムとして確立されていたこと、貢進は5斗(1俵)単位で行われたこと、馬を用いて輸送する場合には1頭あたり3俵を運ぶと決められていたことが判明している。 延喜式においては、畿内周辺及び沿岸諸国を中心とした22ヶ国より貢進が行われ、大炊寮に対して白米17,330斛と糯米260斛、内蔵寮に対して黒米200斛、民部省に対して黒米500斛の貢進が行われた。 なお、後年において不動穀の一部を中央に貢進させる年料租舂米の制が布かれた際には主として年料舂米負担国が対象とされている。 Category:日本の律令制 Category:平安時代.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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石 (単位)

石(こく)は、尺貫法における体積(容量)の単位の一つ。 古代の中国においては、「石」は質量の単位であった。現在は質量の単位としては「担」、体積の単位としては「石」と書く。日本ではもっぱら体積の単位としてのみ用いられた。.

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租(そ)は、税(ぜい)と並んで、国家維持に必要な財政を調達するために、政府が徴収する財物・サービスのことである。.

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租庸調

租庸調(そようちょう)は、日本、中国及び朝鮮の律令制下での租税制度である。.

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(こく)とは、成熟した穀物のうち、穂から外して籾がついたままの状態を指す。通常では稲から取った稲穀(とうこく)のことを指すが、粟から取った粟穀など他の穀物から取ったものも同様に呼ばれる。 また、中国北魏の賈思勰が著した農書『斉民要術』においては、穀は五穀の総称であるとしている。だが、一方で「穀」という字が稷(=粟)を指すというのは正しくないが、世間(北魏統治下の華北)では主食である粟(稷)のことを穀と称しているとも記している。 古代においては、藁の部分の場所を取らず、精米したものよりも保存がきくことから、倉庫に納められる穀物は穀の形態であることが多かった。.

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米(こめ、rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。東アジア・東南アジア・南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、日本語でいう「米」「稲」「飯」といった、収穫前・収穫後・調理前・調理後などによる区別がない言語が多数ある。例えば英語圏ではすべてriceという同一の単語で扱われる。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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白米

白米(はくまい)とは、玄米を精米(精白、搗精)した米のこと。精米、精白米ともいう。精米という語は精白する事と共に出来た白米の意味でも使われる。.

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民部省

民部省(みんぶしょう)は、.

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承和 (日本)

承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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846年

記載なし。

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