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因明正理門論

索引 因明正理門論

『因明正理門論』(いんみょうしょうりもんろん、Nyāya-mukha, ニヤーヤ・ムカ)は、5世紀頃のインドの仏教論理学者・認識論者である陳那(Dignāga, ディグナーガ)が著わした仏教論理学(因明)の論書である。 この論書は、玄奘と義浄によって中国にもたらされ、それぞれ『因明正理門論本』と『因明正理門論』として漢訳された。また、『因明正理門論』と言いながら、実際に研究されたのは玄奘訳のテキストである。 しかし、中国や日本では、陳那が仏教の、ことに唯識思想に裏付けられた認識論・論理学の主要命題が忘れられ、主に他派との論義の際の論理的過ちを検証する道具としてのみに注目することとなった。そのために、陳那に続く商羯羅主が著わした『因明入正理論』に着目し、ほとんどの因明の研究は、この入正理論の研究となり、ほとんど正理門論の研究は行われなかった。.

23 関係: 大慈恩寺宇井伯寿中国仏教分別インド唯識商羯羅主因の三相因明因明入正理論玄奘三蔵義浄論集部 (大正蔵)貞観 (唐)長安陳那武邑尚邦日本12月25日 (旧暦)5世紀649年

大慈恩寺

大慈恩寺と大雁塔 大慈恩寺(だいじおんじ)は、中国陝西省の古都、西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られている。 その故地は、唐朝の都、長安城においては、東南部、左街の晋昌坊に当たる場所であった。.

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宇井伯寿

宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者、文学博士。日本学士院会員。本名は茂七(しげしち)。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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分別

* 善悪を識別できる見識を有していること。(ふんべつ).

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唯識

唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。.

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商羯羅主

商羯羅主(しょうからしゅ、シャンカラスヴァーミン、Śaṅkarasvāmin、6世紀の人)は、陳那の興した新しい仏教論理学(.

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因の三相

因の三相(いんのさんそう)とは、因明、ことに新因明の規定であって、陳那によって明確化された。  陳那は、知識の確実性を論証する際に、現量(直接知覚)と比量(推理論証)の2つの量(pramaana)のみを論証規範とした。その比量を、さらに自らの知識の確実性の論証(為自比量)と、他者に対する説示(為他比量)の2つに分けた。  その為自比量とは、三相をそなえた因によって義を観察することであるとする。(『集量論』「為自比量品」第1偈)この三相をそなえた因のことをいう。 第1相は、因は宗の前陳(主辞)の法でなければならないという遍是宗法性(へんぜしゅうほっしょう) 第2相は、因は宗の後陳(賓辞)と同類でなければならないという同品定有性(どうぼんじょううしょう) 第3相は、因は宗の後陳(賓辞)と矛盾するものとは異なっていなければならないという異品遍無性(いぼんへんむしょう)  このような因の三相をそなえた因をよりどころとして、現見や比度によって立てられた宗の確実性の吟味が為自比量である。よって、為自比量は、単にこれまで正理によって説かれた推理認識のことではない。  ここにも因明が、仏教の正理と呼ぶのにふさわしい理由がみいだせる。つまり、仏教では根本的に知識は分別であるから不確実であり、真理を認識するには役にたたないとする。  つまり、正理派などのいう、認識手段による対象の吟味からは、なんら確実性を見いだせない。  さて、陳那においては、悟りのための認識源は自証のみであり、比量における分別は、他人に正しい智を生起させるという点でのみ、間接的な認識源の意味を持つ。  『因明正理門論』に「不顧論宗」というように、言語表現としてしめされた宗は、自己によって得られたものである。その自己によって得られたものとは、為自比量によって得られたものであり、それは三相をそなえた因によって吟味されたものである。  その確かめられた知識を、確かめられた方法を説くことによって他人に伝達することが為他比量である。つまり、為他比量は言語による認識について、その言語表現の確実性を追求するものであり、それが三相をそなえた因である。いいかえれば、為他比量の因は、為自比量における認識を吟味した、その根拠である。  ところで、為自比量で確かめられた方法を他人に伝えることが為他比量ならば、その方法とは因の三相と密接な関係がある。その方法とは三支作法である。つまり、為自比量では宗因喩の三支として説く。よって、能立の三支は、この三相の説示という意味を持ち、因明にとって能立は三支でなければならなかった。.

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因明

因明(いんみょう、サンスクリット:हेतुविद्या hetu-vidyā)とは、インドでおこなわれていた広義の論理学を指すものの仏教での表現で、近年は仏教論理学などとも言われる。五明(声明・工巧明・医方明・因明・内明)の一つとされ、独立した学問分野として重視された。.

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因明入正理論

因明入正理論(いんみょうにっしょうりろん、Nyāyapraveśa)は、インドの仏教論理学者である商羯羅主(Śaṅkarasvāmin)が著わした仏教論理学(因明)の入門書である。 この論書は、玄奘によって中国にもたらされ、唐の貞観21年(647年)8月6日、弘福寺で漢訳された。 本論は、陳那の因明正理門論を基礎としつつ、論理的誤謬をとりあげて「三十三過」として、詳しい説明が簡明になされている。 この論が翻訳されて後、中国において基によって『因明入正理論疏』(俗称:因明大疏)が出てから、大変多くの註釈が著わされた。その後、法相宗が日本に伝わると、本論および因明大疏も伝わり、さらに多くの註釈が加えられた。 さらに時代が下り、日本においては、講会の論式及び論義に際する論理的誤謬を指摘するために、本論で取り上げられた「三十三過」に注目が集まり、『因明三十三過本作法』という簡明な論書が出され、それに対する註釈、さらにその中の「四相違」に対する註釈が多く研究された。.

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玄奘三蔵

奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.

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義浄

義浄(ぎじょう、635年(貞観9年) - 713年(先天2年))は唐の僧。.

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論集部 (大正蔵)

論集部(ろんしゅうぶ)とは、大正新脩大蔵経において、先行する3つの部である.

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貞観 (唐)

貞観(じょうがん)は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号。627年 - 649年)。太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功した。貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励されたかたわら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見た。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しい。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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陳那

陳那(じんな、ちんな、दिग्नाग, Dignāga, ディグナーガ、480年頃-540年頃)は、唯識の立場からの新しい仏教論理学(.

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武邑尚邦

武邑 尚邦(たけむら しょうほう、1914年11月20日 - 2004年8月19日)は、東京大学仏教文化研究所で高楠順次郎に師事し、龍谷大学に奉職、因明学と真宗学を中心に研究を重ね、龍谷大学学長・浄土真宗本願寺派勧学寮頭を務めた仏教学者であり僧侶である。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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12月25日 (旧暦)

旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。.

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏時代に都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 アルメニア教会。カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派」にはシリア・エジプト・アルメニアの諸教会がある。画像は483年に再建されたアルメニア教会のエチミアジン大聖堂。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。.

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649年

記載なし。

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