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名和義高

索引 名和義高

名和 義高(なわ よしたか、乾元元年(1302年) - 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日))は、南北朝時代の武士。名和長年の長男。弟に基長、高光。通称、伯耆大夫利官。.

26 関係: 南北朝時代 (日本)名和基長名和長年乾元 (日本)延元建武 (日本)建武の新政後醍醐天皇北畠顕家問注所元弘熊野神社足利尊氏船上山関幸彦肥後国杵築大社正慶武士武者所新人物往来社1302年1333年1338年5月22日 (旧暦)6月10日

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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名和基長

名和 基長(なわ もとなが、生没年不詳)は、鎌倉時代から南北朝時代の武士。名和長年の次男。兄弟に義高、高光。子に顕長、光顕、泰興がいる。通称を孫三郎、左衛門尉。法名心阿。.

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名和長年

名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.

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乾元 (日本)

乾元(けんげん)は、日本の元号の一つ。正安の後、嘉元の前。1302年の期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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問注所

問注所(もんちゅうじょ、もんぢゅうしょ)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府に設置された訴訟事務を所管する機関である。 「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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熊野神社

野神社(くまのじんじゃ)は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または熊野社(くまのしゃ・ゆやしゃ・いやしゃ)・十二所神社(じゅうにそじんじゃ、じゅうにしょじんじゃ)など類似の社名の神社が全国各地にある。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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船上山

船上山(せんじょうさん)は、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高687メートルの山である。.

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関幸彦

関 幸彦(せき ゆきひこ、1952年(昭和27年)5月 - )は、日本の歴史学者。日本大学文理学部教授。専門は日本中世史。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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杵築大社

杵築大社(きづきたいしゃ)は、東京都武蔵野市にある神社である。旧社格は村社。 大國主大神(だいこく)と事代主大神(えびす)を祀る。また三多摩に現存するものでは2番目に規模の大きい富士塚を擁している。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武者所

武者所(むしゃどころ)とは、内裏や院御所の警備を担当する機関。 寛和元年(985年)に円融上皇の御所に院武者所を設けて10名を配備したのが最古の記録である。後には上皇の院庁始の際に院蔵人所、院御随身所とともに置かれる慣例が成立した。定員は10-30名と不定であるが、天皇在位時の滝口の武士が充てられることが多く、上皇の警備にあたる他、治安維持のために派遣される事もあった。本官を持たない散位の者も多く、労効によって右馬允などの武官に任じられる者もいた。白河上皇が北面武士を設置すると次第に取って代わられるようになり、院政の衰退とともに廃絶する。 後醍醐天皇の建武政権の成立後に復活し、窪所とともに内裏の警備や京都の治安維持にあたった。新田義貞が頭人を務めて後醍醐天皇の親衛隊的な役割を果たしたが、義貞を頭人に送り込んだのは足利尊氏だとする説もある。だが、中先代の乱以降に足利尊氏が建武政権に叛旗を翻し、新田氏は足利氏と決別してその対抗勢力に転化すると、新田氏が拠る所となり、延元元年(建武4年/1336年)4月に作成された結番交名には、全65名のうち新田氏一族の占める割合が高く、全6番制であったことが知られる。建武政権崩壊後も、南朝・北朝のそれぞれに武者所が設けられていた。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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1302年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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5月22日 (旧暦)

旧暦5月22日は旧暦5月の22日目である。六曜は友引である。.

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6月10日

6月10日(ろくがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から161日目(閏年では162日目)にあたり、年末まであと204日ある。誕生花はジャスミン、ラベンダー。.

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