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十字路 (1928年の映画)

索引 十字路 (1928年の映画)

『十字路』(じゅうじろ)は、1928年(昭和3年)製作・公開、衣笠貞之助監督による日本の長篇劇映画、サイレント映画、時代劇によるアヴァンギャルド映画であり、日本映画で初めてヨーロッパへ輸出された作品である。.

39 関係: 友成用三実験映画中川芳江忠魂義烈 実録忠臣蔵マツダ映画社マキノ・プロダクションモノクロームヌーヴェルヴァーグ嵐寛寿郎嵐寛寿郎プロダクションコダックサイレント映画サウンド版稲垣浩牧野省三片岡千恵蔵片岡千恵蔵プロダクション衣笠貞之助衣笠映画聯盟高勢実乗阪東妻三郎関操松竹京都撮影所松竹キネマ杉山公平楊弓活動写真澤田敬之助昭和新宿新宿武蔵野館日本名作劇場日本語日本映画日本映画データベース時代劇16mmフィルム1928年35mmフィルム

友成用三

友成 用三(ともなり ようぞう、1893年2月10日 - 没年不明「友成用三」の項、岸松雄・司馬叡三、『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年、p.273-274.

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実験映画

実験映画(前衛映画)とは、映画の表現技法を実験的に試みた映画である。その多くは商業的な成功を目的とせず、個人の作家によって作られている。 実験映画と呼ばれる作品の種類は幅広く、物語を実験的に表現した作品、作家個人の日常を撮影した日記的な作品、抽象的なアニメーション作品、ドキュメンタリー、フリッカー映画と呼ばれる作品を含む、映像の視覚効果を実験した作品、またファウンド・フッテージと言われる、他の作家によって制作された映像作品を流用・転用した作品などがある。さらに、拡張映画(エクスパンデッド・シネマ)と呼ばれる、複数の映写機を使って上映する作品、ループされた映像などによるインスタレーション作品、また上映中に映像・音声を加工・編集するパフォーマンス的な作品がある。.

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中川芳江

中川 芳江(なかがわ よしえ、1886年2月10日 - 1953年4月7日)は、明治末期・大正・昭和初期にかけての日本の女優。夫は映画監督の賀古残夢。妹は女優の小松みどり。改姓後の本名は賀古 芳子(かこ よしこ)。旧姓は谷 コトバンク。.

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忠魂義烈 実録忠臣蔵

『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(ちゅうこんぎれつ じつろくちゅうしんぐら)は、1928年(昭和3年)製作・公開、マキノ省三(牧野省三)監督による日本のサイレント映画、剣戟映画である。牧野省三生誕50周年を記念した、320作目の監督作である。.

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マツダ映画社

株式会社マツダ映画社(マツダえいがしゃ)は、サイレント映画専門の日本の映画会社である。約1,000作品、6,000巻を超えるフィルム・アーカイヴを持つ、マツダ映画社、2010年2月20日閲覧。。.

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マキノ・プロダクション

マキノ・プロダクション(1925年6月 設立 - 1931年5月 改組 / 同年10月 新社解散)は、かつて京都に存在した映画会社である、立命館大学、2008年1月19日閲覧。、立命館大学、2008年1月31日閲覧。。製作拠点は御室撮影所(おむろさつえいじょ)。サイレント映画の時代に牧野省三が設立、直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、これが牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。.

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モノクローム

モノクローム は、直訳すると「1つの色」を意味し、1色で描画・印刷・表示等された図画のことである。略称モノクロ。 ただしここでいう1色とは、背景色に加え1色ということなので合わせれば2色あり、多くの場合はさらにその間のグラデーションがある。 代表的なモノクロームは白黒(しろくろ)で、印刷・写真・映画・テレビなどで多用される(あるいはかつて多用された)。しかし他の色のモノクロームもあり、たとえば単色印刷(黒以外での)や、セピア調写真がそれである。 美術ではモノクロームの絵画を単色画や単彩画と呼ぶ。 対義語はカラー。.

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ヌーヴェルヴァーグ

ヌーヴェルヴァーグ(Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」を意味する。.

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嵐寛寿郎

嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、1902年12月8日 - 1980年10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。本名高橋 照一文献により「照市」との表記もある(たかはし てるいち)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。 祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎この徳三郎は「義父」を名乗ることがあったので、文献に混乱が見られるが叔父である。。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。.

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嵐寛寿郎プロダクション

嵐寛寿郎プロダクション(あらしかんじゅうろうプロダクション)は、かつて京都に存在した映画会社である。1928年(昭和3年)4月にマキノ・プロダクションを片岡千恵蔵らとともに脱退したスター俳優嵐寛寿郎が設立したスタープロダクションであり、貸しスタジオの双ヶ丘撮影所で5本のサイレント映画を製作した「第1期」(1929年2月解散)と、1931年(昭和6年)ふたたび同地に撮影所を持ったのちに太秦へと移転した「第2期」(1937年解散)がある。70本以上の作品を生み出し、また山中貞雄を映画監督としてデビューさせたことでも知られる。略称寛プロ(かんプロ)。.

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コダック

イーストマン・コダック(Eastman Kodak Company)は、アメリカ合衆国に本拠を置く世界最大の写真用品(写真フィルム、印画紙、処理剤)メーカーである、2012年2月6日閲覧。。一般的にはコダックの略称で知られている。.

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サイレント映画

イレント映画(サイレントえいが、silent film)は、音声・音響、特に俳優の語るセリフが入っていない映画のことである、デジタル大辞泉、小学館、コトバンク、2010年2月4日閲覧。。.

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サウンド版

ウンド版(サウンドばん)は、サイレント映画からトーキーへの移行期に製作された、音楽付のサイレント映画である。台詞の語られない発声映画(トーキー)とも定義されるが、サウンド版作品は、サイレント映画に分類される。.

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稲垣浩

垣 浩(いながき ひろし、1905年12月30日 - 1980年5月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。本名は稲垣 浩二郎。戦前期に伊丹万作、山中貞雄らと時代劇の傑作を生み出し、日本映画の基礎を作った名監督の一人である。チャンバラに頼らない時代劇を作り「髷をつけた現代劇」と呼ばれた。生涯で100本の映画を撮り、海外での評価も極めて高い。.

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牧野省三

牧野 省三(まきの しょうぞう、1878年9月22日 - 1929年7月25日)は、日本の映画監督、映画製作者、脚本家、実業家である。 日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物である。「映画の父」と呼ばれたD・W・グリフィスになぞらえて「日本映画の父」と呼ばれた。千本座の経営者から映画製作に乗り出し、300本以上の時代劇映画を製作。尾上松之助とコンビを組み、彼の忍術映画でトリック撮影を駆使した。歌舞伎や講談、立川文庫から題材を求め、「スジ、ヌケ、動作」を三大原則とした映画製作で大衆から支持を得た。その後マキノ・プロダクションを設立し、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、高木新平、月形龍之介、市川右太衛門といったスター俳優や、監督の衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、内田吐夢ら、脚本家の寿々喜多呂九平、山上伊太郎らを育て上げた。.

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片岡千恵蔵

片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年3月30日 - 1983年3月31日)は、日本の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得た。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など。 長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれた)、娘の植木千恵は子役で、東映時代の千恵蔵と共演したが、その後引退。三男の植木義晴は日本航空の元操縦士で、同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任した。四男国晴ともに一般人。.

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片岡千恵蔵プロダクション

片岡千恵蔵プロダクション(かたおかちえぞうプロダクション、1928年5月10日 設立 - 1937年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優片岡千恵蔵が設立したスタープロダクションであり、設立の翌年に嵯峨野に独自の撮影所を建設した。稲垣浩の『瞼の母』、『弥太郎笠』、伊丹万作の『國士無双』、『赤西蠣太』、山中貞雄の『風流活人剣』など数々の名作を生み出した。通称千恵プロ(ちえプロ)。.

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衣笠貞之助

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名は小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 女形俳優から転身した映画監督で、新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督となった。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった佐藤2007、p.202。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。.

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衣笠映画聯盟

衣笠映画聯盟(きぬがさえいがれんめい、1926年4月 設立 - 1928年6月 解消)は、かつて存在した日本の映画製作プロダクションである。新字体表記衣笠映画連盟。衣笠貞之助が主宰した。.

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高勢実乗

勢 實乘(たかせ みのる、明治30年(1897年)12月13日 - 昭和22年(1947年)11月19日)は、日本の俳優である。サイレント映画時代から活躍していたが、トーキー以降の「わしゃかなわんよ」、「アーノネおっさん」等のギャグで知られる。本名は能登谷 新ー(のとや しんいち)。.

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阪東妻三郎

阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。本名田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。.

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関操

関 操(せき みさお、1884年2月23日関操 2、キネマ旬報映画データベース、2010年2月13日閲覧。 - 没年不明)は、日本の俳優である。キャリアをアメリカ合衆国で始めた人物である。.

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松竹京都撮影所

松竹京都撮影所(しょうちくきょうとさつえいじょ)は、かつて大正から昭和にかけて京都市に存在した松竹キネマあるいは松竹が直営した日本の映画スタジオである。時代劇を製作していた。1923年(大正12年) - 1952年(昭和27年)には左京区の下加茂(下鴨宮崎町)、1952年(昭和27年) - 1965年(昭和40年)までは右京区の太秦(太秦堀ヶ内町)にあった#外部リンク欄の松竹京都撮影所(2008年設立)公式サイトの「松竹京都撮影所: 沿革」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。。 2008年(平成20年)、京都映画を源流とする企業「松竹京都映画株式会社」が「株式会社松竹京都撮影所」を新規に設立、太秦堀ヶ内町の同社の撮影所を「松竹京都撮影所」と改称した。ここでは、松竹キネマ/松竹直営の「松竹京都撮影所」についてのみ述べる。.

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松竹キネマ

松竹キネマ(しょうちく-).

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杉山公平

杉山 公平(すぎやま こうへい、1899年6月23日 - 1960年2月21日、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年2月26日閲覧。Kôhei Sugiyama, Internet Movie Database, 2010年2月26日閲覧。)は、日本の撮影技師である。.

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楊弓

楊弓(ようきゅう)とは、楊柳で作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものも指した。弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢の長さは7寸から9寸2分とされる。中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた。.

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活動写真

活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは大正後期になってからである。 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準を持ち、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。.

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澤田敬之助

澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優であるキネマ旬報社, p.256.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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新宿

西新宿の超高層ビル群 靖国通りの歌舞伎町交差点付近 新宿(しんじゅく)は、東京都新宿区南西部と一部渋谷区にまたがる新宿駅を中心とした歓楽街・オフィス街であり、渋谷・池袋と並ぶ3大副都心の一つである。江戸時代は甲州道中の宿駅(内藤新宿)として栄え、近代以降は関東大震災を契機に繁華街として成長している。町名としては新宿一丁目から新宿七丁目が存在する。.

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新宿武蔵野館

新宿武蔵野館(しんじゅくむさしのかん)は、東京都新宿区の映画館。新宿武蔵野館1・2・3の3館がある。武蔵野興業が経営。 住所は、新宿三丁目27番地10号 武蔵野ビル3階。かつては同ビル7階が新宿武蔵野館で、3階はミニシアターのシネマ・カリテ1・2・3だった。.

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日本名作劇場

『日本名作劇場』(にほんめいさくげきじょう)は、ディスクプランが2008年(平成20年)7月30日にリリースをスタートした、日本映画のパブリックドメインDVDのレーベルである。現状の最新は2009年(平成21年)7月15日リリースまでの全34巻、全33タイトル(欠番1)である。定価税込1,000円。発売元のディスクプランについても述べる。⇒ #ディスクプラン.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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日本映画

日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、時代によって活動写真、キネマ、シネマ等とも呼ばれる。 トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。 日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、「日本人監督によって、日本人の俳優を用いて、日本で撮影し、日本で上映する日本語の映画」という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している。このため、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、崔洋一、李相日などの在日韓国・朝鮮人監督による映画など、全ての条件を満たしていなくても日本映画と認知されるものもある。 外国映画(洋画)に対する日本の映画という意味での呼称は存在するが、市場のボーダレス化等、製作、配給の両面において多国籍化が一般化している今日において、ジャンルとしての厳密な定義はほぼ無意味なものとなりつつある。.

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日本映画データベース

日本映画データベース(にほんえいがデータベース、Japanese Movie Database、JMDb)は、1997年(平成9年)から運営されている日本映画についての日本のデータベースサイトである。2004年(平成16年)以降のデータはWalWikiで運営されている。.

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時代劇

時代劇(じだいげき)は、日本の演劇や映画、テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である、コトバンク、2009年10月24日閲覧。、コトバンク、2009年10月24日閲覧。。.

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16mmフィルム

富士フイルム製スーパー16mm(100フィート) 16mmフィルムを用いたジュークボックス、スコーピトーン 16mmフィルム(16mm Film )は、フィルムの規格。 主に動画撮影用として使われる。35mmカメラよりもカメラも映写機も小型化できるため、テレビニュースのロケ撮影・テレビドラマ・低予算の劇場用映画で使われる。かろうじて個人での機材所有も可能であり、8mmフィルムに飽き足らないハイアマチュアが16mmにステップアップする例も見られた。また、映画館や劇場、公共ホールなどにも16mmの映写機を備え付けている施設は多く、それらの施設で行われる小規模な上映会に供するため、35mmの劇場映画を16mmフィルムにプリントしたものも多く制作され、映画センターなどを通じて貸し出しや上映が行われていた。近年はビデオカメラやビデオプロジェクターの高画質化、低価格化のため使用される機会は減少傾向にある。 かつてはスチルカメラにも用いられており、主に小型カメラへ採用された。第二次大戦後には16mmフィルムを使った豆カメラのブームもあった。35mmカメラの低価格化と小型化などの影響により次第に市場が縮小し、残っていたミノルタなどの製品も、1972年に登場した110フィルム使用のカメラと入れ替わるように姿を消した。.

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1928年

記載なし。

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35mmフィルム

35mmフィルム(35mm film)は、写真用・映画用の両方で広く使われているフィルムの代表的な規格である。 1892年にジョージ・イーストマンから供給されたフィルムをウィリアム・K・L・ディクソンとトーマス・エジソンが用いだして以来、比較的変化が少ないものである。名前の由来は、写真用フィルムの幅が35mm(約1と3/8インチ)であることからきている1.377 inches is the actual dimension specified by SMPTE, or 34.975mm.

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