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全豪オープン女子ダブルス優勝者一覧

索引 全豪オープン女子ダブルス優勝者一覧

全豪オープン女子ダブルス優勝者一覧(ぜんごう-じょし-ゆうしょうしゃいちらん)は、全豪オープン女子ダブルスにおける優勝者の一覧である。.

205 関係: 佐藤直子彭帥ナンシー・リッチーナンシー・ウィン・ボルトンナターシャ・ズベレワミリヤナ・ルチッチ=バロニマリー・ピエルスマリア・ブエノマリア・キリレンコマルチナ・ナブラチロワマルチナ・ヒンギスマーガレット・モールズワースマーガレット・スミス・コートマージョリー・コックス・クロフォードチャンダ・ルビンチャン詠然ネル・ホール・ホップマンバージニア・ウェードメルボルン・パークメレディス・マグラスメアリー・ベヴィス・ホートンメアリー・カーター・レイタノメアリー・ジョー・フェルナンデスモーリーン・コノリーヤナ・ノボトナリンゼイ・ダベンポートリーゼル・フーバーリサ・レイモンドルーシー・ハラデツカルーシー・サファロバルイーズ・ブラフレナータ・トマノワレネ・スタブスレスリー・ターナーロリ・マクニールロージー・カザルスロッド・レーバー・アリーナロベルタ・ビンチヘレナ・スコバヘレン・グーレイパム・シュライバーパティ・フェンディックパオラ・スアレスヒセラ・ドゥルコビリー・ジーン・キングビルヒニア・ルアノ・パスクアルビーナス・ウィリアムズビクトリア・アザレンカテルマ・コイン・ロングティメア・バボシュ...フラビア・ペンネッタドリス・ハートドロシー・バンディダーリーン・ハードダフネ・アクハーストダニエラ・ハンチュコバベラ・ズボナレワベリル・ペンローズベッツィ・ナゲルセンベサニー・マテック=サンズアランチャ・サンチェス・ビカリオアリョーナ・ボンダレンコアリシア・モリクアリシア・ギブソンアンナ・クルニコワアン・スミスアンドレア・フラバーチコバアンジェラ・モーティマーアン清村アシュリー・バーティイボンヌ・グーラゴングウェンディ・ターンブルエミリー・フッド・ウェスタコットエリザベス・スマイリーエレーナ・リホフツェワエレーナ・ベスニナエカテリーナ・マカロワエスナ・ボイドオルガ・モロゾワカーラ・ブラックカテリナ・ボンダレンコキャシー・ジョーダンクラウディア・コーデ=キルシュクリス・エバートクリスティナ・ムラデノビッチクリスティン・トルーマンケリー・レイドケーシー・デラクアコラル・バッツワースコリーナ・モラリューシャハー・ピアーシャーリー・フライシルビア・ランス・ハーパージャン・レヘインジュディ・テガートジョーン・ハーティガンジル・ヘザリントンジーナ・ガリソンジジ・フェルナンデススベトラーナ・クズネツォワセリーナ・ウィリアムズサマンサ・ストーサーサラ・エラニサンドラ・レイノルズサニア・ミルザ全豪オープン荘佳容鄭潔杉山愛晏紫1922年オーストラレーシアン選手権1923年オーストラレーシアン選手権1924年オーストラレーシアン選手権1925年オーストラレーシアン選手権1926年オーストラレーシアン選手権1927年オーストラリア選手権 (テニス)1928年オーストラリア選手権 (テニス)1929年オーストラリア選手権 (テニス)1930年オーストラリア選手権 (テニス)1931年オーストラリア選手権 (テニス)1932年オーストラリア選手権 (テニス)1933年オーストラリア選手権 (テニス)1934年オーストラリア選手権 (テニス)1935年オーストラリア選手権 (テニス)1936年オーストラリア選手権 (テニス)1937年オーストラリア選手権 (テニス)1938年オーストラリア選手権 (テニス)1939年オーストラリア選手権 (テニス)1940年オーストラリア選手権 (テニス)1941年1945年1946年オーストラリア選手権 (テニス)1947年オーストラリア選手権 (テニス)1948年オーストラリア選手権 (テニス)1949年オーストラリア選手権 (テニス)1950年オーストラリア選手権 (テニス)1951年オーストラリア選手権 (テニス)1952年オーストラリア選手権 (テニス)1953年オーストラリア選手権 (テニス)1954年オーストラリア選手権 (テニス)1955年オーストラリア選手権 (テニス)1956年オーストラリア選手権 (テニス)1957年オーストラリア選手権 (テニス)1958年オーストラリア選手権 (テニス)1959年オーストラリア選手権 (テニス)1960年オーストラリア選手権 (テニス)1961年オーストラリア選手権 (テニス)1962年オーストラリア選手権 (テニス)1963年オーストラリア選手権 (テニス)1964年オーストラリア選手権 (テニス)1965年オーストラリア選手権 (テニス)1966年オーストラリア選手権 (テニス)1967年オーストラリア選手権 (テニス)1968年オーストラリア選手権 (テニス)1969年全豪オープン1970年全豪オープン1971年全豪オープン1972年全豪オープン1973年全豪オープン1974年全豪オープン1975年全豪オープン1976年全豪オープン1977年全豪オープン (12月)1977年全豪オープン (1月)1978年全豪オープン1979年全豪オープン1980年全豪オープン1981年全豪オープン1982年全豪オープン1983年全豪オープン1984年全豪オープン1985年全豪オープン1986年1987年全豪オープン1988年全豪オープン1989年全豪オープン1990年全豪オープン1991年全豪オープン1992年全豪オープン1993年全豪オープン1994年全豪オープン1995年全豪オープン1996年全豪オープン1997年全豪オープン1998年全豪オープン1999年全豪オープン2000年全豪オープン2001年全豪オープン2002年全豪オープン2003年全豪オープン2004年全豪オープン2005年全豪オープン2006年全豪オープン2007年全豪オープン2008年全豪オープン2009年全豪オープン2010年全豪オープン2011年全豪オープン2012年全豪オープン2013年全豪オープン2014年全豪オープン2015年全豪オープン2016年全豪オープン2017年全豪オープン2018年全豪オープン インデックスを展開 (155 もっと) »

佐藤直子

佐藤 直子(さとう なおこ、1955年1月2日 - )は、東京都千代田区出身の元女子プロテニス選手。前日本プロテニス協会理事長。東京国際大学特命教授・硬式テニス部監督。ビーエス朝日番組審議会委員。 2011年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。平田竹男教授のもとでトップスポーツビジネスを研究する。 年代的には沢松和子の後に続き、主に1970年代後半から1980年代にかけて活躍した。彼女は主に全豪オープンで好成績を出し、1977年1月開催の大会でシングルスベスト8、1978年大会で女子ダブルス準優勝の記録を残した。 夫は、外交官の塩口哲朗。.

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彭帥

彭 帥(ポン・シューアイ、ピン音表記:Peng Shuai, 1986年1月8日 - )は、中国・湖南省出身の女子プロテニス選手。2013年ウィンブルドン選手権と2014年全仏オープン女子ダブルスの優勝者である。WTAツアーでシングルスで2勝、ダブルスで21勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス1位。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちの選手。そこから繰り出す強打のショットとタフな体格、強気な性格などから「中国女子テニス界の猛女」と呼ばれることがあるという。.

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ナンシー・リッチー

ナンシー・リッチー(Nancy Richey, 1942年8月23日 - )は、アメリカ・テキサス州サンアンジェロ出身の女子テニス選手。1960年代にアメリカを代表する選手として活躍し、4大大会で女子シングルス2勝、女子ダブルス4勝を挙げた。彼女の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」をまたぐ境目の時期であり、リッチーはオープン化制度のもとで開かれた1968年の「全仏オープン」で女子シングルス優勝者になった。.

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ナンシー・ウィン・ボルトン

ナンシー・ウィン・ボルトン(Nancye Wynne Bolton, 1916年6月10日 - 2001年11月9日)は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。第2次世界大戦をまたぐ時代に活躍し、全豪選手権で女子シングルス6勝、女子ダブルス10勝、混合ダブルス4勝を挙げた。右利きの選手で、長身から繰り出す強打を持ち味とした。フルネームは Nancye Hazel Meredith Wynne Bolton (ナンシー・ヘイゼル・メレディス・ウィン・ボルトン)という。旧姓「ナンシー・ウィン」(Nancye Wynne)という名前であったが、競技生活の間に結婚して「ナンシー・ウィン・ボルトン」と2つの姓を名乗った。夫の姓だけで「ナンシー・ボルトン」と呼ばれることも多い。.

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ナターシャ・ズベレワ

ナターシャ・ズベレワ(、、1971年4月16日 - )は、ソビエト連邦(現在はベラルーシ)・ミンスク出身の女子プロテニス選手。1988年の全仏オープン女子シングルス準優勝者で、4大大会の女子ダブルスですべてのタイトルを獲得した選手である。1992年のバルセロナ五輪女子ダブルス銅メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルスは4勝どまりだったが、ダブルスで80勝を記録した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長174cm、体重62kg。当初は英語読みの「ナタリア・ズベレワ」と名乗ったが、キャリアの途中で「ナターシャ」に改名した。.

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ミリヤナ・ルチッチ=バロニ

ミリヤナ・ルチッチ=バロニ(Mirjana Lučić-Baroni, 1982年3月9日 - )は、クロアチアの女子プロテニス選手。1998年全豪オープン女子ダブルスでマルチナ・ヒンギスとペアを組んで優勝した。ドイツ・ドルトムントに生まれる。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス19位。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げている。身長181cm、体重65kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2011年11月15日にダニエレ・バロニ(Daniele Baroni)と結婚し、結婚後はミリヤナ・ルチッチ=バロニ(Mirjana Lučić-Baroni)と名乗っている。.

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マリー・ピエルス

マリー・ピエルス(Mary Pierce, 1975年1月15日 - )は、フランスの女子プロテニス選手。1995年の全豪オープンと2000年の全仏オープン女子シングルスで優勝し、4大大会2勝を挙げた実力者である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス18勝、ダブルス10勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。単純な英語読みによる「メアリー・ピアース」などの表記揺れも多いが、本記事では(彼女が国籍を持つ)フランス語読みに近い「マリー・ピエルス」の名前で記述する。.

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マリア・ブエノ

マリア・ブエノ(Maria Bueno, 1939年10月11日 - 2018年6月8日)は、ブラジル・サンパウロ出身の元女子テニス選手。フルネームは Maria Esther Andion Bueno (マリア・エステル・アンディオン・ブエノ)という。主に1960年代に活躍し、ブラジル人のテニス選手として世界の頂点に立った最初の選手となった。彼女はウィンブルドンで3勝、全米選手権(現在の全米オープンテニス)で4勝し、4大大会女子シングルスで通算7勝を挙げた伝説的名選手である。ダブルスでの業績も多く、4大大会で女子ダブルス11勝・混合ダブルス1勝を記録した。 ブエノはコート上での優雅で素速い動きから、「サンパウロのつばめ」(São Paulo Swallow)という愛称で呼ばれた。アマチュアテニス選手として62大会で優勝し、プロ選手になってからは1974年の「ジャパン・オープン」で優勝がある。.

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マリア・キリレンコ

マリア・キリレンコ(Maria Kirilenko,, 1987年1月25日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。2012年のロンドン五輪女子ダブルスで、ナディア・ペトロワとペアを組んで銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス10位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス12勝を挙げた。.

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マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マルチナ・ヒンギス

マルチナ・ヒンギス(Martina Hingis, 1980年9月30日 - )は、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。WTAツアーでシングルス43勝、ダブルス64勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した世界ランキング1位(16歳6ヶ月)、4大大会年間3冠獲得は歴代最年少記録、4大大会初制覇(1997年全豪オープンに16歳3ヶ月で優勝)はオープン化以降の最年少記録である。彼女は1998年に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。また混合ダブルスでもキャリア・グランドスラムを達成している。4大大会でシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝を挙げた。 2013年国際テニス殿堂入り。.

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マーガレット・モールズワース

マーガレット・モールズワース(Margaret Molesworth, 1894年10月18日 - 1985年7月9日)は、オーストラリア・ブリスベン出身の女子テニス選手。1922年から始まった全豪選手権(現在の全豪オープン)の女子シングルス部門で、第1回・第2回大会の優勝者になった選手である。フルネームは Margaret Mutch Molesworth (マーガレット・ムッチ・モールズワース)というが、「モール」(Mall)という愛称で呼ばれた。右利きの選手で、強力なサービスを最大の武器にした。彼女は1918年に教育者のベヴィル・ヒュー・モールズワース(Bevil Hugh Molesworth)と結婚しており、全豪選手権の女子部門が始まった時は既婚女性であった。.

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マーガレット・スミス・コート

マーガレット・スミス・コート(Margaret Smith Court, 1942年7月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の女子テニス選手。自己最高ランキングは1位。 1970年にオープン化以降女子初となる「年間グランドスラム」を達成した選手で、4大大会優勝記録で女子歴代1位の「24勝」を樹立した。 4大大会ではダブルスで19回、混合ダブルスで21回の優勝があり合計64タイトルは歴代1記録である。また混合ダブルス初の年間グランドスラムを達成しており2回の達成は史上唯一。 旧姓は「マーガレット・スミス」(Margaret Smith)であるが、バリー・コート(Barry Court)との結婚後、両方の姓を併用して「マーガレット・スミス・コート」夫人と名乗った。日本では単純に「マーガレット・コート」夫人と呼ばれることが多い。.

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マージョリー・コックス・クロフォード

マージョリー・コックス・クロフォード(Marjorie Cox Crawford, 1903年 - 1983年)は、オーストラリアの女子テニス選手。1925年から1933年にかけて、全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)で活躍した。旧姓「マージョリー・コックス」(Marjorie Cox)といい、1930年に男子の名選手ジャック・クロフォードと結婚した。彼女は夫婦ペアの混合ダブルス3連覇(5年連続決勝進出)でよく知られるが、1931年の女子シングルス準優勝もあった。.

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チャンダ・ルビン

チャンダ・ルビン(Chanda Rubin, 1976年2月18日 - )は、アメリカ・ルイジアナ州ラファイエット出身の女子プロテニス選手。1996年の全豪オープン女子ダブルス優勝者である。黒人選手で、ジェニファー・カプリアティやリンゼイ・ダベンポートと同じ年にあたる。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス9位。身長168cm、体重58kgと小柄な体格だが、軽やかなフットワークを持ち味とする。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス10勝を挙げた。.

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チャン詠然

詹 詠然 (チャン・ユンジャン、英語表記:Yung-Jan Chan) またはラティシャ・チャン (Latisha Chan, 1989年8月17日 -) は、台湾・台北市出身の女子プロテニス選手。マルチナ・ヒンギスとペアを組み、2017年全米オープン女子ダブルスで優勝した選手である。ベースライン・プレーヤーで、バックハンド・ストロークのダウン・ザ・ラインを最も得意にする。身長170cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでダブルス28勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス1位。日本では「チャン・ユンヤン」の表記も見られる。.

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ネル・ホール・ホップマン

ネル・ホール・ホップマン(Nell Hall Hopman, 1909年3月9日 - 1968年1月10日)は、オーストラリア・シドニー市クーギー出身の女子テニス選手。本名は Eleanor Mary Hall Hopman (エリナー・メアリー・ホール・ホップマン)といい、「ネル」は彼女の愛称である。ハリー・ホップマンの妻として、夫婦ペアの混合ダブルスで活躍したのみならず、自らも優れたテニス教育者であり、「ビクトリア・ローンテニス協会」(Lawn Tennis Association of Victoria)の顧問としてオーストラリアの若手女子選手の育成に尽力した。.

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バージニア・ウェード

バージニア・ウェード(Virginia Wade, 1945年7月10日 - )は、イギリス・ボーンマス出身の女子テニス選手。WTAツアーでシングルス通算55勝を挙げた。4大大会では女子シングルス3勝・女子ダブルス4勝を獲得した。 1977年のウィンブルドン女子シングルス優勝者で、同選手権大会女子における現時点で最後のイギリス人優勝者として知られる。 イギリスの人々には“Our Ginny”(我らのジニー)と呼ばれて敬愛されている。.

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メルボルン・パーク

メルボルン・パーク(Melbourne Park)は、オーストラリア・ビクトリア州メルボルンに位置するスポーツ競技場。CBDの南東、ヤラ川沿いに立地する。1988年設立。全豪オープンテニス開催地(毎年1月・2月)、メルボルン・ユナイテッド(バスケットボール)のホームアリーナ、アイススケート、自転車競技、モータースポーツ、音楽イベントも催される。フリンダースパークの旧称でも知られる。.

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メレディス・マグラス

メレディス・マグラス(Meredith McGrath, 1971年4月28日 - )は、アメリカ・ミシガン州ミッドランド出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、1995年の全米オープン混合ダブルス部門で優勝した。女子ダブルスでは1994年全豪オープンと1996年ウィンブルドンで2度の準優勝があり、シングルスでも1996年のウィンブルドンでベスト4に入った。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルスで25勝を挙げた。 マグラスはジュニア時代からダブルスに優れた才能を発揮し、1987年-1989年まで全米オープンの女子ジュニアダブルス部門「3連覇」を達成した。1987年と1988年はキンバリー・ポーとペアを組んで2連覇し、1989年は当時13歳のジェニファー・カプリアティと組んでウィンブルドンと全米オープンのジュニア女子ダブルスを連続制覇している。1989年ウィンブルドンでは、ジュニア女子シングルスの準優勝もあった。この年から女子ツアー大会のダブルスでも好成績を出し始め、1989年11月第2週の「バージニアスリムズ・オブ・ナッシュビル」大会のダブルスでツアー初優勝を果たす。1990年にはダブルスで年間4勝を挙げ、1991年全仏オープンの女子ダブルスでベテランのキャシー・ジョーダンと組んでベスト8に入ったが、この後相次ぐ故障に悩み、大腿骨関節の手術や肩の腱炎などで長期間の戦線離脱を経験した。 マグラスは1993年、シングルスの世界ランキング610位から復活を果たし、ウィンブルドンで予選3試合を勝ち上がった後、初めての本戦4回戦進出を決めた。ダブルスではパティ・フェンディックと組んで大半の試合に出場し、ダブルスで年間3勝を挙げる。1994年の全豪オープンで、マグラスとフェンディックは初めての決勝に進出し(パートナーのフェンディックは1991年以来3年ぶり2度目)、ジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 3-6, 1-6 で敗れて準優勝になった。同大会のシングルスでは、マグラスは2回戦で第10シードの伊達公子に敗れている。1994年に女子ツアーでシングルス2勝、ダブルス7勝を挙げたマグラスは、ダブルス世界ランキングで「5位」の自己最高位を記録した。 1995年全米オープンで、メレディス・マグラスはマット・ルセナ(アメリカ)と混合ダブルスのペアを組み、決勝でシリル・スーク(チェコ)&ジジ・フェルナンデス組を 6-4, 6-4 で破って初優勝した。そして、彼女の選手経歴のハイライトとなった1996年ウィンブルドンがやってくる。この大会で、マグラスは女子ダブルスでラリサ・ネーランド(ラトビア)と組んで決勝に進み、シングルスでアランチャ・サンチェス・ビカリオとの準決勝に進出した。女子ダブルス決勝では、マグラスとネーランドはマルチナ・ヒンギス&ヘレナ・スコバ組に 7-5, 5-7, 1-6 で敗れ、ヒンギスは「15歳9ヶ月」で初めてのグランドスラム・タイトルを獲得した。シングルスでは、マグラスは1回戦で日本の遠藤愛に勝ち、2回戦で第14シードのアマンダ・クッツァーを破って波に乗り、準々決勝で同じアメリカのメアリー・ジョー・フェルナンデスを倒した後、初進出の準決勝でサンチェスに 2-6, 1-6 で敗れた。 しかし1997年、マグラスは再び大きな故障を抱え、シングルスは1大会も出場できなかった。最後の4大大会出場となった全豪オープンでは、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わり、シングルス1回戦では日本の吉田友佳に敗れている。1998年3月初頭の「オクラホマ・シティ」大会を最後に、メレディス・マグラスは26歳で現役を引退した。.

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メアリー・ベヴィス・ホートン

メアリー・ベヴィス・ホートン(Mary Bevis Hawton, 1924年9月4日 - 1981年1月18日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。第2次世界大戦終戦後の全豪オープンで、1946年から1961年までの間に11度女子ダブルス決勝に進出し、そのうち1951年から1958年まで8年連続の決勝進出記録を持つ人である。同選手権のシングルスでは一度も決勝に進出できなかったが、1947年から1961年まで15年連続ベスト8に入り、そのうち6度ベスト4があった。1957年のウィンブルドン選手権と1958年の全仏選手権で女子ダブルス準優勝もある。旧姓は「メアリー・ベヴィス」といったが、1948年に結婚して2つの姓を併用した。夫の姓だけで「メアリー・ホートン」(Mary Hawton)と記載されることも多い。.

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メアリー・カーター・レイタノ

メアリー・カーター・レイタノ(Mary Carter Reitano, 1934年11月29日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍した選手で、全豪選手権で1956年と1959年に女子シングルス2勝を挙げ、女子ダブルスでも1961年に優勝した。身長157cmほどの体格で、「全豪選手権で最も小柄な優勝者」と呼ばれた。1956年の初優勝時は独身選手の「メアリー・カーター」であったが、その後結婚して2つの姓を併用した。 メアリー・カーターは1951年と1952年に全豪選手権のジュニア女子シングルスで2連覇し、その後ヨーロッパへ遠征して技術を磨いた。彼女は1954年から1962年まで全豪選手権に出場したが、1957年以外はすべて準決勝以上に勝ち残っている。3度目の出場だった1956年、カーターは女子シングルス・女子ダブルスの2部門で決勝に勝ち進んだ。女子シングルス決勝では、当時37歳のテルマ・コイン・ロングを 3-6, 6-2, 9-7 の逆転で破り、初優勝を飾った。女子ダブルスではベリル・ペンローズとペアを組み、ロングとメアリー・ベヴィス・ホートンの組に敗れて準優勝になる。1957年は準々決勝でロレイン・コグランに 10-8, 4-6, 1-6 で敗れたが、カーターがベスト8で止まったのはこの1度だけである。1958年の準決勝でコグランに敗れた時は、彼女の名前はまだ旧姓で掲載されている。 1959年の全豪選手権から、彼女は既婚女性として「メアリー・カーター・レイタノ」と名乗るようになった。この大会の決勝戦で、カーター・レイタノはレネ・シュールマン(南アフリカ)を 6-2, 6-3 で破り、3年ぶり2度目の女子シングルス優勝を達成した。3年前と同様に、彼女はこの大会でも女子シングルス優勝・女子ダブルス準優勝になり、ダブルスではコグランと組みながらも、シュールマンとサンドラ・レイノルズの南アフリカペアに敗れた。2度の準優勝を経て、カーター・レイタノは1961年にマーガレット・スミスと組み、ここで女子ダブルス初優勝を果たした。1962年に現役を引退するまで、彼女は全豪選手権でベスト4以内を維持したが、最後の2度は準決勝でジャン・レヘインに敗れた。(1960年から1963年まで、全豪選手権の女子シングルス決勝は4年連続でスミスとレヘインの顔合わせになった。) メアリー・カーター・レイタノの全豪選手権以外の4大大会成績は、1959年全仏選手権のベスト8がある。ウィンブルドン選手権には4度出場したが、1955年の4回戦進出が自己最高成績であった。全米選手権には1度も出場していない。.

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メアリー・ジョー・フェルナンデス

メアリー・ジョー・フェルナンデス(Mary Joe Fernández, 1971年8月19日 - )は、アメリカの女子プロテニス選手。出身地はドミニカ共和国のサントドミンゴで、父親はスペイン出身、母親はキューバ人である。4大大会で3度のシングルス準優勝を記録し、全豪オープンで1990年と1992年の2度、全仏オープンで1993年に準優勝した。ダブルスの名手としても活躍し、4大大会では1991年全豪オープンと1996年全仏オープンで優勝している。1992年バルセロナ五輪と1996年アトランタ五輪の2大会連続で、アメリカ代表として女子ダブルスの金メダルを獲得した。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス17勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス4位。.

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モーリーン・コノリー

モーリーン・キャサリン・コノリー・ブリンカー(Maureen Catherine Connolly Brinker, 1934年9月17日 - 1969年6月21日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の女子テニス選手。 1953年に女子テニス史上初の年間グランドスラムを達成した選手である。身長160cmほどしかない小柄な体格だったことから、“Little Mo”(リトル・モー)という愛称で呼ばれた。プレー・スタイルは典型的なベースライン・プレーヤーで、試合中にネットに出ることは少なかったという。.

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ヤナ・ノボトナ

ヤナ・ノボトナ(Jana Novotná, 1968年10月2日 - 2017年11月19日)は、チェコスロバキア・ブルノ出身の元女子プロテニス選手。1998年のウィンブルドン選手権女子シングルス優勝者である。サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、ネット・プレーと片手打ちのバックハンド・スライスも得意であった。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス1位。10代で活躍する早熟選手が多い女子プロテニス界にあって、遅咲きの名選手としても有名だった。WTAツアー通算でシングルス24勝、ダブルス76勝を挙げた。.

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リンゼイ・ダベンポート

リンゼイ・ダベンポート(Lindsay Davenport, 1976年6月8日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の女子プロテニス選手。身長189cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会では女子シングルスで1998年全米オープン、1999年ウィンブルドン、2000年全豪オープンの3冠を獲得したが、女子ダブルスでも1996年全仏オープン、1997年全米オープン、1999年ウィンブルドンで3度の優勝がある。WTAツアーでシングルス55勝、ダブルス38勝を挙げた。 2014年国際テニス殿堂入り。.

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リーゼル・フーバー

リーゼル・フーバー(Liezel Huber, 1976年8月21日 - )は、アメリカ合衆国の女子プロテニス選手。南アフリカ・ダーバン出身で、2007年7月にアメリカ市民権を取得した。ダブルスの得意な選手で、WTAツアーでダブルス53勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス131位、ダブルス1位。フォアハンド・ストロークを得意とするベースライン・プレーヤーである。既婚。.

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リサ・レイモンド

リサ・レイモンド(Lisa Raymond, 1973年8月10日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州ノリスタウン出身の女子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス79勝を獲得し、4大大会では女子ダブルス6勝、混合ダブルス5勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス1位。身長165cm、体重55kgで、女子テニス選手としては小柄な体格の選手である。.

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ルーシー・ハラデツカ

ルーシー・ハラデツカ(Lucie Hradecká,, 1985年5月21日 - )は、チェコ・プラハ出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープンと2013年の全米オープン女子ダブルスで、アンドレア・フラバーチコバと組んで優勝した。2012年ロンドン五輪の女子ダブルス銀メダルも獲得している。自己最高ランキングはシングルス41位、ダブルス4位。これまでにWTAツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝7度)、ダブルスで21勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長177cm、体重72kg。「フラデカ」の表記揺れも多い。.

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ルーシー・サファロバ

ルーシー・サファロバ(Lucie Šafářová, チェコ語発音:, 1987年2月4日 - )は、チェコ・ブルノ出身の女子プロテニス選手。 これまでにWTAツアーでシングルス7勝、ダブルス15勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。身長177cm、体重62kg、左利き。 2015年全仏オープン女子シングルスで初の決勝進出。2015年全豪オープン女子ダブルス、2015年全仏オープン女子ダブルス、2016年全米オープン女子ダブルス等の5大会で、ベサニー・マテック=サンズとペアを組んで優勝。.

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ルイーズ・ブラフ

アリシア・ルイーズ・ブラフ・クラップ(Althea Louise Brough Clapp, 1923年3月11日 - 2014年2月3日)は、アメリカ・オクラホマ州オクラホマシティ出身の女子テニス選手。1940年代から1950年代にかけて活躍し、4大大会で生涯通算「35勝」(女子シングルス6勝・女子ダブルス21勝・混合ダブルス8勝)を挙げた。とりわけ、1948年と1950年の2度ウィンブルドン選手権で女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門完全制覇(ハットトリック)を達成した選手として、テニスの歴史に名前を残した選手である。.

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レナータ・トマノワ

レナータ・トマノワ(Renáta Tomanová, 1954年12月9日 - )は、チェコスロバキア・インジフーフ・フラデツ出身の元女子プロテニス選手。1976年の全豪オープンと全仏オープンで女子シングルス準優勝者になった人である。1978年の全豪オープン女子ダブルスでベッツィ・ナゲルセン(アメリカ)とペアを組み、決勝で佐藤直子&パム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を破って優勝した。 トマノワは少女時代に、当時チェコスロバキアのナショナル・コーチであったベラ・スコバの指導を受けた。1973年にプロ入り。1975年5月5日-11日に開かれた女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップで、トマノワは初めて国の代表選手に選ばれ、この年にチェコスロバキアを初優勝に導いた立役者のひとりとなった。代表監督はスコバで、チームメートは当時18歳のマルチナ・ナブラチロワであった。5月11日の決勝で、チェコスロバキアはオーストラリアを3勝0敗で破り、スコバ監督のもとでフェデレーション杯初優勝を達成した。 翌1976年、トマノワは全豪オープンと全仏オープンの2大会連続で女子シングルス決勝に進出し、全豪オープンでは女子シングルス・女子ダブルスの2部門で決勝に進出したが、すべて準優勝止まりに終わった。全豪オープンの女子シングルス決勝では、地元オーストラリアのイボンヌ・グーラゴング・コーリーに 2-6, 2-6 で敗れ、レスリー・ターナー・ボウリーとペアを組んだ女子ダブルスでもグーラゴング・コーリーとヘレン・グーレイの組に 1-8 の1セット・マッチで敗れて、単複とも決勝でグーラゴング・コーリーに道を阻まれた。続く全仏オープンでも、トマノワはイギリスのスー・バーカーに 2-6, 6-0, 2-6 のフルセットで敗れ、4大大会の女子シングルスで2大会連続準優勝に終わった。この後、ウィンブルドンと全米オープンでは3回戦敗退に終わる。 1978年の全豪オープン女子ダブルスで、レナータ・トマノワはベッツィ・ナゲルセン(アメリカ)とペアを組み、決勝で佐藤直子&パム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を 7-5, 6-2 で破って優勝した。全豪オープンは1977年に1月年頭開催と12月年末開催の2度行われ、1978年からは年末開催に移行した。その後のトマノワの主な成績は、1979年の全仏オープンベスト8と全豪オープンベスト4進出があり、年末開催の全豪オープン準決勝でバーバラ・ジョーダン(アメリカ)に敗れた。非常に優れた才能の持ち主であったが、トマノワは次第にかつてのチームメートであったマルチナ・ナブラチロワの陰に隠れがちな存在になっていく。1987年8月、トマノワはオーストリア・キッツビュール大会の単複出場を最後に32歳で現役を引退した。.

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レネ・スタブス

レネ・スタブス(Rennae Stubbs, 1971年3月26日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られ、長年アメリカのリサ・レイモンドとペアを組んで多くのタイトルを獲得してきた。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで60勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス64位、ダブルス1位。身長178cm、体重65kg、右利き。4大大会では女子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。.

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レスリー・ターナー

レスリー・ターナー・ボウリー(Lesley Turner Bowrey, 1942年8月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。フルネームは Lesley Rosemary Turner Bowrey (レスリー・ローズマリー・ターナー・ボウリー)という。1963年と1965年の2度、全仏選手権の女子シングルスで優勝した。旧姓「レスリー・ターナー」の名前であったが、1968年に全豪選手権優勝者のビル・ボウリーと結婚した。キャリアを通じて全仏選手権と相性が良く、ダブルスで11個のグランドスラム・タイトルを獲得したが(女子ダブルス7勝+混合ダブルス4勝=11勝)、同じオーストラリアのライバルであったマーガレット・スミスの陰に隠れがちな存在でもあった。ターナーは1963年に創設された女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」でも、オーストラリア代表選手として大きな役割を果たした人である。彼女のテニス経歴は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)をまたぐ時代であった。.

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ロリ・マクニール

リ・マクニール(Lori McNeil, 1963年12月18日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元女子プロテニス選手。1983年から2002年まで20年近く現役を続行し、4大大会の女子シングルスで1987年全米オープンと1994年ウィンブルドンの2度ベスト4に入り、1988年の全仏オープン混合ダブルスで優勝するなど、多彩な経歴を残した選手である。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス32勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス4位。身長170cm、体重61kg、右利き。 1983年にプロ入りし、直ちにダブルスで頭角を現し始める。1986年に女子ツアー大会のシングルスで初優勝を果たし、この年に年間2勝を挙げた。マクニールは1987年に著しい躍進を遂げ、全豪オープンでベスト8に入り(第2シードのハナ・マンドリコワに 0-6, 0-6 で敗退)、全米オープンでシュテフィ・グラフとの準決勝に進出した。全米オープンの準々決勝では、マクニールは第3シードのクリス・エバートを 3-6, 6-2, 6-4 で破り、こうしてエバートが1974年から1986年まで「13年連続」で続けてきた4大大会連続優勝記録が途絶え、女子テニスにおける1つの時代が終わりを告げた。1987年から1989年まで、マクニールは3年連続で女子ツアーのダブルスに5勝ずつを記録する。 1987年と1988年、マクニールは2年連続で全仏オープンの混合ダブルス決勝に進出した。初進出だった1987年はシャーウッド・スチュワート(アメリカ)とのペアで準優勝になったが、1988年にホルヘ・ロザノ(メキシコ)と組んで優勝した。1992年にマクニールは4年ぶり3度目の全仏オープン混合ダブルス決勝に進み、ブライアン・シェルトン(アメリカ)とペアを組んだが、トッド・ウッドブリッジ&アランチャ・サンチェス・ビカリオ組に 2-6, 3-6 で敗れ、この部門では2度目の準優勝に終わった。1992年度の女子テニスツアー年間最終戦「バージニア・スリムズ選手権」の1回戦で、マクニールはシュテフィ・グラフを 7-6, 6-4 で破り、マルチナ・ナブラチロワとの準決勝まで進出した。 ロリ・マクニールの名前が強烈な印象を残したのは、1994年ウィンブルドンでのベスト4進出である。マクニールは1回戦で、大会3連覇中だった第1シードのシュテフィ・グラフを 7-5, 7-6 のストレートで破った。ウィンブルドン選手権の女子シングルス競技で、大会前年優勝者が1回戦で敗退したのは史上初の大波乱であった。マクニールはその勢いに乗って自身2度目の4大大会準決勝まで勝ち進んだが、第3シードのコンチタ・マルティネスに 6-3, 2-6, 8-10 の激戦で敗れ、決勝進出を逃した。この大会ではT・J・ミドルトン(アメリカ)とペアを組んだ混合ダブルスでも活躍したが、トッド・ウッドブリッジ&ヘレナ・スコバ組に 6-3, 5-7, 3-6 の逆転で敗れて準優勝に終わった。これでマクニールは4大大会の混合ダブルス決勝に「4度」進出したことになる。 マクニールは日本のトーナメントでも、1989年の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」準優勝と1991年の「サントリー・ジャパン・オープン」優勝があった。1989年の東レ決勝ではマルチナ・ナブラチロワに 7-6, 3-6, 6-7 で惜敗したが、1991年のジャパン・オープンではサビーネ・アペルマンス(ベルギー)を 2-6, 6-2, 6-1で破って優勝した。マクニールの長い競技経歴を通じて、日本人女子選手との対戦はあまり多くないが、1989年全豪オープン1回戦で小泉幸枝(こいずみ・ゆきえ)選手に敗れたことがある。 マクニールは1999年4月に女子ツアーのシングルスから撤退したが、ダブルスでは2002年まで現役を続行した。2001年にはアマンダ・クッツァーと組んで2つのダブルス・タイトルを獲得し、最後の年になった2002年も全豪オープン女子ダブルスでクッツァーとペアを組み、準々決勝まで進出している。マクニールは2002年全米オープンの女子ダブルス1回戦敗退を最後に、38歳で現役を引退した。.

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ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

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ロッド・レーバー・アリーナ

ッド・レーバー・アリーナ(Rod Laver Arena)はオーストラリア・ビクトリア州・メルボルンのメルボルン・パークにある屋内競技場。2000年1月にオーストラリアの伝説的プレーヤー、ロッド・レーバーを称えて、現在の名称になった。収容人数は最大14,820人。全豪オープンのセンターコートでもある。 同アリーナはほかにハイセンス・アリーナやマーガレット・コート・アリーナをはじめ、メルボルンパークテニスセンターの他、コンサートやモータースポーツのスーパークロスなど対応できる。また、2007年3月には世界水泳のために、仮設プールを設けた。 1995年にはMusikantenstadlのオーストラリア公演、2000年にはWCWを開催し、2006年コモンウェルスゲームズ会場のひとつでもあった。.

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ロベルタ・ビンチ

ベルタ・ビンチ(Roberta Vinci, 1983年2月18日 - )は、イタリア・ターラント出身の女子プロテニス選手。ダブルスでサラ・エラニと組み4大大会で5勝を挙げキャリアグランドスラムを達成した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス25勝を挙げている。身長163cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ヘレナ・スコバ

ヘレナ・スコバ(Helena Suková, 1965年2月23日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。4大大会の女子シングルスで4度の準優勝があり、全豪オープンで2度、全米オープンで2度ずつの準優勝に終わった。オリンピックでも、1988年ソウル五輪と1996年アトランタ五輪で2個の女子ダブルス銀メダル獲得がある。当時のチェコスロバキアでも名門のテニス一家に育ち、母親のベラ・スコバ(1931年 - 1982年)も1962年のウィンブルドン準優勝の経歴を持つ名選手だった。父親のシリル・スーク(Cyril Suk)は長年「チェコスロバキア・テニス連盟」の会長を務めた人である。弟のシリル・スーク3世(シリル・スーク・ジュニアとも呼ばれる)もプロテニス選手で、ダブルスのスペシャリストとしてよく知られている。.

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ヘレン・グーレイ

ヘレン・グーレイ(Helen Gourlay, 1946年12月23日 - )は、オーストラリア・タスマニア州ローンセストン出身の女子テニス選手。1971年の全仏オープンと1977年12月開催の全豪オープンで、4大大会女子シングルスに2度の準優勝がある。どちらも決勝でイボンヌ・グーラゴングに敗れた。4大大会女子ダブルスでは、全豪オープンで4勝を挙げ、ウィンブルドンでも1977年に優勝がある。右利きの選手。彼女は1977年にイギリス人のリチャード・コーリー(Richard Cawley)と結婚した後は、夫の姓を併用して「ヘレン・グーレイ・コーリー」(Helen Gourlay-Cawley)と名乗った。.

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パム・シュライバー

パメラ・ハワード・シュライバー(Pamela "Pam" Howard Shriver、1962年7月4日 - )は、アメリカ・メリーランド州ボルチモア出身の元女子プロテニス選手。1978年の全米オープン女子シングルス準優勝者で、ダブルスの名手として一時代を築いた名選手である。WTAツアーでシングルス21勝、ダブルス111勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。.

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パティ・フェンディック

パティ・フェンディック(Patty Fendick, 1965年3月31日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サクラメント出身の元女子プロテニス選手。キャリアを通じてダブルスに優れ、1991年の全豪オープン女子ダブルスでメアリー・ジョー・フェルナンデスとペアを組んで優勝した。シングルスでは1988年のジャパン・オープンで優勝したことがある。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルスで1991年全豪オープンを含む25勝を挙げた。 フェンディックは1982年から選手経歴を始め、1983年の全仏オープンで4大大会にデビューしたが、スタンフォード大学で心理学の学位を取得した後、1987年からプロテニス選手になった。1988年に女子ツアーでシングルス2勝、ダブルス6勝を挙げる。シングルス初優勝は1月末のニュージーランド・オークランド大会で、4月の「ジャパン・オープン」ではステファニー・レイヒ(アメリカ)を破って優勝した。最初期のフェンディックは、ダブルスでジル・ヘザリントン(カナダ)とペアを組むことが多かった。フェンディックとヘザリントンの組は、1988年全米オープンと1989年全豪オープンで女子ダブルス準優勝がある。全豪オープン終了後、オークランド大会でシングルス2連覇を達成したが、これを最後にフェンディックは女子ツアーでシングルス優勝がなくなった。 1990年の全豪オープンで、フェンディックは女子シングルスで自己最高のベスト8に入り、女子ダブルス2年連続準優勝を記録した。シングルス準々決勝ではシュテフィ・グラフに 3-6, 5-7 で敗れ、メアリー・ジョー・フェルナンデスと組んで進出した女子ダブルス決勝でも、ヘレナ・スコバ&ヤナ・ノボトナ組に 6-7, 6-7 で敗れた。1991年全豪オープン女子ダブルス決勝で、フェンディックとM・J・フェルナンデスはジジ・フェルナンデスとノボトナの組を 7-6, 6-1 で破った。こうしてフェンディックは、3年連続進出の全豪オープン女子ダブルスでついに初優勝を達成した。 フェンディックはキャリアを通じていろいろなダブルス・パートナーとペアを組んできたが、最も好成績の多かったパートナーはメレディス・マグラスであった。マグラスとは1990年に初めて組んだが、フェンディックのキャリアの後期には彼女と組んだ優勝が最も多く、1994年に年間5勝を記録している。1994年全豪オープンでは、フェンディックはマグラスと組んで3年ぶり4度目の女子ダブルス決勝に進んだが、ジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 3-6, 6-4, 4-6 で敗れ、2度目の全豪女子ダブルス優勝を逃している。マグラスとのダブルスで好成績が多かった1994年、10月第2週のチューリッヒ・オープンで、フェンディックはマルチナ・ヒンギスのプロ・デビュー戦の相手になった。当時14歳になったばかりのヒンギスは、地元の大会でデビュー戦に勝利を収め、ここから急成長を始める。 1995年8月のカナダ・オープンで2回戦敗退に終わった後、フェンディックは両膝の手術を受けたが、この故障から立ち直れなかった。最終的に、カナダ・オープンが彼女の現役最後の試合となった。現役最後の年、彼女は全豪オープンのシングルス2回戦で伊達公子に敗れたことがある。ダブルスでは全仏オープン準決勝進出があった。1987年から1995年までの9年間、彼女はツアーのシングルスで、少なくとも1つの大会で準々決勝に勝ち残る連続記録を残した。選手引退後は全米テニス協会(USTA)の評議員になり、シアトルにあるワシントン大学のコーチを務めている。.

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パオラ・スアレス

パオラ・スアレス(Paola Suárez, 1976年6月23日 - )は、アルゼンチン・ペルガミーノ出身の女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られる。長年にわたり、スペインのビルヒニア・ルアノ・パスクアルとペアを組んで活躍してきた。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス44勝(うち4大大会女子ダブルス8勝)を挙げた。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス1位。シングルスでも2004年の全仏オープンでベスト4進出がある。身長170cm、体重62kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ヒセラ・ドゥルコ

ヒセラ・ドゥルコ(Gisela Dulko, 1985年1月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルスで2011年全豪オープンを含む17勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス1位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。赤土のクレーコートを最も得意にした。.

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ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

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ビルヒニア・ルアノ・パスクアル

ビルヒニア・ルアノ・パスクアル(Virginia Ruano Pascual, 1973年9月21日 - )は、スペイン・マドリード出身の女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られる。長年にわたり、アルゼンチンのパオラ・スアレスとペアを組んで活躍してきた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス42勝(うち4大大会女子ダブルス10勝)を挙げた。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス1位。身長169cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ビーナス・ウィリアムズ

ビーナス・エボニー・スタール・ウィリアムズ(Venus Ebony Starr Williams, 1980年6月17日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州リンウッド出身の女子プロテニス選手。身長185cm、体重73kg、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでシングルス49勝、ダブルス22勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス1位。 1990年代後半からアメリカ女子テニス界のトッププレイヤーの一人として活躍。妹のセリーナ・ウィリアムズとともに、女子テニス界に「パワーテニス」を持ち込み、これまでの女子テニスのスタイルを一変させた。 シングルス・ダブルス・混合ダブルスでのグランドスラム優勝合計は23回で、特にセリーナ・ウィリアムズと組んだダブルスの優勝回数は、オープン化以降チーム歴代2位タイの14回。 オリンピック金メダル4個獲得は、男女通して妹のセリーナ・ウィリアムズと並び歴代1位タイ。.

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ビクトリア・アザレンカ

ビクトリア・アザレンカ(Victoria Azarenka, Вікторыя Азаранка, 1989年7月31日 - )は、ベラルーシ・ミンスク出身の女子プロテニス選手。2012年と2013年の全豪オープン女子シングルスの優勝者であり、ベラルーシ人として初めて世界ランキング1位になった選手である。これまでにWTAツアーでシングルス20勝、ダブルス6勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス7位。身長183cm、体重66kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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テルマ・コイン・ロング

テルマ・コイン・ロング(Thelma Coyne Long, 1918年10月14日 - 2015年4月13日)は、オーストラリア・シドニー市出身の女子テニス選手。1936年から1958年まで22年間の長きにわたり、全豪選手権でトップレベルを維持し、全豪選手権で通算「18勝」(女子シングルス2勝+女子ダブルス12勝+混合ダブルス4勝=総計18勝)を記録した名選手である。全仏選手権でも1956年に混合ダブルス優勝があり、キャリア通算で19個のグランドスラム・タイトルを獲得した。とりわけ、全豪選手権の女子ダブルスでナンシー・ウィン・ボルトンと組んで傑出した成績を挙げ、彼女とのペアで「12大会」連続決勝進出の記録を残している。フルネームは Thelma Dorothy Coyne Long (テルマ・ドロシー・コイン・ロング)という。旧姓「テルマ・コイン」(Thelma Coyne)という名前であったが、戦時中に結婚して「テルマ・コイン・ロング」と2つの姓を名乗った。夫の姓だけで「テルマ・ロング」(Thelma Long)と呼ばれることも多い。.

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ティメア・バボシュ

ティメア・バボシュ(Tímea Babos,, 1993年5月10日 - )は、ハンガリー・ショプロン出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルス16勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス7位。身長179cm、体重68kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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フラビア・ペンネッタ

フラビア・ペンネッタ(Flavia Pennetta, 1982年2月25日 - )は、イタリア・ブリンディジ出身の女子プロテニス選手。イタリア人の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りした選手である。彼女は2006年度の女子テニス国別対抗戦・フェドカップでイタリア・チームを初優勝に導いた代表選手の1人であり、4大大会でも2011年の全豪オープン女子ダブルス、2015年の全米オープン女子シングルス優勝がある。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルス11勝、ダブルス17勝を挙げた。身長172cm、体重58kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ペネッタ」の表記揺れも多い。.

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ドリス・ハート

ドリス・ハート(Doris Hart, 1925年6月20日 - 2015年5月29日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の女子テニス選手。第2次世界大戦の終戦直後の時代に活躍し、1940年代後半から1950年代前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。フルネームは Doris Jane Hart (ドリス・ジェーン・ハート)という。.

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ドロシー・バンディ

ドロシー・メイ・バンディ・チェイニー(Dorothy May Bundy Cheney, 1916年9月1日 - 2014年11月23日)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女子テニス選手。1938年の全豪選手権女子シングルス優勝者で、アメリカ人の女子選手として最初の全豪優勝者になった人である。両親ともテニスの名選手という家庭に生まれ育ち、自らも傑出したテニス・チャンピオンに成長した彼女は、テニス経歴の長さでも傑出した実績を残している。“Dodo”(ドド)の愛称でも呼ばれ親しまれた。.

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ダーリーン・ハード

ダーリーン・ルース・ハード(Darlene Ruth Hard, 1936年1月6日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍し、4大大会で女子シングルス3勝・女子ダブルス13勝・混合ダブルス5勝を獲得した選手である。最盛期の1960年には、全仏選手権と全米選手権の女子シングルス年間2冠と、マリア・ブエノ(ブラジル)とのペアで全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の女子ダブルス3連勝を成し遂げた。彼女のテニスは、どの技術も生き生きした男性的な力強さにあふれ、とりわけボレーとオーバーヘッド・スマッシュ(頭上から放つスマッシュ)で攻撃力を発揮した。.

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ダフネ・アクハースト

ダフネ・アクハースト(Daphne Akhurst, 1903年4月22日 - 1933年1月9日)は、オーストラリア・シドニー市アシュフィールド出身の女子テニス選手である。全豪選手権(現在の全豪オープン)で女子部門の黎明期に活躍した選手で、女子シングルスで5度、女子ダブルスで5度、混合ダブルスで4度優勝し、総計「14勝」を挙げた。フルネームは Daphne Jessie Akhurst (ダフネ・ジェシー・アクハースト)という。最初はピアニストとして才能を現し、音楽学校を卒業した。音楽教師になった彼女は、テニスは全くの独学であったというが、そのテニスでオーストラリアの歴史の黎明期を築いた。.

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ダニエラ・ハンチュコバ

ダニエラ・ハンチュコバ(Daniela Hantuchová, 1983年4月23日 - )は、スロバキア・ポプラト出身の女子プロテニス選手。身長181cm、62kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルスで9勝を挙げた。(彼女の姓の日本語転写は様々で、ハンチェコバ、ハンチュコワ、ハンツコーワ、などとも表記されるが、最も原語の発音に近い表記をするならば「ハントゥホヴァー」である。).

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ベラ・ズボナレワ

ベラ・ズボナレワ (Vera Zvonareva, Вера Игоревна Звонарёва, 1984年9月7日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。4大大会で女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げた選手で、シングルスでも2010年のウィンブルドンと全米オープンで準優勝している。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス9位。これまでにWTAツアーでシングルス12勝、ダブルス6勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長172cm、体重59kg。ベースライン・プレーヤー。.

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ベリル・ペンローズ

ベリル・ペンローズ(Beryl Penrose, 1930年12月22日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。1955年の全豪選手権女子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは8位(1955年)。右利きの選手で、すらりとした長身の体格だったという。 ベリル・ペンローズは1950年から全豪選手権に出場し始め、1953年から1956年まで4年連続で女子ダブルス決勝に進出した。1954年、ペンローズは女子ダブルスと混合ダブルスの2部門で決勝進出を果たす。前年からペアを組んでいたメアリー・ベヴィス・ホートンとの女子ダブルスで初優勝したが、ジョン・ブロムウィッチとの混合ダブルスでは優勝を逃した。1955年、ペンローズは女子シングルスと女子ダブルスの単複2冠を獲得する。女子シングルス決勝では前年度優勝者のテルマ・コイン・ロングを 6-4, 6-3 で破って初優勝を飾り、ベビス・ホートンとの女子ダブルスで2連覇を達成した。この年が彼女の絶頂期で、全仏選手権とウィンブルドン選手権で女子シングルスのベスト8進出も果たしている。1955年、ペンローズは当時の女子テニス世界ランキングで「8位」にランクされた。 翌1956年の全豪選手権で、ペンローズはニール・フレーザーと組んだ混合ダブルスで初優勝を飾り、同選手権で3部門完全制覇を達成した。相手ペアは、前年まで女子ダブルスで組んでいたメアリー・ベヴィス・ホートンと当時20歳のロイ・エマーソンの組であった。しかし、女子シングルスでは準々決勝でダフネ・シーニーに 1-6, 2-6 で完敗し、あっけなく連覇が消えた。女子ダブルスではメアリー・カーターと組んだが、決勝でベビス・ホートンとテルマ・コイン・ロングの組に敗れて3連覇を逃した。1957年の全豪選手権準決勝でシャーリー・フライ(アメリカ)に敗れた試合を最後に、ベリル・ペンローズはテニス界から引退した。全仏選手権とウィンブルドン選手権への参加は、ともに1955年のベスト8が最後で、全米選手権には1度も出場しなかった。 ちなみに彼女の孫は男子プロテニス選手である。名前はジェームス・ダックワース。2015年のアメリカシティオープン2回戦で錦織と対戦した。.

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ベッツィ・ナゲルセン

ベッツィ・ナゲルセン(Betsy Nagelsen, 1956年10月23日 - )は、アメリカ・フロリダ州セントピーターズバーグ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。ダブルスでは、全豪オープンの女子ダブルスで1978年と1980年の2度優勝し、ウィンブルドンでも1987年に女子ダブルス準優勝があった。ナゲルセンはキャリアを通じて、シングルスよりもダブルスの分野で多くの好成績を出した。 1974年にプロ入りし、この年にウィンブルドンと全米オープンで3回戦に進出する。1974年当時、ウィンブルドン選手権の女子シングルスは「96名」の選手による7回戦制で行われていたが、全米オープン女子シングルスは「64名」の選手による6回戦制であった。ナゲルセンはウィンブルドン3回戦(ベスト32)でバージニア・ウェード、全米オープン3回戦(ベスト16)でビリー・ジーン・キング夫人に挑戦した。 その後、ナゲルセンは背中の故障でしばらく低迷期が続いたが、プロデビューから4年後の1978年全豪オープンでシングルス・ダブルスともに初の決勝進出を果たした。女子シングルス決勝では、ナゲルセンは世界ランキング111位のクリス・オニールに 3-6, 6-7 で敗れて準優勝になる。女子ダブルス決勝ではレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)とペアを組み、佐藤直子とパム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を 7-5, 6-2 で破って優勝した。佐藤はこの準優勝により、1975年ウィンブルドン女子ダブルスで優勝した沢松和子に続く偉業を逃した。当時の全豪オープンは、1977年に年頭の1月開催大会と年末の12月開催大会の2度行われた関係で、1978年大会の開催時期が年末の12月に変更され、期間は12月25日-31日の1週間であった。 翌1979年、ベッツィ・ナゲルセンは「ジャパン・オープン」の女子部門で単複優勝を成し遂げたが、シングルス決勝では佐藤直子を 6-1, 3-6, 6-3 で破って優勝した。1980年、ナゲルセンは全豪オープンの女子ダブルスで2年ぶり2度目の優勝を果たす。パートナーはマルチナ・ナブラチロワで、相手ペアはアン清村&キャンディ・レイノルズ組であった。1981年はウィンブルドンで初のシングルス4回戦進出がある。1982年に手首の手術を受け、彼女は再び長期間のスランプを経験する。1978年全豪オープン準優勝の後、ナゲルセンの4大大会シングルス成績は、ウィンブルドン選手権で1981年・1986年と2度の4回戦進出が最高であった。 再三の故障を乗り越えて、ナゲルセンは1987年にダブルスで久々の好成績を出した。ウィンブルドン女子ダブルスと、全米オープン混合ダブルスの準優勝である。ウィンブルドンの女子ダブルスでは、ナゲルセンはエリザベス・スマイリー(オーストラリア)とペアを組み、決勝でクラウディア・コーデ=キルシュ(当時西ドイツ)&ヘレナ・スコバ(当時チェコスロバキア)組に 5-7, 5-7 で敗れた。全米オープンの混合ダブルスでは、パートナーはポール・アナコーン(アメリカ)で、決勝で敗れた相手はエミリオ・サンチェス(スペイン)&マルチナ・ナブラチロワ組であった。この決勝戦は第2・第3セットがタイブレークにもつれ、ナゲルセンとアナコーンは最終第3セットのタイブレークを 10-12 で落として、結局 4-6, 7-6, 6-7 のスコアで競り負けた。30歳を過ぎてから迎えた2つのチャンスを、ナゲルセンは2つとも生かすことができなかった。 ベッツィ・ナゲルセンは1974年から1994年まで、21年間にわたって女子プロテニスツアーを転戦した後、1995年と1996年はウィンブルドン選手権の女子ダブルスのみに出場した。選手引退後は、IMG会長であった夫のマーク・マコーマック(1930年 - 2003年)とともに「マコーマック=ナゲルセン・テニスセンター」で後進の育成に携わってきた。.

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ベサニー・マテック=サンズ

ベサニー・マテック=サンズ(Bethanie Mattek-Sands, 1985年3月23日 - )は、アメリカ・ミネソタ州ロチェスター出身の女子プロテニス選手。身長168cm、体重66kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス30位、ダブルス1位。これまでにWTAツアーでシングルス準優勝4度、ダブルスで26勝を挙げている。 4大大会では2012年全豪オープン混合ダブルス、2015年全豪ダブルス、2017年全豪ダブルス、2015年全仏オープン混合、2015年全仏ダブルス、2017年全仏ダブルス、2016年全米ダブルスで優勝を果たしている。.

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アランチャ・サンチェス・ビカリオ

アランチャ・サンチェス・ビカリオ(Arantxa Sánchez Vicario、1971年12月18日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元女子プロテニス選手。 全仏オープン3勝、全米オープン1勝を挙げ、4大大会「4勝」を記録したスペイン最大の女子テニス選手である。 2人の兄、エミリオ・サンチェスとハビエル・サンチェスもプロテニス選手で、アランチャは4人兄妹の末っ子である。1歳年下のコンチタ・マルティネスとともに、長年にわたりスペインの女子テニス界をリードしてきた2強豪であった。 彼女は選手登録名の姓を本名の「アランチャ・サンチェス・ビカリオ」にしたが、日本語メディアの報道では簡略形の「アランチャ・サンチェス」で記載されることが多かった。.

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アリョーナ・ボンダレンコ

アリョーナ・ボンダレンコ(Alona Bondarenko, Альона Володимирівна Бондаренко, 1984年8月13日 - )は、ウクライナ・クリヴィー・リフ出身の女子プロテニス選手。2人の姉妹、バレリア・ボンダレンコ(1982年生まれ)とカテリナ・ボンダレンコ(1986年生まれ)とともに「3人姉妹のプロテニス選手」として活動した。2008年の全豪オープン女子ダブルスで、アリョーナとカテリナの姉妹ペアが初優勝を飾り、ウクライナ出身のテニス選手として史上初の4大大会優勝を達成した。3人姉妹の次女であるアリョーナは、これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルスで2008年全豪オープンを含む4勝を挙げ、シングルス自己最高ランキングでウクライナ女子選手の最高位を更新した。.

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アリシア・モリク

アリシア・モリク(Alicia Molik, 1981年1月27日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の女子プロテニス選手。2004年のアテネ五輪で女子シングルスの銅メダルを獲得した選手である。4大大会でも、女子ダブルスで2005年全豪オープンと2007年全仏オープンの2勝があり、混合ダブルスでは3度の準優勝があった。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス6位。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス7勝を挙げた。身長182cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語では「アリシア・モリック」と表記されることも多い。.

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アリシア・ギブソン

アリシア・ギブソン(Althea Gibson, 1927年8月25日 - 2003年9月28日)は、アメリカ・サウスカロライナ州出身の女子テニス選手。黒人テニス選手の草分けとして、主に1950年代に活躍し、4大大会女子シングルスに通算「5勝」を挙げた名選手である。人種差別との厳しい闘いの中で、ギブソンは黒人女子スポーツ選手の開拓者として道を切り開いた。.

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アンナ・クルニコワ

アンナ・クルニコワ (Anna Kournikova, А́нна Серге́евна Ку́рникова, 1981年6月7日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで16勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは8位。彼女のいとこにあたるエフゲニー・コロレフもプロテニス選手になった。.

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アン・スミス

アン・スミス(Anne Smith, 1959年7月1日 - )は、アメリカ・テキサス州ダラス出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、4大大会で女子ダブルス5勝、混合ダブルス5勝を挙げた。とりわけ、1980年から1981年にかけて同じ年のキャシー・ジョーダンと一緒に女子ダブルスの「キャリア・グランドスラム」を達成した点が傑出している。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス38勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス1位。.

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アンドレア・フラバーチコバ

アンドレア・フラバーチコバ(Andrea Hlaváčková, チェコ語発音:,1986年8月10日 - )は、チェコ・プルゼニ出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープンと2013年の全米オープン女子ダブルスで、ルーシー・ハラデツカと組んで優勝した。2012年ロンドン五輪の女子ダブルス銀メダルも獲得している。自己最高ランキングはシングルス58位、ダブルス3位。これまでにWTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで25勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長174cm、体重62kg。「フラバコバ」の表記揺れも多い。.

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アンジェラ・モーティマー

フローレンス・アンジェラ・マーガレット・モーティマー・バレット(Florence Angela Margaret Mortimer Barrett, 1932年4月21日 - )は、イングランド・プリマス出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍し、4大大会女子シングルス「3勝」を挙げた選手である。彼女の活躍した時代は、しばらく4大大会でイギリス人の女子優勝者が途絶えていたため、モーティマーの優勝記録には「イギリス人女子選手として…年ぶり」のものが多い。.

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アン清村

アン 清村(アン・キヨムラ、Ann Kiyomura, 1955年8月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンマテオ郡出身の元女子プロテニス選手。1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、日本の沢松和子とペアを組んで優勝した選手としてよく知られている。日系人3世の選手で、父親はアメリカ人のテニスコーチであり、母親は日本で第2位のテニス選手であった。夫も日本人で、現在は Ann Kiyomura Hayashi (アン・キヨムラ・ハヤシ)という名前になっている。 アン清村は1973年のウィンブルドン女子ジュニア部門で優勝があり、その決勝戦でマルチナ・ナブラチロワを 6-4, 7-5 で破ったことがある。1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、アン清村は日本の沢松和子とペアを組んで決勝に勝ち進む。決勝戦の相手はフランソワーズ・デュール(フランス)&ベティ・ストーブ(オランダ)の強豪ペアに決まった。沢松と清村は決勝でも伸び伸びとしたプレーを繰り広げ、7-5, 1-6, 7-5 の大接戦の末にウィンブルドン女子ダブルスのタイトルを獲得した。沢松は日本人女性として初の4大大会優勝を成し遂げ、日本に空前のテニスブームを沸き起こしたが、アン清村も「アジアン・アメリカン」の女性として最初のウィンブルドン優勝者に輝いた。沢松和子は、この偉業の後1975年限りで現役を退いた。 それから3年後、1978年にアン清村はジャパン・オープンで女子シングルスとダブルスの単複2冠を獲得した。シングルス決勝では日本の米沢そのえを破り、ダブルスでは佐藤直子とペアを組んだが、相手組の棄権により不戦勝で優勝した。これがアン清村の唯一のシングルス・タイトルである。 1985年2月のトーナメントを最後に現役を引退。2002年に新しく「日系アメリカ人スポーツ殿堂」が設立され、アン・キヨムラ・ハヤシは「日系人スポーツ選手の開拓者」として殿堂入りを果たした。.

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アシュリー・バーティ

アシュリー・バーティ(Ashleigh Barty, 1996年4月24日 - )は、オーストラリア・イプスウィッチ出身の女子プロテニス選手。ケーシー・デラクアとペアを組み4大大会女子ダブルスで4回準優勝した。身長166cm、体重62kg。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス7勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス5位。.

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イボンヌ・グーラゴング

イボンヌ・グーラゴング(Evonne Goolagong, 1951年7月31日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グリフィス出身の女子プロテニス選手。フルネームは Evonne Fay Goolagong Cawley (イボンヌ・フェイ・グーラゴング・コーリー)という。オーストラリア原住民・アボリジニの女子スポーツ選手として初の世界メジャー選手。「アボリジニ女性の星」と賞賛された。現役生活でシングルス92勝(うちWTAツアー大会は68勝、4大大会総計7勝を含む)、ダブルス11勝を挙げる。身長168cm、体重59kg、右利き。.

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ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

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エミリー・フッド・ウェスタコット

ミリー・フッド・ウェスタコット(Emily Hood Westacott, 1910年5月6日 - 1980年10月9日)は、オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベン出身の女子テニス選手。フルネームは Emily Jane Lucy Harding Hood Westacott (エミリー・ジェーン・ルーシー・ハーディング・フッド・ウェスタコット)という。1930年代の全豪選手権(現在の全豪オープン)で活躍した選手で、1939年の女子シングルス優勝者になり、女子ダブルスでも3勝を挙げた。旧姓「エミリー・フッド」(Emily Hood)というが、1930年にクライド・ウェスタコット(Clyde Westacott)と結婚し、既婚選手として2つの姓を併用した。彼女のテニスは“爆音のような”グラウンド・ストロークで粘り強く勝負し、フォアハンド・ストロークとバックハンド・ストロークを同じラケット面で打っていた。右利きの選手。.

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エリザベス・スマイリー

リザベス・スマイリー(Elizabeth Smylie, 1963年4月11日 - )は、オーストラリア・パース出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られている。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルスは3勝と少ないが、ダブルスで35勝を挙げた。フルネームはエリザベス・セイヤーズ・スマイリー(Elizabeth Sayers Smylie)という。旧姓エリザベス・セイヤーズ(Elizabeth Sayers)というが、コーチのピーター・スマイリー(Peter Smylie)との結婚後は夫の姓だけを使用して「エリザベス・スマイリー」と名乗った。リズ(Liz)という愛称で親しまれ、リズ・スマイリーと呼ばれることも多かった。 エリザベス・セイヤーズの競技経歴は、1980年末の全豪オープンから始まる。1983年の全米オープン混合ダブルスで、セイヤーズは同じオーストラリアのジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、ファーディ・テイガン&バーバラ・ポッター(ともにアメリカ)組を破って初優勝を飾った。その直後、9月末の「バージニアスリムズ・カンザス」大会で単複優勝を果たす。1984年11月10日にピーター・スマイリーと結婚。1985年のウィンブルドン女子ダブルス優勝は、エリザベス・スマイリーのテニス経歴を通じて最も顕著な勝利であった。この時スマイリーはアメリカのキャシー・ジョーダンとペアを組み、決勝でマルチナ・ナブラチロワとパム・シュライバーのペアを 5-7, 6-3, 6-4 の逆転で破ったのである。ナブラチロワとシュライバーはそれまで女子ダブルスで前人未到の「109連勝」の記録を樹立していたが、スマイリーとジョーダンがこの記録を止めた。 1987年の全豪オープンでスマイリーは4大大会のシングルス自己最高記録を出し、ベスト8に進出した。当時のスマイリーはシングルスの世界ランキング82位から勝ち上がり、準々決勝で第5シードのクラウディア・コーデ=キルシュ(西ドイツ)に 6-7, 6-4, 2-6 で敗れた。同年の全米オープン女子ダブルスで、スマイリー&ジョーダン組は(2年前に連勝記録を止めた)ナブラチロワ&シュライバー組に 7-5, 4-6, 2-6 で敗れて準優勝になった。1988年、スマイリーは全豪オープンの女子ダブルスでシュテフィ・グラフとペアを組んで準決勝に進み、同年のソウル五輪にもオーストラリア代表として出場した。スマイリーとウェンディ・ターンブルのペアは、準決勝でアメリカ代表のジーナ・ガリソン&パム・シュライバー組に敗れた。このソウル五輪では、準決勝敗退選手(ペア)による銅メダル決定戦は行われず、両方に銅メダルが授与されたため、スマイリーとターンブルはオーストラリアにテニス女子ダブルスの銅メダルをもたらした。 エリザベス・スマイリーは1988年以後、4大大会の女子シングルスでは3回戦以上に勝ち進めなかったが、ダブルスでさらに成績を伸ばし、1990年の全米オープンで7年ぶり2度目の混合ダブルス優勝を飾った。パートナーのトッド・ウッドブリッジは当時まだ19歳の若者であったが、8歳の年齢差があった2人は決勝でジム・ピュー(アメリカ)&ナタリア・ズベレワ(ソ連)組を 6-4, 6-2 で破っている。1991年のウィンブルドンで、スマイリーは混合ダブルスで再びジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、前年の全米混合決勝と同じピュー&ズベレワ組を 7-6, 6-2 で破って優勝した。スマイリーにとっては、1985年の女子ダブルス優勝以来6年ぶりに獲得した2つ目のウィンブルドン・タイトルであった。 スマイリーのシングルス成績はダブルスほど目立たないが、日本の「ジャパン・オープン」で1989年・1990年の2年連続シングルス準優勝がある。1989年の決勝戦では岡本久美子に、1990年はカタリナ・リンドクイスト(スウェーデン)に敗れた。ダブルスでも日本のトーナメントに数多く出場したことから、日本にも多くのファンを持っていた。 スマイリー夫妻には長い間子供がいなかったが、1991年末にようやく妊娠が分かった。スマイリーは出産後、1992年6月から直ちに現役復帰をし、1993年の全豪オープンでパム・シュライバーと組んで初めての女子ダブルス決勝進出を決めた。このペアは決勝で第1シードのジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 4-6, 3-6 で敗れて準優勝になった。スマイリーは1994年のシーズンを最後に女子ツアー大会のシングルスから撤退したが、1996年にダブルスのフルシーズンをこなし、ウィンブルドン女子ダブルスでリンダ・ワイルド(アメリカ)と組んで準決勝に進出している。最後の大舞台では、スマイリーのペアはマルチナ・ヒンギスとヘレナ・スコバの組に敗れた。1997年は全豪オープンとウィンブルドンの2大会のみに出場し、最後はどちらもパム・シュライバーと組んだ。こうしてエリザベス・スマイリーは、出産後も34歳まで現役を続行し、十数年間にわたってダブルスの第一線で活躍を続けたのである。 スマイリーは引退後も、女子テニスツアーの運営に携わった。引退の翌年、1998年からは母国オーストラリア・ゴールドコーストで開催されていたツアー大会「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」のトーナメント・ディレクターの職に就任し、同大会が終了となった2008年までその職務を務めた。.

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エレーナ・リホフツェワ

レーナ・リホフツェワ (Elena Likhovtseva, Еле́на Алекса́ндровна Ли́ховцева, 1975年9月8日 - )は、ロシアの女子プロテニス選手。カザフスタンのアルマトイに生まれる。4大大会の混合ダブルス部門で2002年ウィンブルドンと2007年全豪オープンで優勝している。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス27勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。既婚。 ロシア語人名の日本語表記に即したより正確な読みは「イリェーナ・リーハフツィヴァ」になる。.

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エレーナ・ベスニナ

レーナ・ベスニナ(Elena Vesnina, Елена Сергеевна Веснина, 1986年8月1日 - )は、ロシアの女子プロテニス選手。現ウクライナのリヴィウ生まれで、ロシアのソチに在住している。2013年の全仏オープンと2014年の全米オープン、2017年ウィンブルドン選手権女子ダブルスでエカテリーナ・マカロワとペアを組んで優勝した。ダブルスの得意な選手として知られ、これまでにWTAツアーでシングルス3勝、ダブルス18勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス3位。.

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エカテリーナ・マカロワ

テリーナ・マカロワ(Ekaterina Makarova, Екатерина Валерьевна Макарова, 1988年6月7日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。2013年全仏オープンと2014年全米オープン、2017年ウィンブルドン選手権女子ダブルスと2012年全米オープン混合ダブルスの優勝者。これまでにWTAツアーでシングルス3勝、ダブルス12勝を挙げる。自己最高位はシングルス8位、ダブルス3位。.

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エスナ・ボイド

ナ・ボイド(Esna Boyd, 1899年9月21日 - 1966年)は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)で女子競技部門の黎明期に活躍した選手で、第1回大会の1922年から1926年まで5年連続の女子シングルス準優勝で止まっていたが、1927年に6度目の挑戦で女子シングルス優勝者になった人である。女子ダブルスでは4勝、混合ダブルスでは3勝を挙げ、この両部門では第1回大会の優勝者となった。.

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オルガ・モロゾワ

ルガ・モロゾワ(Olga Morozova, Ольга Васильевна Морозова, 1949年2月22日 - )は、ソビエト連邦(現在はロシア)・モスクワ出身の元女子テニス選手。男子選手のアレックス・メトレベリと並んで、ソ連におけるテニス競技の草分けに大きく貢献した名選手である。1974年の全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で、4大大会に準優勝した。モロゾワの経歴を通じて「ソビエト連邦出身の女子テニス選手として史上初」の業績は多い。現役生活でシングルス20勝、ダブルス10勝を挙げた。 モロゾワは1965年のウィンブルドン女子ジュニアシングルス部門に16歳で優勝し、翌1966年で本戦に初出場した。1968年、モロゾワは5歳年上の先輩選手アレックス・メトレベリと混合ダブルスのペアを組み、ソ連出身の選手として初のウィンブルドン混合ダブルス決勝に進出した。ソ連ペアは初舞台の決勝戦で、ケン・フレッチャー&マーガレット・コート(ともにオーストラリア)組に 1-6, 12-14 で敗れた。 それから、モロゾワは1969年に「モスクワ国際選手権」で初優勝を遂げ、1970年にはソ連国内のトーナメントで5勝したほかに「ヨーロッパ・アマチュア選手権」でも初優勝した。1970年には、メトレベリと組んで2年ぶり2度目のウィンブルドン混合ダブルス決勝進出もあった。2人はイリ・ナスターゼ(ルーマニア)&ロージー・カザルス(アメリカ)組に 3-6, 6-4, 7-9 で敗れ、この部門で2度の準優勝に止まったが、こうして2人はソ連におけるテニス競技の開拓者となった。モロゾワは徐々にソ連国外にも活動を広げ、1972年の「イタリアン・オープン」で初めて女子テニスツアー大会の決勝戦に進出した。この年は、ウィンブルドンを除く4大大会女子シングルスでベスト8に進出している。 1974年、オルガ・モロゾワはソ連出身の女子選手として初の4大大会決勝進出の偉業を成し遂げる。それも全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続であったが、どちらもクリス・エバートにストレートで敗れて準優勝になった。(スコア:全仏オープン決勝は 1-6, 2-6 / ウィンブルドン決勝は 0-6, 4-6)全仏オープンの女子ダブルスで、モロゾワとエバートがペアを組んで優勝を飾り、彼女はソ連の女子選手として初の4大大会タイトルをここで獲得した。(モロゾワは現役生活の間、エバートには1勝もできず「13戦全敗」で終わった。)その後、彼女は女子ダブルスで1975年全仏オープン・全豪オープン・1976年全米オープンの3度決勝に進出したが、いずれも準優勝で止まった。 モロゾワは女子国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーション・カップ」)にソ連代表選手が出場する道も開き、通算12勝4敗(シングルス8勝3敗・ダブルス4勝1敗)の成績を挙げた。ところが、1977年にソ連政府がテニス選手の海外試合出場を禁止したことにより、モロゾワは4大大会などの海外テニスツアーへの出場が不可能になり、ここで彼女のツアー経歴が終わった。 モロゾワはテニス・コーチのビクトル・ルベノフ(Victor Rubenov)と結婚し、モスクワ市内に「スパルタクラブ」というスポーツ選手育成クラブを創設した。このクラブから多くの選手が育ち、アンナ・クルニコワ、アナスタシア・ミスキナ、エレーナ・デメンティエワ、マラト・サフィンなどが世界へ巣立った。2004年の全仏オープン女子シングルス決勝で、ミスキナとデメンティエワによるテニス史上初の「ロシア対決」が実現し、ミスキナがロシア出身の女子テニス選手として最初の4大大会優勝者になった。.

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カーラ・ブラック

ーラ・ブラック(Cara Black, 1979年2月17日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の女子プロテニス選手。2人の兄、バイロン・ブラックとウェイン・ブラックもプロテニス選手で、カーラは3人兄弟の末っ子である。ウィンブルドンを最も得意とする選手で、女子ダブルス部門で3勝を挙げ、2004年ウィンブルドンでは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門を制覇した。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス60勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス1位。身長167cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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カテリナ・ボンダレンコ

テリナ・ボンダレンコ(Kateryna Bondarenko, または Katerina Bondarenko, Катерина Володимирівна Бондаренко, 1986年8月8日 - )は、ウクライナ・クリヴィー・リフ出身の女子プロテニス選手。2人の姉、バレリア・ボンダレンコ(1982年生まれ)とアリョーナ・ボンダレンコ(1984年生まれ)とともに「3人姉妹のプロテニス選手」として活動していた。2008年の全豪オープン女子ダブルスで、カテリナとアリョーナの姉妹ペアが初優勝を飾り、ウクライナ出身のテニス選手として史上初の4大大会優勝を達成した。WTAの自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス9位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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キャシー・ジョーダン

ャシー・ジョーダン(Kathy Jordan, 1959年12月3日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州出身の元女子プロテニス選手。1983年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。姓名の略称である“KJ”がそのままニックネームになっていた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス41勝を挙げた。実の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)は、1979年の全豪オープン女子シングルス優勝者である。 ラケットを厚めのウエスタングリップで握りフォアハンドストロークは回転量の多いトップスピン、バックハンドはそのグリップのままラケットの裏面を使いこれまた回転量の多いスライス(ごくまれにフラット気味の軽打も放つ)、さらにボレーまでそのグリップのままこなすという独自のスタイルで戦っていた。 高校在学中はバスケットボール部員として活躍したが、1979年6月にプロテニス選手となる。同年11月に「東京エメロンカップ」というトーナメントで初来日する。この年、キャシー・ジョーダンは女子テニス協会の「最も印象的な新人選手賞」(Most Impressive Newcomer Award)を受賞した。彼女の経歴のハイライトとなった1983年は、まずウィンブルドンで準々決勝進出があった。この時敗れたビリー・ジーン・キング夫人は、39歳にしてまだ第10シードの位置にいた。そして、当時は年末開催だった全豪オープンがやってくる。ジョーダンはこの大会で初の4大大会決勝進出を果たしたが、最盛期を迎えた第1シードのマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 6-7 のストレートで敗れて準優勝に終わり、4年前の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)の快挙に続くことはできなかった。1984年はウィンブルドンで自己最高成績を出したが、準決勝でまたナブラチロワに敗れる。その後は故障などもあり、4大大会のシングルスで好成績が途絶えた。 キャシー・ジョーダンはダブルスの名手として、4大大会の女子ダブルスではすべてのタイトルを獲得した。1980年に全仏オープンとウィンブルドンの女子ダブルスで優勝し、1981年には全米オープンと全豪オープンを制している。4つともパートナーはアメリカのアン・スミスで、同一ペアによる「キャリア・グランドスラム」の偉業達成となった。後年はオーストラリアのエリザベス・スマイリーとペアを組むことが多くなり、1985年のウィンブルドンの女子ダブルスではスマイリーと組んで5年ぶり2度目の優勝を果たした。とりわけ、1985年ウィンブルドンの女子ダブルス決勝では、ジョーダン&スマイリー組はマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組の女子ダブルス「109連勝」の歴代1位記録を止めている。 ジョーダンは混合ダブルスでも、1986年に全仏オープンとウィンブルドンで2大会連続優勝がある。パートナーは両方ともケン・フラック(アメリカ)と組んだ。 ジョーダンは日本のトーナメントでの活躍も多く、1987年と1988年の「ジャパン・オープン」で女子ダブルス2連覇がある。1991年2月にエリザベス・スマイリーとのペアで「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」のダブルスで優勝したが、これがジョーダンの現役生活最後の優勝となる。1991年全米オープンで、ジョーダンは現役引退を宣言した。 テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンとリリアン・ワトソン(イングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカの黒人姉妹、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。.

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クラウディア・コーデ=キルシュ

ラウディア・コーデ=キルシュ(Claudia Kohde-Kilsch, 1963年12月11日 - )は、旧西ドイツ・ザールブリュッケン出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。身長187cm、体重68kg、右利き。WTAランク自己最高位はシングルス4位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス8勝、ダブルスで1985年全米オープン・1987年ウィンブルドンを含む26勝を挙げた。「コーデ・キルシュ」と2つの姓を名乗ったのは、養子として育った家庭の背景にあり、生まれた時の名前は“Claudia Kohde”(クラウディア・コーデ)といったが、養父のユルゲン・キルシュ(Jurgen Kilsch)に育てられたため“Claudia Kohde-Kilsch”の名前でプレーするようになった。.

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クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

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クリスティナ・ムラデノビッチ

リスティナ・ムラデノビッチ(Kristina Mladenovic, Кристина Младеновић, 1993年5月14日 - )は、フランス・サン=ポル=シュル=メル出身の女子プロテニス選手。2013年のウィンブルドン選手権と2014年の全豪オープンの混合ダブルスで、カナダのダニエル・ネスターとペアを組んで優勝した。身長184cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高位はシングルス10位、ダブルス2位。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス16勝を挙げている。姓はマダナビッチ、マラデノビッチとも表記される。.

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クリスティン・トルーマン

リスティン・クララ・トルーマン・ジェーンズ(Christine Clara Truman Janes、1941年1月16日 - )は、イギリス・ロートン出身の女子テニス選手。1959年の全仏選手権女子シングルス優勝者である。彼女は身長183cmほどの長身と金髪の容姿を備え、躍動感にあふれたエネルギッシュなプレーと真摯な試合態度で、地元イギリスに多くのファンを持っていた。トルーマンの4大大会における好成績は、大半が18歳から20歳までの間に記録されたものである。彼女は選手経歴の間にジェリー・ジェーンズ(Gerry Janes)と結婚した。妹のネル・トルーマン(Nell Truman)も当時の優れたテニス選手であった。 トルーマンは16歳の時、1957年のウィンブルドン選手権で初出場からいきなりアリシア・ギブソン(アメリカ)との準決勝に勝ち進み、イギリスに多くのファンを獲得した。1958年には全仏選手権と全米選手権でベスト8に入る。新人選手時代のトルーマンは、ギブソンとの対戦機会が多かった。1959年、18歳になったトルーマンは国際的な成功を収め、全仏選手権に18歳5ヶ月で初優勝を飾った。全仏選手権の女子シングルス決勝で、トルーマンは大会前年度優勝者だったハンガリーのジュジャ・ケルメツィを 6-4, 7-5 のストレートで破り、当時の女子シングルス最年少優勝記録を樹立した。(28年後の1987年にシュテフィ・グラフが「17歳11ヶ月」で初優勝し、トルーマンの記録を破ったが、2013年現在の全仏女子シングルス最年少優勝記録保持者は1990年に「16歳6ヶ月」で優勝したモニカ・セレシュである。)全仏優勝の後、トルーマンはウィンブルドン選手権女子ダブルス決勝と、全米選手権女子シングルス決勝に進出した。全米選手権の決勝ではマリア・ブエノ(ブラジル)に 1-6, 4-6 で敗れ、4大大会年間2冠のチャンスを逃している。 1960年、トルーマンは初めて全豪選手権に遠征し、マリア・ブエノとの女子ダブルスで優勝した。この年は、大会前年優勝者だった全仏選手権には出場できなかったが、全豪選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の3大会で女子シングルスのベスト4に入っている。それから、トルーマンは1961年のウィンブルドン選手権で初めての決勝に勝ち進んだ。相手は同じイギリスのアンジェラ・モーティマーで、1914年以来「47年ぶり」にイギリス人選手同士の決勝戦が実現し、ウィンブルドンの大会会場は大いに盛り上がった。(ウィンブルドン選手権では、1921年を最後に「チャレンジ・ラウンド」→「オールカマーズ・ファイナル」方式が廃止され、1922年から現在のようなトーナメント方式になったが、それ以後は女子シングルス決勝で「イギリス対決」は1度も行われなかった。)その盛り上がりの中で、トルーマンはモーティマーに 6-4, 4-6, 5-7 の逆転で敗れ、ウィンブルドン初優勝を逃した。これを最後に、クリスティン・トルーマンは4大大会のシングルス決勝から見放されてしまう。 その後のトルーマンは、1963年全仏選手権と1965年ウィンブルドン選手権でベスト4進出があったが、18歳から20歳までの絶頂期のような好成績を取り戻せなかった。1963年に女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップが創設され、トルーマン・ジェーンズはフェデレーションカップ最初期のイギリス・チームの代表選手として、1963年・1965年・1968年の3度出場した。全仏女子シングルス優勝から13年後、ネル・トルーマンは1972年全仏オープンの女子ダブルスでウィニー・ショー(同じイギリスの選手)とペアを組み、ビリー・ジーン・キング夫人とベティ・ストーブ組に敗れた準優勝がある。.

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ケリー・レイド

リー・レイド(Kerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年の全豪選手権(当時の名称)と1978年のウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。.

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ケーシー・デラクア

ーシー・デラクア(Casey Dellacqua, 1985年2月11日 - )は、オーストラリア・パース出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープン混合ダブルスで、スコット・リプスキーとペアを組んで優勝した。4大大会女子ダブルスの準優勝も7回ある。身長165cm、体重66kgの小柄な体格で、左利きの選手。WTAツアーでダブルス7勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス3位。.

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コラル・バッツワース

ラル・バッツワース(Coral Buttsworth, 1900年6月7日 - 1985年12月20日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州タリー出身の女子テニス選手。1930年初頭の全豪選手権(現在の全豪オープン)で活躍し、女子シングルス2勝・女子ダブルス1勝を挙げた選手である。フルネームは Coral Annabel McInnes Buttsworth (コラル・アナベル・マキンズ・バッツワース)といい、“Corrie”(コリー)という愛称で呼ばれた。彼女は1920年にセシル・バッツワース(Cecil Buttsworth)と結婚し、全豪選手権で活躍した時は30歳代前半であった。.

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コリーナ・モラリュー

リーナ・モラリュー(Corina Morariu, 1978年1月26日 - )は、アメリカ・ミシガン州デトロイト出身の女子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手で、1999年のウィンブルドン女子ダブルスと2001年の全豪オープン混合ダブルスで優勝した。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス13勝を挙げた。.

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シャハー・ピアー

ャハー・ピアー(שחר פאר, 英語表記:Shahar Pe'er, 1987年5月1日 - )は、イスラエル・エルサレム出身の元女子プロテニス選手。2008年の全豪オープン女子ダブルスで、ビクトリア・アザレンカ(ベラルーシ)とペアを組んで準優勝した。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス14位。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げた。身長170cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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シャーリー・フライ

ャーリー・フライ(Shirley Fry, 1927年6月30日 - )は、アメリカ・オハイオ州アクロン出身の女子テニス選手。女子テニス界で、史上3人目の「キャリア・グランドスラム」を達成した選手である。フライと同世代のアメリカ人女子選手には、女子テニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成したモーリーン・コノリーや、女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を達成したドリス・ハートなどの強豪選手がいたため、フライ自身の優勝回数は比較的少ない。しかし、すべての4大大会で女子シングルスに1勝ずつを挙げ、女子ダブルスではハートとのペアで数多くの優勝を達成した。フルネームは Shirley June Fry Irvin (シャーリー・ジューン・フライ・アービン)という。.

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シルビア・ランス・ハーパー

ルビア・ランス・ハーパー(Sylvia Lance Harper, 1895年10月 - 没年月日不明)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州カンタベリー出身の女子テニス選手。全豪選手権(現在の全豪オープン)で女子部門の黎明期に活躍し、女子シングルス1勝・女子ダブルス3勝・混合ダブルス1勝を挙げた選手である。彼女は第1回大会の1922年から出場し、1931年まで10年間の活動記録を残している。旧姓「シルビア・ランス」といい、1925年に結婚して「ハーパー」の姓を併用した。ランス・ハーパーについては、生年も「1895年10月」までしか判明しておらず、生まれた正確な日付や没年月日を確認できる資料が見つかっていない。 現在は「全豪オープン」として知られるテニス大会は、1905年に第1回大会が始まったが、最初期の全豪選手権は男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみであった。女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門は、それから17年後の1922年に第1回の競技が行われた。シルビア・ランスは1922年の第1回女子競技から参加し始めた選手のひとりである。最初の大会では、女子シングルス準決勝でエスナ・ボイドに敗れた。第2回大会の1923年、ランスは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門で優勝し、女子ダブルスはボイド、混合ダブルスはホーレス・ライスとペアを組んで初優勝を決めた。1924年の女子シングルス決勝で、ランスはボイドを 6-3, 3-6, 6-4 で破り、こうして全豪選手権の第3回女子シングルス優勝者になった。1924年と1925年は女子ダブルスでダフネ・アクハーストとペアを組み、ボイドと組んだ1923年から数えて女子ダブルス3連覇を達成した。 1925年に結婚して「シルビア・ランス・ハーパー」の名前になった後は、彼女は女子シングルス・女子ダブルスとも準優勝止まりが続いた。1927年の女子シングルス決勝では、第1回大会から5年連続準優勝の苦杯をなめていたエスナ・ボイドに敗れ、3年後の1930年にはダフネ・アクハーストに敗れている。1931年にコラル・バッツワースとの女子シングルス準決勝を 0-6, 6-4 で途中棄権した試合が、ランス・ハーパーの現役最後の試合となった。その後は消息が分からなくなり、彼女の没年月日や死去した場所を確認できる資料もない。.

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ジャン・レヘイン

ャン・レヘイン(Jan Lehane, 1941年7月9日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グレンフェル出身の女子テニス選手。1960年から1963年まで、全豪選手権女子シングルス決勝でマーガレット・スミスと4年連続の決勝対決をし、4年連続準優勝になった人である。同選手権では1960年と1961年の混合ダブルスで優勝した。左利きの選手で、グラウンド・ストロークを両手打ちしていた。現役選手の期間中、1966年に結婚して Jan Lehane O'Neill (ジャン・レヘイン・オニール)という名前になった。 ジャン・レヘインは1958年から全豪選手権に出場し始め、最初は1回戦でメアリー・ベヴィス・ホートンに敗れたが、翌1959年にメアリー・カーター・レイタノとの準決勝まで進んだ。1960年から1963年まで、全豪選手権の女子シングルス決勝は「4年連続」でレヘインとマーガレット・スミスの顔合わせになり、スミスが4戦全勝した。2人が1960年に最初の決勝対決をした時、スミスは17歳、レヘインは18歳であった。スミスは準々決勝で当時の世界1位だったマリア・ブエノ(ブラジル)を破って脚光を浴び、レヘインとの決勝戦でセンター・コートに立ったが、当時の全豪選手権ではオーストラリア女子選手どうしの試合がセンター・コートで行われることは少なかったという。スミスは最近の回想で「ジャン(レヘイン)の両手打ちバックハンド・ストロークの攻略を覚えたら、もう2度と彼女に負けることはなかった」と書き記した(本記事の参考文献、82・83ページ)。ここから1966年まで、スミスは全豪選手権女子シングルス「7連覇」を達成し、以後1973年全米オープンまで4大大会通算「24勝」の女子歴代1位記録を樹立する。最初期にスミスの壁にぶつかった選手が、全豪で4年連続準優勝者になったレヘインである。4度の決勝戦で、レヘインはいずれもストレート負けに終わった。 女子シングルスで最初の決勝戦に進んだ1960年、ジャン・レヘインは混合ダブルスでトレバー・ファンカット(南アフリカ)とペアを組んで初優勝した。1961年、彼女は女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスで3部門決勝進出があり、混合ダブルスで(前年と違う)ボブ・ヒューイットと組んで優勝したが、女子ダブルスではメアリー・ベヴィス・ホートンとのペアで準優勝になった。最後のシングルス決勝を戦った1963年は、女子ダブルスでレスリー・ターナーと組んで準優勝している。レヘインの全豪ダブルス成績は、混合ダブルス優勝2度・女子ダブルス準優勝2度となった。 レヘインの全豪選手権以外の4大大会成績は、シングルスは全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権ともベスト8が自己最高成績であった。全仏選手権には1960年から1964年まで5年連続出場し、1961年を除いて4度ベスト8に入っている。ウィンブルドン選手権は1963年の1度、全米選手権は1960年・1961年の2度ベスト8があったが、海外の4大大会では準決勝に勝ち残れなかった。女子ダブルスでは、レヘインはスミスと組んで1961年ウィンブルドン選手権に準優勝がある。レヘインとスミスは、ウィンブルドン・ダブルス決勝でカレン・ハンツェ&ビリー・ジーン・モフィット(ともにアメリカ)組に 3-6, 4-6 で敗れた。1963年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーションカップ」が始まり、レヘインは1963年の第1回フェデレーション杯でオーストラリア代表選手に選ばれた。 1964年、レヘインはスミスと全豪選手権準決勝で当たってしまい、ここでもストレート負けを喫した。1966年までは独身選手の「ジャン・レヘイン」の名前でプレーしたが、この後結婚して「ジャン・レヘイン・オニール」の名前になる。彼女は膝の故障に悩み、1967年全豪選手権でベスト8敗退に終わった後、しばらく選手経歴が中断した。全豪選手権は、1969年から「全豪オープン」の名前に変更される。ジャン・オニールは「全豪オープン」にも断続的に参加し、1971年全豪オープンで4年ぶりのベスト8に入った。彼女の最後の試合出場は、1977年1月開催大会の2回戦であり、1975年に現役引退した宿敵のマーガレット・スミス・コートよりも少し長くテニス界にとどまった。.

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ジュディ・テガート

ュディ・テガート・ドールトン(Judy Tegart Dalton, 1937年12月12日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。1968年のウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者。フルネームは Judith Anne Marshall Tegart Dalton (ジュディス・アン・マーシャル・テガート・ドールトン)というが、愛称の「ジュディ」でよく知られている。彼女は優れたダブルス選手として、すべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得し、女子ダブルス8勝・混合ダブルス1勝を挙げた。1968年ウィンブルドン準優勝の時はまだ旧姓の「ジュディ・テガート」であったが、1969年にイギリス人医師のデビッド・ドールトン(David Dalton)と結婚した。 ジュディ・テガートの家族は、父親はアイルランドのサッカー元代表選手で、母親はスコットランド人であった。テガートは1957年から全豪選手権に出場を始め、1962年に初めて女子シングルスの8強に進出した。この年から、テガートは他の4大大会にも活躍の場を広げる。1964年全豪選手権で、テガートはレスリー・ターナーとペアを組み、女子ダブルス初優勝を果たす。1963年から始まった女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)で、テガートは第3回大会の1965年からオーストラリアの代表選手になった。1966年は全豪選手権の混合ダブルス部門でトニー・ローチとコンビを組んで優勝した後、全仏選手権の女子ダブルスでマーガレット・スミスと組み、この大会では唯一のタイトルを獲得した。1967年はターナーとのペアで3年ぶり2度目の全豪選手権女子ダブルス優勝があり、ウィンブルドン選手権で初のベスト8に入る。この頃までは、テガートはオーストラリアの優秀なダブルス選手としての知名度はあったが、世界的な舞台での好成績は少なかった。 ジュディ・テガートが世界的な知名度を獲得したのは、1968年のウィンブルドン決勝進出がきっかけだった。テニス界はこの年から「オープン化」という措置を取り、プロテニス選手の4大大会出場を解禁した。「オープン化制度」のもとで実施された最初のウィンブルドン選手権において、テガートは第7シードから勝ち進み、準々決勝でマーガレット・スミス・コート夫人、準決勝で全仏オープン優勝者のナンシー・リッチーを破り、初めての4大大会シングルス決勝進出を果たした。決勝戦ではビリー・ジーン・キング夫人に 7-9, 5-7 で敗れ、テガートの初優勝はならなかった。彼女のシングルス成績は、その後1971年ウィンブルドンのベスト4があるが、ここではコート夫人に敗れて決勝進出を逃している。 ジュディ・テガートは1969年、イギリス人医師のデビッド・ドールトンと結婚し、その後は2つの姓を併用して「ジュディ・テガート・ドールトン」と名乗るようになった。結婚後のドールトンは、女子ダブルスでマーガレット・スミス・コート夫人とペアを組むことが多くなり、2人は1969年に「全豪オープン」とウィンブルドンで女子ダブルス年間2冠を獲得した。1970年の「全米オープン」において、ドールトンとコート夫人は女子ダブルス決勝でロージー・カザルス&バージニア・ウェード組を 6-3, 6-4 で破って初優勝を果たす。この優勝により、ドールトンはすべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。パートナーのコート夫人は、この年に女子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」達成者になり、全米オープンでは「ハットトリック」(女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門制覇)も成し遂げた。 1971年の全米オープンでは、ドールトンは女子ダブルスでロージー・カザルスとペアを組み、ここで最後の4大大会女子ダブルス優勝を飾った。これでドールトンのダブルス・タイトルは、レスリー・ターナーと組んだものが2つ(1964年・1967年全豪選手権)、マーガレット・コート夫人と組んだものが5つ、最後がカザルスとのペアで、総計「8勝」になった。ドールトンは1970年に「プロテニス選手」となり、最後は1977年12月の全豪オープンでイボンヌ・グーラゴングとの準々決勝に進んでいる。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)ダブルスの名手として長く活躍したドールトンは、1978年に38歳で現役を引退した。.

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ジョーン・ハーティガン

ョーン・ハーティガン(Joan Hartigan, 1912年6月6日 - 2000年8月31日)は、オーストラリア・シドニー市出身の女子テニス選手。フルネームは Joan Marcia Hartigan Bathurst (ジョーン・マルシア・ハーティガン・バットハースト)という。1930年代にオーストラリアを代表する女子選手として活躍し、全豪選手権で女子シングルス3勝、混合ダブルス1勝を挙げた。彼女はウィンブルドン選手権でも、1934年と1935年の2年連続で女子シングルスのベスト4進出があり、オーストラリアの女子テニス選手として初めて国際的な知名度を獲得した。ハーティガンのテニスは、バックハンド・ストロークをフォアハンドと同じラケット面で打つ「逆さのバックハンド」(Upside-down backhand)を駆使し、グラウンド・ストロークの強打を武器にした。.

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ジル・ヘザリントン

ル・ヘザリントン(Jill Hetherington, 1964年10月27日 - )は、カナダ・オンタリオ州ブランプトン出身の元女子プロテニス選手。1980年代後半から1990年代前半にかけて、ダブルスのスペシャリストとして活動した。彼女はパティ・フェンディック(アメリカ)と組んで1988年全米オープンと1989年全豪オープン女子ダブルス準優勝があり、1995年全仏オープンの混合ダブルス準優勝もあった。自己最高ランキングはシングルス64位、ダブルス6位。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス14勝を挙げた。.

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ジーナ・ガリソン

ーナ・ガリソン(Zina Garrison, 1963年11月16日 - )は、アメリカ・テキサス州ヒューストン出身の元女子プロテニス選手。黒人の女子テニス選手として活動した。1990年のウィンブルドン女子シングルス準優勝者で、同選手権の混合ダブルスで1988年と1990年に2度優勝した。1988年のソウル五輪でも女子シングルス銅メダル・女子ダブルス金メダル獲得がある。身長164cm、体重61kgで、小柄な体格の選手だった。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス14勝、ダブルス20勝を挙げる。.

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ジジ・フェルナンデス

ベアトリス・"ジジ"・フェルナンデス(Beatriz "Gigi" Fernández, 1964年2月22日 - )は、プエルトリコ・サンフアン出身のアメリカの女子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。WTAツアーでシングルス優勝は2つと少ないが、ダブルスでは69勝を挙げ、うち4大大会の女子ダブルスで「17勝」の記録を残した。シングルスでも1994年のウィンブルドンで準決勝進出がある。.

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スベトラーナ・クズネツォワ

ベトラーナ・アレクサンドロヴナ・クズネツォワ(Svetlana Kuznetsova, Светлана Александровна Кузнецова, 1985年6月27日 - )は、ロシア・サンクトペテルブルク市出身の女子プロテニス選手。2004年の全米オープンと2009年の全仏オープン女子シングルス優勝者で、2005年と2012年の全豪オープン女子ダブルス優勝もある。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス3位。身長174cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーで、4大大会2勝を含むシングルス17勝、ダブルス16勝を挙げている。.

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セリーナ・ウィリアムズ

リーナ・ジャメカ・ウィリアムズ(Serena Jameka Williams, 1981年9月26日 - )は、アメリカ・ミシガン州サギノー出身の女子プロテニス選手。身長175cm、体重70kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでシングルス72勝、ダブルス23勝を挙げる。 自己最高世界ランキングはシングルス・ダブルス共に1位。2013年2月に31歳4ヶ月24日で世界ランキング1位に復帰したことにより、 WTA歴代最年長のナンバーワンプレイヤーとなり、2017年1月に再度1位に復帰した。 男女を通じてシングルス・ダブルスともに「キャリア・ゴールデンスラム」を達成した唯一の選手である。姉ビーナス・ウィリアムズとともに、女子テニス界にパワーテニスを持ち込んだ選手として知られる。 生涯獲得賞金は8000万ドルを超え、すべての女子プロスポーツ選手を含めて史上1位。 グランドスラム合計優勝回数は男女通して現役1位・歴代3位、シングルス優勝回数は歴代2位、オープン化以降では歴代1位。ビーナス・ウィリアムズと組んだ優勝回数はチーム歴代3位。 2002年から2003年及び2014年から2015年に史上5人目のグランドスラム4大会連続優勝達成。またダブルスでも2009年から2010年にかけて達成している。.

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サマンサ・ストーサー

マンサ・ストーサー(Samantha Stosur, 1984年3月30日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の女子プロテニス選手。2011年の全米オープン女子シングルスの優勝者であり、女子ダブルスでも2006年の全仏オープンと2005年の全米オープンで優勝している。これまでにWTAツアーでシングルス9勝、ダブルス24勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス1位。身長172cm、体重65kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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サラ・エラニ

ラ・エラニ(Sara Errani, 1987年4月29日 - )は、イタリア・ボローニャ出身の女子プロテニス選手。2012年の全仏オープン女子シングルスの準優勝者。ダブルスでもロベルタ・ビンチと組み4大大会で5勝を挙げキャリアグランドスラムを達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。これまでにWTAツアーでシングルス9勝、ダブルス27勝を挙げている。身長164cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「エラーニ」の表記揺れも多い。.

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サンドラ・レイノルズ

ンドラ・レイノルズ・プライス(Sandra Reynolds Price, 1939年3月4日 - )は、南アフリカ・ブルームフォンテーン出身の女子テニス選手。1960年のウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者。彼女は1956年から1962年までの選手経歴の間に、1959年の全豪選手権女子ダブルス・混合ダブルス2部門制覇、全仏選手権女子ダブルス3勝を成し遂げ、通算5個の4大大会ダブルスタイトルを獲得した。旧姓「サンドラ・レイノルズ」の名前であったが、1962年にローウェル・プライス(Lowell Price)と結婚した。 サンドラ・レイノルズは1956年から選手経歴を始め、1959年から全盛期を迎えた。この年の全豪選手権において、レイノルズは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門に初優勝を飾る。女子シングルスでは、第1シードのレイノルズはジャン・レヘインとの準々決勝で止まったが、混合ダブルスでロバート・マークと組んで優勝した。全豪選手権は、これが唯一の出場になる。全豪選手権の後、レイノルズは全仏選手権の女子ダブルスで1959年・1961年・1962年の3度優勝し、4大大会女子ダブルスで通算4勝を挙げたが、パートナーはいずれも同じ南アフリカのレネ・シュールマン(1939年 - 2001年)であった。 全仏選手権の女子シングルスで1959年・1960年の2年連続ベスト4に入った後、レイノルズは1960年ウィンブルドン選手権で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に決勝進出を果たした。女子シングルスでは、レイノルズは準々決勝で当年度の全仏選手権優勝者ダーリーン・ハード、準決勝で地元イギリスのアン・ヘイドンを破り、南アフリカ出身の女性として最初のウィンブルドン女子シングルス決勝進出者になった。初進出の決勝ではマリア・ブエノに 6-8, 0-6 で敗れ、シュールマンと組んだ女子ダブルスでも、決勝でブエノとハードの組に 4-6, 0-6 で敗れたため、21歳のレイノルズはウィンブルドンで単複ともブエノの前に涙を飲んだことになる。 1962年、サンドラ・レイノルズはローウェル・プライスと結婚した。この年のウィンブルドン選手権で、レイノルズ・プライスとシュールマンは2年ぶり2度目のウィンブルドン女子ダブルス決勝に進出したが、ここでビリー・ジーン・モフィットとカレン・ハンツェの組に 7-5, 3-6, 5-7 の逆転で敗れた。レイノルズは3度のウィンブルドン決勝で、いずれも準優勝止まりに終わってしまう。全米選手権では、1959年と1962年のベスト8が自己最高成績で、この大会ではシュールマンとの女子ダブルスでも上位に進出できなかった。1962年のシーズンを最後に、23歳でテニス界から引退した。 選手引退後、プライス夫妻はイギリス・ケント州のワルマーに住み、2人の間に生まれた娘はレストランの経営者になった。数年前、サンドラの宝物であった記念メダルは何者かによって盗まれたという。.

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サニア・ミルザ

ニア・ミルザ(Sania Mirza, ثانیہ مرزا, सानिया मिर्ज़ा, 1986年11月15日 - )は、インド・ムンバイ出身の女子プロテニス選手。2009年の全豪オープンと2012年の全仏オープン、2014年全米オープンの混合ダブルス優勝者。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス41勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス27位、ダブルス1位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 日本語では、英語表記を単純にカタカナ読みした「サニア・ミルザ」という呼び方が最も普及しているが、現地語表記での長短母音の区別などを考慮した場合“サーニヤー・ミルザー”の読みが近くなる。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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荘佳容

荘 佳容(チュアン・チアユン、1985年1月10日 - )は、台湾・高雄市出身の女子プロテニス選手。同僚の詹詠然とペアを組み、2007年の全豪オープンと全米オープン女子ダブルスで準優勝した選手である。身長168cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ダブルスでツアー通算22勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス177位、ダブルス5位。.

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鄭潔

鄭 潔(ジェン・ジー、日本語読み:ていけつ、ピン音表記:Zheng Jie, 1983年7月5日 - )は、中華人民共和国・四川省成都出身の女子プロテニス選手。同僚の晏紫とペアを組んで、2006年の全豪オープンとウィンブルドン女子ダブルスで優勝を飾り、中国のテニス選手として最初の4大大会優勝者に輝いた。シングルスでも2008年ウィンブルドンと2010年全豪オープンの準決勝進出者となった。WTAツアーでは、ダブルスで4大大会2勝を含む15勝を挙げ、シングルスでも4勝がある。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長164cm、体重57kg。.

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杉山愛

杉山 愛(すぎやま あい、1975年7月5日 - )は、神奈川県横浜市出身の元女子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。血液型はA型。SWTA自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。キャリア通算でWTAツアーシングルス6勝、ダブルスでは38勝。 日本人選手として初のWTAダブルス世界ランキングで1位を獲得。日本人女子25年ぶりのグランドスラムダブルス優勝者で、現在日本人最後の4大大会優勝者。グランドスラム優勝4回は日本人最多記録。4大大会シングルス成績は2度のベスト8進出があり、現在日本人女子最後の全豪・全英シングルスベスト8進出者である。 日本人初のシングルスとダブルスの同時世界トップ10入り。また、グランドスラムシングルス連続出場のギネス記録を保持している。.

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晏紫

晏 紫(ヤン・ツィ、ピン音表記: Yan Zi, 1984年11月12日 - )は、中華人民共和国・四川省成都市出身の女子プロテニス選手。同僚の鄭潔とペアを組んで、2006年の全豪オープンとウィンブルドン女子ダブルスで優勝を飾り、中国のテニス選手として最初の4大大会優勝者に輝いた。WTAツアーでは、ダブルスで4大大会2勝を含む17勝を挙げ、シングルスでも1勝がある。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ち。自己最高ランキングはシングルス40位、ダブルス4位。身長171cm、体重55kg、右利き。.

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1922年オーストラレーシアン選手権

1922年 オーストラレーシアン選手権(1922 Australasian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1923年オーストラレーシアン選手権

1923年 オーストラレーシアン選手権(1923 Australasian Championships)に関する記事。オーストラリア・ブリスベン市内にある「ミルトン・テニスクラブ」にて開催。.

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1924年オーストラレーシアン選手権

1924年 オーストラレーシアン選手権(1924 Australasian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1925年オーストラレーシアン選手権

1925年 オーストラレーシアン選手権(1925 Australasian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1926年オーストラレーシアン選手権

1926年 オーストラレーシアン選手権(1926 Australasian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1927年オーストラリア選手権 (テニス)

1927年 オーストラリア選手権(1927 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1928年オーストラリア選手権 (テニス)

1928年 オーストラリア選手権(1928 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1929年オーストラリア選手権 (テニス)

1929年 オーストラリア選手権(1929 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1930年オーストラリア選手権 (テニス)

1930年 オーストラリア選手権(1930 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1931年オーストラリア選手権 (テニス)

1931年 オーストラリア選手権(1931 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1932年オーストラリア選手権 (テニス)

1932年 オーストラリア選手権(1932 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1933年オーストラリア選手権 (テニス)

1933年 オーストラリア選手権(1933 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1934年オーストラリア選手権 (テニス)

1934年 オーストラリア選手権(1934 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1935年オーストラリア選手権 (テニス)

1935年 オーストラリア選手権(1935 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1936年オーストラリア選手権 (テニス)

1936年 オーストラリア選手権(1936 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1937年オーストラリア選手権 (テニス)

1937年 オーストラリア選手権(1937 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1938年オーストラリア選手権 (テニス)

1938年 オーストラリア選手権(1938 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1939年オーストラリア選手権 (テニス)

1939年 オーストラリア選手権(1939 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1940年オーストラリア選手権 (テニス)

1940年 オーストラリア選手権(1940 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1941年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1946年オーストラリア選手権 (テニス)

1946年 オーストラリア選手権(1946 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1947年オーストラリア選手権 (テニス)

1947年 オーストラリア選手権(1947 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1948年オーストラリア選手権 (テニス)

1948年 オーストラリア選手権(1948 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1949年オーストラリア選手権 (テニス)

1949年 オーストラリア選手権(1949 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1950年オーストラリア選手権 (テニス)

1950年 オーストラリア選手権(1950 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1951年オーストラリア選手権 (テニス)

1951年 オーストラリア選手権(1951 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1952年オーストラリア選手権 (テニス)

1952年 オーストラリア選手権(1952 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1953年オーストラリア選手権 (テニス)

1953年 オーストラリア選手権(1953 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1954年オーストラリア選手権 (テニス)

1954年 オーストラリア選手権(1954 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1955年オーストラリア選手権 (テニス)

1955年 オーストラリア選手権(1955 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1956年オーストラリア選手権 (テニス)

1956年 オーストラリア選手権(1956 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・ブリスベン市内にある「ミルトン・テニスクラブ」にて開催。.

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1957年オーストラリア選手権 (テニス)

1957年 オーストラリア選手権(1957 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1958年オーストラリア選手権 (テニス)

1958年 オーストラリア選手権(1958 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1959年オーストラリア選手権 (テニス)

1959年 オーストラリア選手権 (1959 Australian Championships) に関する記事。 オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催され、アレックス・オルメドがオーストラリア選手権では1951年以来のオーストラリア人以外の優勝を果たした。.

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1960年オーストラリア選手権 (テニス)

1960年 オーストラリア選手権(1960 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・ブリスベン市内にある「ミルトン・テニスクラブ」にて開催。.

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1961年オーストラリア選手権 (テニス)

1961年 オーストラリア選手権(1961 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1962年オーストラリア選手権 (テニス)

1962年 オーストラリア選手権(1962 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1963年オーストラリア選手権 (テニス)

1963年 オーストラリア選手権(1963 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1964年オーストラリア選手権 (テニス)

1964年 オーストラリア選手権(1964 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・ブリスベン市内にある「ミルトン・テニスクラブ」にて開催。.

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1965年オーストラリア選手権 (テニス)

1965年 オーストラリア選手権(1965 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1966年オーストラリア選手権 (テニス)

1966年 オーストラリア選手権(1966 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

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1967年オーストラリア選手権 (テニス)

1967年 オーストラリア選手権(1967 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1968年オーストラリア選手権 (テニス)

1968年 オーストラリア選手権(1968 Australian Championships)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1968年1月19日から29日まで開催された。.

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1969年全豪オープン

1969年 全豪オープン(Australian Open 1969)は、オーストラリア・ブリスベンにある「ミルトン・テニスクラブ」て、1969年1月20日から27日にかけて開催された。.

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1970年全豪オープン

1970年 全豪オープン(Australian Open 1970)は、オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」において、1970年1月19日から27日まで開催された。.

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1971年全豪オープン

1971年 全豪オープン(Australian Open 1971)は、オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」において、1971年1月8日から14日まで開催された。.

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1972年全豪オープン

1972年 全豪オープン(Australian Open 1972)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1971年12月27日から1972年1月3日まで開催された。.

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1973年全豪オープン

1973年 全豪オープン(Australian Open 1973)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1972年12月26日から1973年1月1日まで開催された。.

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1974年全豪オープン

1974年 全豪オープン(Australian Open 1974)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1973年12月26日から1974年1月1日まで開催された。.

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1975年全豪オープン

1975年 全豪オープン(Australian Open 1975)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1974年12月21日から1975年1月1日まで開催された。.

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1976年全豪オープン

1976年 全豪オープン(Australian Open 1976 )は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1975年12月26日から1976年1月4日まで開催された。.

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1977年全豪オープン (12月)

1977年12月 全豪オープン(Australian Open 1977/12)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1977年12月19日から31日まで開催された。.

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1977年全豪オープン (1月)

1977年1月 全豪オープン(Australian Open 1977/01)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1977年1月3日から9日まで開催された。.

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1978年全豪オープン

1978年 全豪オープン(Australian Open 1978)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1978年12月25日から1979年1月3日まで開催された。.

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1979年全豪オープン

1979年 全豪オープン(Australian Open 1979)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1979年12月24日から1980年1月2日まで開催された。.

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1980年全豪オープン

1980年 全豪オープン(Australian Open 1980)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1980年11月24日から30日まで開催された。.

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1981年全豪オープン

1981年 全豪オープン(Australian Open 1981)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1981年11月30日から12月6日まで開催された。.

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1982年全豪オープン

1982年 全豪オープン(Australian Open 1982)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1982年11月29日から12月13日まで開催された。.

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1983年全豪オープン

1983年 全豪オープン(Australian Open 1983)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1983年11月29日から12月12日まで開催された。.

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1984年全豪オープン

1984年 全豪オープン(Australian Open 1984)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1984年11月26日から12月9日まで開催された。.

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1985年全豪オープン

1985年 全豪オープン(Australian Open 1985)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1985年11月25日から12月8日まで開催された。.

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1986年

この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.

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1987年全豪オープン

1987年 全豪オープン(Australian Open 1987)は、オーストラリア・メルボルンにある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1987年1月12日から25日にかけて開催された。.

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1988年全豪オープン

1988年 全豪オープン(Australian Open 1988)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1988年1月11日から24日にかけて開催された。.

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1989年全豪オープン

1989年 全豪オープン(Australian Open 1989)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1989年1月16日から29日にかけて開催された。.

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1990年全豪オープン

1990年 全豪オープン(Australian Open 1990)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1990年1月15日から28日にかけて開催された。.

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1991年全豪オープン

1991年 全豪オープン(Australian Open 1991)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1991年1月14日から27日にかけて開催された。.

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1992年全豪オープン

1992年 全豪オープン(Australian Open 1992)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1992年1月13日から26日にかけて開催された。.

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1993年全豪オープン

1993年 全豪オープン(Australian Open 1993)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1993年1月18日から31日にかけて開催された。.

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1994年全豪オープン

1994年 全豪オープン(Australian Open 1994)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1994年1月17日から30日にかけて開催された。.

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1995年全豪オープン

1995年 全豪オープン(Australian Open 1995)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1995年1月16日から29日にかけて開催された。.

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1996年全豪オープン

1996年 全豪オープン(Australian Open 1996)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1996年1月15日から28日にかけて開催された。.

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1997年全豪オープン

1997年 全豪オープン(Australian Open 1997)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1997年1月13日から26日にかけて開催された。.

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1998年全豪オープン

1998年 全豪オープン(Australian Open 1998)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1998年1月19日から2月1日にかけて開催された。.

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1999年全豪オープン

1999年 全豪オープン(Australian Open 1999)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、1999年1月18日から31日にかけて開催された。.

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2000年全豪オープン

2000年 全豪オープン(Australian Open 2000)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2000年1月17日から30日にかけて開催された。.

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2001年全豪オープン

2001年 全豪オープン(Australian Open 2001)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2001年1月15日から28日にかけて開催された。.

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2002年全豪オープン

2002年 全豪オープン(Australian Open 2002)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2002年1月14日から27日にかけて開催された。.

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2003年全豪オープン

2003年 全豪オープン(Australian Open 2003)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2003年1月13日から26日にかけて開催された。.

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2004年全豪オープン

2004年 全豪オープン(Australian Open 2004)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2004年1月19日から2月1日まで開催された。.

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2005年全豪オープン

2005年 全豪オープン(Australian Open 2005)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2005年1月17日から30日まで開催された。.

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2006年全豪オープン

2006年 全豪オープン(Australian Open 2006)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2006年1月16日から29日まで開催された。.

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2007年全豪オープン

2007年 全豪オープン(Australian Open 2007)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2007年1月15日から28日まで開催された。.

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2008年全豪オープン

2008年 全豪オープン(Australian Open 2008)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2008年1月14日から27日まで開催された。.

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2009年全豪オープン

2009年 全豪オープン(Australian Open 2009)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2009年1月19日から2月1日まで開催された。.

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2010年全豪オープン

2010年 全豪オープン(Australian Open 2010)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2010年1月18日から1月31日まで開催された。.

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2011年全豪オープン

2011年 全豪オープン(Australian Open 2011)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2011年1月17日から1月30日まで開催されたテニスの大会。.

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2012年全豪オープン

2012年 全豪オープン(Australian Open 2012)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2012年1月16日から1月29日まで開催された。.

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2013年全豪オープン

2013年 全豪オープン(Australian Open 2013)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2013年1月14日から1月27日まで開催された。.

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2014年全豪オープン

2014年 全豪オープン(Australian Open 2014)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2014年1月13日から1月26日まで開催された。.

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2015年全豪オープン

2015年 全豪オープン(Australian Open 2015)は、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2015年1月19日から2月1日まで開催された。.

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2016年全豪オープン

2016年 全豪オープンは、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2016年1月18日から1月31日まで開催された。.

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2017年全豪オープン

2017年 全豪オープンは、オーストラリア・メルボルンにある「メルボルン・パーク・ナショナルテニスセンター」にて、2017年1月16日から1月29日まで開催された。.

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2018年全豪オープン

2018年全豪オープンは1月15日から28日までメルボルン・パークで開催される。大会メインスポンサーは現代自動車グループの起亜自動車。.

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