ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

1977年全豪オープン (1月)

索引 1977年全豪オープン (1月)

1977年1月 全豪オープン(Australian Open 1977/01)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1977年1月3日から9日まで開催された。.

30 関係: 佐藤直子マーク・エドモンドソンメルボルンロスコー・タナートニー・ローチヘレン・グーレイフィル・デントベッツィ・ナゲルセンアーサー・アッシュオーストラリアギリェルモ・ビラスグランドスラム (テニス)ケリー・レイドケン・ローズウォールジョン・アレクサンダー (テニス選手)全豪オープン国際テニス連盟沢松和子日本1970年全豪オープン1975年全豪オープン1976年1976年全米オープン (テニス)1976年全豪オープン1977年1977年全仏オープン1977年全豪オープン (12月)1985年全豪オープン1月3日1月9日

佐藤直子

佐藤 直子(さとう なおこ、1955年1月2日 - )は、東京都千代田区出身の元女子プロテニス選手。前日本プロテニス協会理事長。東京国際大学特命教授・硬式テニス部監督。ビーエス朝日番組審議会委員。 2011年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。平田竹男教授のもとでトップスポーツビジネスを研究する。 年代的には沢松和子の後に続き、主に1970年代後半から1980年代にかけて活躍した。彼女は主に全豪オープンで好成績を出し、1977年1月開催の大会でシングルスベスト8、1978年大会で女子ダブルス準優勝の記録を残した。 夫は、外交官の塩口哲朗。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と佐藤直子 · 続きを見る »

マーク・エドモンドソン

マーク・ロナルド・エドモンドソン(Mark Ronald Edmondson, 1954年6月28日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ゴスフォード出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス34勝を挙げた。4大大会でも男子ダブルスでは通算「5勝」を挙げている。“Eddo”(エド)という愛称で呼ばれた。 1976年の全豪オープン男子シングルス優勝者であり、地元オーストラリア人選手最後の全豪オープン男子シングルス優勝者である。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とマーク・エドモンドソン · 続きを見る »

メルボルン

メルボルン(Melbourne、豪語発音:, )は、オーストラリアのビクトリア州の州都で、オーストラリア大陸南東部、ポート・フィリップ湾に面したヤラ川河口の港市。オセアニア有数の世界都市。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とメルボルン · 続きを見る »

ロスコー・タナー

ー・タナー(Roscoe Tanner、1951年10月15日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州チャタヌーガ出身の元男子プロテニス選手。1977年の全豪オープン男子シングルス優勝者で、1979年のウィンブルドン準優勝でもよく知られた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重77kg、左利き。左腕から繰り出す、威力あふれるサービスを最大の武器とした。しかし、同時代の選手としてジミー・コナーズやビョルン・ボルグなどの強豪選手がいたこともあり、現在の印象はやや薄くなった存在でもある。ATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げた。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とロスコー・タナー · 続きを見る »

トニー・ローチ

トニー・ローチ(Tony Roche, 1945年5月17日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の男子プロテニス選手。1966年の全仏選手権で優勝し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。左利き。彼のテニスは、独特な癖のある左腕からのサービスと、華麗なボレーに特徴があった。フルネームは Anthony Dalton Roche (アントニー・ドールトン・ローチ)という。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とトニー・ローチ · 続きを見る »

ヘレン・グーレイ

ヘレン・グーレイ(Helen Gourlay, 1946年12月23日 - )は、オーストラリア・タスマニア州ローンセストン出身の女子テニス選手。1971年の全仏オープンと1977年12月開催の全豪オープンで、4大大会女子シングルスに2度の準優勝がある。どちらも決勝でイボンヌ・グーラゴングに敗れた。4大大会女子ダブルスでは、全豪オープンで4勝を挙げ、ウィンブルドンでも1977年に優勝がある。右利きの選手。彼女は1977年にイギリス人のリチャード・コーリー(Richard Cawley)と結婚した後は、夫の姓を併用して「ヘレン・グーレイ・コーリー」(Helen Gourlay-Cawley)と名乗った。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とヘレン・グーレイ · 続きを見る »

フィル・デント

フィル・デント(Phil Dent, 1950年2月14日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1974年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。テーラー・デントの父親としても有名である。 フィル・デントの4大大会出場歴は1968年から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「全豪選手権」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「全仏オープン」には出場していないが、ウィンブルドン選手権に出場した。1969年から「全豪オープン」となった地元開催の4大大会では、1回戦でケン・ローズウォールに敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった1974年の全豪オープンでは、決勝でジミー・コナーズに 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは1977年に全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンでベスト8入りを果たしたが、全米オープンは1973年の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。 フィル・デントはダブルスに強く、同じオーストラリアのジョン・アレクサンダーと組んで多くの好成績を残した。地元開催の全豪オープンでは、1975年にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、1970年・1973年・1977年12月の大会で3度準優勝がある。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)全仏オープンの男子ダブルスでは、1975年と1979年の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じオーストラリアのロス・ケースと組んだ。ウィンブルドンでも1977年にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、1976年の全米オープンでビリー・ジーン・キング夫人と組んで優勝したことがある。 息子のテーラー・デントが1981年4月24日にアメリカ・カリフォルニア州で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは1983年11月の全豪オープン1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とフィル・デント · 続きを見る »

ベッツィ・ナゲルセン

ベッツィ・ナゲルセン(Betsy Nagelsen, 1956年10月23日 - )は、アメリカ・フロリダ州セントピーターズバーグ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。ダブルスでは、全豪オープンの女子ダブルスで1978年と1980年の2度優勝し、ウィンブルドンでも1987年に女子ダブルス準優勝があった。ナゲルセンはキャリアを通じて、シングルスよりもダブルスの分野で多くの好成績を出した。 1974年にプロ入りし、この年にウィンブルドンと全米オープンで3回戦に進出する。1974年当時、ウィンブルドン選手権の女子シングルスは「96名」の選手による7回戦制で行われていたが、全米オープン女子シングルスは「64名」の選手による6回戦制であった。ナゲルセンはウィンブルドン3回戦(ベスト32)でバージニア・ウェード、全米オープン3回戦(ベスト16)でビリー・ジーン・キング夫人に挑戦した。 その後、ナゲルセンは背中の故障でしばらく低迷期が続いたが、プロデビューから4年後の1978年全豪オープンでシングルス・ダブルスともに初の決勝進出を果たした。女子シングルス決勝では、ナゲルセンは世界ランキング111位のクリス・オニールに 3-6, 6-7 で敗れて準優勝になる。女子ダブルス決勝ではレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)とペアを組み、佐藤直子とパム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を 7-5, 6-2 で破って優勝した。佐藤はこの準優勝により、1975年ウィンブルドン女子ダブルスで優勝した沢松和子に続く偉業を逃した。当時の全豪オープンは、1977年に年頭の1月開催大会と年末の12月開催大会の2度行われた関係で、1978年大会の開催時期が年末の12月に変更され、期間は12月25日-31日の1週間であった。 翌1979年、ベッツィ・ナゲルセンは「ジャパン・オープン」の女子部門で単複優勝を成し遂げたが、シングルス決勝では佐藤直子を 6-1, 3-6, 6-3 で破って優勝した。1980年、ナゲルセンは全豪オープンの女子ダブルスで2年ぶり2度目の優勝を果たす。パートナーはマルチナ・ナブラチロワで、相手ペアはアン清村&キャンディ・レイノルズ組であった。1981年はウィンブルドンで初のシングルス4回戦進出がある。1982年に手首の手術を受け、彼女は再び長期間のスランプを経験する。1978年全豪オープン準優勝の後、ナゲルセンの4大大会シングルス成績は、ウィンブルドン選手権で1981年・1986年と2度の4回戦進出が最高であった。 再三の故障を乗り越えて、ナゲルセンは1987年にダブルスで久々の好成績を出した。ウィンブルドン女子ダブルスと、全米オープン混合ダブルスの準優勝である。ウィンブルドンの女子ダブルスでは、ナゲルセンはエリザベス・スマイリー(オーストラリア)とペアを組み、決勝でクラウディア・コーデ=キルシュ(当時西ドイツ)&ヘレナ・スコバ(当時チェコスロバキア)組に 5-7, 5-7 で敗れた。全米オープンの混合ダブルスでは、パートナーはポール・アナコーン(アメリカ)で、決勝で敗れた相手はエミリオ・サンチェス(スペイン)&マルチナ・ナブラチロワ組であった。この決勝戦は第2・第3セットがタイブレークにもつれ、ナゲルセンとアナコーンは最終第3セットのタイブレークを 10-12 で落として、結局 4-6, 7-6, 6-7 のスコアで競り負けた。30歳を過ぎてから迎えた2つのチャンスを、ナゲルセンは2つとも生かすことができなかった。 ベッツィ・ナゲルセンは1974年から1994年まで、21年間にわたって女子プロテニスツアーを転戦した後、1995年と1996年はウィンブルドン選手権の女子ダブルスのみに出場した。選手引退後は、IMG会長であった夫のマーク・マコーマック(1930年 - 2003年)とともに「マコーマック=ナゲルセン・テニスセンター」で後進の育成に携わってきた。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とベッツィ・ナゲルセン · 続きを見る »

アーサー・アッシュ

アーサー・アッシュ(Arthur Ashe, 1943年7月10日 - 1993年2月6日)は、アメリカ・バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手。本名は Arthur Robert Ashe Jr. (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)という。黒人テニス選手の先駆者として活躍したが、エイズのため49歳で死去した。 4大大会男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス33勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、1983年にヤニック・ノアが全仏オープンで優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人選手だった。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とアーサー・アッシュ · 続きを見る »

オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とオーストラリア · 続きを見る »

ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とギリェルモ・ビラス · 続きを見る »

グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とグランドスラム (テニス) · 続きを見る »

ケリー・レイド

リー・レイド(Kerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年の全豪選手権(当時の名称)と1978年のウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とケリー・レイド · 続きを見る »

ケン・ローズウォール

ン・ローズウォール(Ken Rosewall, 1934年11月2日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Robert Rosewall (ケネス・ロバート・ローズウォール)という。小柄で軽量な体躯から皮肉を込めて“Muscles”(筋肉男)というニックネームで呼ばれたが、素早い攻撃やボレーを武器として強豪たちと渡り合った。グランドスラム優勝8回は歴代9位タイ記録。プロスラム優勝15回は歴代1位記録。グランドスラム・プロスラム合計優勝23回も歴代1位記録である。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とケン・ローズウォール · 続きを見る »

ジョン・アレクサンダー (テニス選手)

ョン・ギルバート・アレクサンダー(John Gilbert Alexander, 1951年7月4日 - )はオーストラリア・シドニー出身の元男子プロテニス選手。主に1970年代に活動し、4大大会男子ダブルスで2度の優勝と4度の準優勝を挙げた。ATPでシングルス7勝、ダブルス27勝を挙げる。ATPランキング自己最高位はシングルス8位、ダブルス15位。ダブルス優勝の多くは同郷のフィル・デントと組んで獲得した物である。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)とジョン・アレクサンダー (テニス選手) · 続きを見る »

全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と全豪オープン · 続きを見る »

国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と国際テニス連盟 · 続きを見る »

沢松和子

沢松 和子(さわまつ かずこ, 1951年1月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。神戸松蔭女子学院大学卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。日本人初のテニスプロ選手。 1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で、日系人選手のアン清村とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の4大大会タイトルを獲得した名選手である。シングルスでは日本人女子初のグランドスラムベスト4進出を果たした。 姉の沢松順子もテニス選手で、沢松奈生子は姪(順子の娘)にあたる。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と沢松和子 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と日本 · 続きを見る »

1970年全豪オープン

1970年 全豪オープン(Australian Open 1970)は、オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」において、1970年1月19日から27日まで開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1970年全豪オープン · 続きを見る »

1975年全豪オープン

1975年 全豪オープン(Australian Open 1975)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1974年12月21日から1975年1月1日まで開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1975年全豪オープン · 続きを見る »

1976年

記載なし。

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1976年 · 続きを見る »

1976年全米オープン (テニス)

1976年 全米オープン(US Open 1976 )は、アメリカ・ニューヨーク市クイーンズ区フォレストヒルズにある「ウエストサイド・テニスクラブ」にて、1976年9月1日から12日にかけて開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1976年全米オープン (テニス) · 続きを見る »

1976年全豪オープン

1976年 全豪オープン(Australian Open 1976 )は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1975年12月26日から1976年1月4日まで開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1976年全豪オープン · 続きを見る »

1977年

記載なし。

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1977年 · 続きを見る »

1977年全仏オープン

1977年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1977)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1977年5月23日から6月5日にかけて開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1977年全仏オープン · 続きを見る »

1977年全豪オープン (12月)

1977年12月 全豪オープン(Australian Open 1977/12)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1977年12月19日から31日まで開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1977年全豪オープン (12月) · 続きを見る »

1985年全豪オープン

1985年 全豪オープン(Australian Open 1985)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1985年11月25日から12月8日まで開催された。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1985年全豪オープン · 続きを見る »

1月3日

1月3日(いちがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)ある。日本ではこの日まで正月休みとされることがある。誕生花はクロッカス。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1月3日 · 続きを見る »

1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。誕生花はパンジー。.

新しい!!: 1977年全豪オープン (1月)と1月9日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

1977年全豪オープンテニス (1月)

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »