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任昉

索引 任昉

任 昉(じん ぼう、460年 - 508年)は、南朝斉から梁にかけての文学者。字は彦昇。小字は阿堆。本貫は楽安郡博昌県。斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の一人。同じ八友の一人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。著作に『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。散文の分野で高く評価され、斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。

目次

  1. 42 関係: 劉秉博興県南史天監宋 (南朝)中興 (南朝斉)延興 (南朝斉)御史中丞北斉到漑和帝 (南朝斉)王倹禅譲秀才 (科挙)義興郡顔之推顔氏家訓衛将軍駢文詩品謝朓魏収黄門侍郎述異記蕭子良蕭衍蕭昭業蕭昭文梁 (南朝)梁書楽安郡永明 (南斉)永明体沈約本貫明帝 (南朝斉)新安郡 (中国)文人 (曖昧さ回避)文選 (書物)斉 (南朝)

劉秉

劉 秉(りゅう へい、433年 - 477年)は、南朝宋の皇族。当陽侯。字は彦節。

見る 任昉と劉秉

博興県

博興県(はくこう-けん)は中華人民共和国山東省浜州市に位置する県。

見る 任昉と博興県

南史

『南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。

見る 任昉と南史

天監

天監(てんかん)は、南北朝時代、南朝梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。 502年 - 519年。

見る 任昉と天監

字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。

見る 任昉と字

宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の国。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康。

見る 任昉と宋 (南朝)

中興 (南朝斉)

中興(ちゅうこう)は、南北朝時代、南斉の和帝蕭宝融の治世に行われた元号。 501年 - 502年。南斉最後の元号。

見る 任昉と中興 (南朝斉)

延興 (南朝斉)

延興(えんこう)は、南北朝時代、南斉の海陵王蕭昭文の治世に行われた元号。 494年。

見る 任昉と延興 (南朝斉)

御史中丞

御史中丞(ぎょしちゅうじょう)は、古代の中国にあった官職である。官にある者の監察を任とした。

見る 任昉と御史中丞

北斉

北斉(ほくせい、550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代の斉や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。

見る 任昉と北斉

到漑

到漑(とう がい、477年 - 548年)は、南朝梁の官僚・文人。字は茂灌。本貫は彭城郡武原県。南朝宋の驃騎将軍の到彦之の曾孫にあたる。弟は到洽。

見る 任昉と到漑

和帝 (南朝斉)

和帝(わてい)は、南朝斉(南斉)の第7代(最後の)皇帝。明帝蕭鸞の八男。

見る 任昉と和帝 (南朝斉)

王倹

王 倹(おう けん、元嘉29年(452年)- 永明7年5月3日(489年6月16日))は、南朝宋から斉にかけての官僚・学者・詩人。字は仲宝。本貫は琅邪郡臨沂県。

見る 任昉と王倹

禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。

見る 任昉と禅譲

秀才 (科挙)

秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。

見る 任昉と秀才 (科挙)

義興郡

義興郡(ぎこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から南北朝時代にかけて、現在の江蘇省宜興市および溧陽市にまたがる地域に設置された。

見る 任昉と義興郡

顔之推

顔 之推(がん しすい、531年 - 590年頃)は、中国の南北朝時代末期の学者。字は介。本貫は琅邪郡臨沂県。顔之儀の弟。

見る 任昉と顔之推

顔氏家訓

『顔氏家訓』(がんしかくん)は、中国北斉の顔之推が著した家訓、つまり子々孫々に対する訓戒の書である。全7巻(明の2巻本もあり)。

見る 任昉と顔氏家訓

衛将軍

衛将軍(えいしょうぐん)は、中国の前漢以降の官職である。軍を率いる将軍位の一つ。 前漢の文帝元年(紀元前179年)に、文帝が即位前から信頼していた宋昌を衛将軍に任命したのが初見である。その後、匈奴の侵入に対して出動した中尉の周舎など、既に軍の官職につく者に対し付加的な称号として与えられた。 『史記』は大将軍の衛青につき「衛将軍」の名で列伝を立てたが、官職の衛将軍とは別である。 『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍、驃騎将軍、車騎将軍に次ぐ。 属官には長史、司馬(各秩禄比千石)、従事中郎(秩禄比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(秩禄比二千石)、軍司馬(秩禄比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(秩禄比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(秩禄比二百石)が置かれる。

見る 任昉と衛将軍

駢文

駢文(べんぶん)とは、中国の文語文における文体の一つ。「駢体」または「駢体文」ともいう。散文・韻文に対立する文体で、魏・晋のころに形成され、六朝時代から唐にかけて盛行した。

見る 任昉と駢文

詩品

『詩品』(しひん)は、中国南北朝時代の南朝梁の鍾嶸が編纂した文学評論書。全3巻。『梁書』『隋書』経籍志などによると、本来の書名は『詩評』であり、現在の書名である『詩品』が通称として定着するのは宋代以後である。

見る 任昉と詩品

、あるいはは、漢字文化圏において、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

見る 任昉と諡

謝朓

謝 朓(しゃ ちょう、464年 - 499年)は、南朝斉の詩人・文学者。字は玄暉(げんき)。本貫は陳郡陽夏県。同族の謝霊運・謝恵連とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。また謝霊運と併称して「二謝」と呼ぶこともあり、その場合は、謝霊運を「大謝」と呼ぶのに対し、謝朓を「小謝」と呼ぶ(ただし「小謝」の呼称は謝恵連を指すこともある)。宣城郡太守に任じられ、この地で多くの山水詩を残したことから、「謝宣城」とも呼ばれる。南朝斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の一人。同じく八友の仲間である沈約・王融らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。

見る 任昉と謝朓

魏収

魏 収(ぎ しゅう、506年(正始3年) - 572年(武平3年))は、北斉の文人・学者。字は伯起。諡は文貞。本貫は鉅鹿郡下曲陽県。父は魏子建。子は魏仁表。北魏の正史『魏書』の撰者で、太学博士。

見る 任昉と魏収

黄門侍郎

黄門侍郎(こうもんじろう)は、中国の官職名の一つ。時代によっては、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)とも呼ばれた。略して黄門(こうもん)ということもある。後代には、門下侍郎(もんかじろう)となった。

見る 任昉と黄門侍郎

述異記

『述異記』(じゅついき)は中国の短編小説集の名称である。

見る 任昉と述異記

蕭子良

蕭 子良(しょう しりょう、大明4年(460年)- 隆昌元年4月14日(494年5月4日))は、南朝斉の武帝の次男。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。

見る 任昉と蕭子良

蕭衍

梁武帝 梁武帝真像 蕭 衍(しょう えん、大明8年(464年) - 太清3年5月2日(549年6月12日))は、南朝梁の初代皇帝。

見る 任昉と蕭衍

蕭昭業

蕭 昭業(しょう しょうぎょう)は、南朝斉(南斉)の第3代皇帝。第2代皇帝武帝の孫。南朝斉の3人の廃帝の一人で諡号や廟号はなく、死後の王号から鬱林王と史称される。

見る 任昉と蕭昭業

蕭昭文

蕭 昭文(しょう しょうぶん)は、南朝斉(南斉)の第4代皇帝。第2代皇帝武帝の孫。南朝斉の3人の廃帝の一人で諡号や廟号はなく、廃位後の王号から海陵王と史称される。

見る 任昉と蕭昭文

梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。蕭梁とも呼ばれる。

見る 任昉と梁 (南朝)

梁書

『梁書』(りょうしょ)は、中国南朝の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させた。

見る 任昉と梁書

楽安郡

楽安郡(樂安郡、がくあん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から唐代にかけて、現在の山東省の淄博市・浜州市・東営市にまたがる地域に設置された。

見る 任昉と楽安郡

永明 (南斉)

永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。 483年 - 493年。

見る 任昉と永明 (南斉)

永明体

永明体(えいめいたい)は、中国南北朝時代の南朝斉の武帝蕭賾の永明年間(483年 - 493年)に流行した詩体である。武帝の次男である竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」のうち、沈約・謝朓・王融らを中心として創作された。 特徴としては、詩の形式・韻律の美を自覚的に追求し、それ以前の東晋時代に流行した、老荘思想に基づく晦渋な言辞を使用する「玄言詩」の風格を脱却した、高雅で洗練された詩風があげられる。特に韻律の規則として沈約が提唱したとされる「四声八病説」は、時代が下るにつれ実際の創作に適応するものに整備・簡略化され、唐代に完成した近体詩の韻律である「平仄律」の成立へと結実することになる。また詩型の次元でも、それまでの長篇の詩にかわり、近体詩の詩型である絶句・律詩の原形とも言える、4句・8句の短詩型の詩が比較的多く制作されている点が特徴的である。

見る 任昉と永明体

沈約

沈 約(しん やく、元嘉18年(441年)- 天監12年閏3月11日(513年5月1日))は、中国南朝を代表する文学者、政治家。字は休文。諡は隠。本貫は呉興郡武康県(現在の浙江省湖州市徳清県)。

見る 任昉と沈約

本貫

本貫(ほんがん、ほんかん)は、古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が、それにもとづき行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともにこの概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国(簡体字:、繁体字:(拼音:jí guàn))・朝鮮半島(본관(ポングワン))では、本貫は、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。

見る 任昉と本貫

明帝 (南朝斉)

明帝(めいてい)は、南朝斉(南斉)の第5代皇帝。姓は蕭、諱は鸞(らん)。高帝蕭道成の兄の蕭道生の次男。

見る 任昉と明帝 (南朝斉)

新安郡 (中国)

新安郡(しんあん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から唐代にかけて、現在の浙江省杭州市や安徽省黄山市にまたがる地域に設置された。

見る 任昉と新安郡 (中国)

文人 (曖昧さ回避)

文人(ぶんじん、)。

見る 任昉と文人 (曖昧さ回避)

文選 (書物)

『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の蕭統(昭明太子)によって編纂された詩集・文集。春秋戦国時代から当時までの文学者131名による800余の作品を、37のジャンルに分類して収録し、蕭統が自ら序文を書いている。全30巻。

見る 任昉と文選 (書物)

斉 (南朝)

斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。

見る 任昉と斉 (南朝)

任ボウ 別名。