29 関係: 千代田 (防護巡洋艦)、大佐、大日本帝国海軍、宗谷 (防護巡洋艦)、少将、巡洋艦、仁川広域市、御前会議、ロシア海軍、ヴァリャーグ (防護巡洋艦)、フセヴォロド・ルードネフ、コレーエツ (航洋砲艦・初代)、砲艦、瓜生外吉、装甲巡洋艦、高千穂 (防護巡洋艦)、揚武 (大韓帝国軍艦)、水雷艇、明石 (防護巡洋艦)、浪速 (防護巡洋艦)、海戦、浅間 (装甲巡洋艦)、新高 (防護巡洋艦)、日露戦争、日本海、旅順口区、旅順口攻撃、1904年、2月6日。
千代田 (防護巡洋艦)
千代田(ちよだ)は、日本海軍の防護巡洋艦(日本海軍の法令上は三等巡洋艦)#達明治21年9月p.12『達第九十九號 英國ニ註文セル巡洋艦ヲ千チ代ヨ田ダト命名セラレ風帆練習艦第一回漕ヲ館タテ山ヤマト改名セラル此旨心得ヘシ 明治二十一年九月廿七日 海軍大臣伯爵西郷從道』。 艦名は江戸城(宮城)の別称に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実第17コマ(原本11頁)『千代田形(ちよだがた) 艦種砲艦 二檣「スクーナー」型 艦名考千代は徳川幕府の治所江戸城(現今の宮城)の別稱なり、艦名の下に「形」の字を付したるは其形式(タイプ)を意味するものならん、幕府時代の船舶中、伊豆下田に於て建造せるものに君澤形、長崎に於て建造せるものに長崎形の名のあるを見る、蓋し同指なり。艦歴本艦は外國人の手を假らず本邦人に依て設計建造せられたる最初の蒸汽船なり、文久2年戌年5月起工、同3亥年7月進水、慶應2寅年5月竣工即ち進水より竣工まで約3ヶ年を費したるは、其間機關計畫者和蘭國へ出張の事あり、歸朝後、機關据付を爲したる等、工程に遅延を生ぜしことありしに由る。明治2年5月函館の役に於て官軍に収容せられ爾來帝國軍艦籍に在りて種々の役務に服せしが、明治21年1月除籍せられ、船體は之を千葉縣に交付せり。(要目略)』#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ37(原本46頁)『千代田(ちよだ) 艦種巡洋艦 三檣(戰闘檣あり) 艦名考前掲「千代田形」の項(p.11)参照。艦歴亡失艦畝傍代艦として建造せられたる艦にして明治14年4月11日本邦に到着。明治27・8年戰役從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海々戰に、同11月大連港及び旅順口占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及同地占領に從事、同3月澎湖島攻略及同島占領に從事、同31年3月三等巡洋艦に列す。同37・8年戰役に從軍(第六戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(艦長大佐村上格一)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐依仁親王殿下)、大正元年8月2等海防艦に編入。同3年乃至9年戰役に從軍:大正3年8月青島戰参加(艦長中佐島内桓太)、同8年12月第三艦隊に属し南支那海方面警備、同10年水雷母艦に編入、同11年4月1日軍艦より除籍、特務艦となり、昭和2年2月28日特務艦籍より除かる。―要目― 長308呎/幅43呎/吃水17呎/排水量2,450噸/機關 三聯成汽機2基雙螺旋ベルビル罐12/馬力5,400/速力19/乗組人員350/船材 鋼/兵装 12拇安式速射砲 10/47粍砲 14/備砲 3/發射管 3/起工 明治21-12-4/進水 同23-6-4/竣工 同24-1-1/建造所 英國グラスゴートムソン會社』。 「千代田」の艦名は、明治初期の千代田形『○海軍省丙第九拾號 海軍一般 今般佛國ヘ新造注文セシ軍艦ヲ畝ウネ傍ビト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義|○海軍省丙第九拾壱號 海軍一般今般横須賀造船所ニ於テ製造スヘキ一等砲艦ヲ愛アタ宕ゴ 巡洋鉄艦ヲ高タカ雄ヲト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義○海軍省丙第九拾貳號 海軍一般 東海鎮守府所轄千代田形艦自今豫備艦ト相定ム此旨相達候事 明治十七年六月五日 海軍卿 川村純義』に続いて2代目。.
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大佐
大佐(たいさ、だいさ)とは、軍隊の階級のひとつ。.
大日本帝国海軍
大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本(大日本帝国)に存在していた軍隊(海軍)組織である。通常は、単に日本海軍や帝国海軍と呼ばれた。戦後からは、別組織であるもののその伝統を重んじる傾向にある海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍とも呼ばれる。.
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宗谷 (防護巡洋艦)
宗谷」(そうや)は、大日本帝国海軍の保有した防護巡洋艦である。艦名は宗谷海峡に因む明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。。日本海軍での公式類別は二等巡洋艦。元はロシア帝国の 1 等防護巡洋艦「ヴァリャーグ」で、日露戦争の際に日本軍によって捕獲された。.
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少将
少将(しょうしょう)はもともとは律令制における官職の一つ。転じて軍隊の階級の一。 将官に区分され、中将の下、大佐または准将または代将の上に位置する。 北大西洋条約機構の階級符号(NATO階級符号)では、OF-7に相当する。 また、陸海空軍でそれぞれ呼称の異なる少将を総称しTwo-star rankと呼ぶこともある。 将官のなかでは、最下級、又は准将がある場合には下から2番目の階級となる。 英呼称は、陸軍:major general(メイジャー ジェネラル)、海軍:rear admiral(リア アドミラル)。 なお、将官の階級を部隊階梯で表現する国々では「師団将軍」あるいは「旅団将軍」と呼称する。詳細はフランスの項を参照。アメリカ軍やフランス陸軍および空軍(海軍は中将)では、正規階級(regular rank)における最高位とされ、それよりも上の二階級は役職に応じた臨時階級(temporary rank)である。.
巡洋艦
巡洋艦(じゅんようかん、)は遠洋航行能力・速度等を生かした攻撃力を持たせた軍艦の艦種。ただし定義は国や年代によって異なる。.
仁川広域市
仁川広域市(インチョンこういきし、じんせんこういきし、韓国語表記:、英語:Incheon)は、大韓民国西北部の都市。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。 仁川国際空港がある。 人口は約300万人で、ソウル、釜山に次いで韓国で3番目である。仁川の繁華街の中では富平、九月洞、月尾島などが有名で、松島国際都市、青羅国際都市など大韓民国1位の経済自由区域である仁川経済自由区域が開発されている。.
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御前会議
御前会議(ごぜんかいぎ)とは、大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議である。今日においては会社、団体など組織の幹部の会議の比喩として使われることも多い。.
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ロシア海軍
ア海軍(ロシアかいぐん、Военно-Морской Флот、略称:ВМФ)は、ロシア連邦が保有する海軍。旧ソ連海軍とは密接な関係があるので、ここでは一括して扱う。正式名称を直訳するとロシア連邦軍事海上艦隊となる。.
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ヴァリャーグ (防護巡洋艦)
ヴァリャーグ(ヴァリャーク、ワリヤーグ;ロシア語:Варягヴァリャーク)は、ロシア帝国海軍の防護巡洋艦(Бронепалубный крейсер)で同型艦はない。本艦は日露戦争で仁川沖海戦の際に大日本帝国海軍との交戦で大破した時に、艦長が降伏より自沈を選んだことでその武勇を称賛された。自沈後に大日本帝国で修理を受けて「宗谷」として就役したが第一次世界大戦時にロシア帝国に返還されて旧名に復したという希有な艦歴を持つ武勲艦である。竣工時の艦名は、古代ルーシ時代の「ヴァリャーグ」に因む。.
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フセヴォロド・ルードネフ
フセヴォロド・ルードネフ(ロシア語:Всеволод Федорович Рудневフスィェーヴァラト・フョーダラヴィチュ・ルードニェフ、1855年8月19日 - 1913年7月7日)は、帝政ロシアの軍人、海軍少将である。日露戦争開戦直後の仁川沖海戦時の一等防護巡洋艦「ヴァリャーグ」の艦長であった。日本に降伏しなかったことで、ロシアでは彼と巡洋艦「ヴァリャーグ」は英雄視されている。.
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コレーエツ (航洋砲艦・初代)
レーエツまたはコレーツ()はロシア帝国海軍の航洋砲艦。コレーエツ級砲艦の1番艦。同型艦は8隻。日露戦争の仁川沖海戦において、僚艦ヴァリャーグと共に日本海軍の浅間、千代田などと戦闘し、最終的に仁川港内で爆破、自沈した。艦名の由来はロシア語の「韓国」という意味を持つから。.
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砲艦
艦(ほうかん)は軍艦の一種であり、比較的小型で主として沿岸・河川・内水で活動する、火砲を主兵装とした水上戦闘艦艇の事を指す。英語ではGunboatと称し直訳すると砲艇となるが、日本語では比較的大型のものを砲艦、小型のものを砲艇と使い分けることが多い。.
瓜生外吉
生 外吉(うりゅう そときち、旧仮名遣い:うりう、安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍大将。石川県出身。.
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装甲巡洋艦
装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん)とは、巡洋艦の一種。船体を防御する装甲帯と装甲板で覆われている事で他の巡洋艦と区別される。.
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高千穂 (防護巡洋艦)
千穂(たかちほ)は、日本海軍の防護巡洋艦(二等巡洋艦)。浪速型の2番艦。艦名は天孫降臨の地とされている宮崎県の「高千穂峰」にちなんで名づけられた#幕末以降帝国軍艦写真と史実第31コマ(原本34頁)『高千穂(たかちほ) 艦種巡洋艦 二檣(スクーナー) 艦名考山名に採る、高千穂峯は霧島山東嶽の古名なり(霧島の條参照)。艦歴明治17年3月英國安社に於て起工、同19年7月横濱に來着。同27・8年戰役に從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海海戰に、同11月大連港及旅順港占領に参加。同28年2月威海衛總攻撃及同占領に、同3月澎湖島攻略に参加。同31年3月巡洋艦二等に列す。同37・8年戰役從軍(第四戰隊):同37年2月仁川沖海戰に、同8月蔚山沖海戰に参加。同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐毛利一兵衛)。大正6年海防艦二等に編入す。同3年乃至9年戰役に從軍:〃3年8月青島戰に参加(第二艦隊、艦長大佐伊藤祐保)、同3年10月膠州灣に於て敵水雷艇(S90號)の雷撃を受け爆沈す(艦長同前)。 ―要目― 長300呎/幅46呎/喫水18呎7吋/排水量3,759噸/機關 横置二聯成汽機2臺、雙螺旋、圓罐/馬力7,600/速力18.5/乗組人員357/船材 鋼(防禦甲板51粍)/兵装 26拇克砲2/15栂克砲6/6听ノルデン砲2/備砲14/發射管(水上)4/起工 明治17-3-22/進水 同18-5-16/竣工 同19-4/建造所 英國エルスウィック安社』。 第一次世界大戦従軍中の1914年(大正3年)10月18日未明、膠州湾においてドイツ軍魚雷艇(小型駆逐艦)の魚雷攻撃を受け、沈没した。.
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揚武 (大韓帝国軍艦)
揚武または揚武号は、大韓帝国が保有した最初の軍艦である。前身はイギリス製の貨物船で、日本で商船として使用されていたものを購入した。日露戦争中は、日本海軍の仮装巡洋艦揚武(ようぶ)として使用された。.
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水雷艇
水雷艇(すいらいてい、torpedo boat)とは、各国海軍で使用されていた水雷装備で敵を攻撃する小型艦艇である。日本では通常、魚雷を主兵装とする魚雷艇とは区別されるが、水雷艇を魚雷艇ということもある。.
明石 (防護巡洋艦)
明石(あかし)は、日本海軍の防護巡洋艦。須磨型の2番艦である。艦名は兵庫県の景勝地「明石の浦」にちなんで名づけられた。.
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浪速 (防護巡洋艦)
浪速(なにわ/なには)は、日本海軍の防護巡洋艦(二等巡洋艦)#幕末以降帝国軍艦写真と史実第30コマ(原本33頁)『浪速(なには) 艦種巡洋艦 二檣(スクーナー) 艦名考浪華又は難波に同じ、浪速は摂津國大阪より尼ケ崎邊までの地方を總稱したる古名なり、神武天皇の御世、皇舟師此海を過ぎし折、奔潮に出會ひ其流るること太だ急なるを見て、浪速の國又浪華の國とも名け給ひたるに起因せるものなりと傳ふ、今ま難波と讀むは轉訛なりと云ふ。艦歴明治19年2月英國に於て竣工、同年6月品川灣に來着す。此艦は此時代に於ける世界優秀艦の一と稱せらる、當時「ロンドン・タイムス」紙は之に關して長文の記事を掲げたり。其の要に曰く、浪速は目下海上に浮泛せる諸國軍艦中、速力最も速く、備砲最も強勢、且つ防護最も完全なる巡洋艦なり。其の大砲及び砲架、水壓器、電燈、水雷等亦た最も新しき發明の兵器を以て艤装せられたるものなり。今後日本海及び支那海に於いて戰爭ある時は、日本海軍は該艦を使用して偉勲を建つべきことは昔日の比にあらざるべし云々と、次に記する所の高千穂亦同時に建造せられたるものにして姉妹艦なり。明治27・8年戰役に從軍(艦長大佐東郷平八郎):同27年7月豊島沖海戰に参加、敵陸軍を搭載せる英國商船高陞號を撃沈す。同8月威海衛砲撃に、同9月黄海海戰に、同11月大連港及旅順港占領に参加、同28年2月威海衛總攻撃及同占領に從事、同3月澎湖島攻略に從事、同31年3月巡洋艦二等に列す、同37・8年戰役從軍(第四戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(第二艦隊司令官少将瓜生外吉旗艦)、同8月蔚山沖海戰に参加(艦長大佐和田賢助)。同5月日本海々戰に参加(第四戰隊旗艦、中将瓜生外吉乗艦、艦長同前)、同45年7月18日北海道に於て警備兼測量任務中擱坐沈没す。 ―要目― 長300呎/幅46呎/喫水18呎7吋/排水量3,759噸/機關 横置二聯成汽機2臺、雙螺旋、圓罐/馬力7,600/速力18.5/乗組人員385/船材 鋼(防禦甲板31粍)/兵装 26拇克砲2/15栂克砲6/6听ノルデン砲2/備砲14/發射管(水上)4/起工 明治17-3-22/進水 同18-3-18/竣工 同19-2/建造所 英國エルスウィック安社』。 浪速型の1番艦。日本海軍にとって、最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である。 艦名は大阪(摂津国)の古称「浪速」にちなんで名づけられた。日清戦争時、東郷平八郎艦長(当時、大佐)の指揮下で活躍した。.
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海戦
海戦(かいせん, Naval battle, Naval warfare)は、狭義には艦艇同士の海上戦闘をいうが、広義には航空機、ミサイルなどを用いて海上で行われる戦闘の総称をいう。 武力紛争は、それが展開される地域の区分に従って、陸上は陸戦、海上は海戦、空中は空戦とされ、国際法はおおむねこの区分に従って規定されている。火薬や大砲の発達、汽走軍艦の出現、潜水艦、航空機、レーダー、ミサイルなどの新技術が登場するごとに、海戦の様相は大きく変化し、新しい戦略戦術が生まれている。.
浅間 (装甲巡洋艦)
浅間(あさま)は、大日本帝国海軍に所属した装甲巡洋艦(一等巡洋艦)#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.56『淺間(あさま)【二代】 艦種一等巡洋艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考初代「淺間」の項(p.15)参照。艦歴常磐と姉妹艦なり、我國に於ける装甲巡洋艦として最初の艦なり。明治33年北清事變從軍:同33年8月22日英・獨・露・伊・墺の聯合郡と共に参戰、太沽攻撃に從事(艦長大佐細谷資氏)、同35年6月、高砂と共に英皇戴冠式に参列(司令官伊集院五郎)、同37・8年戰役に從軍(第二戰隊):同37年仁川沖海戰に参加(第四戰隊司令官少将瓜生外吉旗艦、艦長大佐八代六郎)、同年8月黄海々戰に参加(艦長同前)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長同前)、大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月南洋方面に行動し、獨領南洋島占領に從事(艦長大佐吉岡範策)、同3年10月又遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面警備に從事(艦長同前)、同4年1月31日遣米枝隊として北米沿岸に活動中、南加州「サンパルトロメー」に於て海圖上に指示されざる無名の暗岩に坐礁し常磐・關東等の掩護の下に非常なる辛酸を嘗めて同5月8日離礁、「エスカイモルト」に於て應急處置を行ひ、工作艦「關東」護衛の下に横須賀に歸着、同所に於て修理完了。同10年一等海防艦に編入、御召艦なること屢次、次の如し。33年4月28日-30日 大演習/36年4月10日-30日大演習/38年10月23日観艦式/41年11月18日-30日大演習(観艦式共) 尚ほ明治43年以來練習艦隊として海軍少尉候補生等の練習任務に服し今日に至る。―要目―(略)起工 明治29年-10-20/進水同31-3-22/竣工同32-3-18/建造所 英國エルスウィック安社』。 日本海軍の法令上は旧字体の淺間だが、本記事では浅間とする。 浅間型装甲巡洋艦のネームシップ。 旧式化に伴い、1921年(大正10年)9月1日附で海防艦に類別変更された。 艦名は群馬県と長野県の境にある「浅間山」にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては明治初期のコルベット艦「浅間」に続いて2隻目#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.19『淺間(あさま)【初代】 艦種軍艦 三檣「シップリグ・コルベット」 艦名考山名に採る、淺間山は信濃國北佐久郡、上野國吾妻郡に跨る、標高8,184尺。艦歴明治元年佛國に於て建造、同7年7月開拓使より受領、當時北海丸と號す。同年10月淺間艦と改名、後ち砲術練習艦として當時有名なり。同9年萩の亂從軍、同10年西南役從軍、同24年3月3日除籍、船體は同25年6月横須賀水雷隊攻撃部に付属せしが同29年12月賣却。』。.
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新高 (防護巡洋艦)
新高(にいたか/にひたか)は、日本海軍の軍艦#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ63(原本93頁)『新高(にひたか) 艦種三等巡洋艦 二檣(信號用) 艦名考山名に採る、新高山は臺灣の臺中縣・臺東縣に跨る。日清戰役後臺灣島が帝國の領土に歸せしとき、此新領土に高山あること 叡聞に達しければ、其山を「新高山」と命名せられたりとも云ふ、支那人は玉山又は八通關山と稱し、西洋人は「モリソン」山と云ふ、標高13,679尺艦歴明治37・8年戰役に從軍(第四戰隊):同37年2月仁川沖海戰に参加(艦長中佐荘司(後に庄司)義基)、同37年8月蔚山沖海戰に参加(艦長同前)、同38年5月第三戰隊に属し日本海々戰に参加(艦長同前)、大正元年8月二等巡洋艦に列す。同3年乃至9年戰役に從軍:同3年10月第三艦隊に属し南支那海・インド洋方面軽微(艦長中佐小林研藏、同野崎小十郎)、同6年9月第一特務艦隊に属し喜望峰南方警備(艦長大佐犬塚太郎、同名古屋爲毅)、同10年二等海防艦に列す、同11年露領沿岸警備中、同8月16日堪察加沖にて遭難沈没(艦長古賀琢一)、同12年4月1日除籍。―要目― 長334.5呎/幅44呎/喫水16呎/排水量3,420噸/機關 三聯成汽機2基 ニクロース式罐16臺/馬力9,500/速力20/乗組人員320/船材 鋼/兵装 6吋砲6/12听砲10/2.5听砲4/起工 明治35-1-7/進水 同35-11-15/竣工 同37-1-27/建造所 横須賀』#達明治38年11月p.2『達第百二號 横須賀海軍造船廠ニ於テ建造ノ第一號三等巡洋艦ヲ新ニヒ高タカト命名セラル 明治三十五年十一月十五日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』。 艦名は当時日本領であった台湾の「新高山」(現「玉山」)にちなんで名づけられた。 新高型防護巡洋艦の1番艦。 建造時の艦種は三等巡洋艦#達明治38年11月p.2『達第百四號 軍艦及水雷艇類別等級別表中巡洋艦三等ノ欄内ニ「新高」ヲ加フ』。続いて二等巡洋艦に類別。旧式化により二等海防艦に類別された。 1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ半島で悪天候により遭難、沈没した。.
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日露戦争
日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.
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日本海
日本海の位置 日本海(にほんかい)は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。.
旅順口区
旅順口区(りょじゅんこうく)は中華人民共和国遼寧省大連市に位置する市轄区。遼東半島の最西部(突端部)にあり、天然の良港として知られて、かつては旅順軍港の軍港都市であり、現在は大連市に編入されている。区人民政府の所在地は新城大街1号にある。大連市内からは45kmの距離で、国家級風景名勝区、国家級自然保護区に指定されている。陸地面積506.8平方km、海岸線の長さは169.7km。沿海では真珠の養殖が盛んである。 旅順口区政府は2009年3月20日付の招待会で、旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになったと発表した。しかし、この発表は大連市や国家レベルの承認も得たものでない旨、日本領事館大連事務所から注意喚起されている。市および国家からの正式文書を得た段階で、下の「現状」にある訪問制限の記述も変更される。.
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旅順口攻撃
旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき)は日露戦争の開戦した1904年(明治37年)2月から5月にかけて行われた大日本帝国海軍連合艦隊によるロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃。 日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、旅順口攻撃を計画した。日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞作戦を実施した。 この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が容易になった他、第一次日韓協約が締結されるなど戦地に連なる韓国との外交関係を有利なものとした。しかし、旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を与えることには成功せず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が脅かされたため、陸上側からの旅順要塞の攻略が必要となった。.
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1904年
記載なし。
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2月6日
2月6日(にがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から37日目に当たり、年末まであと328日(閏年では329日)ある。.
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