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上杉朝定 (二橋上杉家)

索引 上杉朝定 (二橋上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、南北朝時代の武将。二橋上杉家当主。丹後国守護。.

47 関係: 南北朝時代 (日本)天田郡室町幕府守護安国寺 (綾部市)寄進上杉顕定 (扇谷上杉家)上杉重能上杉氏上杉清子上杉朝宗上杉朝房上杉憲顕上杉憲藤丹後国康永建武 (日本)弾正台引付衆何鹿郡従五位信濃国分郡守護内談方八条上杉家元亨犬懸上杉家石橋和義鎌倉鎌倉市鎌倉時代観応観応の擾乱高師直足利尊氏足利義詮足利直義足利高義正平 (日本)武将扇谷上杉家1321年1337年1344年1352年3月9日 (旧暦)4月23日

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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天田郡

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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安国寺 (綾部市)

安国寺(あんこくじ)は、京都府綾部市(丹波国)にある臨済宗東福寺派の寺院。山号は景徳山。.

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寄進

寄進(きしん, )とは、ものを「寄せまいらせる」の意であり、寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付することである。 寄進の類義語に「勧進」があり、「勧進」が人に勧めて金銭や物品を奉納せしむる行為であるのに対し、「寄進」はみずから進んで奉納寄付するというニュアンス上のちがいがある。寄進の趣旨や品目などを書いた文書を寄進状という。寄進される財物は寄進物とよばれ、日本では太刀や甲冑、弓矢などの武具や馬、米、銭貨などが寄進物となった。なお、中世日本では「寄進されたものは悔返や徳政令の対象にならない」という慣習があった。 歴史的にみて重要な寄進物は土地であり、土地を寄進する行為は、しばしば世俗の権力と宗教権力とをとりむすぶ役割を果たしてきた。.

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上杉顕定 (扇谷上杉家)

上杉 顕定(うえすぎ あきさだ)は、南北朝時代の武士。扇谷上杉家初代当主。.

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上杉重能

上杉 重能(うえすぎ しげよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。足利尊氏・直義とは従兄弟である。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉清子

上杉 清子(うえすぎ きよこ、文永7年(1270年)? - 興国3年/康永元年12月23日(1343年1月20日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期の女性。本姓は藤原氏。勧修寺流の一流である上杉氏の出身で、父は上杉頼重。足利貞氏の側室。足利尊氏、直義兄弟の母。上杉重顕(扇谷上杉家祖)、上杉憲房、日静の姉妹。上杉憲顕(山内上杉家祖)、憲藤(犬懸上杉家祖)兄弟と上杉重能(宅間上杉家祖)は甥で、山名時氏は従兄弟に当たる。 生年は『三宝院賢俊僧正日記』の興国3年/暦応5年(1342年)2月条に「大方殿 七十三 卯酉」とあり、これにしたがえば逆算して文永7年となる。嘉元3年(1305年)に尊氏を生む。この際、紀伊粉河寺の観音に祈ったことから、後年、延元元年/建武3年(1336年)に粉河寺に戸帳を寄付し、さらに翌年には領地を寄進している。 夫貞氏の没後も足利家を支え、尊氏、直義兄弟が倒幕に動いた際には終始行動をともにした。室町幕府成立後は、実家である上杉家の興隆に力を用いた。 浄妙院殿雪庭と号し、世上は錦小路殿と呼ばれた。また大方禅尼とも呼ばれた。和歌にも通じ、作品が『風雅集』に入選している。法号は果証院殿といい、墓は京都等持院にある。.

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上杉朝宗

上杉 朝宗(うえすぎ ともむね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・武蔵国守護。犬懸上杉家3代当主。.

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上杉朝房

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・信濃国守護。犬懸上杉家2代当主。.

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上杉憲顕

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。.

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上杉憲藤

上杉 憲藤(うえすぎ のりふじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。犬懸上杉家の祖。足利尊氏・直義の母方の従弟にあたる。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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弾正台

弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。.

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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何鹿郡

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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分郡守護

分郡守護(ぶんぐんしゅご)とは、室町時代に国ごとに置かれた守護とは別に郡単位で設置された守護のこと。ただし、近年その存在を否定する新説も出されている(後述)。 本来であれば、国ごとの守護にその国が属する全ての郡の支配権が与えられるの原則になっていたが、当該国の守護の牽制などを目的として一部の郡を切り離して分郡として、他の者を守護に任じたとされる。 分郡の守護にはその郡が隣接する他の国の守護大名やその守護家の庶流、将軍の側近(守護家の庶流出身者が多い)や幕府機関の頭人(長官)を務める評定衆などが起用された。 代表的な例として、摂津国では本来の守護である細川氏京兆家以外に最大6名の分郡守護が置かれたとされ、中でも有馬郡を支配した赤松氏庶流の有馬氏は戦国時代末期まで支配を維持した。他にも大和国宇智郡を支配した畠山氏、尾張国知多郡および三河国渥美郡を支配した一色氏、遠江国の東側3郡の支配を認められた今川氏などが知られ、戦国時代に入るまで守護が設置されなかった陸奥国では郡検断奉行が分国守護の役目を果たしたとされている。 だが、2013年に山田徹が分郡守護の存在を否定する論文を発表して注目されている。山田説の特徴としては、これまで分郡守護としてみなされてきた事例は領主が郡単位で知行しているだけに過ぎず、国の守護の権限が及ばなかったためにあたかも守護権が分割されているように見えるだけの現象であり、更に実際には分郡に対してもその国の守護が遵行権を行使している事例も確認できるために分郡の領主が守護の権限を排除出来ていないことを指摘して、「分郡守護」という概念は分郡支配の実態を反映しておらず、当時の文書にも実際に登場する「郡主」を用いるのが適切であるとしている。.

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内談方

内談方(ないだんかた)とは、康和3年(興国5年/1344年)-貞和3年(正平4年/1349年)に存在した室町幕府の所務沙汰審議機関。.

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八条上杉家

八条上杉家(はちじょううえすぎけ)は、上杉氏の諸家のひとつ。 二橋上杉家・上杉朝定の子・朝顕を氏祖とする。室町時代には京都壬生に拠点を置き、越後国鵜川荘などを領していた。享徳の乱では山内・越後上杉氏らと共に五十子に在陣している。 戦国時代になると越後国に下り、八条龍松を上杉房能の養子とするなどして越後への政治的介入を強めたが、その過程で越後守護代長尾氏と対立するようになる。永正3年(1506年)に長尾能景が般若野の戦いで戦死し、跡を長尾為景が継ぐと、両者の対立は表面化し、越後永正の乱では八条尾張守・龍松父子や八条成定が自害に追い込まれるなどして、大きな打撃を受けた。 近年の研究では、戦国時代に現れる琵琶島氏は八条上杉氏とみられている。.

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元亨

元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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犬懸上杉家

懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。四条上杉家とも呼ばれる。犬懸家は一時期は上杉氏の惣領とも目された名門で、室町時代中期には関東管領となり、下総国を中心に関東全域に影響力を及ぼしたが、上杉禅秀の乱で大きく衰退した。.

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石橋和義

石橋 和義(いしばし かずよし/まさよし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。吉田義博の子。石橋氏初代当主。足利直義派の宿将と言われるが、観応の擾乱初期から尊氏派としての旗幟を鮮明にしている。斯波高経と足利尊氏は同年代であったが、高経と和義の官途の補任年代からみても和義も尊氏や高経と同年代であったと推察できる。子孫に、元警察官僚で資産家の石橋政広など。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉市

鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利高義

足利 高義(あしかが たかよし)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。足利貞氏の長男。母は正室で北条顕時の娘・釈迦堂殿。足利尊氏・足利直義の異母兄に当たる。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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1321年

記載なし。

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1337年

記載なし。

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1344年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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3月9日 (旧暦)

旧暦3月9日は旧暦3月の9日目である。六曜は大安である。.

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4月23日

4月23日(しがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から113日目(閏年では114日目)にあたり、年末まではあと252日ある。誕生花はハナミズキ、ボタン。.

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